背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

『駅馬車』

2006年05月07日 07時22分05秒 | アメリカ映画

 ジョン・フォードの『駅馬車』を観た。25年ほど前にテレビで一度見たことがあったが、そのときビデオで録画してあったのを先日たまたま発見した。実を言うと、私は西部劇をずっと見ないで通してきた。最後に見たのがこの『駅馬車』だったのだから、25年近いブランクがあった。その間、アメリカ映画は恋愛映画とサスペンスしか見なかった。西部劇をなぜ見なかったかと言うと、埃っぽく乾燥している感じの画面を見たいと思わなかったから、そして、アメリカ的な粗暴な男たちが出て来る映画を、見る気が起こらなかったからだった。西部劇は概してストーリーも人間の描き方も単純だという固定観念があったのもいけなかった。ただ、ジョン・フォードの映画は特別だという印象だけは持っていた。それが、最近になって老化現象が始まったのか、昔の東映時代劇ばかり見始めて、勧善懲悪の単純明快なストーリーを好むようになってきた。老人が『水戸黄門』や『遠山の金さん』ようなものを好んで見るのと同じ傾向である。それで、きっとまた西部劇を見たくなったのかもしれない。
 しかし、『駅馬車』を今度また観て感じたのは、これは決して単純な西部劇ではないということだった。アパッチに襲撃され、疾走する馬車から銃撃するシーン、つまり西部劇らしいシーンはラストの15分くらいで、そこまでに至るほとんどは人間のドラマであり、恋愛のドラマではないか。今更ながら私はそのことに驚いた。確かに最後のちょっと前にある疾走シーンは迫力満点で、すごいなーと感じたが、私がむしろ面白いと思ったのは、馬車に乗り合わせた人々の凝縮された人間模様であった。保安官と御者はあまり個性的ではない。また、ジョン・ウェインも比較的分かりやすい素朴な男である。利己的な銀行家も類型的である。私の興味をそそったのは、男では小市民的な商人(ピーコック)と飲んだくれの医者と偽善的な賭博師の三人だった。この三人がなかなか人間的に奥行きがあって、いいなと感じた。女は二人乗っていて、淑女ぶった妊婦と酒場の売春婦であるが、私は後者の女に引き付けられた。ダラスという名前で、クレア・トレヴァーという女優が演じていたが、彼女がとても印象的に思えたのだった。彼女はもともと出発地の町の婦人たちから追い払われるようにして馬車に乗ったのだが、みんなから冷ややかな目を浴びて、また自分でもそれを意識して初めは小さくなっている。途中で馬車に乗り込んだジョン・ウェインがこの女に対しなぜか優しく接する。この女は彼の気持ちがよく分からなかったが(私も同じで分からなかったが…)、妊婦が出産する前後からジョン・ウェインがこの女のけなげさや優しさに心を打たれ、次第に好きになっていく。このあたりからのクレア・トレヴァーの心の動きを表した表情や振舞いが見ものだった。産後の女を看護している時や赤ん坊を抱いている時の彼女は大変母性的であり、人のために尽くしているという充実感に満ちていた。ジョン・ウェインから求愛された時、またその後の彼女の心理表現も卓抜だった。最後の疾走シーンの後、目的地にたどり着いて、ジョン・ウェインに自分の働いていた売春宿まがいの酒場を見せなければならなくなった時の彼女の身を切るような悲しさ、それでも結婚を望まれたときの彼女の天にも昇る喜び。私が『駅馬車』で何を見ていたかというと、明らかに途中から最後まで、クレア・トレヴァーの演じた女の心の動きであった。私は自分がまったく西部劇としてこの映画を観ていないことに気がつき、奇妙な気持ちになった。と同時に、ジョン・フォードのこの作品からこの上なくヒューマンな心暖まる感動を覚えたのだった。

