長くなりましたので数回に分けてUPします。
「その2」では第二楽章の終わりまで。相変わらず連想や背景への考察が多いです。
『無伴奏ソナタ』 総括 (その1)
http://blog.goo.ne.jp/sally_annex/e/eae1c5639f822638edb13d2d540e0a0e
『無伴奏ソナタ』 総括 (その2)
≪再教育センター≫
舞台『無伴奏ソナタ』で描かれるディストピア(dystopia)を最も象徴的、かつ鮮烈に表現しているのが「再教育センター」ではないだろうか、と思う。≪音合わせ≫での、生後半年+満2歳での能力適性検査を描く場面もさりながら、芝居としてあの異常さと残酷さを際立たせる「演出」は、私はこちらの方が素晴らしいと思った。
また、シリアスな物語ゆえに?この作品にはキャラメルボックス舞台でおなじみの「ダンスシーン」がない。冒頭のハンドベルがその代わりと言えなくもないが、あれが「静」の見せ場としたら「動」の見せ場のひとつは間違いなく、第一楽章の最後を締めくくるこの場面だろう。印象的な楽曲とともに、クリスチャンと黒衣の「ウォッチャー」たちが繰り広げる「無言にして雄弁な」パフォーマンスには、言葉を忘れて見入るしかなかった。(後に「ウォッチャーはこの世界に8人しかいない」と語られるが、このシーンでその「数」になるほど!と納得が行った。)
法を犯した者が入れられる「再教育センター」…原作には「小さく質素な建物――なぜならそれは滅多に使われることがなかったから」と書かれていたが、ここではシンプルに、最低限の小道具と動きだけでクリスチャンの「矯正」が生々しくも美しく表現されている。
椅子に座りうなだれるクリスチャン。何かに呼ばれたように、ふとその顔が上がり、無意識に指先は音楽を紡ぎだす…と、その腕を掴み厳しく戒める「ウォッチャー」たちが現れる。クリスチャンの見る夢の寓意だろうか、立ち上がりふらふらと歩み出す視線の先には、おぼろげな母の記憶、あるいはオリヴィアの面影。振り返れば消え、追いかければ消える。
かつて、幼い頃別れた両親に対してさほどの感慨を持っていない、と語ったクリスチャンの胸の奥に、「かぼちゃのスープ」以外にも母カレンの面影がちゃんと刻まれていたこと――この場面で初めてそれを悟り、私はガツンと打ちのめされ、無意識のうちに涙が溢れ出た。
舞台奥に立ち、悲しげな眼でクリスチャンを見つめるカレンの幻は無言のままだ。最愛の息子を失ってから5年後、「作曲者:クリスチャン・ハロルドセン」と書かれた新曲の楽譜を受け取った時…彼女の感慨はどのようなものだったろうか?
彼女は息子の「メイカー」としての名声を誇らしく思っていただろうか?
