縄文人の反乱 日本を大事に

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暗に安倍総理暗殺を匂わせました。

2013年07月14日 20時07分26秒 | 色んな情報
暗に安倍総理暗殺を匂わせました。
京免 史朗
さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」より

「伊藤博文を殺せなかった安重根が義士とは韓国らしい」

朴槿恵大統領が訪中時に習近平国家主席に「安重根の石碑建設」を要請したことに対し、安倍首相は「伊藤博文は日本人が尊敬する偉大な人物。韓国と日本はその点を互いに尊重すべきだ」と発言しました。
また、韓国の反日団体・活貧団は「極右が主流の安倍政府が独島上陸など予想のできない危険な行動と威嚇的挑発を止めない場合、第2の安重根義士の出現をむかえるだろう」と暗に安倍総理暗殺を匂わせました。

歴史が消された国は悲劇であります。
朝鮮独立の志士といえばまずは金玉均の名前が上がります。彼こそは清国支配下の朝鮮から脱して独立しようとしたのです。そのモデルは日本の明治維新でした。
1884年、清仏戦争で宗主国の清国がフランスに敗れると、金玉均は日本の支持を得てクーデターを起こし、新政権を立てました。早速、新政権は清国への朝貢を廃止し、困窮する財政を立て直すべく財政改革を打ち出し、治安の維持などを発表しました。

しかし、150人の日本軍に対して1300人の清国軍が攻撃してきました。この戦闘で戦死した日本人は1名だけであり、清国側は53名の戦死者を出しました。多勢の清国軍により日本公使館は焼き払われ、日本婦人の多くが惨殺されました。
これにより日本中が怒り、清国とも戦争を辞さず、との声が上がりましたが、伊藤博文は「今の日本にはその力はない。今日本と清国が戦えば利するのはロシアである」として戦争を回避しました。

これにより金玉均らは日本に亡命しました。朝鮮政府は身柄引き渡しを要求してきましたが、日本政府は拒否しました。しかし、金玉均は同士の裏切りに遭い、上海に連れ出されて殺されました。その死体は清国軍艦で朝鮮に運ばれ、頭、手、足をバラバラにされ朝鮮各地にさらされたのです。父は死刑、母は自殺、弟は獄死し、一家は全滅しました。金玉均の遺髪を日本人が持ち帰り、彼の葬儀は浅草本願寺で盛大に営まれました。

こうしてみても朝鮮の真の義士は金玉均であります。当時、清国やロシアの侵略から朝鮮を守ろうとして志半ばにして倒れた金玉均。しかし、今の韓国では彼がいかに愛国者であったかを語られることはないのです。なぜなら彼を殺したのが朝鮮人だからです。日本人に殺された、日本人を殺した、ということしか彼らの注目はないのです。
伊藤博文を暗殺したといわれる安重根は義士として讃えられています。しかも、日本の教科書には写真入りで登場しています。

安重根は本当に伊藤博文を殺したのか。
伊藤博文はロシア帝国蔵相のココフチェーフとハルピンで会談し日露同盟を結ぶことを考えていました。アメリカと国際金融資本にとってはこの同盟を抹消すべく安重根を利用したのです。
伊藤博文の体内の弾丸には安重根のブローニング拳銃の弾丸はなかったのです。伊藤を殺した弾丸は上部から撃ったフランス騎兵銃の3発でした。

このように安重根は暗殺に利用されたピエロだったのです。このピエロを義士とする韓国こそピエロであるのです。ピエロの石碑の建設を要請したり、第2のピエロの出現と脅したつもりで言ったり、歴史を失った韓国は反日こそが正しい歴史であると思い込んでいるのです。

【変なお辞儀】は、何故蔓延したのか?

2013年07月14日 19時49分55秒 | 色んな情報
【変なお辞儀】は、何故蔓延したのか?


作成者: 京免 史朗さん

CAやデパート店員の特殊なお辞儀が
いつのまにか”お辞儀の基本(?)”になっちゃった!?
(正しい?美しい?エレガント??どこが?)
ん?ちょっとコレ、お隣韓国のとソックリ!?

>韓流やK-popが一時持てはやされた時、
>反対運動やデモが起こった。

>あれだけゴリ押しされればウザいし、うんざりもするが
>「そんなにギャーギャーいう必要ねーよ」とも思っていた。

>日本の劣化コピーのような韓国のコンテンツが
>日本にとって本質的な脅威に成りうることは無いから。

>だが本当に怖いのは、お辞儀といった
>日常の伝統的礼儀作法や行動様式などが犯されてしまうこと。

>子供がこれが正しいお辞儀なんだ、と勘違いしてしまったら
>本当に危険だし、考えただけでも背筋が寒くなる。

>それは韓流やK-popなど比べ物にならないくらいの脅威。

>目立たない事だけに、気付かないうちに進入し、
>そして悪性癌のように一気に広がる。

>これこそ本当に反対運動でも起こさなければ大変な事に。


コメント
鉄太郎
 今度見かけたら「すみません、何で韓国式のお辞儀なんですか?」って片っ端から聞き倒すことにします。「朝鮮系の会社なんですか?。じゃあキャンセルします」って1人で反韓運動を展開します。


