里数は計測可能か
(前略)以上は倭人伝を読み下して行く中で、魏使が道中の里数や戸数について、ある程度は把握していたと仮定した場合の話ですが、一方で少なくとも距離に関して言えば、もともとこれは実測値から導き出されたものではなく、単に要した日数を里数に換算しただけとする見方もあって、恐らくはその解釈の方が実情に近いと思われます。
と言うのも魏使が他国との間を往来する場合、道中の安全も考慮して現地人の郷導を用いるのが普通ですし、ましてや道中で測量をしている訳ではありません。
実際に魏使が異国での正確な地理を知るためには、専門の技術者が同行して現地で測量をしなければなりませんが、古今東西の常識として他国での測量は侵攻の前兆と見做されるため、その土地の首長がそれを許可する筈がないからです。
(前略)以上は倭人伝を読み下して行く中で、魏使が道中の里数や戸数について、ある程度は把握していたと仮定した場合の話ですが、一方で少なくとも距離に関して言えば、もともとこれは実測値から導き出されたものではなく、単に要した日数を里数に換算しただけとする見方もあって、恐らくはその解釈の方が実情に近いと思われます。
と言うのも魏使が他国との間を往来する場合、道中の安全も考慮して現地人の郷導を用いるのが普通ですし、ましてや道中で測量をしている訳ではありません。
実際に魏使が異国での正確な地理を知るためには、専門の技術者が同行して現地で測量をしなければなりませんが、古今東西の常識として他国での測量は侵攻の前兆と見做されるため、その土地の首長がそれを許可する筈がないからです。
因みに魏と倭の交流から三百数十年後、隋の国使が日本での見聞を記録した『隋書』倭伝の中にも、「夷人は里数を知らず、但だ計るに日数を以てす」とありますから、古墳時代以前の日本人が長距離の移動に際して、果して距離などという基準をどこまで意識していたかは疑問と言えます。
そして実のところ里数などというものは、(それが遠くなればなるほど)いつの時代もそれほど重要視されている訳ではありません。
例えばある地点から別の地点へ移動しなければならないとして、事前に知っておくべきは両者間の正確な距離などではなく、あくまで行程に要する時間なのであり、これは現代でも変りません。
そして実のところ里数などというものは、(それが遠くなればなるほど)いつの時代もそれほど重要視されている訳ではありません。
例えばある地点から別の地点へ移動しなければならないとして、事前に知っておくべきは両者間の正確な距離などではなく、あくまで行程に要する時間なのであり、これは現代でも変りません。
そして郡から伊都(とその周辺)までの行程が里数で表されていて、不弥から邪馬台までが日数になっているのは、郡と伊都の間は何度も両国の使者が往来していたのに対して、通常魏の使者が北九州から更に奥へは足を運ばなかったことと、途中にある国々を省略しているからでしょう。
恐らく魏使が王都邪馬台まで赴いたのは、正始元年に魏帝の詔書と女王卑弥呼への賜物を届けた時だけで、その後も特に訪問の予定はなかったものと思われます。
まして魏帝から女王への勅使ともなれば、郷導は元より常に多数の兵士(船団)に護衛され、各地で歓待を受けながらの旅路でしょうから、実のところ使者一行は、この長旅で自分達がどの方角へどれほど進んだかも把握できなかったでしょう。
と言うより二度と行く当てもない土地の詳細など初めから把握する必要もなかったと言えます。
恐らく魏使が王都邪馬台まで赴いたのは、正始元年に魏帝の詔書と女王卑弥呼への賜物を届けた時だけで、その後も特に訪問の予定はなかったものと思われます。
まして魏帝から女王への勅使ともなれば、郷導は元より常に多数の兵士(船団)に護衛され、各地で歓待を受けながらの旅路でしょうから、実のところ使者一行は、この長旅で自分達がどの方角へどれほど進んだかも把握できなかったでしょう。