そして…彼が禁を犯し、その地位を失ったことを知っただろうか。
冒頭の彼女の嘆きを思い起こして、私はいたたまれなかった。
胎児のように丸くなり横たわるクリスチャンを、無理やり引き起こたウォッチャーたちの投げる「赤く染まった布」が、幾重にもクリスチャンの白いシルエットを取り巻き、縛り上げ、彼の意識を封じ込めていく。やめて、お願いだからもうやめてあげて、と思う一方で、背後の青い闇と交じり合って幻想的なまでに美しく残酷な光景に観る者は心を奪われる。涙を流しながら、私は一連のシーンから目が離せなかった。
身体の自由を奪い拷問を加えるよりも、精神のそれを奪い、徹底的に痛めつけることのほうが、どれほど残酷か。
血のように滲む赤色の布に縛られて力尽きるクリスチャンの姿は、先程まで自由を謳歌していた「音楽の天使」が、その白い翼を封じられて地に堕ちた姿に見えた。そこへ「ウォッチャー」がやってきて、次の「仕事」を指し示す…。
楽園を追われ、翼を縛られ、生きる心を封じられた天使は、そうして街に下りていく。とぼとぼと立ち去るクリスチャンの表情に、先程まで私を魅了していた「白く無垢な輝き」は、もはや欠片も残っていなかった。
☆
≪第二楽章≫
2回観て(他との比較だが)私は漠然とだが、この第二楽章=「ジョーのバー&グリル」が何故か苦手だ…と思っていた。3回目に至近距離で観ると分かっている時に、まず一番確かめたかったのは「この場面で、クリスチャンがどんな表情芝居を見せているのか」だった。やはり前方だと、後方からでは見えない様々なものが見える。
例えば…彼がピアノを見つめる視線の熱さ。
あるいは初めてピアノの音を耳にした時の戸惑いと驚き。
躊躇いがちに鍵盤に触れる時の、指先の震え。
どれも私の「全感覚を傾けて」観る価値がある、と感じていた。
そうすれば、きっと私がこの場面でひどく心がざわつく理由も分かるはず、そう思っていた。
★
≪第二楽章≫の語り手は「ウェイトレス」の少女・リンダ(=原田さん)。そういえば。あの突き抜けた若さが、ちょっと苦手かもしれない…あの女子力炸裂な可愛さ、飛び跳ねるような元気さ、一方で超直球&女のしたたかさ(笑)全開の「誘いなんちゃら」的アプローチ、考えたらどれも私の人生を通じて全く無縁であった!!!(爆)
それか!きっとそうだ!
リンダが羨ましかったのか自分!そうに違いない!! ←冗談ですw
…と、それはさておき。
リンダを始め、店の主人ジョー(=小多田さん)や、常連客であるドライバーたち(畑中さん&左東さん)のキャラクターが庶民のありふれた暮らしの賑やかな側面にアクセントを置いて活写されているだけに、「俗世にやって来た」クリスチャンの漂わせる静謐さが異物感にも似て、観る者の心を落ち着かなくさせる。あの才能に溢れ生気に満ちたクリスチャンが、希望を失い、生きる意味を失い、さりとて死を選ぶこともなく、諦観とともに「ただ与えられた環境を受け入れ、日々を消費している」姿を目にするのがとにかく辛かったから、かもしれない。3回目に間近で見るクリスチャンの姿は、やはり輪をかけて心の痛むものだった。
そして…ピアノの存在を知り、禁じられていると分かっていても恋い焦がれるように見つめ続けるクリスチャン。上手側だったこともあり、これまでとは比べ物にならない強さであの「眼」に引き込まれる。どこか疼くような熱を帯びた眼差し。決して純粋無垢なだけの想いではなく、奥底に燃え上がるような渇望と欲を透かし見るようだ。
ジョーが「ほら見ろ」とばかりにピアノの蓋を開けた時、「ひそやかに想いを寄せている相手に気付かれた」クリスチャンは狼狽して視線を逸らす。この場面で本当に「ピアノそのものが人格を持った相手」であるかのように振る舞う演技が何とも初々しくて好きだ。視線を伏せたまま「綺麗な…音だね。本当に綺麗だ」とはにかんで呟くクリスチャンが可愛過ぎて困る!(笑)こっちも一緒になってドキドキしてしまうほど。ピアノの音=想い人の声、と言ってもいい。だが眼差しは「純粋さと欲望」の混じったもの。クリスチャンが躊躇いがちにピアノに近づき指先で鍵盤に初めて触れる光景は、何故か「人間とピアノ」ではなくリアルな「男と女」にすら見えてくる不思議。
(今まで観た「役」やお芝居のイメージと、何かが決定的に違う…?!)
そう、何故あの土曜日初見で多田さんが演じたクリスチャンを観て「この人のお芝居のイメージが根底から変わった!」と衝撃を受けたのか、終演後真っ先に「正直言ってこれまでとは(役者さんに対する)見方がガラっと変わりました」と感想が口をついて出たのか、ようやく「わかった」!!(表現する言葉が突然降りてきた!)
