「さかはし」さん集まれ~*苗字は歴史の小宇宙

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荒木という場所と「荒木初穂」という人物の言い伝え

2018-10-08 21:46:08 | 坂橋氏

今回は天州寺を創建した「荒木氏」という氏に関して書いていこうと思います。

天洲寺は、荒木長善の子八左衛門が開基・慶長12年(1607)に創建

新編武蔵風土記稿による天洲寺の縁起

天洲寺
禅宗曹洞派、佐間村清善寺の末、聖徳山と号す。当寺は荒木長善が子、八左衛門が起立する所なり。開山天洲全堯元和2年2月5日寂す。本尊釈迦を安ず。
太子堂。聖徳太子16歳鏡の御影にして、長善沼出現の尊像なりと云。(新編武蔵風土記稿より)

天洲寺は、曹洞宗の寺で聖徳山天洲寺と称し、開基は慶長12年(1607)荒木長善の遺子八左衛門で、開山は清善寺五世天洲全堯和尚と伝えられている。
荒木長善の先祖は、北条氏の先祖伊勢新九郎長氏と共に関東に下った七人の中の一人といわれ、子孫代々荒木に居住して、荒木越前と称し、忍城主成田氏に属した

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荒木長善、荒木越前、伊勢新九郎長氏、関東に下った七人の一人であることが、重要と思われます。

また、他にも縁起があるようです。

それでは、まず伊勢新九郎長氏=北条早雲について、wikipediaを参考にして関係のありそうな箇所をPick-upしていこうと思います。

室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とする考えが主流である。備中荏原荘(現井原市)で生まれたという説が有力である。
近年の研究で早雲の父・伊勢盛定が幕府政所執事伊勢貞親と共に8代将軍足利義政の申次衆として重要な位置にいた事も明らかになってきている。
早雲は伊勢盛定と京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘との間に生まれた。

姉(または妹)に「北川殿」がいて、息は今川氏親である。
その妻には寿桂尼がいる。(氏親の孫が氏真で、妻が北条氏康娘=しかも氏親の孫)

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次に、盛時の父親である「伊勢盛定」とはいかなる人物であったのかを同じくwikipediaより記しておきます。

伊勢 盛定(いせ もりさだ、生没年不詳)は、室町時代の武将。伊勢氏の一族の備中伊勢氏出身。伊勢盛綱の子。妻は政所執事伊勢貞国の娘。子に北川殿(今川義忠室)、盛時(北条早雲)など。通称は新左衛門尉、別名は盛次、官位は備中守・備前守と伝わる。
伊勢氏は足利氏の根本被官の一族であり、足利尊氏に仕えた伊勢貞継の系統が室町幕府政所執事を出す京都伊勢氏となり、その弟の盛経の系統の備中伊勢氏は将軍の近習や申次衆を出していた。尊卑分脈の伊勢氏系図によると盛定は備中伊勢氏惣領伊勢盛綱の四男であり、長男の盛富が惣領と推定され、盛富は父と同じ肥前守となり、備中守となった盛定は兄と所領を分かち備中荏原郷(岡山県井原市)を領し高越山城主になった。

では、この高越山城は?と調べてみますと、弘安4年(1281年)宇都宮貞綱によって築城されたといわれるが定かではなく、 蒙古襲来に備え執権北条氏から山陽道警護のため、下野の宇都宮氏が築城して籠ったといわれるお城だそうです。

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話は戻り、上記の「七人」とは北条盛時自身も含まれているようで、『北条記』『名将言行録』に見える早雲駿河下向時の一節には、大道寺太郎(重時)、荒木兵庫、多目権兵衛・山中才四郎・荒川又次郎・在竹兵衛らの仲間6人(御由緒六家)と、伊勢で神水を酌み交わして、一人が大名になったら他の者は家臣になろうと誓い合ったという話が残っているそうです。

