禁制!)北花園さな競馬ブログ

競馬日記です!!難易度高いかも知れません!

函館記念(芝2000m)いざ!勝負!!

2019-07-14 13:39:46 | 競馬
いや、今日は日曜競馬参加とし、僕は今日は函館で行われる一戦[函館記念]に参戦だ!

函館記念と言えば、
::芝2000mハンデ戦
と言う事で、執り行われる。

さすれば出馬表で見並べる各馬を見通すと、僕には今の時世こう言って各出馬表馬を見比べることが出来る。寄るが、ご時世事だ!馬番の1から順に競走馬を追って行って、僕は競馬の常識(そして世の常識)と照らし合わせ、この5歳馬4頭をピックアップする。(上から)

1番レッドローゼス
2番アメリカズカップ
5番マイスタイル
9番ポポカテぺトル

だ。
いや、競馬と言うのは世を表す縮図だ!今日行われる一戦で、この[函館記念]と言う競走は、一体どのような根拠を持って執り行われるか?これは世を表す基準として非常に大きな課題となる一問題で、皆取り組む。これに対し、僕は解決法としてこのような答えを持って、答えるわけだ!僕が、例えば

◎ポポカテぺトル
●???

とする時、この2頭の「1着」志願馬が、どのような理由を持ってこの北花園さなちゃんに向かって、1番!となる権利馬となっているのか?これに挑戦せねばならない。この2頭の馬が「1着」獲りを目指す事が許される理由と言うのは、いやー流石の競馬ファン(競馬家)もその歓声が、唸るような結論が待っているに違いない。


まあ今回の函館記念の予想は、これくらいの範囲に止めておくが、いや今回の競馬僕が思う思惑通りの結果になるかどうか?


それでは、レース後またお会いしましょう!!

女性は皆自分の在処を探し続け、彷徨うが、いやそれは一番身近なここにあるのである!

2019-07-12 10:41:13 | livelove日記
いや、2月の記事に
人生とは?宗教による救い、これではないのだ!!
と言う記事を書いたことがある。これに関し、途方もなく勘違いし、人生世渡りをしているものが数多くいる現実がある・・・。

いや、まあ女性と言うのはある。実は、この女性陣始め今どきは何故か学校へ通わされ、勉学に励もうとするが、いや大抵殆どのものはこの時気が付かない。一部、自分の在処を求め、学校へ通い、自分と言うものを探し求めようとするものがいるだけだ。月日は流れるが、得てしてこう言うものだ。何故だか、女性は自分と言うものを探し求めるが(灯台下暗し)、今どきは(アイドル系の女子もいずれか勘違いが多い!)その自分(女子)の在処が分からず、例えばOL業に励み、仕事系の成果を上げ、これがわたし(自分)と錯覚するものが多い。実は、こんなものも長くは続かず、僕が上にリンクを張るように、人生に救いを求め(仕事が人生ではない!と気付いたあと)宗教に足を踏み入れるのである。僕が、上のアドレスに書いている通り、自分の救いを求めるわけだ!

一番のお馬鹿な都市で、東京がある。隣の千葉や埼玉当たりもかなりの馬鹿だが、まあ見てお分かりの通り、人生(自分の在処)が仕事と思っている奴が多い。僕が昨今書く、ガリ勉とガリ仕事など人生じゃない!と切り捨てる他方に東京県があるわけだ!いや、この東京を見渡せば明らかだが、この県は(高層)ビルが乱立する県なのである。自分の人生を表す物差しで、自分はこの巨大高層ビルが自分の生きた証なのだ!と大威張りするように、東京民はビルの乱立を目指す。実は、この巨大ビル群を持って、自分の在処(証)とするわけだが、実際このように巨大ビル群を東京地に建てても、そのものは得て自分の在処はこれだった、と感じる事はできないわけである・・・。それで、等々救いを求め(自分の在処)、宗教に飛び込む。

宗教では、自分の今までの生い立ち、行き末を顧みるように自分の在処をまた一から考え直すが、僕が上のリンクに張るように、その宗教に救いを求める再考人生もまた人生(自分の在処)ではないわけである。

では、自分の在処(女子)とは、どこにあるか?