CB初心者ゆえ、これまで多田さんの演じた役を「ナマで」観たのはたった3作品――『ヒトミ』の小沢、『鍵メソ』の桜井、『涙』の鏡吾。確かにどの役も上手い、文句のつけようもなく上手い、と思っていたものの、それらの「役」からいわゆる「色気」を感じた事は、正直一度もなかった。
なのに!表現が相応しいかどうかはともかく、この場面のクリスチャンのセクシーさときたら!しかも「狙ってやってる」(爆)のではなく、本人はあくまでも「無意識・無自覚」という、大変に罪作りな設定。その演技の醸し出す「匂い」にこっちの理性が思わず「グラっとよろめく」ような、見事に作り上げられた「エロティックさ」!(あくまでも「役とお芝居」の話)
(↑ 落ち着け、自分!w と、ひとつツッコミをしておく)
間違いなく、この場面のクリスチャンはとてもセクシーだと思う。「初恋に夢中になっている少年の純粋さ」と「知っていて再び誘惑に身を委ねる大人の甘美なスリル」がごく自然に交じり合い、全編を通して一番「生々しい人間の欲」に彩られているせいかもしれない。禁忌も戒めも一切を忘れ、ピアノ演奏に没入している表情は艶めかしく美しい。
他者の賛美の視線は意識に入らず、熱烈な拍手すら耳に届かない。恍惚とした表情で、ただ自分の為だけに音を紡ぐ「堕天使」の姿を目にして、私はまさしく「ストレートのウォッカ」を呷るような強烈な酩酊感に襲われた。ジョーの煩悶、リンダの焦燥、音もなく迫る「破局」――舞台で語られるそれらも「どうでもいい」と思えるほど。
そんな熱を帯びた酩酊感は、冷水を頭から浴びせられるような「声」で破られた。
二度目の破戒の代償は、両手の指全て。天使の翼は無残にもレーザーナイフで灼き切られる。
最初に「あのシーン」を見た時は「うわああああ!」耳を押さえ、目を背けたくなるのを必死で耐えた。(映画やTVでも同じだが)お芝居だとわかっていても、私は「痛みをリアルに想像してしまう」ので、ダメなものはダメ…orz しかも「ウォッチャー」の助手の無表情さ+仕事の鬼畜っぷりが「もうぅぅ…中の人ぉぉぉ…!」と叫びたくなる。(←違w)最も≪第三楽章≫では更に輪をかけた「落差」に悶絶する羽目になった…罪なお人だw
※このシーン、原作では2名の「ウォッチャー」が登場する。ひとりは最初から最後まで登場する盲目隻手の男で、もうひとりは耳を切り落とされ、平衡感覚がないために掴まり歩きをする男である。この「耳の無い男」がクリスチャンの指を落とす役目をするが、舞台では「ウォッチャー」の唯一性・孤高性を際立たせるために、あえて変更したのだろう。
ただ、新しい発見もあった。これまで後方列から見ていた時は、クリスチャンの絶叫や衝撃的なライティングとSEで全感覚を持って行かれていたのが、逆に最前列だからこそようやく見えたもの。それは影に隠れた「ウォッチャー」の表情が、クリスチャンの指を切り落とす瞬間、一瞬だけだが、はっきりと「歪んだ」場面だった。何とも言えないあの表情――明白な哀しみでもなく失望でもなく、ただ「頬と口元がわずかなカーブを描いて歪む」――初見で衝撃を受けた「ウォッチャー」の過去と秘められた内心を知った上であの一瞬の変化を見ると、どうしても涙が溢れてしまうのは仕方のないことだろう(単一の感情を越えた「衝動」に近い)。
★
クリスチャンとウォッチャーたちが去った後、リンダはジョーの行為を責める。しかし私はここでも「自分の大切なものを守った」ジョーを、リンダのように詰ることはできなかった。その直前に、クリスチャンは「謝る必要はない。ここはあなたの店だから」と寂しげに笑ってジョーを許した。人間とは結局エゴと欲の塊。再び禁を犯し音楽(=ピアノ)に耽溺した自分も含めて「そういうものだ」とクリスチャンは受け入れたのかもしれない。