正確には荒木兵庫頭となるようですが、この名前を調べると「近江国」とつながってきます。(これは単なる物語なのか?真実がベースなのか?)
無料で読めます。(折口信夫全集より 青空文庫)
https://books.google.co.jp/books?id=REA7oeItVgwC&pg=PP10&dq=%E8%8D%92%E6%9C%A8%E5%85%B5%E5%BA%AB%E9%A0%AD&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwisr4KGrfbdAhWGE4gKHQKaCe4Q6AEILTAB#v=onepage&q=%E8%8D%92%E6%9C%A8%E5%85%B5%E5%BA%AB%E9%A0%AD&f=false

ともかく、北条早雲となった人の仲間であったようです。

埼玉県の歴史を調べてみますと荒木村に関しては以下のHPに詳しいです。
これを読むに、やはりこの荒木村の荒木氏は北条早雲と共にやって来た人であったことが判ります。(伝承ですが‥)

http://osimeisyo.blogspot.com/2012/02/21719_7903.html

「旧家者益次郎
 伝えによると、先祖荒木兵庫頭は伊勢新九郎長氏と共に関東へ下った七人のうちの一人で、子孫荒木越前のとき、荒木村に住んで忍城主成田下総守に属し、80貫文で処遇されていたことは成田分限帳にも載っている。」とあること、また私が読んでいるブログの【赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!】さんにも記事が出ています。



そして、今回の探索中に出てきたコレ! 藤原秀郷十代波多野三郎義通の孫刑部丞義定の後胤とあります。
その続きに荒木村重がいるのです。ただし、諸説あるようで、義職からの系に属しているというものもあります。この辺りは調べていてもいろいろとあって、私には判断が付きませんが興味深い箇所です。



この荒木氏と坂橋氏とは関係がないのでしょうか?
この部分、九里氏とも重なり合いますし、大江氏自体がもうばっちり重なると思うのです。

何か出てこないかなぁ~~*


荒木という土地にある聖徳太子像は、なぜそこにあるのか?(2)

2018-10-08 16:23:05 | 坂橋氏

この荒木という場所にある聖徳太子の胎内「墨書名」に大江(毛利)季光の法名が書かれていたことに、こだわって書いています。なぜ、この像が荒木という場所に来たのかを復習しつつ進めます。

この聖徳太子像は親鸞が持っていて、その弟子であった「源海」にわたり、源海の生まれ故郷であった武蔵国豊島郡荒木村(現・埼玉県行田市)に持ってきたわけですが、源海という人物は、藤原日野氏であり、親鸞もやはり藤原日野氏の出身でしたので、縁戚関係であったのかもしれません。
源海は安藤駿河守隆光というのが本名です。親鸞の弟子になったのは、二人の子供を同時に亡くしてしまったことによります。「1253(建長 5)年10月22日に源海上人は故郷武蔵国荒木で入寂した。享年89」 とありますが、諸説あるようです。
故郷に帰ってから後に、「荒木門徒」という一団ができ『親鸞聖人御因縁秘伝鈔』という文書が残されています。

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さて、では親鸞がなぜこの季光の「墨書銘」のある像を持つに至ったのかを考察してみようと思います。
その間には「隆寛」(りゅうかん)という僧がいるのではないかと思います。以下のアドレスの「神奈川と親鸞」を参考とさせていただいてます。
http://shinrankyun.com/?news=%e7%a5%9e%e5%a5%88%e5%b7%9d%e3%81%a8%e8%a6%aa%e9%b8%9e%e3%80%80%e5%89%8d%e7%b7%a818%e5%9b%9e 

親鸞が敬意を表していた兄弟子に「隆寛」がおり、親鸞より25歳の年上であったそうです。
親鸞と同じく法然の教えも受けていて、元久元年には『選択本願念仏集』の書写を許されているという僧でした。  

その隆寛と毛利季光が出会ったのです。
大江(毛利)季光(1202-1247年)は、大江広元が文官であったこととは違い、武士でした。

毛利季光と「隆寛」(りゅうかん)との出会いの場面が以下の「神奈川と親鸞」の記事にありました。

http://shinrankyun.com/?news=%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E3%81%A8%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E3%80%80%E5%89%8D%E7%B7%A819%E5%9B%9E

