■■ Japan On the Globe(311)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■
作成者: 京免 史朗さん
長文ですが頑張って読んで下さい!
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■■ Japan On the Globe(311)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■
国柄探訪: 聖徳太子の大戦略
聖徳太子が隋の皇帝にあてた手紙から、子供たちは何を
感じ取ったのか?
■■■■■ H15.09.21 ■■ 38,880 Copies ■■ 938,162 Views■
■1.読めないところはホニャラと読みましょう。■
日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙な
きや。
齋藤先生は授業の冒頭でいきなり黒板にこう書いて言った。
「さあ、読んで下さい。読めないところはホニャラと読みまし
ょう。」 小学校6年生の子供たちを先生は列ごとに指名して、
順番に読ませていく。
ひのでるショのテンシ、ショを、ニチボツするショのテ
ンシにいたす。ホニャラなきや。
わけのわからなさに笑いが起こる。初夏の風が通う教室は和
やかな気分につつまれた。「学校で学びたい歴史」[1]で紹介
されている齋藤武夫先生の授業風景である。
「たいへんよく読めました。ほとんど正解と言っていいでしょ
う。それではふつうの読み方を教えましょう。」と言って先生
は、こう読み上げた。
ひいづるところのテンシ、ショを、ひぼっするところのテ
ンシにいたす、つつがなきや。
先生について、子供たちに後を続かせる。その後、子供たち
だけで声をそろえて二度ほど読ませる。皆で一斉に読むので
「斉読」と呼んでいる。
■2.誰が誰に出した手紙でしょう?■
これは、歴史上たいへん有名な手紙の書き出しです。あ
る意味で日本の歴史の中で最も重要な手紙だと言えるかも
知れません。誰が誰に出した手紙でしょう?
先生の問いかけに、一人の生徒が答えた。「聖徳太子からツ
ツガナキヤさんに出した。」
すばらしい。聖徳太子は半分正解です。ですが、ツツガ
ナキヤは人の名前ではありません。この手紙は、当時の女
性天皇だった推古天皇の摂政、今で言えば総理大臣だった
聖徳太子が書いて、推古天皇の名で、どこかの国のトップ
に出したものです。国書と言って、国から国へ出した手紙
です。どこの国に出したのでしょう。
「中国だと思います」とすかさず、別の生徒が答える。
大正解。この国書は推古天皇から中国の皇帝にあてた手
紙です。出されたのは西暦607年、この国書を出すまで
の100年ほどの間、日本は中国との直接のつきあいはあ
りませんでした。中国はいくつかの国に分裂して争ってい
たからです。
ところが、ちょうど聖徳太子の頃、隋という大帝国が中
国を統一します。聖徳太子は中国から進んだ文化を学ぼう
として、遣隋使という使いを中国に送りました。その代表
が小野妹子です。「妹子」ですが、この人は男性ですよ。
この国書は、小野妹子が隋の皇帝に渡したものです。
ここで齋藤先生は、もう一度、手紙の文章を皆で斉読させた。
漢文の歯切れの良いリズムが子供たちの体に心地よく響いてく
る。それは聖徳太子の強い意志を伝えるかのようだ。
■3.皇帝はなぜ怒ったのか?■
さて、隋の宮殿に着いた小野妹子は、皇帝の煬帝(よう
だい)に天皇からの国書を渡しました。皇帝は手紙を読み
始めたとたん「このような野蛮国の無礼な手紙が来ても、
これからは私に見せるな」と臣下に言いつけたそうです。
この手紙のどこかに皇帝を怒らせる言葉があったのですね。
それはどの言葉でしょう。
「なんとなくだけど、<つつがなきや>」と自信なさそうな答。
「つつがなきや」は意味が分からないからね。怪しいと思
ったでしょう。でも残念でした。これは「お元気ですか
?」という意味です。
別の生徒が答えた。「<日出づる処の天子>と<日没する処の
天子>です。<日出づる>日本はこれから発展していく感じです
が、中国は<日没する>でこれから夜になるみたいです。」
本当にそうですね。先生も子供の頃はそう教わりました。
だから正解とします。でも、これについては単に東と西と
いう意味で、皇帝もそんなに気にしなかったのではないか、
というのが、最近の研究のようです。実は皇帝がいちばん
許せなかったのは「天子」という言葉なのです。なぜでし
ょう?