ジョーやリンダがオリヴィアやポールほど「近い」存在だったとは到底思えない。それでも見知らぬ場所で手探りで生きるしかなかったクリスチャンには、数少ない「俗世との接点」ではあったから、自分の愚かさと弱さを呪うとともに「裏切られた」という気持ちが、多少は残ったかもしれない。あくまでも、これは≪第三楽章≫とのつながりを想像しながら、舞台から感じた「推測」に過ぎない。
★
≪第一楽章≫が「楽園追放」「無垢な白」なら、≪第二楽章≫は「虚栄の市」「艶やかな赤」か?(そういえば『天路歴程』の主人公の名前もクリスチャン)挫折を知らぬ浮世離れした「天才」から、喜怒哀楽に塗れ、暖かい血の通った「人間」に変容するクリスチャンと、観る側(=凡百の人間)が同一化していく段階。ひょっとしたらラストに向かうにつれて、胸の潰れるような悲哀と自分の身を引きちぎられる痛みを嫌でも共有してしまうせいで、私はこの≪第二楽章≫が苦手だと感じていたのかもしれない。観る側も全力で感情移入するので本当にヘトヘトに消耗する。一方で、愁いと深い陰影を帯びたクリスチャンの存在感と魅力を堪能するには、ここは絶対に外すことのできない見せ場だ!とも思った。
ラストの余韻は、原作を読んでいてもいなくても、十分に切なく胸に残る。もし未読の方がいたら、是非「ジョー視点で紡がれる淡々とした物語」と、この舞台における「群像劇」とを比べていただければと思う。
※≪第三楽章≫~≪喝采≫までは後日追記予定です。
「その2」では第二楽章の終わりまで。相変わらず連想や背景への考察が多いです。
『無伴奏ソナタ』 総括 (その1)
http://blog.goo.ne.jp/sally_annex/e/eae1c5639f822638edb13d2d540e0a0e
『無伴奏ソナタ』 総括 (その2)
≪再教育センター≫
舞台『無伴奏ソナタ』で描かれるディストピア(dystopia)を最も象徴的、かつ鮮烈に表現しているのが「再教育センター」ではないだろうか、と思う。≪音合わせ≫での、生後半年+満2歳での能力適性検査を描く場面もさりながら、芝居としてあの異常さと残酷さを際立たせる「演出」は、私はこちらの方が素晴らしいと思った。
また、シリアスな物語ゆえに?この作品にはキャラメルボックス舞台でおなじみの「ダンスシーン」がない。冒頭のハンドベルがその代わりと言えなくもないが、あれが「静」の見せ場としたら「動」の見せ場のひとつは間違いなく、第一楽章の最後を締めくくるこの場面だろう。印象的な楽曲とともに、クリスチャンと黒衣の「ウォッチャー」たちが繰り広げる「無言にして雄弁な」パフォーマンスには、言葉を忘れて見入るしかなかった。(後に「ウォッチャーはこの世界に8人しかいない」と語られるが、このシーンでその「数」になるほど!と納得が行った。)
法を犯した者が入れられる「再教育センター」…原作には「小さく質素な建物――なぜならそれは滅多に使われることがなかったから」と書かれていたが、ここではシンプルに、最低限の小道具と動きだけでクリスチャンの「矯正」が生々しくも美しく表現されている。
椅子に座りうなだれるクリスチャン。何かに呼ばれたように、ふとその顔が上がり、無意識に指先は音楽を紡ぎだす…と、その腕を掴み厳しく戒める「ウォッチャー」たちが現れる。クリスチャンの見る夢の寓意だろうか、立ち上がりふらふらと歩み出す視線の先には、おぼろげな母の記憶、あるいはオリヴィアの面影。振り返れば消え、追いかければ消える。
かつて、幼い頃別れた両親に対してさほどの感慨を持っていない、と語ったクリスチャンの胸の奥に、「かぼちゃのスープ」以外にも母カレンの面影がちゃんと刻まれていたこと――この場面で初めてそれを悟り、私はガツンと打ちのめされ、無意識のうちに涙が溢れ出た。
舞台奥に立ち、悲しげな眼でクリスチャンを見つめるカレンの幻は無言のままだ。最愛の息子を失ってから5年後、「作曲者:クリスチャン・ハロルドセン」と書かれた新曲の楽譜を受け取った時…彼女の感慨はどのようなものだったろうか?