【季光はその四男で建仁2年(1202)の生まれ、源実朝に仕えていたが、その暗殺後出家して西阿と名のっていた。彼は毛利荘(厚木市付近)を領地としていて、後に評定衆の一員となり、またその娘は執権北条時頼の正室となるなど幕府内の有力者であった。  季光は護送中にすっかり隆寛に帰依するに至った。そして自分の屋敷が毛利荘の飯山にあったので、高齢の隆寛を自宅に留まらせ、代わりに隆寛の門弟実成が奥州に向かった。  しかし、老齢のためか流罪の旅の疲れからか、引き込んだ風邪がもとで年末に亡くなった。この間、親鸞が隆寛を訪ねた可能性があろうと私は考えている。終焉の地は厚木市飯山の光福寺であったとされ、同寺境内に隆寛の墓所がある。また光福寺の伝えでは、隆寛の代わりに奥州へ向かった実成は隆寛の実子であったという。】

この護送のために共に歩いている間に共感するところあって、帰依するに至った…部分が、コトバンクにもありました。
「護送吏の森入道西阿の帰依を受け,ひそかにその領地にとどまり・・・」とあり、この隆寛は安貞1年(1227年)には亡くなっておりますので、季光が25歳の時となります。

源実朝が鶴岡八幡宮で公暁に襲われ落命(享年28/満26歳没)したのが1219年で、wikipediaによりますと「(季光は、)源実朝に仕え、鶴岡八幡社参行列では前駆に加わった。実朝の死後出家し、入道西阿と称した。」とあります。17歳のころです。

さらに
「承久3年(1221年)に承久の乱が起こると、北条泰時に従って後鳥羽上皇と呼応する勢力と戦い、美濃国の木曽川の突破戦や、山城国の宇治川・淀川の突破戦で武名をあげた。この功によって安芸国吉田荘の地頭職を与えられた。」とあります。
この順調なように見える功があっても、心の中に闇や、空虚さがあったのかもしれません。

帰依にいたり、自分の屋敷にとどまらせた季光。そこに親鸞も見舞いにやって来ていた・・・ということがあったり、季光と親鸞とが知り合い、隆寛の没した後にもつながりを持っていたかもしれないとなると、この聖徳太子像は季光が創らせ、親鸞に贈っていたとも考えられるのです。

この像に銘を書いた年月日が残っていて「寛元五年正月十三日」となっています。
新しい年を祈念し、創り、奉じたことだろうと思います。

しかし残念なことに、この年は季光にとって最後の年となってしまうのです。

2月28日に改元となって宝治となります。

宝治合戦・北条時頼 三浦泰村等を討つ(吾妻鏡・百錬抄) 6月5日

「三浦駿河守が子に若狭守泰村と申は、時頼縁有けるに依て、驕を成す事無双なり。また秋田城介義景も去る子細有て権を取けり。二人中悪して煩多かりけり。義景種々の謀をして讒言を成ける程に、泰村誅せらる。舎弟能登守光村・式部丞景村、彼の一族縁有けるにや、毛利蔵人入道西阿以下、右幕下の法華堂に引籠て自害しけり。是も恣なる事共なり。その後義景法師子息泰盛権を取事並び無し。これを宝治合戦と申すなり。」

季光の妻は「三浦義村の娘」で、娘は「北條時頼」に嫁いでいます。
まさに板挟みとなるわけですが、その時の状況が詳しく書かれているページがありました。

http://www.kawara-ban.com/suemitsu.html

この毛利季光の四男だけが生き残り、越後国佐橋荘と後には安芸国吉田荘の地頭となって毛利氏が続いていくこととなります。

その毛利氏の裔に「坂氏」がいて、「坂橋氏」「坂元氏」と分かれ、この荒木という場所にも来ていたのでしょうか?

次回は荒木という場所に住んでいた「荒木氏」に言及してみたいと思います。

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親鸞の弟子が関東で活躍していく様子が、以下のアドレスに何ページかに渡ってあります。興味のある方は、クリックしてみてください。
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/0821105100/0821105100600030/ht200130

妻の恵信尼に関しては、「九里を探して三千里」の方に記事にしてあります。三善氏と関係があり、上越の出身です。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E6%81%B5%E4%BF%A1%E5%B0%BC