※お陰様で「私のアメリカ音楽100---」も Google の検索に載るようになりました。
※私が初めてホームページなるものを開設したのは数年前だ。確か、ライブドアーであった。カウンターが回るまでにエライ苦労した思いがある。もの珍しいので、一生懸命書いた。だが、訪れるのは3日に1人の割合で、一年で約百名。まあ、ゼロと考えていい。流石にやる気を失くしてやめてしまった。だが、中身をすべて葬り去るには忍びない。
母校の同窓会・会報委員が読んでくれ、中の一文を会報に載せてくれた。ここで、それを復刻するので、修学旅行に興味がある人はぜひ読んでいただきたい。
私の現役時代、こういう仕事は大好きなので、いろいろな修学旅行を担当させてもらった。それぞれ思い出がいっぱいある。
例えば、学生運動華やかなりし頃、私たちは京都の本能寺会館に宿泊した。ご存知の通り、あそこは京都市役所のすぐ前にある。その日は、どのような抗議行動であったか覚えてないが、市役所前の広場には群衆が集まっていて、あの広い道路まで溢れていた。それを機動隊が一斉に取り巻いて不穏な空気。 突如、その機動隊の何人かが血相を変えて我がホテルの階段を駆け登ってきたのだ。我々教師は面食らった。何がなんだがさっぱり分からない。機動隊は生徒たちに詰問している。 後で分かったのだが、生徒達は外部の状況など全く知らず、部屋の中で「まくら投げ」をして遊んでいた訳だ。そのまくらが幾つか、窓から飛び出て機動隊の頭上に落ちたらしい。隊員達は、うちの学生達が意図的に狙ったと思った。なにしろ、隊員達は神経をぴりぴりさせていたのだから、無理もない。私は猛烈に抗議した覚えがある。
全国高校生クイズチャンピオンになった生徒たちを含む、四百名位の修学旅行だったと思う。
そのときは、何故か、私は担当ではなかった。「平和学習」をテーマに我々は広島を選んだ。現地では、外国人慰霊碑の問題とか、原爆病院訪問とか、クラス別行動をとることにした。
我がクラスは現地高校生たち(いくつかの高校から集まった生徒たち)との交流会を割り当てられた。一番面食らったのは担任の私である。どうして我がクラス1つだけなのか、どのような内容のものがどのように進行されるのか、何も知らされていない。ディスカッション1つとっても、意識の高い広島の高校生達と対等に渡り合える者など、1人もいない。私は気が重かった。こちら側の教師は私1人だけである。しかも、後で分かったのだが、あちら側には教師は一人も付かなかったのだ。
その調べは、原爆資料館前の庭から、突然鳴り響いた。うちの生徒と広島の生徒たちは交互に間に入って手をつなぎ、大きな輪を作っている。響きはその輪の中から沸き起こったのだ。前触れもなく、まさに突如として鳴り響いたのだ。
見ると、輪の中に、ギターを弾いている広島の生徒達がいる。忘れかけていたあの連帯の調べ--そう、北山修と杉田二郎の『戦争を知らない子供たち』である。輪を作っている生徒たちも歌いだした。
オーバーに言えば、広島平和公園の一角から沸き起こった狼煙は、一般観光客の視線をもくぎ付けにした。私は久しぶりで熱いものを感じた。学生運動が衰退し、若者がしらけ始めていた時期であったと思う。
この平和公園での、連帯のエネルギー・共感、そして、アメリカによる原爆投下の意味を、うちの生徒達がどのように受け取ったかは分からない。しかし、交流会に続く、広島の生徒達主導の「遺跡」ガイドを聴く、うちの生徒達の真剣な眼差しを私は見逃さなかった。実に、思い出に残る有意義な修学旅行であった。