彼女は息子の「メイカー」としての名声を誇らしく思っていただろうか?
そして…彼が禁を犯し、その地位を失ったことを知っただろうか。
冒頭の彼女の嘆きを思い起こして、私はいたたまれなかった。
胎児のように丸くなり横たわるクリスチャンを、無理やり引き起こたウォッチャーたちの投げる「赤く染まった布」が、幾重にもクリスチャンの白いシルエットを取り巻き、縛り上げ、彼の意識を封じ込めていく。やめて、お願いだからもうやめてあげて、と思う一方で、背後の青い闇と交じり合って幻想的なまでに美しく残酷な光景に観る者は心を奪われる。涙を流しながら、私は一連のシーンから目が離せなかった。
身体の自由を奪い拷問を加えるよりも、精神のそれを奪い、徹底的に痛めつけることのほうが、どれほど残酷か。
血のように滲む赤色の布に縛られて力尽きるクリスチャンの姿は、先程まで自由を謳歌していた「音楽の天使」が、その白い翼を封じられて地に堕ちた姿に見えた。そこへ「ウォッチャー」がやってきて、次の「仕事」を指し示す…。
楽園を追われ、翼を縛られ、生きる心を封じられた天使は、そうして街に下りていく。とぼとぼと立ち去るクリスチャンの表情に、先程まで私を魅了していた「白く無垢な輝き」は、もはや欠片も残っていなかった。
☆
≪第二楽章≫
2回観て(他との比較だが)私は漠然とだが、この第二楽章=「ジョーのバー&グリル」が何故か苦手だ…と思っていた。3回目に至近距離で観ると分かっている時に、まず一番確かめたかったのは「この場面で、クリスチャンがどんな表情芝居を見せているのか」だった。やはり前方だと、後方からでは見えない様々なものが見える。
例えば…彼がピアノを見つめる視線の熱さ。
あるいは初めてピアノの音を耳にした時の戸惑いと驚き。
躊躇いがちに鍵盤に触れる時の、指先の震え。
どれも私の「全感覚を傾けて」観る価値がある、と感じていた。
そうすれば、きっと私がこの場面でひどく心がざわつく理由も分かるはず、そう思っていた。
★
≪第二楽章≫の語り手は「ウェイトレス」の少女・リンダ(=原田さん)。そういえば。あの突き抜けた若さが、ちょっと苦手かもしれない…あの女子力炸裂な可愛さ、飛び跳ねるような元気さ、一方で超直球&女のしたたかさ(笑)全開の「誘いなんちゃら」的アプローチ、考えたらどれも私の人生を通じて全く無縁であった!!!(爆)
それか!きっとそうだ!
