ジョン・フォードの『駅馬車』を観た。25年ほど前にテレビで一度見たことがあったが、そのときビデオで録画してあったのを先日たまたま発見した。実を言うと、私は西部劇をずっと見ないで通してきた。最後に見たのがこの『駅馬車』だったのだから、25年近いブランクがあった。その間、アメリカ映画は恋愛映画とサスペンスしか見なかった。西部劇をなぜ見なかったかと言うと、埃っぽく乾燥している感じの画面を見たいと思わなかったから、そして、アメリカ的な粗暴な男たちが出て来る映画を、見る気が起こらなかったからだった。西部劇は概してストーリーも人間の描き方も単純だという固定観念があったのもいけなかった。ただ、ジョン・フォードの映画は特別だという印象だけは持っていた。それが、最近になって老化現象が始まったのか、昔の東映時代劇ばかり見始めて、勧善懲悪の単純明快なストーリーを好むようになってきた。老人が『水戸黄門』や『遠山の金さん』ようなものを好んで見るのと同じ傾向である。それで、きっとまた西部劇を見たくなったのかもしれない。
しかし、『駅馬車』を今度また観て感じたのは、これは決して単純な西部劇ではないということだった。アパッチに襲撃され、疾走する馬車から銃撃するシーン、つまり西部劇らしいシーンはラストの15分くらいで、そこまでに至るほとんどは人間のドラマであり、恋愛のドラマではないか。今更ながら私はそのことに驚いた。確かに最後のちょっと前にある疾走シーンは迫力満点で、すごいなーと感じたが、私がむしろ面白いと思ったのは、馬車に乗り合わせた人々の凝縮された人間模様であった。保安官と御者はあまり個性的ではない。また、ジョン・ウェインも比較的分かりやすい素朴な男である。利己的な銀行家も類型的である。私の興味をそそったのは、男では小市民的な商人(ピーコック)と飲んだくれの医者と偽善的な賭博師の三人だった。この三人がなかなか人間的に奥行きがあって、いいなと感じた。女は二人乗っていて、淑女ぶった妊婦と酒場の売春婦であるが、私は後者の女に引き付けられた。ダラスという名前で、クレア・トレヴァーという女優が演じていたが、彼女がとても印象的に思えたのだった。彼女はもともと出発地の町の婦人たちから追い払われるようにして馬車に乗ったのだが、みんなから冷ややかな目を浴びて、また自分でもそれを意識して初めは小さくなっている。途中で馬車に乗り込んだジョン・ウェインがこの女に対しなぜか優しく接する。この女は彼の気持ちがよく分からなかったが(私も同じで分からなかったが…)、妊婦が出産する前後からジョン・ウェインがこの女のけなげさや優しさに心を打たれ、次第に好きになっていく。このあたりからのクレア・トレヴァーの心の動きを表した表情や振舞いが見ものだった。産後の女を看護している時や赤ん坊を抱いている時の彼女は大変母性的であり、人のために尽くしているという充実感に満ちていた。ジョン・ウェインから求愛された時、またその後の彼女の心理表現も卓抜だった。最後の疾走シーンの後、目的地にたどり着いて、ジョン・ウェインに自分の働いていた売春宿まがいの酒場を見せなければならなくなった時の彼女の身を切るような悲しさ、それでも結婚を望まれたときの彼女の天にも昇る喜び。私が『駅馬車』で何を見ていたかというと、明らかに途中から最後まで、クレア・トレヴァーの演じた女の心の動きであった。私は自分がまったく西部劇としてこの映画を観ていないことに気がつき、奇妙な気持ちになった。と同時に、ジョン・フォードのこの作品からこの上なくヒューマンな心暖まる感動を覚えたのだった。