43年前の「中耳炎」の手術の失敗で、開けっ放しだった左の目を、6月14日に
庄内病院の形成科の「工藤」先生が手術して、閉じれるようにしてくれました。
今は、43年振りに両目を閉じて眠っています。カサカサもせず、痛くなくて、幸せです。
私の曲がってる口を見て、こんどは「口を治してやるよ!」
このコトバは私には、奇跡のコトバです。あきらめていたよりも、考えてもいなかった。
昔の苦しかった頃の事を思い出すと、涙が止まりません。
今、65才になって、先生と逢えてよかった。先生は私の神様です。
先生におまかせして、19日手術する事を決心しました。
私の手術前の顔って、忘れちゃった。アルバムを開いて探したらありました。
手術失敗の前の22才の時の写真です。
私に楽しい青春ってあったでしょうか。
22才の「中耳炎」の手術の失敗で、夢も一瞬に消えました。
手術が終わって、「鏡を見せて!」と、たのんでも見せてくれなかった母。
やっと見せてくれたのが、一週間たってからでした。
鏡に映ったみにくい顔を見たとたん、泣きじゃくってしまいました。
黒目は時計の振り子のように動き、目は開けっ放し、口は曲がりっぱなし、
牛乳も、食べた物も、手で押さえなければ、ダラダラこぼれて、人の前で恥ずかしくて食べれません。
1度、自殺まではかり、奇跡で生きかえってしまいました。
全部で4か月の間に、6回手術しました。
勤めてた日本航空に辞表を出し、荘内病院の売店をさがしました。
よくこんな、みにくい顔の私を、やとってくれました。
人前に出なくなった私は、仕事をしながら、洋裁、編み物、書道、油絵と夢中になるものを見つけました。
笑わない女の子になってしまいました。
そして母と手を組んで、歩くのが楽しみでした。
こんな小さな幸せが、私の青春でした。
どうして私だけがーーーいつもいつも、落ち込んでいました。
母は、死ぬまで後悔していたでしょう。
お金がなくて、食べていくのが大変で、「中耳炎」で耳からタレていても、医者にかけれなかった事を。
私も「どうして子どもの時、医者に通って、治してもらわなかったなー!」と、母が死ぬまで、一言もせめなかった。
今でも母が大好きです。腕を組みながら歩いた、母のあたたかさは、忘れられません。
母のあたたかさが、私に「希望」をくれたのだと思います。
庄内病院の形成科の「工藤」先生が手術して、閉じれるようにしてくれました。
今は、43年振りに両目を閉じて眠っています。カサカサもせず、痛くなくて、幸せです。
私の曲がってる口を見て、こんどは「口を治してやるよ!」
このコトバは私には、奇跡のコトバです。あきらめていたよりも、考えてもいなかった。
昔の苦しかった頃の事を思い出すと、涙が止まりません。
今、65才になって、先生と逢えてよかった。先生は私の神様です。
先生におまかせして、19日手術する事を決心しました。
私の手術前の顔って、忘れちゃった。アルバムを開いて探したらありました。
手術失敗の前の22才の時の写真です。
私に楽しい青春ってあったでしょうか。
22才の「中耳炎」の手術の失敗で、夢も一瞬に消えました。
手術が終わって、「鏡を見せて!」と、たのんでも見せてくれなかった母。
やっと見せてくれたのが、一週間たってからでした。
鏡に映ったみにくい顔を見たとたん、泣きじゃくってしまいました。
黒目は時計の振り子のように動き、目は開けっ放し、口は曲がりっぱなし、
牛乳も、食べた物も、手で押さえなければ、ダラダラこぼれて、人の前で恥ずかしくて食べれません。
1度、自殺まではかり、奇跡で生きかえってしまいました。
全部で4か月の間に、6回手術しました。
勤めてた日本航空に辞表を出し、荘内病院の売店をさがしました。
よくこんな、みにくい顔の私を、やとってくれました。
人前に出なくなった私は、仕事をしながら、洋裁、編み物、書道、油絵と夢中になるものを見つけました。
笑わない女の子になってしまいました。
そして母と手を組んで、歩くのが楽しみでした。
こんな小さな幸せが、私の青春でした。
どうして私だけがーーーいつもいつも、落ち込んでいました。
母は、死ぬまで後悔していたでしょう。
お金がなくて、食べていくのが大変で、「中耳炎」で耳からタレていても、医者にかけれなかった事を。
私も「どうして子どもの時、医者に通って、治してもらわなかったなー!」と、母が死ぬまで、一言もせめなかった。
今でも母が大好きです。腕を組みながら歩いた、母のあたたかさは、忘れられません。
母のあたたかさが、私に「希望」をくれたのだと思います。