日本の天皇と中国の皇帝が同じえらさになってしまう。
だから、そんなことぜったいに許せんって中国は怒ったん
だと思いました。
「よく考えましたね」と齋藤先生は当時の「冊封(さくほう
)」体制について説明を始める。中国の皇帝が一番偉くて、周
りの国は皇帝の家来であり、中国に貢ぎ物をして、そのお返し
に自分の国の「王」だと認めて貰う仕組みである。
■4.どうして隋の皇帝を怒らせるようなことを書いたのか?■
いよいよ授業は、核心の問いに到達した。齋藤先生は言った。
聖徳太子は、どうして隋の皇帝を怒らせるようなことを
書いたのでしょうか? 自分の考えをノートに書きなさい。
その授業でいちばんノーミソを使ってほしいところでは書か
せるのがよい、というのが齋藤先生の流儀だ。生徒たちは一生
懸命ノートに向かう。静かな教室に鉛筆の走る音だけが聞こえ
る。しばらくしてから挙手している生徒を指名して答えさせる。
これからは、中国と日本の関係を親分子分じゃなくて、
日本は独立して中国と同じになる。
前は日本は中国に従っていたから、「邪馬台国」の邪と
か、「卑弥呼」の卑しいとか、悪い字を使われていたじゃ
ないですか。そういう関係はイヤだと思った。
言っている内容は似ているが、言い方にそれぞれの子供の個
性が出る。
■5.そんなにうまくいくのか?■
「ちょっとみんなに言いたいんですけど」と一人の生徒が反論
する。
国と国とが平等になって独立するのはいいんですけど、
日本はこれから中国から文化とかを学んで発展したいんじ
ゃないですか。それなのに、いま親分子分の関係をやめて
中国から離れてしまったら、文化や技術をまなべなくなっ
ちゃうんじゃないですか?
この反論から、生徒間の議論が始まった。
中国の下にいたら、何でも自由にはできない。それだっ
たら、中国から学べないとしても、独立してやっていく方
がいい。
中国から学んでも、国としては平等になろうということ
だから、中国にそれを認めてもらえれば、それはできると
思います。
でも、実際には皇帝は怒っているんですよね。うまくい
かないと思うんですけど。
一人の子供の反論から始まった議論で、子供たちは分かって
いたつもりの風景を、反対側からも見るようになった。反論が
出せる教室は素晴らしい、というのが齋藤先生の思いである。
■6.聖徳太子の読み■
みんなよく考えました。冊封体制から離れて、国として
中国と対等の関係になるというのが、まさしく聖徳太子の
考えです。
とくに最後の話し合いはたいへん重要です。たしかに、
もしこの政策によって中国からまったく学べないことにな
ったら、留学生を送れなくなって、聖徳太子の考えた日本
の発展はなくなるかもしれません。学べなくとも中国の子
分でいるよりは独立を選ぶという意見がありましたが、実
は聖徳太子にはある読みがあったらしいのです。ある理由
があって、日本を独立させるにはこの計画はかならず成功
するという確信がもてた。だから聖徳太子は決断したので
す。その理由を説明しましょう。
隋は、朝鮮北部を領土とする高句麗との戦争にてこずってい
た。その戦争を有利に運ぶために、隋は日本を味方にしておき
たいはずだ、そういう聖徳太子の国際情勢の判断を、齋藤先生
は地図を使って説明していく。遠くの国を味方にして、近くの
国を攻める「遠交近攻策」という中国伝統の戦略についても説
明する。子供たちから「すごいなあ」という嘆声がもれてきた。
最後に齋藤先生はこうまとめた。
中国(隋)を先生として尊敬しこれからも学んでいくが、
国と国との関係は対等になりたい。中国との親分・子分関
係をやめて、国としては中国と対等の関係にしたい。ズバ
リ言えば自立した国、独立した国になりたいと聖徳太子は
考え、この国書でその考えを実行したのです。
■7.<皇帝>と<天皇>■
これに続けて、齋藤先生は次のように黒板に書いた。
東の天皇、敬しみて、西の皇帝に白す。