と言うより二度と行く当てもない土地の詳細など初めから把握する必要もなかったと言えます。
江戸時代との比較
一方で伊都までの距離については、女王卑弥呼が魏帝から冊封を受けた時点で、既に外交上邪馬台は魏の藩屏であり、魏使の常駐する伊都は言わば魏の版図の最前線な訳ですから、やはり郡から伊都までは中国の基準に則って、里数で表現することを求められたのかも知れません。
逆に言えば伊都から先の遠隔地などは、その往来に要する大体の日数を示せば十分なのであり、この基準は現代でも変りません。
では『魏志』に記された郡から倭までの里数は、どのような計算式で導き出されたものなのでしょうか(無論そんな換算などは初めから存在せず、単に切りのいい適当な数字を配しただけという主張もあるでしょうし、案外それが正解なのかも知れませんが、ここでは取り上げないものとします)。
そこで里数と日数との関連性について、比較的正確な記録が豊富に残っている江戸時代の資料を参考にしてみると、次のようなことが分かります。
一方で伊都までの距離については、女王卑弥呼が魏帝から冊封を受けた時点で、既に外交上邪馬台は魏の藩屏であり、魏使の常駐する伊都は言わば魏の版図の最前線な訳ですから、やはり郡から伊都までは中国の基準に則って、里数で表現することを求められたのかも知れません。
逆に言えば伊都から先の遠隔地などは、その往来に要する大体の日数を示せば十分なのであり、この基準は現代でも変りません。
では『魏志』に記された郡から倭までの里数は、どのような計算式で導き出されたものなのでしょうか(無論そんな換算などは初めから存在せず、単に切りのいい適当な数字を配しただけという主張もあるでしょうし、案外それが正解なのかも知れませんが、ここでは取り上げないものとします)。
そこで里数と日数との関連性について、比較的正確な記録が豊富に残っている江戸時代の資料を参考にしてみると、次のようなことが分かります。
まず江戸時代の一里は現代の約四㎞で、ほぼ漢魏の時代の十里に当たり、従って江戸時代の十里(40㎞)が『魏志』の百里ということになります。
そして時速5㎞で八時間歩くと40㎞ですから、要するに江戸時代の十里というのは、大人が一日に歩ける距離と同義なのであり、従って『魏志』にある伊都から奴までの百里と、同じく奴から不弥までの百里という表現もまた、単に歩いて一日という意味でしかない訳です。
尤もそれはあくまで健康な成人男性が、整備された平坦な道を歩いた場合の話で、当然ながら悪天候下や峠越えなどでは進める距離が短くなりますし、『魏志』の末蘆から伊都までの描写にあるように、「行くに前人を見ず」という状況では同じ距離を行くにも数倍の時間を要するでしょう。
逆に飛脚などは一日で遥かに長距離を走破しています。
そして時速5㎞で八時間歩くと40㎞ですから、要するに江戸時代の十里というのは、大人が一日に歩ける距離と同義なのであり、従って『魏志』にある伊都から奴までの百里と、同じく奴から不弥までの百里という表現もまた、単に歩いて一日という意味でしかない訳です。
尤もそれはあくまで健康な成人男性が、整備された平坦な道を歩いた場合の話で、当然ながら悪天候下や峠越えなどでは進める距離が短くなりますし、『魏志』の末蘆から伊都までの描写にあるように、「行くに前人を見ず」という状況では同じ距離を行くにも数倍の時間を要するでしょう。
逆に飛脚などは一日で遥かに長距離を走破しています。
そして様々な旅行記や行商等の記録を見ると、街道の整備されていた江戸時代でさえ、実際には一日八里(30㎞強)程度というのが平均的な移動距離だったようで、意外なことに参勤交代のような大人数での旅路でさえ行進速度は殆ど変っていません。
例えば当時の江戸日本橋から京の三条大橋までは約百二十里ですが、やはり所要日数は半月前後という事例が多くなります。
