1993年(平成5年)に京楽から登場した新要件デジパチ「遊ぶんジャー」。
京楽初の「カラー液晶搭載デジパチ」として、当時脚光を浴びた。
それまでの京楽といえば、名機「ダービー」に代表されるドットタイプのデジタルでお馴染みだったが、この「遊ぶんジャー」では一転、カラー液晶の鮮明なデジタル画面を採用した。平和の大ヒット機種「麻雀物語」(1991年)を意識したことは明らかであろう。
液晶デジタルには、乗馬やパラシュート、サーフィンなどの「レジャー」をモチーフにした絵柄が採用されており、3と7で当たった場合は小デジタルの確率変動に突入、次回大当りが約束された。確変時は、デジタル上の7セグが赤から緑色に変わる。
ノーマルリーチは絵柄がコマ送りになって進むのだが、スーパーに発展すると効果音が変わり期待度が高まる。大当り手前3コマから絵柄がスクロールを始め、大当たり若しくは1コマ後で停止する。ノーマルでも結構当たりはしたが、やはりスーパーリーチ時の右デジタルの動きには、いつもハラハラさせられたものだ。大当り絵柄を通り過ぎて「残念…」と思いきや、ピュルッと絵柄が戻っての逆転パターンもあった。
そして忘れてならないのは、この機種には確率変動機能に加えて、京楽初となる「保留玉での連チャン性」もしっかり備わっていたということであろう(但し、「京楽系」として見た場合、まさむらの「ザ・ボート」が初の連チャン機にあたる)。それまでノーマルデジパチばかりを出していた京楽だったが、さすがに当時の保留玉連チャンブームにあやかった、ということだろうか。
肝心の連チャンシステムについては、最終ラウンドのVゾーン入賞数が4~7個だった場合に、全保留玉が各1/24で大当りとなる。保留玉での連チャン率は、約15.7%となっていた。
(追記…細かく書くと、V入賞4~7個の場合、一次抽選1/10がフリーパスとなり、1/24の二次抽選をクリアすれば連チャンとなった。)
この台が全国的に出回ったかどうかは分からないが、注文生産で「3万台」の限定販売だった、という資料もある。大人気とはいかないまでも、まあボチボチは導入されていたのだろう。
当時、私の地元(神奈川・某エリア)では設置があまりなく、ちょっと足を伸ばして渋谷の109近くにあった「丸大」というパチ屋(マックの地下。もう潰れた・・・)によく打ちに行っていたのだが、まぁ、いつもガラガラの寂しい店だった。でも、ここの遊ぶんジャーでは相性も良かったのだろうか、結構連チャンもさせて、ちょくちょく勝たせてもらっていた。
余談だが、この遊ぶんジャーを勝負機種としたパチンコ番組が、かつて地上波で放映されたことがある。それはTV東京の「浅草橋ヤング洋品店」という番組であった。「浅ヤン」の愛称で人気のあった情報バラエティ番組で、ご存知の方も多いのではないか。
この番組では、シリーズ物の企画として「パチンコ対決」がたびたびオンエアされたのだが、東京・福生の「巨人ホール」というパチ屋(既に閉店)を舞台に、この企画が行われたことがあった。浅草キッドが進行役を勤め、対戦者として城南電機の名物社長・宮路年雄(故人)やベンツ小林、神保女史、セブン先生、釘師サトヤンなど、時の「名物パチンカー」達が一同に会して出玉バトルが繰り広げられた。
その時の勝負台が、実は「遊ぶんジャー」だったのだが、とりわけ宮路社長が絶好調で連チャンさせまくり、ドル箱を次々と重ねていった。社長の足元には現金2000万円の入ったアタッシュケースが無造作に置かれており、それを見た水道橋博士が「まるで財宝に囲まれたミイラだ」と表現したのは、後世に残る名言である。