女子と言うものは、東京の高層ビル乱立を見て分かるように、自分の在処がガリ勉とガリ仕事系による自分の証、これだと思っていた。しかし、この実は高層ビルを建てても自分と言うものをよく感じ得ない女子は、等々分からず、自分探し!の旅に出る。これが、不安で仕方がないわけだが、高層ビル乱立の向こう側には自分(女子)と言うものを宇宙にまで探し求める、機械仕掛けのような自分これは、宇宙ロケット飛ばし!のような自分に打って変わる、自分の在処を宇宙に探し求めるロケット開発作業に打ち込むようになる。ここまで行くと、流石に不安も増大し、女子は当たり彷徨う子羊のように狼狽えるばかりだ!(もっと行くと人工衛星を飛ばすようになる。(更に先がある・・・(ぷ))

いやはや、行き付く先は書かない事にするが、上のリンクで僕が書く意図的な自分の在処、これを僕は競馬で例えた話しをしている。[新馬]を例に出し、自分の行く末を考えているが、実は要はこの手のものが共通に持つ不安と言うものは、所謂自分のアイテムで、最初に飛び込む良アイテム’自己発見’の有無、これではないわけだ!僕が手に入れると吉とする自己発見アイテムを手に入れようがいまいが、人生(自分の在処)これを手に出来るか?と言うとそうではない。実は、もっと前の実にちょ~う簡単な自分の在処について昨今の女子は、知らないでいるのだ・・・。

女子と言うのはある。存在すると、自分の在処として感じる’好き’と言う気持ちや、’気持ちいい’と言う気持ち(感情)に押されて生きていくが、実は、この感情の先(大元)に自分(女子)と言う在処はあるわけだ・・。
いや、女性と言う自分の在処は、女性器(〇〇こ)これなのだ!最近の女性は、自分の在処が下半身(○○こ)ここにあることを知らない!よって、当たり構わず勉学系に突っ込み、自死、撃沈の如く彷徨い続ける人生を送るが、ビルの乱立でもなく、宗教入信でも埒が明かない女性の人生と言うのは、いや自分の足元(○○こ)ここにあったのである。


女性と言うのは、自慰が好きだ!切っても切り離せない女性にとっては、女性のおままごと自慰と言うものがある。
いや、すっきりした!女性の在処(存在)はここにあり!いや、変哲もない自分の在処をいや彷徨い続けた挙句、自分と言うものが一番身近にあったなんて!!
お笑いのような話しだが、これが昨今女性を語る時、出て来る昨今の女性の珍妙な自分(存在)である。(一切何も出来ないレベル低の女性陣である)

いやはや、地形に見る一地域長岡外れの脇野町の話し(福扇と言う話し)!

2019-07-10 14:47:40 | livelove日記
昨日の夜、明かりを消してよくよく考えて見ると、僕が思うある希望、これに対し切なる欲求を満たしてくれるまあ、単なる小豆かなんかの要望を背に乗せ、僕はいや長岡市内からは、まあ遠く離れる僻地の一角であるあの日本酒としては、些かか弱そうに見える一品’福扇(ふくせん)’これに、またもや想いを綴る。
いや、僕のある願いは、ここではお教えしないことにするけれども、よく僕が空想に耽る時に、上る事項で地域で見てその福扇を発する脇野町と言う地域が上る。いや、前にアメーバのブログで書き連ねていた時、僕はこの界隈事とし、タイトル、

:お婆さんのお尻と金銀の話し!

と、持ち出し、その日持ち寄ったとある日事を書き連ねたことがある。話しは、タイトル通り、’お婆さんのお尻よりは、金銀の方が価値がある!’と言う脇野町の一情景を示すに、持って来いの話しである。それは、何かと言うと、僕がこの脇野町の界隈の情景を指し示す時、この’お婆さんのお尻と金銀の話し!’を持ち出して言うように、この’お婆さんのお尻と金銀の話し’と、僕が先ほど出すこの町(村)の一酒である’福扇’を持ちだして言う、いや、一旅情に似た風景が、醸し出され、見えるのだ!いやいや、この情景とは、昔話によくある浦島太郎の話しで、亀を助けるある者がそのお礼に竜宮城へと連れられ、お姫様に楽しく持て囃された後、ある玉手箱を持ち帰り、帰って宝箱を明けたら、お爺さんになってしまったと言うあの話しだ!
いや、これと似て、合致するわけだ。
福扇を要する脇野町は、僕に畑仕事をするお婆さんのお尻を見せるわけだ!そうして、僕に’お婆さんのお尻と金銀の話し’を持ち掛けて来るが、’このお婆さんのお尻と金銀の話し’と言うのは、僕が上に竜宮城の話しとして書く浦島太郎の話しと実は、同じわけだ!僕は、お婆さんのお尻を見て、殊更金銀と言う財宝を渡される。