因みにこの半月前後というのは、途中事故もなく比較的順調に旅行した場合で、徒歩での旅は荒天で先へ進めなくなることも多く、長雨で川が増水したりすると何日も足止めされるため、運が悪いと倍以上の日数が掛かることも珍しくなかったのは言うまでもありません。
例えば当時の江戸日本橋から京の三条大橋までは約百二十里ですが、やはり所要日数は半月前後という事例が多くなります。
因みにこの半月前後というのは、途中事故もなく比較的順調に旅行した場合で、徒歩での旅は荒天で先へ進めなくなることも多く、長雨で川が増水したりすると何日も足止めされるため、運が悪いと倍以上の日数が掛かることも珍しくなかったのは言うまでもありません。
水路と陸路の違い
では水路(海路)はどうでしょうか。
これが自分の足で進む陸路であれば、飛脚のように特殊な職業を除いて、個々の体力にそれほどの差はないので、誰であろうとある程度の標準的な時間を計算できます。
しかし水路の場合は、船の性能や大きさ、操船技術や航路の難易度によっても大きく左右される上に、船を操舵するのは一般人ではなく、漁業や海運を生業とする職人集団なので、陸路のように標準的な行程を求めるのが困難であることは、念頭に置いておく必要があります。
無論陸路であっても、人力ではなく馬での移動であれば、馬や御者の能力、進路や地形によって大きな差が出るのは水路と同じことです。
では水路(海路)はどうでしょうか。
これが自分の足で進む陸路であれば、飛脚のように特殊な職業を除いて、個々の体力にそれほどの差はないので、誰であろうとある程度の標準的な時間を計算できます。
しかし水路の場合は、船の性能や大きさ、操船技術や航路の難易度によっても大きく左右される上に、船を操舵するのは一般人ではなく、漁業や海運を生業とする職人集団なので、陸路のように標準的な行程を求めるのが困難であることは、念頭に置いておく必要があります。
無論陸路であっても、人力ではなく馬での移動であれば、馬や御者の能力、進路や地形によって大きな差が出るのは水路と同じことです。
それ等を承知した上で、やはり海運の発達した江戸時代の記録を見ると、太平洋沿岸の海運を担っていた回船が、江戸大阪間の航海に要していた日数は、平均すると僅か数日程度であり、京大阪間の徒歩での移動日数を二日としても、陸路の約三分の一の速さでした。
但しこの回船は、目的地へいち早く荷物を届けるための船で、元より船旅を楽しむための操船などしていませんし、ましてや貴人を送迎するための船でもありません。
加えてこの数日という日数も、あくまで連日順当に航行した場合の話で、実のところ船は徒歩に比べても遥かに天候の影響を受け易く、一度時化に遭えば港を出ることすら叶わなくなってしまうので、終ってみれば歩いた方が早かったなどということも度々ありました。
但しこの回船は、目的地へいち早く荷物を届けるための船で、元より船旅を楽しむための操船などしていませんし、ましてや貴人を送迎するための船でもありません。
加えてこの数日という日数も、あくまで連日順当に航行した場合の話で、実のところ船は徒歩に比べても遥かに天候の影響を受け易く、一度時化に遭えば港を出ることすら叶わなくなってしまうので、終ってみれば歩いた方が早かったなどということも度々ありました。
里数を日数に換算すると
そこでそうした実情も踏まえて、実際の平均的な所要日数を調査してみると、大体において江戸大阪間の航海に四半月、徒歩の約半分というのが現実的な目安となるようです。
そして同じ距離を進むのに要する時間が半分ということは、同じ時間内で倍の距離を進むということですから、徒歩の陸行で一日に進む距離が百里ならば、船での水行は一日で二百里を進むということになります。
以上の計算式を用いて、帯方郡から不弥までの里数を日数に換算してみると、次のようになります。
そこでそうした実情も踏まえて、実際の平均的な所要日数を調査してみると、大体において江戸大阪間の航海に四半月、徒歩の約半分というのが現実的な目安となるようです。
