
ついさっきまで、私は彼女
のファーストキスのお話に耳
を 傾けていた。聞かせて欲し
いと、私が頼んだのだ。
新しい短編小説を書くために。
その作品を正子さんの手で、
英語に翻訳してもらうために。
タイトルは「シルバーブリ
ット」に決めた。
これは、1930年代以前から
あったという、古いカクテル
の名前。グラスの縁に唇を寄
せただけで、きりっと冷たい
ジンのなかから、フェネルと
ジュニバーの香りが立ちのぼ
ってくる。
キス一回だけで終わってし
まった。初めての恋。終わって
しまったはずなのに、終わった
瞬間からその恋は、彼女の胸の
なかで永遠に生き続ける命を得る。
なぜならそのキスは、彼女の
人生に突き刺さって抜けない、
美しいシルバーの弾丸だった
から—
そんなストーリーが私の頭
のなかで、ぼんやりと、輪郭
を現し始めていたその時、
正子さんが言ったのだった。
じゃあ次は、真理ちゃんの番
よ。
「えっ、私も話すの?」
「そうよ。真理ちゃんのファ
ーストキス物語を披露して」
「今からわたしが真理ちゃんを、
その場面まで、連れもどしてあ
げる」
「時間の魔法をかけてくれるの?」
「そう、その前にまず、目の前の
お酒を飲み干して」
なぜか、まぶたを閉じて、二杯目
のパラダイスージンとアプリコット
ブランディと絞りたてのオレンジ
ジュースのカクテルーーーを
最後の一滴まで飲んだ。
やすやすと、正子さんのマジックに
かかって、飛んでいった。
今から八年前、私は高校二年生。
放課後の長い時間を私ひとり、学校
ではなくて町のはずれにある図書館
で過ごすようになっていた。彼は
高校三年生。学年も年もひとつしか
違わないのに、ひどく大人びて見え
た。哲学書とか、歴史書とか、ぶあ
つい図鑑なんかを繙(ひもと)いて
いることが多かった。
私たちはまるで競い合うようにして、
ふたりの「恋愛」を先へ先へと進め
ていった。
けれど、私たちに残された時間は、
それほど長くはなかった。
ある日、彼から私に差し出された本
には、高校を先に卒業した男の子が
大学生になり、遠い大都市に引っ越
してしまい、ふたりは離れ離れにな
ってしまう、そんな悲しい物語がつづ
られていた。
何度も読んで、私は泣いた。
泣きながら、次の本を選んで、
三月の終わりの日曜日に—これが
最後のデートになるとわかってい
た―意を決して、彼の胸もとに押
しつけるように差し出した。
「最後にひとつだけ、お願いがあ
るの」
これから遠い異国に旅立ってしま
う恋人に、その本の主人公の女の
子は言うのだ。
「忘れられないキスをして。フラ
ンス風のキスがいい。あなたとの
キスの思い出があれば、つらい別れ
も乗り越えていけるから」
私のすぐそばで、正子さんがくす
くす笑っている。
「なんて可愛い!なんとキュート
な!嘘みたいな本当のお話ね。もし
かしたら、本当みたいな嘘のお話、
かしら?」
「さあ、どっちでしょう。ご想像に
お任せします」
正子さんは「お礼に何か奢るわ」と
言いながら、カウンターのはしっこ
に置かれていたカクテルメニューを
右手で取り上げ、
「ところでもうひとつ、質問」
左手を、小さく挙げた。
「はい、なんでしょう?」
「フランス風のキスというのは、
いったいどこにしてもらったの?
唇なの?それとも、ほっぺ?」
「鋭い質問です。その答えは・・・・」
初老のバーテンダーさんが私の顔
を見て、えくぼを浮かべた。
カクテルの「フレンチキス」には
二種類があって、ウオッカに生クリ
ームを加えてつくる、たっぷり甘く
て、うっとりするくらいなめらかな
お酒—これが、ディープなフレンチ
キス。
ジンジャービールとラズベリーピュ
ーレをべースにして、アプリコット
ブランディとシャンパンで香りづ
けをした爽やかなお酒―
これが、左右の頬にかわるがわる、
涼風みたいな口づけをするフランス
風の挨拶のキス。
「どっちなの?」
「正子さんたら、知ってるくせに」
少女は大人になった。どちらの
フレンチキスも、味わったことがある。
本当みたいな嘘のお話が人を酔わせ、
人を幸せにするということも知って
いる。