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ジェーン・フォンダ

2006年02月25日 19時37分42秒 | アメリカ映画

 ジェーン・フォンダにぞっこん惚れていた時期がある。あの豹のような顔、ぐっと見つめる鋭い目つき、意志の強そうな口元、そして、豊満でも痩せぎすでもない締まった肢体に魅せられていた。女とはこういうものだと、中学生の私は思った。もう今から40年も前のことだ。ジェーン・フォンダ(1937年~)に強く惹きつけられた最初の映画は、忘れもしない、「危険がいっぱい」(1963年)だった。フランスのルネ・クレマンが監督し、アラン・ドロンと共演したサスペンスあふれる白黒映画で、私は一発でジェーン・フォンダという女優のとりこになった。あの美男子アラン・ドロンを意のままに操り、時には弄ぶほどの魅力的ですごい女だった。もちろん、これは映画の役柄に過ぎなかったとはいえ、私の目には、ドロンでさえ、彼女の前ではかしずきそうな予感を抱いた。これは後で知ったことだが、「危険がいっぱい」というフランス映画に出演したことはジェーン・フォンダにとって人生の転機になった。ドロンが彼女を友人の映画監督ロジェ・ヴァディムに紹介したからである。
 ロジェ・ヴァディムという男は、男性の映画ファンにとっては羨望の的というか、嫉妬の対象にすらなった監督である。ドン・ファン監督とさえ言われ、若くて美しい女優を餌食にして映画を作ることで有名だった。カトリーヌ・ドヌーヴの後釜として、ヴァディムは事もあろうにジェーン・フォンダに手をつけた。ドヌーヴもフォンダも好きな私としてはヴァディムという男は憎き敵(かたき)なのだ。しかし、もうそのヴァディムも今はこの世に無い。

<ロジェ・ヴァディム(1928年~2000年)>
 ドロンに紹介され、ヴァディムはジェーン・フォンダを自作「輪舞」(1964年)に出演させた。制作時の二人のアツアツぶりはジャーナリズムの話題をさらったほどだと言う。ドヌーヴとは二年間の同棲生活の末、子供まで孕ませて彼女を棄てたヴァディムだったが、フォンダとは「輪舞」の直後に結婚した。そして、二人の結婚生活は八年続く。
 ヴァディムが若妻ジェーンを主役にして撮った映画は、「獲物の分け前」(66年)と「バーバレラ」(68年)である。どちらも、映画の出来はそこそこなのだが、ジェーン・フォンダだけは最高に輝いていた。先日、「獲物の分け前」を再見した。ストーリーは今にしてみればありきたりで、近親間の不倫話である。フォンダは20歳も年の離れた金持ちの実業家(ミッシェル・ピコリ)の妻の役。郊外の豪邸で若いピチピチした肉体をもてあまし、仕事で留守がちな夫に対し性的不満を抱いている。家には大学生の義理の息子(夫の連れっ子)が同居していて、二人とも我慢ができず、ついにただならぬ関係になってしまう。そして、二人で駆け落ちしようとする。この映画の中で、フォンダはセミ・ヌードを披露し、魅力の限りを振りまいている。

<獲物の分け前>
 この頃のフォンダは、演技力はまだまだ (後に開眼する)だが、しなるような瑞々しい肢体には男ならしゃぶりつきたくなるだろう。いや、ムチでも打ちたくなる。そんな男の願望に対し、これでもかと見せ付けた映画が次作「バーバレラ」だった。これはSF的な作品で、ジェーン・フォンダの衣装の大胆さが評判になった。私は高校生の時、封切りで「バーバレラ」を見て、彼女に圧倒されたのを覚えている。ぜひもう一度見たい映画だが、フォンダの魅力だけで成り立っていた作品なので、今見たら失望しそうな気もしている。(冒頭に掲げた写真は「バーバレラ」の彼女である。)
 他にもジェーン・フォンダの出演作はたくさんある。アメリカ映画では、デヴュー作「のっぽ物語」(60年、アンソニー・パーキンス演じるバスケットボール選手との青春恋愛ドラマ)、「裸足で散歩」(67年)、「ひとりぼっちの青春」(69年)が佳作である。そして、ヴァディムとの仲が冷え切っていくにしたがい、ジェーン・フォンダは別の面で過激になっていく。いわゆるセクシー女優から脱皮して、演技派女優の道へと歩み出すと同時に、反戦運動の女闘士としても活躍し始めた。演技派への転身は歓迎すべきことであったが、なりふりかまわず政治活動に傾いていく彼女を見ることは、ファンのわれわれにとって大きな驚きで、いささか眉をひそめたくなる言動に思えたことも確かである。
 その後、「コール・ガール」(71年)、「ジュリア」(77年)、「帰郷」(78年)、「チャイナ・シンドローム」(79年)、「黄昏」(81年、生き別れずっと恨んでいた父親ヘンリー・フォンダと共演した名作)と、ジェーン・フォンダは次々と大作に挑戦し演技派女優としての地位を築いていく。が、もうこの頃には、彼女への私の熱情もすっかり冷めていたのだから、ファンというのも気まぐれなものだ。女優への熱き思いは、映画の良し悪しとは無関係に、ファンの心の中で勝手に募っていくものなのかもしれない。
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ドリス・デイの「夜を楽しく」