そして同じ距離を進むのに要する時間が半分ということは、同じ時間内で倍の距離を進むということですから、徒歩の陸行で一日に進む距離が百里ならば、船での水行は一日で二百里を進むということになります。
以上の計算式を用いて、帯方郡から不弥までの里数を日数に換算してみると、次のようになります。
帯方郡から狗邪韓国までは舟で三十五日である。
狗邪韓から対馬までは舟で五日である。
対馬の大きさは徒歩で四日である。
対馬から壱岐までは舟で五日である。
壱岐の大きさは徒歩で三日である。
壱岐から末蘆までは舟で五日である。
狗邪韓から対馬までは舟で五日である。
対馬の大きさは徒歩で四日である。
対馬から壱岐までは舟で五日である。
壱岐の大きさは徒歩で三日である。
壱岐から末蘆までは舟で五日である。
末蘆から伊都までは徒歩で五日である。
伊都から奴、奴から不弥は、それぞれ徒歩で一日である。
伊都から奴、奴から不弥は、それぞれ徒歩で一日である。
実際に要する水航距離と日数
一見すると対馬海峡の渡航に半月というのは、些か日数が掛かり過ぎのようにも思えます。
確かに一度海へ乗り出してしまえば次の目的地までは一日で着きますし、条件さえ揃えば対馬海峡を一日で縦断することさえ決して不可能ではありません。
但しそれはあくまで海上の移動に費やす時間であって、出向のための待ち時間は含まれませんし、それぞれの目的地(各国)同士が一筆書きの航路で結ばれている訳でもありません。
対馬を例に見てみると、狗邪韓から来る舟の入港地と、壱岐へ向かう舟の出港地が同じとは限りませんし、そもそも入港地や出港地は潮流や気象によっても常に変ってきます。
対馬一島を経由するだけでさえ、場合によっては島内で何度も津浦を回らねばならず、奈良時代から平安初期の頃の租税運搬や国司往来の記録を見ても、朝廷の定めた大宰府と対馬の間の公的な行程は四日となっているものの、やはり現実には移動時間と所要日数が同じということはありませんでした。
一見すると対馬海峡の渡航に半月というのは、些か日数が掛かり過ぎのようにも思えます。
確かに一度海へ乗り出してしまえば次の目的地までは一日で着きますし、条件さえ揃えば対馬海峡を一日で縦断することさえ決して不可能ではありません。
但しそれはあくまで海上の移動に費やす時間であって、出向のための待ち時間は含まれませんし、それぞれの目的地(各国)同士が一筆書きの航路で結ばれている訳でもありません。
対馬を例に見てみると、狗邪韓から来る舟の入港地と、壱岐へ向かう舟の出港地が同じとは限りませんし、そもそも入港地や出港地は潮流や気象によっても常に変ってきます。
対馬一島を経由するだけでさえ、場合によっては島内で何度も津浦を回らねばならず、奈良時代から平安初期の頃の租税運搬や国司往来の記録を見ても、朝廷の定めた大宰府と対馬の間の公的な行程は四日となっているものの、やはり現実には移動時間と所要日数が同じということはありませんでした。
これは実際に航行する距離についても言えることで、もともと舟は陸から遠く離れた航路を走るため、近隣の港へ行くにも海岸に沿って進む訳ではなく、一旦沖へ出て迂回するような形で移動することになります。
従って目的地が近距離の場合は、歩いた方が遥かに早いということも多くなります。
対馬壱岐間の渡海一つを取っても、対馬を出港した舟は決して直線的に壱岐へ向かう訳ではなく、現実の航路は大きく弧を描くような軌跡となります。
加えてそれぞれの島内で複数の津浦を経由するならば猶更のこと、実際に走破する航路の総延長は最短距離の何倍にもなる訳で、海に不慣れな魏の使者にとっては、仮にそれが千里もの行程に感じたとしても決して不自然な話ではありませんでした。
従って目的地が近距離の場合は、歩いた方が遥かに早いということも多くなります。
