「さかはし」さん集まれ~*苗字は歴史の小宇宙

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広島県安芸高田  清神社(すが神社)

2018-10-11 14:26:23 | 坂橋氏

広島県安芸高田  清神社
http://akitakata-kankou.jp/wp-content/uploads/2013/05/%E6%B8%85%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88-.pdf

この毛利氏の氏神でもある「清神社」。なんと宮司様のお名前が「波多野」さま。

やはり、毛利氏と波多野氏は繋がっているのですね。

http://akitakata-kankou.jp/wp-content/uploads/2013/05/%E6%B8%85%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88-1.pdf



荒木氏と明智氏(2) 荒木善右衛門 

2018-10-11 11:06:50 | 荒木氏

荒木村重のwikipediaによると「荒木善兵衛も荒木村重の子であり、有岡城落城の際に幼い善兵衛を細川忠興が預かって家中で育てた。成長すると無役の御知行三百石を賜り、後に丹後大江山の細川家高守城代などを務めた。」


ここの一文で荒木善兵衛が荒木村重の息であったことが判りました。
そして次のようなものも出てきました。

「津々堂のたわごと日録」さんのブログよりです。
https://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/7c450601bdde30fdefc405d96763b279

「荒木善兵衛
荒木村重の子。天正7年に摂津有岡城(伊丹城)が没落した際に荒木村重はその子善兵衛を明智光秀の陣所に連れて行き、光秀は細川忠興に依頼して善兵衛を丹後加佐郡河守(現大江町)の城に入れてもらった。慶長5年の田辺籠城には大手を守り、細川氏の豊前移封に従って門司城付となり、そこで病死した(閥閲・年譜)。但し「寛政譜」等の諸書は村重の子に新五郎村次と弥四郎村基の両人を挙げるのみ。光秀の女婿だった新五郎が善兵衛と同人か。」

明智光秀と関係があったのです!
すごい展開です。

しかもこの丹波加佐郡河守(大江町)は九里の祖蓮忍入道が地頭であったか~と思われる場所です。別な蓮忍かもしれませんが。ピンポイントででてきましたね。細川家高守城も河守御荘の「こうもり」から来ているものと思われます。

なぜ明智光秀に・・・と考えるに、それは荒木氏が土岐氏とのつながりがあるからだと思うのです。
(荒木村重は池田氏の娘を娶っていることからも、またその出自からも土岐氏と関係がありそうなのです。)

明智光秀の娘が荒木村重に嫁ぎ、離縁し、従弟佐馬助光春に嫁いだようです。(明智光秀:徳永真一郎著)

総合してみますと、細川忠興の妻(後にカソリック教徒となり細川ガラシャとなる)も明智光秀の娘であり、荒木村重の妻も明智光秀の娘であり、と、姉妹であったことから明智光秀を通して細川氏の所に村重の息を預けたことが予測できます。

ちょうどガラシャとなる前の名前「明智玉(珠)」が娘を出産する年あたりが幼き荒木善右衛門を預かった年となりそうです。

この善右衛門がさらに以前記事にしていた「谷氏」とも繋がり、「佐々(前野)氏」とも繋がってきます。
やはり、九里と近い間柄の荒木氏です。

で、「坂橋」はどこにいるのでしょう。私にもまだわかりません。方向違いでないことを願うばかりです。



荒木氏と毛利氏 (1)

2018-10-11 11:01:18 | 荒木氏

時代は天正時代で織田信長と荒木村重の話です。 (武家家伝荒木氏より)

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/araki_k.html

荒木村重が、天正六年信長に反逆する。その背景には、畿内方面の複雑な軍事・政治情勢があった。村重は籠城十ケ月ののち有岡城を脱走、残された妻子や城兵の多数は信長に虐殺された。村重は毛利氏のもとに亡命、ついで出家し、晩年は堺に住んで茶の湯で名をなし、豊臣秀吉にもお伽衆として仕えた。その後、村重は機会を得て旗本となったが罪を得て、絶家となった。

何故、毛利氏に‥‥そこにヒントがありそうです!
荒木氏と毛利氏、どのようなつながりがあって頼って行ったのでしょう。

天州寺(行田市)に荒木氏がお寺を立てたのはその後の慶長12年1607年で、毛利氏との縁がそうさせたのではないかと…勝手に想像していますが、次回さらに詳しく調べたいと思います。

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さらに、江戸 天明時代 
前回の記事に登場しました「天明年間に牧野の十村役、荒木初穂といふ人の書上に…」の部分ですが、ぬぬぬさんのブログ、この牧野の十村の解釈が難しいのですが、もしかすると『長岡の牧野郷二十村』のことではないかと?? となると長岡です!!!

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せきどよしおの仏像探訪記に「天州寺」が詳しく書かれておりました!
https://www.butsuzoutanbou.org/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C/%E5%A4%A9%E6%B4%B2%E5%AF%BA/

この最後の方に書かれていた【有綱】という人も毛利氏と荒木氏をつなぐ人ではないかと思います。
大江広元の妻であり、季光の母親である「多田仁綱の娘」の多田氏と関係がありそうと…仁綱の出家後の名前は「正阿源宥」

多田源氏の源明国と源頼政の父親である仲政は兄弟です。
そしてさらにその前の代では国房がいて、光国―光信と土岐氏になっていきます。
どうもこの辺りが荒木氏と大江季光をつないでいるものと思われます。



仁綱が有綱とも名乗っていたなど、何か情報をお持ちの方、どうぞよろしくお願いいたします。

※もしかすると…
義澄の跡は長子の三浦義村(?-1239年)が継いだ。義村の弟である有綱・重澄は、それぞれ山口氏、大河戸氏を称した。義村は評定衆の宿老に就任。

この「有綱」ではないでしょうか。毛利季光の妻は「三浦義村」の娘であったはずですので、妻の叔父の事であったかもしれません。(追記)