2006年02月25日 15時49分17秒 | アメリカ映画

 ドリス・デイとロック・ハドソン共演のロマンティック・コメディ「夜を楽しく」(1959年)を見た。この映画、昔テレビで見たことがあった。その時は、とても楽しい映画だと思っただけだったが、今もう一度見ると、ハッピーな気分を通り越して、懐かしさで胸が一杯になった。古き良き50年代のアメリカに久しぶりに再会したとでも言おうか。今のアメリカ、私が嫌いになってしまったアメリカとは違う、私が好きだった頃のアメリカがそこにはあった。そして、前向きで底抜けに楽天的なアメリカ人がいた。
 ドリス・デイ。彼女は女優というよりも大衆的な歌手だった。いや、50年代にアメリカ人に最も愛された女性芸能人と言った方が良いかもしれない。決して美人ではないが、家庭的で親しみやすく、ひと頃アメリカでは結婚したい女性のナンバーワンだったかと思う。(同時代のマリリン・モンローは恋人にしたい女性ナンバーワンだった。)調べてみると、ドリス・デイは父親がドイツ人で(そう言えば、彼女はドイツ人っぽい顔をしている)、そして本名がやたらと長い。ドリス・メアリー・アン・フォン・ケッペルホッフ。それに比べ、芸名はずいぶん縮めたものだ。あの明るい人柄からは想像できないが、実生活では大変不幸だったようだ。両親の離婚(8歳の時)、交通事故(14歳)、若くして結婚・出産・離婚(なんと18歳)。ドリスの大ヒット曲「センチメンタル・ジャーニー」は、1944年彼女が20歳の頃の歌である。愛する者との惜別を歌った悲しい曲だが、きっと自分の気持ちを込めて歌ったのだろう。そして、一躍人気歌手になり、二度目の結婚をするが、1年もせず離婚。その後映画界にデヴューし、また結婚。仕事が多忙で、ノイローゼに罹り、三番目の夫とも死別(43歳の時)。映画女優を引退してしまう。(以後テレビのショー番組にだけ出演していた。)その間、ドリス・デイは歌に映画にとあの元気と愛嬌を振りまき、人々を幸福にしてきた。ヒット曲には「二人でお茶を」「先生のお気に入り」「ケセラセラ」などがあるが、他にも良い歌がたくさんある。彼女の歌声を聴いていると、自然と心がぬくもる。私はドリスの歌が大好きである。この映画の原題である「ピロウ・トーク(Pillow Talk)」という主題歌も粋な歌だった。挿入歌「ローリー・ローリー」を歌う場面も圧巻である。
 さて、原題の「ピロウ・トーク」とは、男と女が枕を共にして睦み合う時の会話、つまり「睦言(むつごと)」という意味だが、映画の内容はタイトルとはずいぶんかけ離れていた。ベッド・シーンなど一つもないからだ。邦題の「夜を楽しく」もシャレた訳だが、要するにこの映画は「夜を楽しく」過ごしたいという女性のエロチックな願望を面白おかしく描いたものだった。
 ドリス・デイは、ジャン・モロー(フランス女優ジャンヌ・モローをもじったのか?)という名の売れっ子のインテリア・デザイナーである。今で言うキャリア・ウーマンなのだが、あいにく30歳を過ぎても独身で、恋人もいない。ニューヨークの高級アパートで一人暮らしをしているが、共同電話が悩みの種である。共同電話というのがいかにも旧時代のシロモノで、携帯全盛の今なら考えられないことだが、同じ回線を二軒で分かち合うため、片方がお話中だと一方は電話を使えない。それに互いの会話が筒抜け、盗聴も可能で、第三者として割り込むこともできる。この共同電話のもう一人の使用者がロック・ハドソンで、顔は見たこともないが声だけは知っている男、実は女たらしの作曲家なのだ。朝っぱらから女と長電話、「昨夜は良かった、愛してるよ」みたいな話をしているのだから、堪らない。ピアノでいつも同じラブ・ソングを弾き語り、女の呼び名だけ歌詞を変えて君のために作ったなんてウソをつき、受話器の向こうにいる相手に聴かせたりしている。もう、文句の一つや二つもつけたくなる。途中で割り込み、「いい加減にして、早く切ってよ!」となる。すると、男も負けていない。「欲求不満をこっちにぶつけないでくれ!」男女間の欲求不満は、「ベッドルーム・プロブレム」(bedroom problems)という英語を遣っていた。ずいぶん直接的な表現だ。ドリス・デイが化粧台の鏡に向かい、「ベッドルーム・プロブレム?」と一人つぶやくシーンがあって、この時の表情がなんとも可愛い。ここから、共同電話のパートナーである二人の関係が意外な方向に発展していくのだが、それは見てのお楽しみ。

