白秋ながや文庫

日々の徒然。

聖なる予言~より

2008年01月13日 | インポート
企業防衛なる尋問者が増えている。格差のボーダーラインを決めるのは上から見た場合には、よほど中庸であるかに配慮しないと、地が無ければ天はなしと思うが、昨今の通信と放送の層論議には、やはり恣意てきな危惧の胸騒ぎを覚えて仕方がない。通信側の知識人の論理と放送側の知識人の論理を比較しても、いまや斜陽のマイノリテイに思える(私自身キングオブホビーと思っているが)ハムも法でマナーやペナルテイが用意されていたが、昨今の移動体通信やネットの大衆消費ツールとしての普及率で、もはやハムは電気代で楽しめたが、ライフラインに近いシェアの位置を増幅させる通信事業のつなみに流されたように思える。・・・それはそれとして、日本丸の浸水の穴をふさぐかという点においては、基幹媒体との包括法論議には、個人的には、ハムも放送も国際、国内法の域でここまできていたので、単にヨーロッパだけの事例だけではなく、米あるいは独自の路線のあり方の猶予があってほしかなあと思ったり、かりに浸水が急務であるからとりあえず穴をふさぐには必要だ。と計り知れないカンフル剤の要素があるとすれば流れを傍観するしかないとは思いますが。 少なくとも大いなるマジョリテイ側の知識人には格差現象に尋問的な流布の発言を流行らせてもらいたくないと願いたいものです。必要なのかもしれませんが? ・・・人は育ってきた家庭環境によって、他人からエネルギーを奪う癖を持っている。攻撃的にむりやり人の注意を自分に向けさせるか、受身的に人の同情や好奇心に働きかけて注意を引くかする方法があり、それは大きくわけて脅迫者、尋問者、被害者、傍観者 のドラマに分けられます。 *********************** 「尋問者」は他人からエネルギーを得るために、批判的になる。誤りを見つけ出すという特定の目的をもって、尋問しては他人の世界に介入する。誤りを見つけ批判する。その戦略が成功すると、批判された人はドラマに引きこまれる。尋問者のまわりいると、自分のことが急に気になり、言動に注意を払い、間違った事をして尋問者に見付からないように気をつける。批判されないように行動しがちになり、自分のエネルギーが吸い取られ「自分」が失われるが、それは相手がどう思うかによって、自分自身を判断しているから。 「被害者(犠牲者)」は、同情をひくことによって譲歩と注目を勝ち取ろうとする。自分に起きたひどい出来事を話し、いかにも相手に責任があるように匂わせ、もし助けてくれなければひどい出来事はずっと続くと訴える、受身的なレベルで他人をコントロールする人。「被害者」と一緒にいると、何の理由もないのに罪悪感を感じ、自信を失い、この人の為に十分尽くしていないのだと思う程に追い込まれてしまう。 「傍観者」はよそよそしく、無関心で、あいまいな返事しかしない。何か理由があって自分のことを人に知られたくない場合と違い、相手がこの人は話をしたくないのだ、と結論を出して他に注意を移してしまうと、戻って来ては自分との会話に引き戻すために何か言い出す。自分の方にエネルギーを取り込むために、心の中でドラマを作り、自分の内にひきこもり、神秘的で謎めいてみせる。誰かがこのドラマにひっぱりこまれて、何が起こっているかを探り出してくれないかと待ち望むが、はっきりしないので、相手は本当の気持ちをわかろうと大変な苦労をし、傍観者にかかりきりになる。長い間相手を引きつけ、困らせておけばおくほど、傍観者はエネルギーを沢山受け取る。 「脅迫者」は相手を言葉や暴力で脅し、脅された人は、何か悪い事が起こるのではないかと恐れて、「脅迫者」に注意を払わざるを得なくなる。その結果「脅迫者」にエネルギーを相手に与えてしまう。 場合によって使い分ける人もいるが、誰もがこの4つの型のどれか支配的なドラマを1つ持っていて、それは子供時代に家族に対してどれが1番効果的だったかによって決まる。 自分のドラマがわかると、無意識的な行動から抜け出す事が出来て、ずっと自由になれる。つまり、その家族に生まれた霊的な理由がわかり、自分が本当は何者なのかが明らかになり始める。 私たちは大体において、他人から自分の行動や癖について、いろいろ文句を言われ続けているが、自分をだめにする癖や思い込みを、客観的に見て、手放して行かなければならない。問題の根本的な原因に焦点をあて、知的理解をおこしたものを見ることが必要である。そうすることで初めて、外的原因に左右されない安らぎが得られる。 (以上「聖なる予言」(P200~208)「聖なるビジョン」(P85~101)より抜粋要約)引用・・・経済的数字統計分析予測に基ずいての戦略もあるでしょう。しかし、そうだとすれば文化社会心理学的要素の視点の予測も相対的に存在余地もあるかもしれないと思ったりします。「人間の関係」五木寛之作には赤い血がながれているように感じるから、言葉に人間の葛藤をおぼえ共感もおぼえます。・・・しかし五木氏ではなく、それとは相反する書物や発言がでてきている。それは逆に血の凍った、又は蛭のように、今後、様々な視点による(例えば経済的視点による、人格評価類型を軸とする尋問者論、脅迫者論がさらに傍観者論、被害者論をさも明確させる発言を持って理論だてした流行させうる)混沌が感じられてしかたがない。・・・ふう、しかたがないか・・・と思う私もすでに大河の一滴の表紙のアンモナイトのごとく、またはムンクの叫びのように傍観、被害への「絶対弱者」の枷の鎖の音がジャラジャラ偲びよって聞こえるようでしかたがない。秋田のなまはげの訪問のように。脅迫と被害、尋問と傍観のバランスの相対性が無常のベクトル。~追記~適当、接点、同化の模索の歩み寄りのよい論理はありえないものか?役割は想像できますが。・・・なんとかならないものですかねぇ。


