「さかはし」さん集まれ~*苗字は歴史の小宇宙

公開グループfacebook≪「さかはし」さん集まれ~*苗字は歴史の小宇宙≫

三浦義村の娘が「土岐光定」の室!

2018-10-15 20:53:48 | 坂橋氏

三浦義村の娘が「土岐光定」の室。
…ということは、もしかすると季光の妻となった人の姉妹である、かもしれない。

光定は二人以上おり、どの光定かが、ここでもまた問題である。
光貞も、光定と書かれることあり。

そして、伊賀氏にも!
この伊賀氏というのは土岐氏でもあるのだと認識。↓の資料の光貞が荒木氏の先祖ならば、土岐氏と、明智氏と斎藤氏とつながり、ひいては熊本の細川氏とも繋がっていく。




信濃
【郡名】 伊那
【荘園名】 麻績御厨
【フリガナ】 オミ
【重複コード】 2402009
【参考市町村】 東筑摩郡麻績村
【市町村コード】 20446
【明治村字名】 古町・名子・新井・座光寺・山吹・駒場・上平・竜口・飯田町・上飯田・飯沼・南条・下黒田・上黒田・市田・市田原町・牛牧・出原・吉田・大島山
【史料村郷名】 矢倉(八ヵ条内)・大吉原・十日市場
【領家・本家】 平正弘領・後院領・伊勢神宮領・内宮領
【初見年和暦】 保元二年
【初見年西暦】 1157
【出典】 神宮雑書・神鳳鈔・東鑑・飯野八幡宮文書
【遺文番号】 カ60・カ614・カ8695・カ19701・カ32866
【記録類】 『兵範記』保元2,2,29・『東鑑』文治2,3,12(麻続御厨)
【関係文献】 有
【地名辞典】  平凡地名=延喜式「麻績駅」=麻績盆地の麻績、坂井両村=麻績神明社あり・「麻続」ともみえる
【備考】  建久3神領注文=麻績御厨=内宮禰宜元雅等口入・神鳳鈔=(内宮)麻績御厨=上分鮭150隻、同児1桶、搗栗1斗、干菜1斗、口入料6丈布60端、四丈布16段、鮭30隻、同児1桶・東鑑(北条本)など=「麻続御厨」・飯野八幡宮文書=「麻続御厨」「おみのみくりや」=「八ヶ条内矢倉村」・保元2兵範記=平正弘領→没官後院領・地頭伊賀頼泰光貞・福満寺日光月光菩薩像銘「元徳四、善光寺仏師妙海」

伊賀光貞は、荒木氏等とつながってくる人物なのかもしれない。今後注意。


長井時広と大江(毛利)季光

2018-10-15 15:27:59 | 荒木氏
きょうからこちらのブログも「である」調にします。

僧源海(安藤駿河守隆光)、長井時広の帰依を得て、米沢に真宗善勝寺を創建
すると云う。(善勝寺記録)

あの荒木村に聖徳太子像を持ち込んだ僧源海(安藤駿河守隆光)のことである。

この長井時広=大江広元息=季光の兄!である。

長井時広の法名は「斎阿」と言った。その時広が源海に帰依したということであろうと思う。





http://yamagata-np.jp/news/201712/17/kj_2017121700339.php

出羽長井氏

鎌倉幕府別当大江広元の次男時広を祖に持ち、所領である出羽国置賜郡北西の長井荘(山形県長井市)から、長井氏(永井氏)を称した。承久3年(1221年)の承久の乱の際に時広の兄の親広(のちの寒河江氏の祖)が後鳥羽上皇方に味方したため没落し、以後、大江氏の惣領となって繁栄した。後に執権北条氏が台頭してくると接近を図り、評定衆の一人となり、備後国守護にも任じられた。

長井泰秀の代の宝治元年(1247年)に宝治合戦が起き、泰秀は北条氏に味方し長井氏の地位を確立した。一方叔父・毛利季光は三浦氏に味方して敗れて、その一族はほぼ滅亡した。泰秀は親族の毛利氏の救済を願って、生き残った毛利経光に越後国佐橋荘と安芸国吉田荘の地頭職の安堵を図るべく奔走した結果、毛利氏は両荘の地頭職を安堵された。


今まで気にも留めていなかった「長井時広」の人物が浮かび上がってきそうな様々なカケラたち。

隆光は親鸞の弟子。
その親鸞と法然の許で兄弟弟子だった隆寛。
その隆寛とたまたまであった大江(毛利)季光。
そしてその季光のすぐ上の兄であった「長井時広」

身近な者が亡くなった時に、
その人に寄り添う、近づく、何かをしたくなるものなのかもしれません。