 ところで、ロック・ハドソン。ハリウッドの二枚目俳優で、50年代後半から60年代にかけて人気絶頂だった。シリアスな演技よりも、ちょっと三枚目的なコミカルな演技をするハドソンが私は好きだった。ハンサムな男優はどうしても大根役者に見られがちで、若い頃はとくにそうだが、年を取ってくると枯れた味が出てくることも多い。ゲーリー・クーパーなんかそうだ。しかし、ロック・ハドソンは、リメイク版「武器よさらば」(1957年)でクーパーと同じ主役を演じたにもかかわらず、60年代半ばを境に映画俳優としてのキャリアをほとんど終えてしまった。あれだけ人気があったのに、中年になると落ち目も早かった。この映画「夜を楽しく」からドリス・デイとの共演が2本続くが、この頃が彼の全盛期だった。そして、ハドソンの最期はみじめだった。1985年のこと。エイズにかかって死んだことが大々的に報道されたのである。享年60歳。当時、エイズ死を遂げた最初の有名芸能人ということで話題を独占したが、なんとも後味の悪い最期だった。「ジャイアンツ」(1956年)で共演したエリザベス・テーラーなど、ハドソンをかばって、マスコミの悪意ある報道を批判したほどである。
 話が急に暗くなってしまった。「夜を楽しく」という映画は、セリフのやりとりが実に面白い。助演者も良い。ハドソンの相棒にトニー・ランドール、彼も欠かせぬ存在だった。家政婦役のセルマ・リッター、彼女もいい味を出していた。フランスの男優マルセル・ダリオも出演していたが、彼だけはちょっとオーバー・アクションで浮いている印象を受けた。
 久しぶりに昔懐かしいアメリカのロマンティック・コメディを観て、今また私はこの手の映画に「はまりそうな」予感がしている。
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ポール・ニューマン

2005年10月22日 16時07分19秒 | アメリカ映画
 ポール・ニューマンが好きだった。ビデオのない時代、映画は映画館に足を運んで見るか、テレビの洋画劇場で見るかのどちらかだった。60年代から70年代の頃、ポール・ニューマンはスティーヴ・マックインーンと並ぶアメリカの人気スターで、この二人のどちらかが主演した映画であれば欠かさず見ていたものだ。もちろんこれは私だけでなく、当時の映画ファンのほとんどがそうだったと思う。だから、ポール・ニューマンの映画は、封切りの映画は映画館で見て、古い映画はテレビで見ていたと思う。
 ポール・ニューマンは若い頃「第二のマーロン・ブランド」と呼ばれていた時期があったという。が、ニューマンのファンから言えば、とんでもない話で、ブランドとは比較すること自体おかしいと思っていた。ニューマンの方が数段上で、カッコ良さも魅力も比べものにならなかった。ブランドは俳優ではあってもスターではないが、ニューマンは俳優であってしかもスターだった。ブランドは暗くて、とっつきにくかったが、ニューマンは明るく愛嬌があって、親しみやすさがあった。ブランドが鳴かず飛ばずの時代、ニューマンはスターへの道を突き進み、多くのファンを獲得して行った。
 私が初めて見たポール・ニューマンの映画が何であったかははっきり覚えていない。「栄光への脱出」だったような気もする。いや、ヒチコックの「引き裂かれたカーテン」だったか?ヘミングウェイ原作の「青年」のような気もしてくる。それはともかく、映画館で「明日に向かって撃て」や「スティング」を見た頃にはすでにニューマンの映画を数本見ていたことは確かだ。「傷だらけの栄光」と「ハスラー」はテレビで初めて見た記憶がある。この二作はニューマンの若い頃の傑作だが、その後私はビデオで何度も見ている。「ハスラー2」はニューマンが脇役に近く緊張感のない映画であまり好きではない。やはり「ハスラー」は旧作に限ると私は思っている。トム・クーズなんていう若造がポール・ニューマンを押しのけて主役を演じることに、どうしても私は抵抗を感じてしまうのだ。
 「熱いトタン屋根の猫」はエイザベス・テーラーとの共演で、演技派ニューマンの面目躍如といった作品だった。「暴力脱獄」は、マックイーンの「大脱走」を意識して作ったような映画だったが、ニューマンのふりまく愛嬌が魅力的で、マックイーンのクールな演技に対し、ニューマンはホットだった。「傷だらけの栄光」より好きな映画かもしれない。
 「タワーリング・インフェルノ」はスティーブ・マックイーンとの初共演だったが、正直言って二人が一緒に出る必要もないと思った。どちらも主役を張れるスターなのだから、一つの映画にずっと出ればよい。要するにファンとしてはスターは画面を占領してもらいたいのだ。マックイーンもニューマンも脇役に渋い男優がいれば十分。女優は華を添える程度でよい。古い言葉でいうと一人で当たりをとれる「千両役者」なのだ。最近映画界にこうした男優もいなくなったなと思う。
 ニューマン主演の最新作(もう古いが)「評決」という映画はビデオで見た。さずがニューマンといった感じで、見終わって彼の久しぶりの熱演に私は思わず拍手してしまった。
<評決>
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ジャック・レモンの変装