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「人間には、命を懸けなければならない時がある」

2013年07月14日 16時34分36秒 | 色んな情報
「人間には、命を懸けなければならない時がある」

ー国際派日本人養成講座ー より

福島第一原発の大惨事を食い止めた男たち

                                      京免 史朗

■1.自分と一緒に「死んでくれる」人間の顔を思い浮かべていた

 福島第一原発所長・吉田昌郎の様子に「異変」が起きたことを、その背後に座っていた企画広報グループの猪狩典子は見逃さなかった。

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 あの時、もう最後だと思いました。それまで席に座っていた吉田さんが突然、立ち上がったかと思うと、机の下にそのまま「胡座」をかくように座ったんです。吉田さんは、しばらく頭を下にして、目をつむっていました。私は、ああ、(プラントが)もうダメなんだ、と思いました。[1,p251]
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 震災発生から4日目の3月14日夜、不眠不休のまま吉田は緊急時対策室で指揮をとっていた。1号機に続いて3号機で水素爆発が起こり、その影響で2号機の冷却機能が失われ、核燃料の格納容器の圧力が高まり、その爆発という最悪の事態がいつ起きても不思議ではなかった。吉田はそれに備えて、協力企業の人たちを待避させたばかりだった。吉田は後に、こう語っている。

__________
 私はあの時、自分と一緒に「死んでくれる」人間の顔を思い浮かべていたんです。

 その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。・・・あとはもう神様、仏様に任せるしかねぇというのがあってね。

 何人を残して、どうしようかというのを、その時に考えましたよね。ひとりひとりの顔を思い浮かべてね。[1,p254]
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画像

■2.日本は「三分割」されていたかもしれません

 格納容器が爆発するとどうなるか、吉田はこう考えていた。
__________
 格納容器が爆発すると、放射能が飛散し、放射線レベルが近づけないものになってしまうんです。ほかの原子炉の冷却も、当然、継続できなくなりますから、全部でどれだけの炉心が溶けるかという最大を考えれば、第一と第二で計十基の原子炉がやられますから、単純に考えても、「チェルノブイリx10」という数字が出ます。[1,p356]
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 斑目春樹・原子力安全委員会長(当時)は、これを聞いて、こう語った。

__________
 私は最悪の場合は、吉田さんの言う想定よりも、もっと大きくなった可能性があると思います。近くに別の原子力発電所がありますからね。福島第一が制御できなくなれば、福島第二だけでなく、茨城の東海第二発電所もアウトになったでしょう。

そうなれば、日本は「三分割」されていたかもしれません。汚染によって住めなくなった地域と、それ以外の北海道や西日本の3つです。日本はあの時、三つに分かれるぎりぎりの状態だったかもしれないと、私は思っています。[1,p256]
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■3.やらなければならないことが、頭の中で回転し始めた

 地震発生から1時間ほどして、「非常用電源がオフ! 停まりましたぁ!」という声が響いた時が、吉田が最初に最悪の事態を想定した瞬間だった。

「どういうことだ!」と吉田は反射的に叫んだ。「わかりません」「なぜなんだ? すぐ確認しろ!」「はいっ」

 地震のあと起動して今まで動いていた非常用電源が停まったという。やがて、次々と情報が入り始めた。10数メートルもの津波で非常用電源装置がやられ、中央制御室が真っ暗になり、すべての計器が動かなくなってしまった、、、

「そうか、、、(全電源喪失で)最悪の事態が来るかもしれない」と吉田は考えた。チェルノブイリ状態になるかもしれないと思いながらも、やらなければならないことが頭の中で回転し始めた。

 原子炉を電気で冷やすことができなければ、水で冷やすしかない。水なら海にいくらでもある。その水をプラントに入れるには、消防車しかない。多くの専門家が驚くのは、この段階で吉田が、消防車の手配まで行わせていたことだ。

 3台あった福島第一原発の消防車のうちの2台は津波にやられ、稼働可能だったのは、たまたま高台にあった一台だけだった。それが分かった5時過ぎには、吉田の依頼が自衛隊に伝えられ、福島第一原発に消防車が向かうことになる。自衛隊の消防車が事故の拡大をぎりぎりで止める事になるとは、この時点では誰も予想していなかった。

 長年、原発の補修や運営に携わってきた現場のプロだけが持ちうる直感的判断だったのだろう。

■4.人力でバルブを開け、水の通り道を確保する

 消防車で水を運んだとしても、それで原子炉を冷やすには、水の通り道を確保する必要がある。格納容器の外側を覆っている厚さ2メートルほどの遮蔽コンクリートがあり、それを突き抜けて入る配管が何本か通っている。消防車のポンプから、この配管に水を入れれば良い。

