縄文人の反乱 日本を大事に

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【ロッキーは俺のヒーロー】

2013年07月19日 16時58分21秒 | 色んな情報
【ロッキーは俺のヒーロー】



動物は時に信じられない力を発揮してくれるときがあります。
悲しいときは励ましてくれたり、寂しいときは側にいてくれたり。
大切にしていきたいですね。


普段俺のことをバカにしまくってる
ドーベルマンのロッキー
しかし小学生のとき、
ロッキーは俺を助けてくれた


当時お袋の実家に帰省していたとき、
近所のデカい川にロッキーと一緒に
遊びにいったんだが、

川の石を渡って真ん中までたどり
着いたとき、
足元のコケに滑らせて転落してしまった


落ちた場所はギリギリ足が着く深さ
だったんだが、

流されるうちに深い場所にいってしまい、
パニくった俺は泳ぐことも忘れ
溺れていった


釣り人は
もっと上流の方に行かないといないし、

道路からも遠いので

溺れながらも必死で叫んでも、誰も来ない状況


しかも川の水は冷たく、段々力が抜けていって、
死を覚悟し始めた頃、

目の前にロッキーがいて、
俺のシャツを噛んで川の岸に運んでくれた


正直ロッキーが来るのはありえないと思ってた


だって俺はロッキーが逃げないように
リードを階段の手すりに結んでいたから


どうやってロッキーは来れたんだろうって思って
水を吐いて落ち着いてからロッキーを見ると、

リードが噛み千切られていた


首からも余程暴れたのか血が出ていて、
こんなに必死になって俺のことを
助けてくれたのかと思うと、

小学生ながらも感動して、号泣した



それ以来ロッキーは俺のヒーロー

もしロッキーに何かがあったら
次は俺が助けてやりたいと思う


感動まとめサイト-「心堂」より
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ときに動物は、
まるで人じゃないかと思うような行動を
することがあります。

危険を予知する能力が高いのでしょうか。

もうダメだ、と思った瞬間に・・・

間に合ってよかったです。

彼が今、生きていることに、
そして、ロッキーにも
感謝です。

【朝鮮文化】彼らの感覚では、名目がどうであれ金を受け取った側が偉い。例えそれが借金であっても!w

2013年07月19日 16時18分19秒 | 色んな情報
【朝鮮文化】彼らの感覚では、名目がどうであれ金を受け取った側が偉い。例えそれが借金であっても!w

作成者: 京免 史朗さん

「えらそうな乞食」のメンタリティってこういうことなのか、
と興味深い内容だったのでコピペ。

816 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/07/17(水)
金が欲しいのは当然だが、朝鮮文化を理解したいなら
その解釈で終わってしまっては彼らの行動を見失うと思われる。
単純に「金が欲しいだけ」とは少し違う。

彼らの感覚では、名目がどうであれ金を受け取った側が偉い。
例えそれが借金であっても!w

なぜなら金(や物)を手にできるのは当人にその価値があるからで、
金を渡す側はその価値を認めた事になるから。
だから金を貸す側より借りる側が偉い。
(朝鮮文化視点)
当然、感謝などしないし借金の催促などもってのほかであるw

また、主張の一部でも受け入れるなら、それは、全てを無条件で受け入れると言うこと。
すなわち、彼らが劣等感を感じたり不快に感じる全ての事象に関して、
日本が詫び、「誠意」を持って彼らが何不自由なく優位に立てるよう
計らうと約束したも同然と彼らは受け取る。
そうでなければ100%敵で悪!
それがウリナム論的感覚。

これが理解できないで矮小化したり悪意と捉えたりすると
彼らの行動を読み違える。
彼らはセコい幼稚なキ●ガイに見えるが、彼らの文化的には筋が通っており、
彼らにとってはむしろ良識や常識、善意を持って行動してるから
ああなってるのだ。

万年属国ゆえの歪んだ価値観なんだろうが。

169: 本当にあった怖い名無し 2013/07/18(木)
うむ。だったら本当の奴ら自身の価値を教えてやるのが、親切という物だろう。
すなわちビタ一文払わず、奴らへの便宜など微塵も払わない。
それが朝鮮人的視点から、日本人が奴らに認めている価値の程度だ。
奴らか死のうが生きようが、困窮の内に苦しもうが知ったことか。

「江戸しぐさ」 「束の間つきあい」

2013年07月19日 09時21分59秒 | 色んな情報
「江戸しぐさ」 「束の間つきあい」
          宮本 喜恵子
江戸時代、人口密度が高い、路地などの狭い道が多かった都市江戸で、お互いが気持ちよく暮らすための工夫がなされていました。それが現代のマナーとしても見直されているのですね。

今日のコラムは「束の間つきあい」です。

江戸の人たちは、たまたま渡し船に乗り合わせたり、店先で顔を合わせると、和やかに軽く挨拶を交わしたということです。

そこには、「袖振り合うも多生の縁」という考え方があって、
せっかく居合わせたのだから、お互いに一時を大事にしようと、
束の間付き合いも大切にしたのですね。
これは人間関係を円滑にする方法でもあります。

「多生の縁」とは、何度も生まれ変わるという輪廻転生(りんねてんしょう)の中での縁という意味です。

知らない人とたまたま道で袖が触れ合うようなちょっとしたことも、前世からの深い因縁があっての出会い。
人との縁はすべて単なる偶然ではなく、深い因縁によって起こるものだから、どんな出会いも大切にしなければならない。
そういう仏教の教えに基づいているのです。

それは「一期一会」の考え方でもありますね。

現代は、電車に乗ればみんなスマホを見ていて、言葉を交わすこともほとんどない時代。
ラッシュ時に、肩がぶつかろうが、足を踏もうが、「すみません」の言葉も返ってこない時代。
悲しい事件も起こる時代・・・。

いつでもどこでも「一期一会」と思ったら、江戸の人々が、見知らぬ人と束の間でもお互いに気持ちよく付き合おうと思っていた思いが分かるような気がします。