「岡崎正義のかわら版」

スピリチュアルカウンセラー「岡崎正義」が、日々感じるこの世の事象を綴っていきます。

宗教・信仰との関わり方。・・・本来は、「依存」ではなく、人生の「糧」であるべき

2014年02月16日 15時37分58秒 | 宗教・信仰

  こんにちは、スピンクルです。

久しぶりの休日となりました。

 さて今日は、皆様の身近なジャンルでもある、「信仰・宗教」について触れてみたいと思います。 

 皆様の周りでも、ご友人やご家族、もしかしたらあなた自身も、何かしらの「信仰」を持っているかもしれません。
そして、巷には把握できないほどの「宗教」も存在しています。

 この、宗教や特定の「信仰」とは、本来どうあるべきか、またどう付き合うべきか?

  私が日々感じている事は、あまりにも「信仰」に依存している方が、少なくないということです。
 そして、どちらかというと、「教義」よりも「教祖」もしくは「その宗教のリーダー」に心酔しているということです。
 仏教・キリスト教・イスラム教・・・等、数多くの宗教・宗派がありますが、もともとは、「人生をより充実して過ごす方法」
という点で、みな共通の「目的」を持っていたと思います。

 しかし、さまざまな歴史を辿ることで、多くの宗教・宗派に分派して現在に至っておりますが、
場合によっては、自分達の「正統性」を主張するために、同じ宗教・宗派同士対立している状況もございます。


 ここ日本では、さすがに外国のように「聖戦」と称して戦争をする事はありませんが、対立派・教団に対しては、
 言葉による「聖戦」を繰り広げている点では、あまり大差はないのかもしれません。
さすが「精神を重んじる日本」ならではの戦いだと思います。(笑)

 では、なぜ本来あるべき「人生を豊かに過ごす」為の宗教・信仰が、対立の火種になるのか?

 それは、その宗教に「依存」しているのに他ありません。
加えて、宗派・教団の利害関係がそうさせているのです。

 さらに言えば、とても素晴らしい教義を持っているのに、実態はそうでない場合、たいがい「教団のリーダー」に
「依存」している場合が、その最たる理由なのです。

 人が信仰に目覚める際、最初は「素晴らしい教義」に惚れこむのだと思います。
そして、真剣に「人生を豊かにしようと」信仰活動に励むのだと思います。

 ですが、もしかしたら多くの方は「教義」ではなく、その教えをもたらした「リーダー」や「教団」に惚れこむ、すなわち
「依存」していっているのではないのでしょうか。 

 ですので、その宗派や教団が問題なく信仰に励んでいるうちは良いのですが、一たび他の宗派や教団と対立関係になった時、
若しくは、当初の教義とずれ始めた時、なかなかその信仰から距離を置く事が難しいのではないでしょうか。

 第三者から見れば、「早く離れたら良いのに・・」と思っていても、その当事者がそうしない時、心の中ではどんな事が起きているのでしょうか。

 それは、「崖っぷちの私を救ってくれたあの教祖様・リーダーを見捨てる事は出来ない・・」、、もしくは「私がこれまで信仰してきたこの教団が間違いを犯すわけがない!」という、物凄く大きな「集団依存」が働いているからです。

 冷静に考えれば、教義や活動方針が変わった時点で、その信仰から離れるのが、当初の目的であった「幸せになるため」を実現するための近道なのですが、残念ながらそうならないのが、多く見受けられます。

 日常生活でもそうです。
親と兄弟と友人と家族と楽しく幸せに過ごすために始めた信仰のはずなのに、場合によっては「対立の火種」になる事がある信仰。
本当は、豊かな心をはぐくみ、この世の人生を楽しく過ごすための「ツール」でなければなりません。


 では、本当の「信仰」とは何でしょうか?
それは、「自分を信じて」、「無限の可能性を気付かせ」、「自分の力で乗り越える事が出来る」事を、教えてくれる教義です。

 では、そのような宗教・信仰は存在するのでしょうか?

 実は、遥か昔すべての宗教は、そこを原点として出発しているのです。
もちろん、表現方法は異なりますが、教祖・宗祖と呼ばれている方達は、もれなくその「教義」に基づいていおります。

 決して、どこかの見えない「神」や「仏」に、ましてや「自分」に、「依存しろ」とは一言も言っていないのです。

「この世の仕組み、あの世の仕組みを理解して、どんな状況でも乗り越える能力がある事に気付き、充実した人生を送れる己を
まず信じなさい。」と、言っているだけなのです。

 それが、その教えを守るべき弟子たちや信仰者たちの伝聞や、誤解を含んだ「解説書」が時を経て重みを増し、
時には「教義」が変化し、時にはその「教祖」が神となり、現代に伝わったのだと思います。

 
 最後に、「信仰」とは決して「救われる」ものではありません。奇跡が起きるものでもありません。
 
 「確かに病気が治った!」
 「命を救われた!」
 「経済状態が好転した!」

 もしかしたら、こう思う方もいらっしゃるかもしれませんが、これは全て「あなた自身本来の能力」なのです。
その能力を、その信仰している宗教が「引き出した」に過ぎません。

 信仰は何が正しくて何が間違いという事はありません。
自分にとって、周りにとって、「より良い人生を歩めるツール」かどうかが、判断のベースになるべきなのです。

 周りに迷惑を掛けず、自分に迷惑がかからない信仰を、皆さんも心掛けていって下さい。

 それでは、本日はこの辺で。 

  


  


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