 しかし、その配管にはいくつかのバルブがあって、その一つでも閉まっていると、冷却水が通らない。電源さえあれば、中央制御室ですべてのバルブの状態を見ることができるし、開閉操作もスイッチ一つでできる。

 しかし、非常用電源すら落ちた状態では、各バルブがどうなっているのか、まったく分からず、また開けるにしても、プラントの中に入り込んで、人力で開けなくてはならない。

 吉田からの指示を待たずして、制御室のメンバーはプラントの図面を見ながら、どこにどのバルブがあり、冷却水を通すためには、どのバルブを開けるべきか、との検討を進めていた。これも吉田と同様、現場に精通したプロたちの判断であった。

 津波後、数時間の間に放射線量が上がり始めていたので若手を外し、ベテランたちが原子炉建屋に入り込んた。重い防護服を着て、階段やはしごを上り下りし、直径60センチもあるハンドルを回して、バルブを開ける。放射能が急上昇したり、大きな余震があったら逃げ場のない危険な作業であった。

 最後のバルブを開けた時には、午後8時頃になっていた。放射線量はますます上がり、午後11時には原子炉建屋に入れるレベルではなくなっていた。

 このタイミングを逃していたら、バルブを開けることはできず、冷却水の通り道を確保できず、炉心溶融がすぐに始まっていただろう。この作業に取り組んだ一人は後にこう語っている。

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 危険は感じていましたが、やはり誰かがやらないといけなかったわけです。われわれ運転手には、やるべき使命があるんで、これは当然のことだったと思います。
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■5.最初の水が原子炉に注入された

「水を注入する方法は、全部現場で考えました」と吉田は語る。海水を入れるには、海面と建屋のレベルが10メートルも違うので、この高さまで持ち上げるポンプがない。では、どうするか。

 考え抜くうちに、3号機にある「逆洗弁ピット」という巨大なプールに、たまたま押し寄せた海水がたまっていたので、それをまず入れようということになった。

 しかし、逆洗弁ピットに近づくには、津波で散乱したおびただしい瓦礫やゴミを取り除かねばならない。またテロ対策のための厳重な柵を壊さなければならない。

 暗闇の中、重機を動かして、消防車の動く道を作るという作業が猛然と行われた。これらの作業によって、最初の水が原子炉に注入されたのは、翌3月12日明け方の4時頃だった。津波から12時間が経過していた。吉田はこう語る。

__________
 海水注入なんて、誰でもすぐにできると思っているかもしれませんが、そんなことはないんですよ。それを簡単にできるかのようにおっしゃる方もいますが、そういう話を聞くと、憤りを感じますね。
現場が、どんな気持ちで水を見つけ、そして進路を確保してやっているのか、そういうことをまったくわからないまま、想像もしないまま、話していますからね、頭で考えるよりも、時間はいくらでもかかるわけです。[1,p101]
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■6.「まず総理だけが降りますから、すぐには降りないで下さい」

 ようやく水の注入が始まった頃、「菅首相が来ます」という耳を疑うようなニュースが入ってきた。最悪の事態を防ぐために、現場で不眠不休の対応を続ける吉田に、ヘリコプターをどこに留めるか、そこから首相らをどう運ぶのか、ただでさえ足りない防護マスクをどうするのか、など、余計な時間を使わせた。

 菅によると、東電本社側が説明できない点があるので、直接現地に来たという。しかし、ヘリが着陸した時に、他の乗員がまず降りようとすると、写真撮影のために「まず総理だけが降りますから、すぐには降りないで下さい」と待たされた事が、菅の魂胆を明らかにしている。

 建物に入る際に、係員が汚染をチェックしようとすると、「なんで俺がここに来たと思っているんだ! こんなことやっている時間なんかないんだ!」とフロア中に響く声で怒鳴りつけた。自分が来たという証拠写真を撮る時間はあるが、建屋内で奮闘している人々を放射能から守るための汚染チェックをする時間はないということである。

 周囲を怒鳴り散らしていた菅も、吉田の的確な説明に気押しされてか、少し落ち着いきを取り戻したようだった。しかし、この間に貴重な吉田の時間が20分も費やされた。怒鳴り散らすだけの菅首相が多少落ち着きを取り戻した事以外に、この訪問の具体的な成果は見当たらない。

■7.「官邸が、グジグジ言ってんだよ!」

 官邸からの過剰介入はこれに留まらなかった。1号機の爆発の後、放射線量増加の危険を冒して、本格的な海水注入を始めた直後、吉田の前に置いてある固定電話が鳴った。

「おまえ、海水注入はどうした?」 官邸に詰めている東電の武黒一郎フェローである。後輩の吉田とは「おまえ」と呼ぶ間柄であった。「やっていますよ」と吉田が平然と答えると、「えっ、本当か。それ、まずい。とにかく止めろ」と命令する。

