元高校教師のブログ[since2007/06/27]

地元仲間とのウォーキング、ハイキング、サイクリング、旅行の写真入報告。エッセイや意見も。

奥の寄り道3日間 (その5)

2007-10-12 01:55:07 | 旅行


  [岩手県衣川村・観光ガイド]より
   

前書き---3つの「衣川の戦い」

(1) 坂上田村麿呂とアテルイの戦い(アテルイ→ネット検索)
(2) 源義家と安倍貞任の戦い
(3) 藤原泰衡の高館(義経)攻め

 「衣川の戦い」といえば(2)と思っていたが、上記3つを指すらしい。戦中の教科書にも出ていて、私の世代には有名な話だ。前九年の役で、敗走する安倍貞任の背中に義家が「きたなくも後ろを見せるものかな」と言うと、馬上から振り向いた貞任に「衣のたて(=衣川館)はほころびにけり」と義家。すかさず「歳を経し糸(=縦糸)の乱れの苦しさに」と貞任。命のやりとりの最中でも連歌をたしなむとは、文武両道・武人の鑑ということで、その場は逃したという伝説。

 八幡太郎と言われる義家も、ここだけでなく、勿来の関にも騎乗姿の銅像と和歌をとどめている→(吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな)。このようなイメージがあったのと、「炎立つ」高橋克彦の世界へと、今回「衣川サイクリング」を計画したわけです。
 それにしても衣川って、こんなに有名なのに、中尊寺の裏側から北上川に注ぐ小さな川。その川沿いの田舎道を走るコースです。事務所のおじさんも我々のコースに関しては全く分らない。

 
  [MapFan Web をベースに作成] したが、画面が小さくて判読不明のようです。
赤十字が金色堂で、左側高速道路の近くの赤は、上が衣川柵、下が泉ケ城跡

コース】---レンタサイクル2時間レンタサイクル事務所(9:10分)→衣川橋→衣川柵→衣川関→泉ケ城跡(泉三郎墓)→衣川橋→高館→(11:10分)レンタサイクル事務所

本文】宿院で健康的な朝食を済ませ、8:40分頃平泉駅に向かう。前日、10台ちゃんと用意しておくとのことだったが---。確かに揃ってはいたが、整備してないよ。サドルの高さについては別として、ブレーキが硬いのやら甘いのやら、空気がきちんと入っていなかったり、つるつるのタイヤ。20分くらいロスしてしまったわい。  
 一行の中にはほとんど乗ったことが無いという者もいて、快適な走りとはおよそ縁遠い。私はトップだから、あまり気がつかないのだが、左右に揺れてあぶなっかしいのが数名いるらしい。少し走っては、「待ってぇー」の連続。でも「サイクリングって、こんなにすばらしいんだ」と初体験に感激してくれる女性もいる。
 サイクリング、サイクリング、ヤッホー、ヤッホーという余裕は無いようだが、縦に10台連ねて、我がリンリン隊は義家や貞仁が、或いは秀衛や義経が駆け抜けた衣川を往く。


    [衣川村作成パンフ]より。左端に国道4号が衣川に「衣川橋」を架けています。地図上(6)が衣川柵、(7)の下が泉ケ城跡。

  
 衣川橋までは国道4号なので、ちょっと神経を使うが、あとはのんびりとした良い田舎道。 安部氏の政庁があったとされる衣川柵は説明板以外、今は何もない。だから、ここを突き止めるのに手間がかかった。地元のおばちゃんにいろいろ訊ねた。
 なお、「衣川柵は並木屋敷とも云われ、安倍氏の政庁跡。後に、清原氏の本拠ともなり、その時点で柵がめぐらされ、衣川の柵とも証した。」


  衣川柵=並木屋敷跡


 「泉ケ城のほうが有名だよ。このちょっと先だから。」ということで、教えられた道を行く。でも、案内板も何もない。橋のところで農夫に訊く。「あそこの高いところがそうだよ。でも、人の家だし、何も無いよ」とのこと。眼の前の流れは衣川らしい。結構、きれいに流れている。


この辺りで衣川は蛇行するが、前九年や後三年の役当時と同じ流れなのだろうか。


  右側、田んぼの先の台地の上に民家と泉三郎の墓がある

 「この辺が衣川関なんだ」と追加説明。礼を言って、その高台に向かう。坂道がその民家のほうに導いているので、自転車を道端に停めて、挨拶にむかう。出てきたその家のおかみさん?にいろいろ訊ねる。裏に泉三郎の墓があるとのことで、許可を求めてそちらにむかう。
 この辺の地名が泉なので、泉三郎とか泉ケ城というのだろう。それにしても、昔の泉ケ城の跡地に民家が立っていようとは---。

  ※ 参考資料---【平泉資料 写真と解説(7)】より泉ヶ城跡 ・忠衡の居館と伝えられるのが、中尊寺・関山の北西部にあった泉ヶ城であり、「おくのほそ道」の中で「衣川は、和泉が城をめぐりて」と書かれた衣川は、主の忠義心をなぞるように、今もなお同じ流れを続けている。泉三郎忠衡 藤原秀衡の次男・泰衡は、文治5年(1189年)4月、源頼朝の圧力に屈し秀衡の遺言に背いて義経を攻めたが、三男・泉三郎(泉の三郎、和泉三郎)忠衡は、秀衡の意志を継いで、最後まで忠義を尽し義経を守った。忠衡は義経の死後、23歳の時に泰衡によって攻め殺された。 芭蕉は、鹽竃神社の境内で忠衡寄進の燈篭を目の当たりにし、その感動を「おくのほそ道」の中で次のように記している。 神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に文治三年和泉三郎寄進と有。五百年来の俤(おもかげ)、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠(かれ)は勇義忠孝の士也。佳命今に至りてしたはずといふ事なし。誠人能道を勤、義を守べし。名もまた是にしたがふと云り。

 

 時計を見るとあと1時間しかない。義経の高館を見損なってはと、帰路につく。衣川橋までは順調だったが、国道に移ると後続との距離がやたらと開く。その度に待つのだが、姿も見えないので心配だ。残り時間がどんどん経っていく。高館の下で30分残っていたので安心した。ところが先の坂道が急でなかなか入り口に着かない。遅れの者を待っていて、とうとう15分残になった。拝観料を払って慌しく高館へ駆け上る。いいポジションだ。足下に北上川がゆうゆうと流れている。


   [平泉 散策ガイド--平泉町農林商工課作成]の裏側から

 こんな見晴らしの良い所に構えていて、義経が泰衡軍の攻めを指を咥えて待っていたとは、とうてい考えられない。だって、「鵯越の逆落し」を引き合いに出すまでもなく、ゲリラ戦の天才だよ。義経はここで死んだことになっているが、そのことにかんしては、絶対に読んで欲しい本がある。→高木彬光の「成吉思汗(ジンギスカン)の秘密」光文社。読み始めたら停められないよ。禁断の書と言ってもいいかな。  

 芭蕉句碑(夏草やつわものどもの夢の跡)を撮影し、大急ぎで下山。ぴったり2時間で自転車を返すことができた。

 ※ここで中断して、(その6)は数日遅れます。 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 奥の寄り道3日間(その4) | トップ | 草津・嫗仙(オウセン)の滝ハ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

旅行」カテゴリの最新記事