背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

『外人部隊』(その1)

2015年01月14日 16時31分16秒 | フランス映画


1934年5月、フランス公開。1935年、日本公開
白黒スタンダード 120分(DVDは109分)

監督:ジャック・フェデール
脚本:ジャック・フェデール、シャルル・スパーク(台詞も)
音楽:ハンス・アイスラー
撮影:ハリー・ストラドリング、モーリス・フォルステル
美術:ラザール・メールソン
助監督:マルセル・カルネ、シャルル・バロワ
編集:ジャック・ブリルアン

 行進していく兵隊の足音と鼓笛隊の合奏が悲しく、いつまでも耳に残る。
 ジャック・フェデール監督の『外人部隊』は、死ぬ運命にある男たちと彼らの身近にいる水商売の女たちに対し、やさしい眼差しを注ぎ、愛惜の念を込めながら人生のはかなさを描き出した悲劇的なドラマである。そのヒューマニスティックな描き方が、見る者の心に感動を生むのだろう。

 北アフリカの仏領モロッコ。外人部隊の駐屯地がある町の歓楽街に、「フォリー・パリジェンヌ(パリの狂乱)」というキャバレーと、中年男女が営むカフェ兼連れ込みホテルがある。外人部隊の兵士も酒場の女も売春婦も、故郷を捨て、流れ着いた者たちである。ここには気だるく沈殿した空気と隔離されたような息苦しさが漂っている。が、それは灼熱の地モロッコだからというだけでなく、人生の転落者や敗残者たちの嘆息と倦怠に満ちているからでもある。酒場の喧騒にも人間の悲哀があり、渇きを癒す享楽のなかにも虚無感が感じられる。そんなムードの中でこの映画は展開されていく。
 そうした世界にいても、男というのは過去の思い出に縛られ、苦しんだり、そこから逃げ出そうとあがいたりする。それに対し、女は意外にすっぱりと過去を切り捨て、不幸でも現実を受け入れてたくましく生活している。男は自己愛のかたまりで不幸な境遇に満足できず、女はどんな運命をも甘受し人生を悟っている。男は愚かで、女は賢いのである。この映画の登場人物を見ていると、男と女をそのように捉え、描いていることに気づく。これは、監督のフェデールと脚本を書いたシャルル・スパークの人間観なのではないかと思うが、男と女のドラマをこうした観点で作っているために、決してロマンチックな恋愛映画にはならない。

 パリの名門の御曹司ピエール(ピエール・リシャール=ウィルム)は、贅沢で気ままなフローランス(マリー・ベル)という美女に入れ込み、財産を食いつぶし、投機に失敗して莫大な負債まで作ってしまう。一族の名誉を重んじる伯父と義兄から国外追放を命じられ、ピエールは、フローランスを誘うのだが、金の切れ目が縁の切れ目で、体よく断られる。女に見捨てられたピエールは、結局、一人でフランスを離れ、志願して外人部隊に入る。この男、破滅型で自分を反省することもない。傍から見れば、彼の転落は自業自得であり、同情の余地はないように思われる。が、この映画は、こういう自堕落でダメな男を主人公にして、決して冷たく突き放さず、まるで憐れんでいるかのように描くわけである。
 ピエールは、外人部隊に入っても、別れた恋人のことが忘れられず、未練がましく愚痴をこぼして嘆いたり、思い出してはヤケを起こしたりしている。酒をガブ飲みするのも彼女を忘れるためである。そのくせ彼女からもらったライターを大切に持っていて、酔った勢いで、ライターを窓へ投げつけたりする。ピエールが愚痴ばかりこぼすので、同僚で親友のニコラ(ジョルジュ・ピトエフ)にいい加減にしろと怒鳴られる始末である。
 脇役のニコラは、大変印象に残る人物である。彼はロシアの移民で、ヨーロッパ各地を転々とし、外人部隊に入って、モロッコを自分の死に場所に決めている。外人部隊に入るというのは過去を精算するためでもあるのだが、ニコラはそれを弁えて自分の過去を誰にも語ろうとしない。親友のピエールにも何も語らない。ニコラはピエールよりもずっと大人で、苦い体験も積んでいる男なのだろう。しかし、過去を精算したと言っても、やはり懐かしい思い出をすべて捨て去るわけにはいかない。そのことがあとで分かる。ホテルの部屋の戸棚にロシア時代の思い出の品を隠していたのである。愛馬の写真、故郷の土、自分の顔写真が掲載されたロシアの新聞など。やはりニコラも心の奥では過去に縛られていたにちがいない。