2005年10月20日 12時14分47秒 | アメリカ映画
 ジャック・レモンは変装の名人だった。彼ほど変装して巧みに登場人物を演じた俳優もいなかったのではないかと思う。そして、その堂に入った変装ぶりは、見る者を楽しませてやまなかった。
 マリリン・モンローと共演した「お熱いのがお好き」ではトニー・カーティスと共に女装して、ドタバタ劇を演じる。この三人の掛け合いももちろん面白いが、女になったレモンがヨボヨボの金持ちの紳士(ジョー・E・ブラウン)に口説かれるシーンのおかしさといったら、もう笑いが止まらないほどだった。同じくビリー・ワイルダー監督の「あなただけ今晩は」では、イギリス人の紳士に成りすまし、パリの娼婦に入れあげる。娼婦役がシャーリー・マクレーンで、「アパートの鍵貸します」に続いての共演だった。この二人のコンビは絶妙である。「あなただけ今晩は」では、レモンは警官から始まって、失職した後、娼婦のヒモと常連客の紳士という二役を同時に演じる。この映画は一風変わった純愛映画で、娼婦の操(?)を惚れた男が守ろうとする話なのだ。私はテレビの日曜洋画劇場でこの映画を初めて見たのだが、今は亡き淀川さんの熱心な解説を懐かしく思う。きっと淀川さんの好きな作品だったのだろう。
 そして、「グレート・レース」は、レモンの変装が極致に達した映画だった。監督は「ティファニーで朝食を」で名高いブレイク・エドワースで、共演はトニー・カーティスとナタリー・ウッド。助演者には刑事コロンボで人気をとる前のピーター・フォークが出ていた。作品的には傑作とは言えないが、私には思い出深い映画である。中学1年のとき渋谷東急でロードショーでやっているのを小遣いをはたいて見たからだ。そして、ジャック・レモンを見た最初の映画だった。そのとき、なんてアクの強い演技をする俳優なのだろうと思った。大変滑稽な悪役なのだが、表情も声色も大げさで、けたたましい笑い声が妙に耳についた。だからジャック・レモンというとこの第一印象がつきまとい、しばらく離れなかった。その後、「おかしな二人」「幸せはパリで」と見ていくにつれて、徐々にイメージは変わっていった。
 ジャック・レモンは素のままでも十分味のある俳優だった。ユーモアとペーソスが自然とにじみ出る、得がたい個性の持ち主だった。普通に演じてもアカデミー賞くらいはとれる実力派の俳優でもあった。しかし、根っからの役者魂がうずくのか、あるいはエンターテイナーとしての資質からか、彼はそれだけでは満足しなかった。そこがレモンという俳優のすごいところだと思う。突然変異的に奇抜で派手な演技をして、われわれを喜ばせてくれたのだ。このギャップがまた面白かった。レモンは変装に徹するが、観客にはその正体を明かしての上で、である。映画の中で彼の正体は決してバレない。バレそうになることもあるが、うまく誤魔化して急場を乗り切ってしまう。この馬鹿馬鹿しさが、たまらなく可笑しく、観客は彼の熱演に拍手喝さいを惜しまなかった。
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