二十歳の記憶

2008年01月13日 | インポート

 初めての上京。はるか千キロの先。6畳の部屋に寝台車のような簡易型の2段ベットが囲むように4セットあった寮。早朝と夜間に食堂で点呼がある。それでも当時は極楽のような棲家であった。京浜東北線の西川口駅の学生寮。・・・国鉄のバイト、演歌師(流しの弟子)、あるいは放送局でのバイトその他。上京して2年ぐらいは新宿も渋谷も池袋もバイト先の先輩と同行でのゴールデン街や焼き鳥屋ぐらいしか記憶がない。当時は上野、飯田橋、市谷近辺ぐらいしか知らなくて、たまに神宮前、新井薬師、中井、井の頭公園付近の知人宅(3畳、4畳半の下宿が主)でたわいも無い話で時間を過ごすのも楽しかった時代。・・・今ぐらいの季節はアメ横で買った、米軍払い下げのモスグリーンのカメラマンコート風にを羽織っておけば、合理的で、ジーパンと合わせてそれでよし。その後、東京で次兄のところに居候を1年程過ごし(次兄はイギリスに行ったので後は一人暮らしとなるのだが)又、あわただしく凝縮した日々になるのだが。 二十歳ごろに東京を実感したのは新宿の高層ビルやテレビ局これは、華やかな東京を実感した。当時は銭湯通いの身であったが、末端のバイトであったが、風呂が銭湯とは違い広い風呂に心地よい仮眠室に学食より、広い食堂。なによりもバイトであっても、生の歌番組のスタジオでは、田舎でラジオやテレビでしか聴いた事しかない生演奏を毎回体感できるのは商店街の歌謡ショーとはおおちがいの宴であった。そんなたわいもないことが新鮮だった。 ぬいぐるみ人形劇団のバイトも楽しかった。地方に旅気分で同行の大道具さん、照明さんたちと行く先々で夜は飲んで、アングラ(今風だと小劇場かな)芝居をやっている諸先輩たちに文学演劇論など話しを聞くのもやっぱあ、東京におるなあと実感しました。今思えば、伊吹信介とまでもいかないが凝縮された流され吹かれる時間でした。・・・まあブログというものは今を語るものなのでしょうが、成人式はあってなかったような日々の一部の記憶です。

追記~なにせ、地方出身者でしたので蕨市でなんとなく参加した。蕨市は成人式の発祥の地?らしい。