 女の登場人物では、カフェ兼ホテルの女将ブランシュがこの映画の鍵を握っている重要な人物である。この役をフェデール監督夫人のフランソワーズ・ロゼーが見事に演じている。ブランシュは、厚化粧で魔女のような黒い服を着ているが、いつも所在なげで大儀そうである。カフェの外へは出ず、爪の手入れをしたり、煙草をすったり、飴をなめたり、小型扇風機で脇の下に風を当てたり、またトランプ占いなどをしている。ブランシュは、このホテルの主人のクレマン(シャルル・ヴァネル)の妻ではない。子供もいない。過去に何をしていたのかは分からない。この映画ではブランシュの身の上や過去をまったく明かしていない。もしかすると売春婦だったのかもしれない。クレマンの情婦になって、いっしょにこの街へ流れて来たのだろうが、ここで長年、旦那のクレマンと生活をともにしている。ブランシュは年齢的にも色事は終わったようで、今はただ馴れ合いでクレマンと暮らしている。二人は、食事の時以外、会話も少なく、キスをすることもない。旦那のクレマンは、キャバレーに女を送り込む女衒のようなことを裏でやっていて、自分のホテルの女中に手を出して、いまだにその方はお盛んである。ブランシュは旦那の浮気を気にもかけず、認めているようだ。
 そんなブランシュが、外人部隊の兵士二人、若いピエールとニコラには目をかけ、愛情を注ぐのだ。母性愛とも言えるが、一方通行の異性愛のようでもある。色恋を終えて久しい中年女の残り火のような愛情なのだろう。



 ブランシュがピエールにせがまれ、トランプで彼の運勢を占うシーンは、この映画のポイントになる重要な場面である。ブランシュが、「グラン・ジューgrand jeuという占いをやってあげるわ」とピエールに言うセリフがあるが、この映画の原題であるLe Grand Jeu(ル・グラン・ジュー)は、実はこの運勢占いのゲーム名だったことが分かる。『外人部隊』という邦題はそのものずばりだが、原題は意味深いタイトルのようだ。フランス語の名詞jeuは英語のplayにあたるが、「遊び」「ゲーム」「賭け事」「トランプの手札」のほかに「演技、演奏」などの意味もある。つまり、このタイトルには「大いなる賭け」「大熱演」といった意味もあり、監督、スタッフ、俳優の並々ならぬ意気込みも同時に表しているのではないかと思う。
 ブランシュはトランプを並べ、ピエールの近い将来の出来事を予言していく。「軽い怪我をする」「ある女と出会って恋をするが長続きしない」「茶色い髪の男を殺す」「以前の恋人に道でばったり出会う」など。このトランプ占いの場面を途中で挿入して、その後この予言が次々に的中していくように映画は進んでいく。
 この着想が、この映画を大変面白くした要因であったと思う。ここではまた、スペードの9(最も不吉な札)とダイヤの9が重なると死を意味するというブランシュの説明があるが、それがラストのトランプ占いに生かされる。巧みな伏線の張り方である。つまり、ブランシュの占いは必ず当たるということを映画の中で証明しておいて、最後の占いの場面でスペードとダイヤの9を出して、ピエールの死を確実なものにするわけだ。

 ピエールはキャバレーで、なんとフローランスに瓜二つの女イルマ(マリー・ベル)に出会い、ここから本格的なドラマが始まる。フェデールとシャルル・スパークの脚本は、起承転結型のオーソドックスな構成で、ドラマチックな起伏に富んでいるが、転の部分からのドラマ展開はとくに面白く、見ていて感心するところも多い。
 マリー・ベルがフローランスとイルマの二役を演じているが、顔かたちはそっくりでも、まったく違うタイプの女を演じ分けている。ただし、イルマの声はクロード・マルシーという女優の吹き替えである(彼女は脚本家シャルル・スパークの妻だったようだ)
 フローランスは、一種のファム・ファタール(男の人生を狂わす悪女)で、髪はブロンドで美しく着飾り、声は高く、早口である。パリの社交界の華のような明るい女であり、パトロンの金で生活している高級娼婦のようにも見える。一方、イルマは、モロッコのキャバレーに流れてきた歌手で、実は歌手というより下級の売春婦に近い女で、黒髪で、声も低く、話し方もゆっくりで、暗くて頭の弱そうな女である。イルマは頭に弾痕があり、過去の記憶を喪失している。ボルドーからバルセロナへ移り、食い詰めてモロッコへ渡ってきたことは覚えているが、それ以前のことは覚えていない。
 ピエールはイルマをフローレンスの代替的な恋人として愛し始めるのだが、このイルマが本当はフローレンスなのではないかと疑ってみたりする。自分と別れてから落ちぶれたフローレンスが自殺を図り、記憶喪失になったのかもしれないと思い、イルマを問い詰める。苛立って、イルマをなじり、つらく当たったりする。ピエールを愛するイルマは、ピエールが愛しているのは自分ではなく以前の恋人の幻影であることを知りながら、ピエールを慰め、あるがままの自分を愛してもらうためにピエールに誠心誠意尽くすのだ。