対馬壱岐間の渡海一つを取っても、対馬を出港した舟は決して直線的に壱岐へ向かう訳ではなく、現実の航路は大きく弧を描くような軌跡となります。
加えてそれぞれの島内で複数の津浦を経由するならば猶更のこと、実際に走破する航路の総延長は最短距離の何倍にもなる訳で、海に不慣れな魏の使者にとっては、仮にそれが千里もの行程に感じたとしても決して不自然な話ではありませんでした。
無論これは陸路であっても同じことで、例えば40㎞先に見える山へ徒歩で向かうとして、そこに直線道路でもあれば一日で到着するかも知れませんが、地形や道順によって道のりは大きく変わるでしょうし、実際に歩いてみなければ何日掛かるかも分かりません。
日数を里数に換算すると
次いでこの計算式を不弥以降にも当てはめてみると、もともと不弥から邪馬台までは日数で表されていますから、不弥以前とは逆に日数を里数に換算する作業となります。
すると不弥から投馬までは水行二十日ですから里数にして四千里、投馬から邪馬台までは水行十日陸行一月ですから里数にして五千里という解答が得られます。
面白いのは不弥から邪馬台までの九千里という数値で、改めて狗邪韓から邪馬台までの行路を方位と共に見てみると、まず狗邪韓から末蘆までは南へ水行三千里、末蘆から伊都を経由して奴までは東南へ陸行六百里、奴から不弥までは東へ同じく陸行百里、不弥から投馬を経由して邪馬台までは水行九千里となり、末蘆から不弥までの陸行の横移動はほぼ無視できますから、狗邪韓から邪馬台までは南へ一万二千里という結論が導き出される訳です。
次いでこの計算式を不弥以降にも当てはめてみると、もともと不弥から邪馬台までは日数で表されていますから、不弥以前とは逆に日数を里数に換算する作業となります。
すると不弥から投馬までは水行二十日ですから里数にして四千里、投馬から邪馬台までは水行十日陸行一月ですから里数にして五千里という解答が得られます。
面白いのは不弥から邪馬台までの九千里という数値で、改めて狗邪韓から邪馬台までの行路を方位と共に見てみると、まず狗邪韓から末蘆までは南へ水行三千里、末蘆から伊都を経由して奴までは東南へ陸行六百里、奴から不弥までは東へ同じく陸行百里、不弥から投馬を経由して邪馬台までは水行九千里となり、末蘆から不弥までの陸行の横移動はほぼ無視できますから、狗邪韓から邪馬台までは南へ一万二千里という結論が導き出される訳です。
郡から邪馬台までの里数と日数
そして帯方郡から邪馬台までを里数で統一してみると、郡から狗邪韓までが七千里、対馬海峡が三千里なので、郡から倭本土までは丁度一万里、不弥から邪馬台までが九千里なので、これに末蘆から不弥までの端数を合わせると、松蘆から邪馬台までが同じく約一万里という計算になります。
次に日数で統一してみると、郡から狗邪韓までが三十五日、対馬海峡が十五日なので、郡から倭本土までは五十日、不弥から邪馬台までは六十日なので、帯方郡から邪馬台までは日数にして四ヵ月、里数にして二万里という至って形式的な数値を読み取ることができます。
但し当の倭人伝では帯方郡から邪馬台までの道のりを万二千里としており、それが『魏志』以降の史書にも無条件に引き継がれて行く訳ですが、この数値が導き出された根拠についてはよく分かりません。
次に日数で統一してみると、郡から狗邪韓までが三十五日、対馬海峡が十五日なので、郡から倭本土までは五十日、不弥から邪馬台までは六十日なので、帯方郡から邪馬台までは日数にして四ヵ月、里数にして二万里という至って形式的な数値を読み取ることができます。
但し当の倭人伝では帯方郡から邪馬台までの道のりを万二千里としており、それが『魏志』以降の史書にも無条件に引き継がれて行く訳ですが、この数値が導き出された根拠についてはよく分かりません。
歴史の難問ですな、秦野北斗-youtube
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