オリジナルインテリア「Rose Party~Since 2003~」マキとスタッフのブログ♪RueRueと薔薇♪

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終戦記念日

2006-08-16 | 想い
すでに日付が変わってしまいましたので昨日のことになりますが、
8/15は終戦記念日でした。

61年前のその日、日本は敗戦しました。
きっと・・・その日も今日のように暑かったのでしょうね・・・。

わたしは数年前、特攻隊の出撃飛行場があった鹿児島県・知覧町を訪れました。
みなさまご存知のとおり、特攻隊とは、太平洋戦争末期から沖縄決戦において
人類史上類を見ない形・・・敵艦に爆弾を積んだ戦闘機もろとも肉弾となり突撃していった攻撃隊。
最も著名なのが、知覧町などが基地となった神風特別攻撃隊です。
そして、いまだかつて、このような攻撃を行った国はありません。

知覧町に来たからには、知覧平和会館に行きたい、との思いでいましたが、
出発が遅れてしまったため、平和会館はすでに閉館しており、
特攻隊員たちが残した貴重な資料類を見ることができませんでした。
ですが、外に展示されていた、特攻隊員たちが出撃までの時間を過ごした
三角兵舎(復元されたもの)や、特攻隊員の勇士の像「とこしえに」
また、母の像「やすらかに」、そして、
平和会館は閉館していたのですが、ガラス張りであったため、
実際に使われた戦闘機「零戦」を間近で見ることができました。
のちに平和会館のHPで調べたのですが、この零戦は昭和20年5月、
鹿児島県甑島の手打港の沖約500メートル、水深約35メートルのところに海没していたものを
昭和55年に引き揚げたものとのことです。
35年間も海の中で息をひそめていた零戦ですから、見るも無残な姿になっていました。
ドロを塗ったくったような色、苔むしたような風合い、しかし、その零戦は、
はっきりと原型を留めていました。

何より、この零戦のあまりの小ささに驚愕しました。
ひとり乗りのため当然かもしれませんが・・・あまりに小さいと感じました。
こんなにも窮屈な物に乗り、爆弾と片道の燃料のみを積み込んで
若者たちは空高く出撃していったのだ・・・
そう思うと、知らず知らずのうちに唇をかみ締めていました。
憐れみとか、そういったものではありませんでした。
なぜ? なぜこんなことになったんだ? 戦争っていったいなんなんだ?
言葉にならない思いで心がふるえたことを思い出します。


突撃し、散っていった隊員たち、そしてその家族の胸中は計り知れないものがあり、
敗戦から三十年後に生まれ、戦争を知らないわたしなどが、勝手なことを言っては、
特攻隊員に限らず、戦争に関わったすべての方たちに失礼だと思うのですが、
何か想いを言葉にするとすれば・・・

61年前・・・それはわたしたちの知らない世代かもしれません。
「61年前の戦争」と言葉に出せば随分昔のような・・・まるで想像できない世界のような気がしてきます。
だけど、冷静に考えれば、決してそれほど昔のことではないと思うのです。
たとえばわたしの父は60代前半ですが、父が生まれたときはまだ戦争が続いていたんですね。
あまりに幼かった父に戦争の記憶がほとんどなくても・・・です。
たった61年前に、こんな怖ろしいことが起きていたのだ、と今一度確認することが
大切なのではないかな・・・そう思えてならないのです。

平和ボケと言われ続けている日本。
いつまた同じことが起こるかわからない・・・そういった危機感を忘れないことが、
本当の意味での平和に繋がるのかな・・・と・・・。
世界のあちこちでいまだ行われている戦争は、決して他人事ではないんですよね・・・。

日本人のみならず、戦争に散ったすべての命は大切な大切な大切な・・・
かけがえのない命だった。
心よりご冥福をお祈りいたします。