今度はすぐに読み方を教え、全員で斉読する。「ヒムガシの
テンノウ、つつしみて、ニシのコウテイにもうす。」
これは、その翌年に、再び隋の皇帝に送った国書の書き
出しです。東の国日本の天皇が、西の国隋の皇帝に心をこ
めて申し上げる、という意味です。
聖徳太子は、このときも中国の冊封体制からはずれて独
立する、中国と日本を対等な関係にするという大方針を変
えませんでした。それがわかる言葉はどれでしょう。
「<皇帝>と<天皇>だと思います」とすぐに一人の生徒が答えた。
その通りです。<皇>という字は中国の<皇帝>だけが使え
る特別な文字でした。だから、子分の国の王様には<王>と
いう字を使わせていたのです。ところが、この手紙で日本
の王は<天皇>ですよと言ったわけです。「これからは日本
も<皇>の字を使います」という事です。
天皇には北極星という意味があるそうです。天の星はす
べて北極星の周りを回りますね。国のまとまりの中心とい
う感じがよく表れている言葉です。
中国の皇帝はまた怒ったでしょうが、実際はどうだった
か、記録はありません。しかし、この後も遣隋使は続けら
れたので、隋は<天皇>という言葉を受け入れたことがわか
ります。この国書によって、日本の自立は完成したと見て
よいでしょう。
聖徳太子は、見事に「中国から進んだ文化を学ぶ」「国
としては自立し、中国と対等につきあう」という二つのね
らいを実現したのです。
■8.子供たちの感想■
この授業のあとで、子供たちは次のような感想文を書いた。
聖徳太子がいなかったら、もしかしたら今でも日本は中
国の家来になってしまっていたのかなと思った。国の大き
さや力はちがっても、同じ国々なのだから、対等につきあ
うのがよいと思った。
聖徳太子の方針はすごくいいと思った。「自分の国は自
分の足で立つ!」「今までのような日本ではだめだ」。そ
う気づいたのだと思う。・・・今こうして「日本」という
国が独立してやっていけるのも聖徳太子のおかげだと思っ
た。
聖徳太子の隋と大和(日本)が平等につきあえる国にす
るという考えは、ふつうの人は思いつかない。私なら、自
立したらもうつきあいはないと思ってしまう。独立はつき
あいがなくなるわけではない。現在の日本と中国も昔を見
習ってほしいと思った。
隋に、日本も隋も平等だという手紙を出した聖徳太子の
勇気に感動しました。隋の皇帝に怒られたりどなられたり
したのを耐えた小野妹子も、すごい根性だなと感心しまし
た。
ぼくはみんなと少しちがって、わざと隋の皇帝を怒らす
なんて「何やってるんだよ」と思っていた。自分が聖徳太
子だったとしても、こんな危険な賭けはやらなかったと思
った。ぼくも日本を独立させたいと思うのはいっしょだけ
ど、もっとちがうやり方を考えたと思う。ただ、聖徳太子
が国づくりの天才だということはまちがいない。日本の国
に誇りを持っているのだと思う。
■9.今の日本に欠けているものを教える歴史授業■
生徒たちは、この授業から実に多くの事を受け止めている。
国家の独立と対等な外交を求める気概、時には相手を怒らして
も主張を貫徹する交渉力、そしてその根底にある自国への誇り。
今の日本に欠けているものばかりである。
こうしたことが抽象論でなく、具体的な事件を通して学べる
点が、わが国の歴史の豊かさなのである。その豊かな地下水脈
から先祖の思いや考えを疋田して、子供たちの素直な感性に注
ぎ込み、そこから瑞々しい感動を呼び起こす齋藤先生の授業方
法には感嘆の念を禁じ得ない。
齋藤先生の「学校で学びたい歴史」には、さらにキリシタン
問題、廃藩置県、東京裁判などを通じて、我らの父祖がどのよ
うな思いと考えで、それぞれの困難な時代を生き抜いてきたの
か、を生徒に考えさせる授業が紹介されている。こういう授業
で育った子供たちが大人になっら、まさに「国際派日本人」と
してわが国の未来を開き、国際社会で立派に活躍してくれるだ
ろう。
(文責:伊勢雅臣)