 こうしたストーリー、つまり、失恋した男が忘れられない恋人の幻影を求めて、似たようなほかの女を愛するといったストーリーは、よくある話だが、これを一人二役という配役で作った映画は、この『外人部隊』以前にあったのかどうかは、正直に言って、分からない。古いアメリカ映画にあったとしても無声映画だったのではあるまいか。トーキー以後の最も古い映画では、『外人部隊』がいちばん有名であることは確かだ。監督のフェデールは、ハリウッド滞在中に、二人のヒロインを同じ女優に演じさせ、片方の声を吹き替えにするというアイデアを思いついたのだという。当時フランスではまだトーキー初期に近く、アフレコで声を入れる技術も未発達で、苦労したにちがいない。しかし、マリー・ベルのイルマの声は口の動きにぴったり合っていて、知らないと吹き替えだとは気づかないほどである。
 ちなみに、ヒッチコックの『めまい』(1958年)は、筋立ても違い、片方の女の声に吹き替えは使っていないが、キム・ノヴァックが瓜二つの女を一人二役で演じている点では(と言っても、あとで同一人物だったことが判明する)、『外人部隊』と同工異曲である。『めまい』の原作はフランス人作家(ボワローとナルスジャックの二人)の推理小説で、ヒッチコックによる映画化を希望して書かれたものらしいが、二人の作家の年齢から言って、『外人部隊』を見ているはずで、この映画から小説の構想上のヒントを得たのかもしれない。(つづく)



『望郷』のミレイユ・バラン

2009年01月04日 04時01分52秒 | フランス映画

 ジャン・ギャバンの相手役をやったミレイユ・バラン(Mireille Balin)という女優のことを調べてみる気になった。
 『望郷』では、ギャバン扮するペペ・ル・モコに女が二人出て来る。一人はカスバの女で、もう一人がギャビーという愛称のパリジェンヌである。ミレイユ・バランはギャビーの方で、フランス人の金持ちの爺さんの愛人なのだが、アルジェへ観光旅行に来て、ペペと知り合うわけである。
 ペペは、アルジェのカスバに逃げ込んで2年も経つので、いい加減うんざりしている。そこへパリの香りを漂わせた奇麗な女が現れたものだから、すっかり魅せられてしまう。ギャビーも金持ちの爺さんには飽き果てているから、指名手配中のペペと危険な遊びがしたくなる。というわけで、ペペの止むに止まれぬ望郷の念と、三角関係のもつれから、最後の悲劇が生まれるわけで、『望郷』という映画はストーリーから言えば、陳腐なシロモノに過ぎない。ジュリアン・デュビビエの映画としては底の浅い作品だと思うのだが、この映画は、何と言ってもジャン・ギャバンの個性と魅力で持っている。それと、ミレイユ・バランの印象も大きい。
 この女優に関しては、日本では意外と知られていないようなので、フランスの資料を覗いてみた。以下、ミレイユ・バランの略歴を書いておく。前半生の恋多き華やかなスター時代に比べ、戦時中ナチス・ドイツの士官と恋に落ちてからは悲運に見舞われ、戦後は不幸のどん底のような人生を送り、哀れな最期を遂げたことが分かる。
 生年月日は、1909年7月20日。モナコのモンテカルロ生まれ。父は新聞記者。子供の頃はマルセイユで育ち、高校時代はパリで過ごす。二十歳ごろからグラビア・モデルの仕事をしていて、映画にスカウトされる。デビューは1931年、22歳のときで、“Vive la Class”という映画の端役だった。
 1932年に映画『ドンキホーテ』に出演。この年に他の作品にも二本出演し、映画女優としてキャリアを歩み始めるも、チュニジア出身のプロボクサー(フライ級の世界チャンピオンだった)と恋仲になる。1933年、今度は金持ちの政治家と大恋愛し、社交界の華となる。この年、映画“Adieu les Beaux Jours”でジャン・ギャバンと共演。以後、映画出演を続けるが、ヌードになった映画もあった。
 1935年、ジュリアン・デュビビエ監督から『地の果てを行く』の出演を依頼されるが、健康上の理由で辞退。この大役はアナベラがやることになる。1936年、デュビビエ監督の『望郷』に出演、主役のジャン・ギャバンと恋仲に。『望郷』は、大ヒットし、彼女も一躍スターになる。1937年、ギャバンと再び『愛欲』(ジャン・グレミオン監督)で共演。ヴァンプ女優として評価される。この後、ギャバンとの関係は終わり、歌手のティノ・ロッシと恋仲になる。
 1937年10月、ハリウッドに渡り、MGMと契約するも、映画出演できずに翌年帰国。パリでティノ・ロッシと同棲生活を続けるが、浮気性のロッシに悩まされる。 1939年、ドイツの男優・エリック・フォン・シュトロハイムと共演して親しくなり、彼の映画にその後も2本出演。1940年、ドイツ軍のフランス侵攻。ロッシとカンヌへ転居。1941年にパリに戻る。ロッシとは破局。
 1942年、ドイツ大使館でウィーン出身の若き士官デスボックと出会い、恋に落ちる。彼と婚約し、パリとカンヌで同棲生活を続けながら、映画出演。1943年、戦争が激化。1944年、パリ解放。デスボックとイタリア国境近くに隠れているところを、フランスのレジスタンス運動派によって逮捕、投獄される。そのとき彼女は折檻、強姦され、デスボックは殺害される。
 1945年、釈放。1946年、映画出演。これが最後の映画となる。その後、度々病魔に冒され、アルコール中毒に。友人の好意でカンヌに暮らし、一時ニースの病院で療養。その後パリに転居。世間から忘れ去られ、細々と生き続けるも、1968年パリ郊外で死去。享年53歳。