月日は、流れるだろう。それは、遠い遥か未来である。僕は、この目指す遠い未来に向け、さあどうやって目的の一歩を踏むか?と言うこの多少の難題に、僕は夜毎に夢見る長岡の一界隈脇野町を想い耽る。何故かと言うと、僕が目指すとある一想いに向けて、脇野町がこれはよくある錬金術の類い、とある道標を渡すからだ。
どうやって、僕は(僕が目指す)秘宝これを手に入れるか?僕は、考えるわけだ!脇野町の名酒’福扇’これは、結構な味的に言えば、’苦味’を要する味これだ!長岡西山から生ずるだろう山水を持って福扇は、苦味を要す極酒へと移る。いや、左右に三島村と与板村に挟まれるこの地域の様子があり、いや福扇の主がこの界隈の事情の如く送る一品’福扇’は、単純に言えば長岡中心部の摂田屋にある酒造吉乃川(甘口)から考えれば、いや僕はこの通ずる脇野町の一酒福扇に、いや挑戦なのだ!いや、長岡の平けた地域つまり町中に対せば、偏る地域の脇野町(西)と言う片面は、いずれまあこの長岡と言う町中から見れば、端に当たるいや普段何気ない気取りでは、見え辛い地域のはずだ!僕が、今いるのもこのような一事情が伺える。

いや、もっと考える節はあるだろう。西の界隈に福扇と言う酒があり、苦味だ。いや、勿論存在得るものとしてその行先に常識となる一方向はあるけれども、それに僕はこの苦味を持つ’福扇’これが、いやぴったりの一酒となる。

脇野町が送る僕が一記事として書いた’お婆さんのお尻と金銀の話し’と言うのは何だろう?いや、脇野町が持つ固有の有様(女男の常識)と福扇と言う酒が見せるこの地特有の話しとは、何だろう?いやはやー、僕が目指し切るとあるこのゲームの最終着地点に、僕は一歩下り立つように、この美酒’福扇’の話しをしておこう!


いやはや、実に奇妙なパラドックス!人間と言うのは以下に生きているのか?(いや生きていないのだ!)

2019-07-09 20:23:27 | livelove日記
僕が、よく皆には途方もないような言い方でお喋りし、皆驚く様子が窺える中、(いつものことで)

小豆:どうやるがぁ~?(どうやって喋っているがぁ~!?)

と、こざっぱもの申す。それで、僕が、

さな:(おみゃ~ら的に)頑張る!の一手なんじゃないか?(努力の成果)

と言うと、それでも小豆(あるいはその他の者も)は、

小豆:どうやるがぁ~?

と、言って来る。
それで僕が、

さな:おみゃ~らさん、どうやって生きているかのようらねっ~?

と言うと、それはそれで小豆者ども
’どうやって生きているんだろう?’
みたいな流石に、不思議に感じている。

どうやって生きているか?と言うと、どうも辻褄が合わないのに、僕らは生きていると言う感覚に包まれて、等々僕が、

さな:おみゃ~らさん、いねっがぁ~~てっ!

と言うと、一同沈黙で、呆気に取られる。

そりゃ~、おみゃ~らさんと言う存在が、僕から言わせると(あるいは僕が基準になると)どうも辻褄が合わないような目の錯覚に似た現象に出会うのは、僕には百も承知となる。

’おみゃ~らさん、いねっがぁ~~てっ!’

この真意を問い質したく、みなには考える余裕を与えるように時間が挟まれるが、いや、この手の考え方は、人間組み合いにとって多少の無理難題を与えられている様子はあるだろう!

いや、答えは簡単かもしれない。ただ、それが人様にとっては実際無理難題と化す一疑問であるのは、わーすたが歌う
”最上級パラドックス”
が、導くような実は人間様にとっては生きる(あるいは生存)と言う領域に関してもそれは、実は(僕がいる限り!)パラドックスに満ちたものだからだ!とする限界理論には、’いや簡単だよ!’とする問い掛けにも、難題を出されるような結果を見せる。

いやはや、僕が
’天皇って何?’
と言う人民が持つ問い掛け、これの向こう側にアイドルわーすたが歌うこの
”最上級パラドックス!”
と言う世界が開けているとするならば、いやこの世界と言うのは実に妙な仕掛けに雁字搦めの奇妙奇天烈な世界、これであると言える。

いやはや、多少難しいがこの時間の受け売りはこれくらい!
じゃあねっ!


