NHKの歴史大河ドラマの時代考証で名前がよく出る小和田氏が、市の文化講演会に我が町に来てくれたのである。題して「男と女の戦国史」。講演は1時間半続いた。戦国時代から、女性は夫に従うもので、特に戦では、銃後の守りを貫いたというのが一般的な考えだが、どうもそうではないらしい、というのが話の趣旨だ。
その中で、私の注意を曳いたのが、「沼津千本松原の首塚」の件である。鈴木尚氏による人骨の研究が紹介された。千本松原のある所は、戦国時代には北条軍と武田軍との激戦地で、ここに戦死者の沢山の頭蓋骨が埋められていたとのこと。現地の看板※には出ていないが、小和田氏によると、頭蓋骨の3分の一は女性であったそうだ。これは何を物語るのか?女性は銃後の守りなんかではなく、当時は女性も戦闘に参加していたのだ。
※帰宅してネットで私が調べたら、沼津市による以下の紹介文があった。 沼津市の戦国時代、沼津周辺では小田原北条氏と甲州武田氏の勢力争いが激しく、とくに天正8(1580)年の千本浜の合戦は激戦であった。明治33年、暴風雨で倒れた松の大木の下からたくさんの頭蓋骨が発見され、地元の人たちはこの骨を集め、塚を築き、碑を建て「お首さん」と呼んで手厚く葬った。 |
戦闘ばかりでなく、日常生活でも、必ずしも夫などの男性に唯々諾々と従っていた訳でもなさそうだ。
立花道雪の娘である「ぎん千代」は天正3年(1581年)に家督を渡されたとのこと。つまり、女城主である。そうなってくると、矢切止夫が読売新聞に連載していた「謙信は男か」を思い出す。つまり、上杉謙信女人説だ。その根拠は、戦場では兜ではなくオコソ頭巾をいつも被っていいた、ということから始まり、沢山あるが、ここでは省略する。分かりやすく言えば、謙信はジャンヌダルクである。
戦国時代は、千本松原の例のごとく、女武者は珍しくなかったようだ。江戸時代でも、春日の局のように、乳母の立場でも、老中などの幕閣を怒鳴り散らしていたというから、ほんとに乳母なのか?と私なんぞは疑う。
いずれにしても、昔は「女は男の従属者で人権など無かった」と言うのは誤りのようだ。