「なんでですか。入れ始めたのに、止められませんよ」と言う吉田は、武黒の次の言葉に驚いた。

「おまえ、うるせえ。官邸が、グジグジ言ってんだよ!」
「なに言っているんですか!」とすさまじいやりとりになった。

 菅は、海水注入によって再臨界などいろいろな可能性があるので、よく検討せよ、という指示を出した、と後に国会で答弁している。一国の総理が、原子炉の専門家でもないのに、こういう技術的な問題まで口を挟んでくる異常さが本人には分からないようだ。

 なんで「素人」の理不尽な要求が、現場の最前線で戦っている自分のところに飛んでくるのか。吉田は、腹立たしくてならなかった。原子炉を冷やすには、水を使うしかない。限られた淡水がなくなったら、海水を使うしかない。それがなぜ分からないのか。

 その直後、本店から吉田に海水注入中止命令が下った。本店が官邸の意向に従ってしまったようだ。しかし、吉田は先回りして手を打っていた。

__________
 本店から海水注入の中止の命令が来るかもしれない。その時は、本店に(テレビ会議で)聞こえるように海水注入の中止命令を俺が出す。しかし、それを聞き入れる必要はないからな。おまえたちは、そのまま海水注入を続けろ。[1,p221]
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 吉田は原子炉という正面の敵とともに、後ろから足を引っ張る官邸とも戦わねばならなかった。

■8.「人間には、命を懸けなければならない時がある」

 吉田の「独断」によって海水注入は続けられ、さらに応援に駆けつけた陸上自衛隊中央即応集団や東京消防庁スーパーレスキュー隊が、消防車やヘリから決死の放水を行った[a]。こうした人々の執念に負けたかのように、暴走しかけた原子炉も徐々に熱を失っていった。

 吉田がサラリーマンのように本店の海水注入中止命令に素直に従っていたら、どうなっていたか。「チェルノブイリx10」が起こって、我が国は東北・関東が死の国となって「三分割」されていたかもしれない。吉田昌郎所長と所員たち、自衛隊諸士、消防員たちのまさに命懸けの行動によって、そのような事態はギリギリのところで避けることができた。

 [1]の著者・門田隆将氏は、吉田所長をはじめとして、実に90名以上の人々の話を聞きながら、この見事なドキュメンタリーをまとめた。氏はあとがきにこう記す。

__________
 私は、このノンフックションを執筆しながら、「人間には、命を懸けなければならない時がある」ということを痛切に感じた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 吉田昌郎氏はその年の末に食道ガンが発見され、その後、入退院を繰り返し、この7月9日に亡くなった。原発事故の際の極度のストレスが原因ではないか、と言われている。

 ご冥福をお祈りするとともに、吉田昌郎氏とその仲間たちが命を懸けて我々を守ってくれた恩にどう応えるべきか、我々はそれを考えなければならない。

(文責:伊勢雅臣)

「約束の結婚式」

2013年07月14日 15時34分58秒 | 色んな情報
「約束の結婚式」


          赤星 弘毅 作成

由香ちゃんが近所に引っ越してきたのは、まだ小学校三年生のときでした。

ときどきわが家に電話を借りに来るのですが、いつも両親ではなく由香ちゃんが来るので、おかしいなと思っていたのですが、しばらくしてその訳がわかりました。

由香ちゃんのご両親は、耳が聞こえない聴覚障がいがある方で、お母様は言葉を発することが出来ません。

親御さんが書いたメモを見ながら、一生懸命に用件を伝える由香ちゃんの姿を見ていると、なんだか胸が熱くなる思いでした。

今なら携帯電話のメールがありますが、その時代を生きた聴覚障がいを持つ皆さんは、さぞ大変だったろうと思います。

由香ちゃんの親孝行ぶりに感動して、我が家の電話にファックス機能をつけたのは、それから間もなくのことでした。

しかし、当初は明るい笑顔の、とてもかわいい少女だったのに、ご両親のことで、近所の子供達にいじめられ、次第に黙りっ子になっていきました。

そんな由香ちゃんも中学生になる頃、父親の仕事の都合で引っ越していきました。

それから十年余りの歳月が流れ、由香ちゃんが由香さんになり、めでたく結婚することになりました。

その由香さんが、

「おじさんとの約束を果たすことができました。ありがとうございます」

と頭を下げながら、わざわざ、招待状を届けに来てくれました。

私は覚えていなかったのですが、

「由香ちゃんは、きっといいお嫁さんになれるよ。だから負けずに頑張ってネ」

と、小学生の由香ちゃんを励ましたことがあったらしいのです。

そのとき「ユビキリゲンマン」をしたのでどうしても結婚式に出て欲しいというのです。

「電話でもよかったのに」

と私が言うと、

「電話では迷惑ばかりかけましたから」

と由香さんが微笑みました。

その披露宴でのことです。

新郎の父親の謝辞を、花嫁の由香さんが手話で通訳するという、温かな趣向が凝らされました。

その挨拶と手話は、ゆっくりゆっくり、お互いの呼吸を合わせながら、心をひとつにして進みました。

「花嫁由香さんのご両親は耳が聞こえません。

お母様は言葉も話せませんが、こんなにすばらしい花嫁さんを育てられました。

障がいをお持ちのご両親が、由香さんを産み育てられることは、並大抵の苦労ではなかったろうと深い感銘を覚えます。

嫁にいただく親として深く感謝しています。

由香さんのご両親は“私達がこんな身体であることが申し訳なくてすみません”と申されますが、私は若い二人の親として、今ここに同じ立場に立たせていただくことを、最高の誇りに思います」