リンダが羨ましかったのか自分!そうに違いない!! ←冗談ですw
…と、それはさておき。
リンダを始め、店の主人ジョー(=小多田さん)や、常連客であるドライバーたち(畑中さん&左東さん)のキャラクターが庶民のありふれた暮らしの賑やかな側面にアクセントを置いて活写されているだけに、「俗世にやって来た」クリスチャンの漂わせる静謐さが異物感にも似て、観る者の心を落ち着かなくさせる。あの才能に溢れ生気に満ちたクリスチャンが、希望を失い、生きる意味を失い、さりとて死を選ぶこともなく、諦観とともに「ただ与えられた環境を受け入れ、日々を消費している」姿を目にするのがとにかく辛かったから、かもしれない。3回目に間近で見るクリスチャンの姿は、やはり輪をかけて心の痛むものだった。
そして…ピアノの存在を知り、禁じられていると分かっていても恋い焦がれるように見つめ続けるクリスチャン。上手側だったこともあり、これまでとは比べ物にならない強さであの「眼」に引き込まれる。どこか疼くような熱を帯びた眼差し。決して純粋無垢なだけの想いではなく、奥底に燃え上がるような渇望と欲を透かし見るようだ。
ジョーが「ほら見ろ」とばかりにピアノの蓋を開けた時、「ひそやかに想いを寄せている相手に気付かれた」クリスチャンは狼狽して視線を逸らす。この場面で本当に「ピアノそのものが人格を持った相手」であるかのように振る舞う演技が何とも初々しくて好きだ。視線を伏せたまま「綺麗な…音だね。本当に綺麗だ」とはにかんで呟くクリスチャンが可愛過ぎて困る!(笑)こっちも一緒になってドキドキしてしまうほど。ピアノの音=想い人の声、と言ってもいい。だが眼差しは「純粋さと欲望」の混じったもの。クリスチャンが躊躇いがちにピアノに近づき指先で鍵盤に初めて触れる光景は、何故か「人間とピアノ」ではなくリアルな「男と女」にすら見えてくる不思議。
(今まで観た「役」やお芝居のイメージと、何かが決定的に違う…?!)
そう、何故あの土曜日初見で多田さんが演じたクリスチャンを観て「この人のお芝居のイメージが根底から変わった!」と衝撃を受けたのか、終演後真っ先に「正直言ってこれまでとは(役者さんに対する)見方がガラっと変わりました」と感想が口をついて出たのか、ようやく「わかった」!!(表現する言葉が突然降りてきた!)
CB初心者ゆえ、これまで多田さんの演じた役を「ナマで」観たのはたった3作品――『ヒトミ』の小沢、『鍵メソ』の桜井、『涙』の鏡吾。確かにどの役も上手い、文句のつけようもなく上手い、と思っていたものの、それらの「役」からいわゆる「色気」を感じた事は、正直一度もなかった。
なのに!表現が相応しいかどうかはともかく、この場面のクリスチャンのセクシーさときたら!しかも「狙ってやってる」(爆)のではなく、本人はあくまでも「無意識・無自覚」という、大変に罪作りな設定。その演技の醸し出す「匂い」にこっちの理性が思わず「グラっとよろめく」ような、見事に作り上げられた「エロティックさ」!(あくまでも「役とお芝居」の話)
(↑ 落ち着け、自分!w と、ひとつツッコミをしておく)
間違いなく、この場面のクリスチャンはとてもセクシーだと思う。「初恋に夢中になっている少年の純粋さ」と「知っていて再び誘惑に身を委ねる大人の甘美なスリル」がごく自然に交じり合い、全編を通して一番「生々しい人間の欲」に彩られているせいかもしれない。禁忌も戒めも一切を忘れ、ピアノ演奏に没入している表情は艶めかしく美しい。
他者の賛美の視線は意識に入らず、熱烈な拍手すら耳に届かない。恍惚とした表情で、ただ自分の為だけに音を紡ぐ「堕天使」の姿を目にして、私はまさしく「ストレートのウォッカ」を呷るような強烈な酩酊感に襲われた。ジョーの煩悶、リンダの焦燥、音もなく迫る「破局」――舞台で語られるそれらも「どうでもいい」と思えるほど。