読書感想!(カント/純粋理性批判)

2019-07-07 22:05:02 | 読書
いあー、カント君の著書’純粋理性批判’これを読み進める(ただ、内容は語句の使い方が使えばいいってもんじゃなく、知らず闇雲に使っているのでまあ読みにくいわけだ!)。カント君は、この書物を書くに至り、この2文字、

:経験

これが少ない上で、書いている書物これであるとする。努力の有無を他人の評価に任せるのだ!しているカント君の言い分からすると、カント君は自分と他者この境界線はおろか、区別もつかないこれからのものなのだ。


まあ、ちょっとの図書を読んだ感想とするが、カント君は僕が前の記事で書いているように、友達とお喋りこれがしたい。カント君は、いつしかこの友とお喋りをし、経験値「1」これを稼いだ。ゆえに、これを在処に自分自身の存在や在処につき、このような本を持って持論を述べようと思ったのだろうが、いかんせん経験値これが全く足りないわけだ。カント君は、この経験値不足の自分に余り気が付かず、図書を通じ、我の言いたい事を言うが、当然カント君もドイツ人でありながら聖書は読んでいるはずで、真理と言う言葉を使いながらも、一つ”善”と言う概念、これを取ってみても、カント君にはこの”善”と言う代物、これが’善の概念これを確立する必要がある’としているように、その経験値不足のせいで、カント君は”善”と言う言葉さえ、辞書を引いて言葉の意味を確認しないと分からないような経験不足者なのだ!

いや、普通人間たるもの”善”と言う言葉は、あるだけで分かるものだ。分からないと言うなら、その者はまあカント君がこの世界に生まれ、その存在立場が、一向に理解できずに突っ走るしかないあり方、これを取っているからだ!カント君には、自分と言う存在だけではなく、取り巻いたこの世界、環境、宇宙に至るまで、実は不思議でならない。

言葉で、”善”と言うのがあるが、これは至って人間さんにとっては取り分け、獲得するにいや実は難しくはなく取得できるものだ。何故なら、人間さんにとってその生まれ、立ち位置、立場と言うのは、この世界に’ただいるだけ’こうあって成立出来る立場でもあるからだ。(この意味が分からないようなものは半端者)


いあー、この本の’快の感情の定義’と言う項を見ると、いあー実にこの者は、自分にある最重要かの欲求’快’についてもその’定義’これなしでは解けない問題と言う。
これは、何か?と言えば、当然僕が最初に言うように、この者カント君は経験この2文字が実に異常に足りない青年、これなのだ!(こんなものが現代持て囃されるとは、現代と言う時期はまあ異常に経験不足の輩が気張っているだけのアホな世界であるのは明白だ)

カント君が、この書物を表そうとしたのは、得てして何かのきっかけがあったからだが、いや何だか自分だけが知る何かの特筆事項これを授かったからなのだろう!自分を顧みて、自らの著書に自分の世界を表したのは、己の自己探求(ガリ勉だが、、)により得た、ガリ勉学習生にありがちな、ガリ勉自分と言う存在が、自身気に入ったからだ。いや、それをカント君は哲学者とこう呼び、その自ら掲げ出した哲学者人生を世間にお披露目しようと、ただ一人の自分の有様を見せたのである・・・。


まあ世間にもこう言った輩はいるものだ!必ず勘違いし、自己及び他者を眺めているだけだが、カント君もこれに実に勘違い、自分のこの著書で自らの頭の中を披露する!
僕から言わせると、完全大馬鹿で経験もしていない事項をあたかも知っているかのように錯覚、頭の中あるいはガリ勉でこさえた自分の想像・妄想を’これが世の真実だ!’と言わんばかりにカント君は、この著で表す。


ガリ勉(あるいはガリ仕事)も行くと、自分は大きな宝を見つけた!と錯覚するが如く、我を失うものだ!ガリ勉系の自意識これを持ってさぞ自分は出来た人間、こう錯覚する。


経験と言う言葉を用いれば、カント君は異常に器の小さい経験の少ない人間だ!”善”と言う意識や、’快楽’と言う言葉についてさえ、全くその印を知ることもない身分であるのに、自分は立派な人間とこう錯覚する。


それでは、著名な図書かカント君が表した’純粋理性批判’の感想は、これで!