新郎の父親の挨拶は、深く心に沁みる、感動と感激に満ちたものでした。

その挨拶を、涙も拭かずに手話を続けた由香さんの姿こそ、ご両親への最高の親孝行だったのではないでしょうか。

花嫁の両親に届けとばかりに鳴り響く、大きな大きな拍手の波が、いつまでも披露宴会場に打ち寄せました。

その翌日。

新婚旅行先の由香さんから電話が入りました。

「他人様の前で絶対に涙を見せないことが、我が家の約束ごとでした。

ですから、両親の涙を見たのは初めてでした」

という由香さんの言葉を聞いて、再び胸がキュンと熱くなりました。
              


出典元: (「NTT西日本」コミュニケーション大賞受賞作品)


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由香さんは、立派に育ちましたね。

ご両親もとても素晴らしい。

頭が下がる思いです。

私はここまで両親を思いやる事が出来ているだろうか?

読んで考えさせられる文章でした。


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「自由と繁栄の弧」をつくる

2013年07月14日 09時34分55秒 | 色んな情報
「自由と繁栄の弧」をつくる

          京免 史朗 作成
外務省ホームページより

「自由と繁栄の弧」をつくる

拡がる日本外交の地平          外務大臣 麻生太郎

日本国際問題研究所セミナー講演      平成18年11月30日

                    於:ホテルオークラ

 日本国際問題研究所 他のサイトヘは、3年先、2009年の12月に、発足50周年の節目を迎えると伺いました。1959年にできたということでありますが、ちょうど私など、大学の1年坊主だった頃です。なにぶん遊ぶのに多忙を極めておりましたせいか、吉田茂が何をしておりましたか、週末になる度大磯で会っておりました子供の時分よりも、逆にわからなくなっておりました。

 ああそうか、祖父さん、国問研を作ったのはあの頃か、と、今回は認識を新たにさせていただきました次第です。

 さて皆さん、本日は「価値の外交」という言葉と、「自由と繁栄の弧」という言葉。どちらも新機軸、新造語でありますが、この2つをどうか、覚えてお帰りになってください。

 我が国外交の基本が、日米同盟の強化、それから中国、韓国、ロシアなど近隣諸国との関係強化にある。――このことは、いまさら繰り返して申し上げるまでもありません。今回申し上げますのはその先、日本外交に、もう一本さらに新機軸を加えようということであります。

 第一に、民主主義、自由、人権、法の支配、そして市場経済。そういう「普遍的価値」を、外交を進めるうえで大いに重視してまいりますというのが「価値の外交」であります。

 第二に、ユーラシア大陸の外周に成長してまいりました新興の民主主義国。これらを帯のようにつなぎまして、「自由と繁栄の弧」を作りたい、作らねばならぬと思っております。

●資格宣言と、決意表明

 なんとなく、「バタ臭い」ぞと…。つまり下駄履きの似合う男が、西洋仕立ての背広を着て無理しておるなと。

 あるいは、戦争で大負けしたうえ国内外に多大の迷惑をかけたのに、「価値」とはまた、いつから他人(ひと)さまに説教する徳を身につけたのか、と…。

 …いうようなことを、あるいは言う人があろうかと存じます。がそれは私に言わせますと、鏡に映る自分を、ニセモノだ、こしらえものだとどうしても思いたがる、一種の病癖であります。

 きょう、ほかのことは忘れてもらっても結構であります。しかし日本も「いい歳」なんですから、鏡に映した我と我が身にもじもじするような、そんな態度はもうやめましょう、という、そこのところは、胃の腑に落としていただきたい。そう思っております。

 だいたい、尊大にも、卑屈にもならないのが一人前の態度というものでして、こだわりを取り去って虚心に眺めてみますと、今日の日本は、長い歴史の積み重ねがあって成り立っているという、当たり前の事実が見えてまいります。

 民主主義というもの、熟成するには長い経験やら、失敗の積み重ねが必要であります。日本の場合、始まりを明治から数えるのが普通でしょうが、「法の支配」とか「契約の遵守」という考え方は、これは相当古くからあります。「十七条の憲法」だ、ヤレ「貞永式目」だ、と、その始まりの議論にも、なかなかにぎやかなものがございます。

 しかし特筆大書しなければならぬと私ども思いますのは、なんと言っても江戸時代の成熟ぶりです。

 例えば「貸本屋」でありまして、当時は一人の貸本屋に、百人以上得意先があった、と。新刊本が出ると、それを袋に詰めてお得意さん回りを致します。「おぉ待ち兼ねたぞ」と言って、お客は袋の封を切る。…これが今でも映画の世界に残る、「封切り」の語源であります。