そんな熱を帯びた酩酊感は、冷水を頭から浴びせられるような「声」で破られた。
二度目の破戒の代償は、両手の指全て。天使の翼は無残にもレーザーナイフで灼き切られる。
最初に「あのシーン」を見た時は「うわああああ!」耳を押さえ、目を背けたくなるのを必死で耐えた。(映画やTVでも同じだが)お芝居だとわかっていても、私は「痛みをリアルに想像してしまう」ので、ダメなものはダメ…orz しかも「ウォッチャー」の助手の無表情さ+仕事の鬼畜っぷりが「もうぅぅ…中の人ぉぉぉ…!」と叫びたくなる。(←違w)最も≪第三楽章≫では更に輪をかけた「落差」に悶絶する羽目になった…罪なお人だw
※このシーン、原作では2名の「ウォッチャー」が登場する。ひとりは最初から最後まで登場する盲目隻手の男で、もうひとりは耳を切り落とされ、平衡感覚がないために掴まり歩きをする男である。この「耳の無い男」がクリスチャンの指を落とす役目をするが、舞台では「ウォッチャー」の唯一性・孤高性を際立たせるために、あえて変更したのだろう。
ただ、新しい発見もあった。これまで後方列から見ていた時は、クリスチャンの絶叫や衝撃的なライティングとSEで全感覚を持って行かれていたのが、逆に最前列だからこそようやく見えたもの。それは影に隠れた「ウォッチャー」の表情が、クリスチャンの指を切り落とす瞬間、一瞬だけだが、はっきりと「歪んだ」場面だった。何とも言えないあの表情――明白な哀しみでもなく失望でもなく、ただ「頬と口元がわずかなカーブを描いて歪む」――初見で衝撃を受けた「ウォッチャー」の過去と秘められた内心を知った上であの一瞬の変化を見ると、どうしても涙が溢れてしまうのは仕方のないことだろう(単一の感情を越えた「衝動」に近い)。
★
クリスチャンとウォッチャーたちが去った後、リンダはジョーの行為を責める。しかし私はここでも「自分の大切なものを守った」ジョーを、リンダのように詰ることはできなかった。その直前に、クリスチャンは「謝る必要はない。ここはあなたの店だから」と寂しげに笑ってジョーを許した。人間とは結局エゴと欲の塊。再び禁を犯し音楽(=ピアノ)に耽溺した自分も含めて「そういうものだ」とクリスチャンは受け入れたのかもしれない。
ジョーやリンダがオリヴィアやポールほど「近い」存在だったとは到底思えない。それでも見知らぬ場所で手探りで生きるしかなかったクリスチャンには、数少ない「俗世との接点」ではあったから、自分の愚かさと弱さを呪うとともに「裏切られた」という気持ちが、多少は残ったかもしれない。あくまでも、これは≪第三楽章≫とのつながりを想像しながら、舞台から感じた「推測」に過ぎない。
★
≪第一楽章≫が「楽園追放」「無垢な白」なら、≪第二楽章≫は「虚栄の市」「艶やかな赤」か?(そういえば『天路歴程』の主人公の名前もクリスチャン)挫折を知らぬ浮世離れした「天才」から、喜怒哀楽に塗れ、暖かい血の通った「人間」に変容するクリスチャンと、観る側(=凡百の人間)が同一化していく段階。ひょっとしたらラストに向かうにつれて、胸の潰れるような悲哀と自分の身を引きちぎられる痛みを嫌でも共有してしまうせいで、私はこの≪第二楽章≫が苦手だと感じていたのかもしれない。観る側も全力で感情移入するので本当にヘトヘトに消耗する。一方で、愁いと深い陰影を帯びたクリスチャンの存在感と魅力を堪能するには、ここは絶対に外すことのできない見せ場だ!とも思った。
ラストの余韻は、原作を読んでいてもいなくても、十分に切なく胸に残る。もし未読の方がいたら、是非「ジョー視点で紡がれる淡々とした物語」と、この舞台における「群像劇」とを比べていただければと思う。
※≪第三楽章≫~≪喝采≫までは後日追記予定です。