 本に印刷された広告などから、読書階級というのが、武家から町人、婦女子まで広がっていたことが知られております。しかも江戸と上方だけではありませんで、どうも全国津々浦々に、無数の貸本屋が本を配って歩いておりました。

 江戸時代すでに、膨大な庶民が娯楽でモノを読んでいたわけでありますから、現代日本で漫画が栄えるワケであります。

 ともあれ江戸時代の日本というのは、珍しいくらい平和に、丸く治まった社会でありました。今ふうに申しますと、「ガバナンス」が相対的にうまくいっていたということでありまして、この土台があったからこそ、近代的な制度が日本の場合はうまく乗った。私などはそう思っております。

 自由とか民主主義、人権や法の支配におきまして、完璧な国など世界中に、ありません。ですがこんなふうに歴史を見返すにつけ、日本は、そういう普遍的価値を重んじる点にかけては、もはや老舗(しにせ)の部類に入りやしませんか、ということであります。

 加えて誰からも、全く後ろ指をさされない、戦後日本の平和主義という実績がございます。60年間大砲はおろか、銃弾の1発も撃たなかった自衛隊みたいな組織が、どこかよその国にあるものでしょうか。

 この頃ではイラクを始めいろんな場所で、自衛隊の諸君が必死に汗をかいてくれました。そのおかげで、制服を着た日本人のイメージも、劇的に変わったと思います。「恐い」という印象は消え、今それは、「笑顔の人」です。「同じ目線に立ち、一緒に苦労してくれる人々」であります。

 と、このような背景や、実績があるわけで、民主主義にしろ平和や自由、人権にしろ、世間一般に通じる「普遍的価値」について、我が日本は、もはや口ごもりません。以上が、「価値の外交」に関する資格宣言、ならびに決意表明であります。

●公約・民主主義各国の、伴走者になる

 ここで目をユーラシア大陸の外周に沿って、ぐるっと見回していただきたいのでありますが、この一円こそは、冷戦が終わり、東西対立が幕を閉じるとともに、激しく変わってまいった一帯です。

 そこを「自由と繁栄の弧」にしたいという、そちらへ話を移してまいります。

 なんでアフリカを取り上げないんだ、と。中南米は大事じゃないのか、と、地球儀を片手にあまり突っ込まれても困ります。

 あとから申しますが、EUやNATOとの協力を今後強めていこうと、そういう動機がひとつございます。そこから自然と思い浮かびますのが、いま申しましたちょうど弧のようになった一帯です。東西対立が終わり、体制が大変化しつつある国々を含む地域です。そこを、「自由と繁栄の弧」に致しましょう、ということでありました。

 それからこの一帯には、当然中近東地域も入るのでありますが、実は中近東政策については別途スピーチする必要があろうと考えておりまして、今日は詳しく申し述べません。

 具体的に、いま私の念頭にありますのは、例えばカンボジアにラオス、それにベトナムです。頭文字をとってCLVなどと呼んでおります一帯です。

 それから、世界に対する資源供給という点で非常に大事な、中央アジアの諸国や、グルジア、アゼルバイジャンなど、コーカサス地方の国々であります。

 さらには今年の夏、私自身が訪問しまして、首都のキエフなど、さすが大国の風格があると感じてまいりましたウクライナ。

 いずれの国々とも、いま我が国は外相会合など、いろいろな接触を定期的に持とうとしております。それによって先方の状況が、格段によく見えてまいります。

 一言で申しますと、「経済的繁栄と民主主義を通じて、平和と幸福を」という道を、多くの国が歩んでおります。これはいつも言いますように、戦後日本がたどった経路、そして最近では、ASEAN諸国が軽やかに通過しつつある道であります。

 けれども民主主義というのは、終わりのないマラソンであります。しかも最初の5キロくらいがとりわけ難所だと、相場は決まっております。

 このとき若い民主主義は、大量の成長ホルモンを出します。それが、社会を落ち着かせる制度作りの方へ向けば結構。しかし若い内は、破壊衝動がまさったりいたします。

 他人(ひと)さまのことを言っているのでは、ありません。1年前、アジア外交のスピーチで申しましたように、日本も戦前戦後、世の中の振り子が大揺れする時期を何度か経て、やっと今日の落ち着きを得ております。

 以下は、そういう国、日本の外務大臣が、公約として申し上げることです。

 我が日本は今後、北東アジアから、中央アジア・コーカサス、トルコ、それから中・東欧にバルト諸国までぐるっと延びる「自由と繁栄の弧」において、まさしく終わりのないマラソンを走り始めた民主主義各国の、伴走ランナーを務めてまいります。

 この広大な、帯状に弧を描くエリアで、自由と民主主義、市場経済と法の支配、そして人権を尊重する国々が、岩礁が島になり、やがて山脈をなすように、ひとつまたひとつ、伸びていくことでありましょう。

 その歩みを助け、世界秩序が穏やかな、平和なものになるのを目指すわけであります。

 我が日本は、世界システムの安定に死活的な利害を託す、大国の一員であります。自らの生存と安定、それに繁栄という、国益の三大目的を追求しようといたしますと、日本くらい大きな国になりますと、世界のどこで何が起きようが無縁ではいられません。

 でありますからこそ、米国はいうまでもなく、豪州、インド、それにEUあるいはNATO諸国という、思いと利益を共有する友邦諸国とますます堅固に結ばれつつ、「自由と繁栄の弧」の形成・拡大に努めてまいらねばならぬと、固く信じるわけであります。

 一言補足でありますが、日本とインドの関係は、例えば日中関係に比べまして、かなり見劣りいたします。人の往来は、日中間が年間417万人なのに対し、日印間は15万人。中国からは日本に8万人以上の留学生が来ておりますが、インドからはわずか400人とちょっとであります。飛行機の直行便も日中間には週に676便飛んでおりますが、日印間はたったの11便という状態ですから、今後数年で、劇的な改善を図って参らねばならぬと考えております。

●ボディランゲージに言葉と名前を

 「自由と繁栄の弧」をつくるのは分かったが、じゃあ何をするんだ、と、お尋ねでありましょう。

 実はまったく実績もなしに、大見得を切っているのでは、ありません。

 10年前、1996年のリヨン・サミットで、我が国の発表した事業がひとつありました。「民主的発展のためのパートナーシップ」、頭文字をとって「PDD」と、当時の外務省は命名したようでありますが、若い民主主義国に対し、ガバナンスの仕組み作りに手を貸そうとするものです。

 この一環では、民主化・市場経済化に向け産みの苦しみを経験しておりましたカンボジアやラオス、ベトナムのCLV諸国、それからモンゴルやウズベキスタンといった国々に対し、法制度、司法制度づくりといった国造りの基礎作業を、集中して支援した実績があります。しかもそれは、PDDのほんの一端に過ぎません。ご存じないとすれば、いかに私ども、宣伝ベタかということであります。

 宣伝ベタついでにもうひとつ。冷戦が終わるや否や、我が国は東欧諸国支援に大々的な手を打っていたことをご紹介いたします。

 1989年の夏は、まだベルリンの壁が落ちておりません。しかし、予兆は日増しに強まっておりました。その段階で、日本政府はアルシュのサミットを機に、ポーランドとハンガリーに対し大規模金融支援策の用意あり、と打ち出しております。

 翌年1月、壁がまさに落ちたばかりのベルリンへ行った当時の海部俊樹総理は、ポーランド、ハンガリーへ、総額19億5000万ドル、日本円では2800億円以上に上る巨額の支援策を発表し、公約を具体化させております。

 ボスニア・ヘルツェゴビナでも、1995年に紛争が終るや否や、日本は5億ドル出しております。二国間では米国に次ぎ2番目の額でしたので、「なんで日本がそこまで」とかえって不思議がられたそうでありますが、今となっては「一番実のある支援をしてくれたのは、結局日本だった」と言われているようであります。

 これが実質上、「価値の外交」でなかったとしたらなんだったのか。私ども、「自由と繁栄の弧」をこしらえようと、「ボディランゲージ」では、既に言っていたのではないでしょうか。

 アジアでも、日本のボディランゲージは、実は雄弁だったのではありませんか。

 1997年から1998年にかけ、韓国とASEANの主だった国が、軒並み通貨危機に襲われました。あのとき我が国は、デフレ不況のどん底。しかし、1998年10月には総額300億ドル、4兆円以上の資金支援を打ち出しました。韓国には約84億ドル、インドネシアに30億ドル…。あれからかれこれ10年経って、韓国にしろASEANにしろ、「自由と繁栄の弧」の、チャンピオンとなったわけであります。

 つまり私がきょう申し上げようとしている新機軸は、実を申しますと新機軸でもなんでもありません。16、17年前から日本外交が少しずつ、しかし地道に積み重ねてきた実績に、位置づけを与え、呼び名をつけようとしているに過ぎないわけであります。

 ですが、位置づけがないと、自分で自分が何をしているのか意味がわかりません。名前もない政策は、国内外の人々に、記憶すらしてもらえません。だからこそ、言葉が必要なのであります。そこを自覚して、明確な言語を与えようとした点に、あえて申しますなら本当の新機軸がございます。

●CDCやGUAMへ

 「日CLV首脳会議」とか、「日CLV外相会議」。「中央アジア+日本」対話や、チェコ、ハンガリー、ポーランド、それにスロバキアを加えた中欧4カ国がつくった俗に「V4(ドナウ川の地名ヴィシェグラードのV)」と称するグループとの対話…。

 これらは定例化するなり、既に定期化しているものは充実させるなりして、まずは関係相手国と頻繁に会合し、対話を重ねていかねばならぬと考えます。個別には、アフガニスタンと既にそのプロセスを始めております。

 その際賢いやり方というのは、日本を深く理解してくれている国々を足がかりにすることです。代表例として思い浮かびますのは、中近東や中央アジアについて知識の宝庫である国、トルコであり、ウクライナについて知ろうとする際、頼りになるポーランドです。

 ポーランドは私、外務大臣として行き損ねておりますが、小泉前総理が平成15(2003)年8月に行かれて驚かれたのは、例によってショパンのことだけではありません。

 「灰とダイヤモンド」などの作品で有名な映画監督・アンジェイ・ワイダさんなどは、京セラの稲盛和夫さんが差し上げた京都賞の賞金を元手に、古都・クラクフに「日本美術技術センター・マンガ館」を作っております。マンガと申しますのは「北斎漫画」のことでして、若きワイダ監督が見て心打たれたという、さる収集家の作品を収めた施設です。

 もっとも、現代日本の漫画人気も大したもので、私のコレクションには、ポーランドの外務大臣がくれた「犬夜叉」のポーランド語版が入っております。

 それからポーランドには「ポーランド・日本情報工科大学」といって、「日本」という名前がついた大学がありますが、この大学ではUNDP(国連開発計画)の協力を得まして、日本からの支援総額35万ドルをもとに、「対ウクライナ情報技術移転プロジェクト」という事業を実施しております。最新技術を使い、遠隔教育の仕組みを組み立てようとする試みです。

 つまり日本に対して理解が深く、地理的・文化的に見て、「自由と繁栄の弧」のうち伸び盛りの国々を上手に助けられる、という…。そういう立場にあるポーランドなどとの協力は、大いにやりがいが出てまいります。

 ポーランドやハンガリー、バルト三国など多くの旧社会主義国は、2004年5月にEU加盟を果たしました。援助される側からする側へ、急転回を果たしたわけであります。

 バルト海まで延びる「自由と繁栄の弧」を、虫食い状態にさせないためには、いわゆる「グアム(GUAM)」の国々……というのはグルジア、ウクライナ、アゼルバイジャン、モルドバを言うのでありますが、この辺一帯を安定させねばなりません。

 それをわきまえているのでありましょう、ウクライナとグルジア、リトアニアとルーマニアが組んで、1年前、「民主的選択共同体」、頭文字を取って「CDC」という名のグループができています。

 目的はずばり、バルト海から黒海、カスピ海周辺という、私どもが「自由と繁栄の弧」でイメージいたしております地域において、民主主義を根づかせようとすることです。

 我が国はCDCやグアムの国々と、なるべく多くの接触を図ってまいりたいものであります。繰り返しますなら、その際はパートナーになり得る国との協力を大いに追求すべきであろうと考えます。

 ちなみに、ただいま日本の外交力強化をうたい、在外公館の数や外交官の人数など大幅な増加を目指しておりますが、今議論しておりますGUAM(グアム)などの地域に、我が国は満足な外交機能を置いておりません。早く充実させたいものと思わざるを得ません。

●なぜ外交にビジョンが必要か

 そろそろ締め括らせていただきます。

 「東は東、西は西」、だと。イギリスの詩人、キプリングの詩をもじりまして、東西はなかなか出会わないんだと言われることがございます。

 が、私は去る5月、ベルギー・ブリュッセルのNATO本部へまいりまして、実を申しますとかなり踏み込んだ内容のスピーチをしてまいりました。

 我が国自衛隊とNATOとに、世界の紛争予防、平和構築といった分野で、これからきっと協力の余地が拡大するだろう、と。それを見越して、今から付き合いを親密にしておきましょうという提案を、させていただいております。

 東は西へ、西は東へ、それぞれ翼を伸ばし、インド洋やらアフガニスタンやらで、日本とNATOが隣り合って働き、汗をかく姿がもはや珍しくなくなりました。

 本日は価値を重視する日本の外交が、ユーラシア大陸の外縁に沿って「自由と繁栄の弧」を築いていこうとするその意欲を、申し上げました。

 自由と民主主義、人権と法の支配の尊重を大切にする思いにかけて、人後に落ちぬわれわれであります。その日本が、21世紀の前半を捧げるにふさわしい課題に、思いを共にする国々と一緒に取り組めることを、私は喜びたいと存じます。米国はもとより、豪州、おそらくますますもってインド、そしてEUや、NATOの加盟各国等であります。

 いかがでしょう、麻生太郎がまた大風呂敷を、と思われたとしたら、2つ申し上げて締め括りとさせていただきます。皆さん、大風呂敷とおっしゃいますが、ビジョンとはたいがいいつも、大風呂敷であります。そして日本外交には、ビジョンが必要であります。

 なぜとなれば、これが第二の点ですが、日本外交のビジョンは、われわれ日本の善男善女にとってのビジョンであります。日本人ひとりひとり、誇りと尊厳をかけるに足るビジョンであるのであります。

 外交とは、国民に、地に足が着き、身の丈に合った、穏やかな自尊心を植えつける仕事でもあります。外務大臣として、日本人を元気にし、自信をもたせる外交を心がけ、そのための言葉を幾万言なりとも語ってまいりたい。そう申し上げて、おしまいにさせていただきます。

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