『望郷』をもう一度

2009年01月03日 21時43分42秒 | フランス映画

 『望郷』を初めから見直す。前回は、ジャン・ギャバンのぺぺ・ル・モコが着用していたネクタイの柄を確認した後で、心ならずも眠ってしまった。
 今回は、画面の前に座って、真面目な鑑賞態度で観る。すると、いろいろ面白い発見があった。
 まず、ギャバンが、服装を四度も替えていることが分かった。すべてグレーの背広なのだが、さすがパリジャンらしく、着こなしをずいぶん工夫している。初めて登場するときは、黒シャツにクリーム色(多分)のネクタイで、ダンディな格好。ネクタイの柄は、小さな四角形を並べた模様である。次に登場したときは、ノーネクタイでラフな着こなし。三度目は、白シャツに濃紺(多分)の無地のネクタイで、フォーマルな感じである。ラスト・シーンで、カスバから出て行くときが、何と言っても一番格好良く、頭からつま先までビシッと決まっている。ソフト帽をかぶり、新品の背広に白シャツで、首にはネッカチーフを二重三重に巻いている。よく見ると、なんとネッカチーフの柄が水玉模様ではないか!石森さんはこのときのネッカチーフの柄とネクタイの柄とを混同して、頭に焼き付けてしまったようだ。これで納得。
 『望郷』をじっくり観て感心したことは、ギャバンの服装に限らず、小道具の使い方のうまさである。ステッキ、首飾り、ブレスレット、拳銃、けん玉、蓄音機、手錠、ナイフなど、シーンごとに次々とこうした小道具が出てきて、実にうまく生かされているのだ。とくに、鮮やかな印象として残ったのは、数珠のようなダイヤのブレスレットである。パリジェンヌのギャビー(ミレイユ・バラン)が細い手首に付けていたもので、一度取り外したブレスレットをギャバンがまた取り付けてやるのだが、そのとき思わず女の手をぎゅっと握り締めるところが良かった。
 ところで、ギャバンのペペ・ル・モコが歌うシーンは、確かにあった。好きになった女のギャビーとデートをする前に、ペペが上機嫌でテラスに出てシャンソンを歌っているのだ。明るくテンポの早いシャンソンで、歌詞を訳した字幕は出ない。部分的であるし、この歌詞を書き留めるのはフランス人でもない私には非常に難しい。難しいけど、石森さんの要望なので、このシーンだけもう一度見直してみようかと思っている。ネクタイの柄は目を凝らして観察したが、今度は、耳の穴をかっぽじって傾聴しなくてはなるまい。それにしても、神経を張る課題を出されたものだ。

今年初の映画~『望郷』と『男はつらいよ』

2009年01月02日 18時37分18秒 | フランス映画
 ジャン・ギャバンの『望郷』(ぺぺ・ル・モコ)を昨年からずっとまた見直そうと思っていた。この映画、すでに五、六回は観ているのだが、最後に観たのはもう何年も前のこと。細かいところは忘れてしまっていた。
 実は、昨年の夏前にシナリオ作家の石森史郎さんと親しくなり、喫茶店でフランス映画のことを話していたときに、たまたま『望郷』の話になった。石森さんは映画監督のジュリアン・デュビビエが好きで、とくに『望郷』が大のお気に入り。私は、デュビビエの映画の中では『望郷』をそれほどの傑作だと思っていなかったので、「あの映画のどこがいいんですか?」みたいな質問を石森さんにした。すると、「あなたは『望郷』をちゃんと観ていないでしょ」と叱られた上に、クイズを出された。
「ジャン・ギャバンのぺぺ・ル・モコが初登場するとき、初めにネクタイが映るけど、どんな柄だったか言ってみなさい」と石森さん。
「すいません、覚えていないんですけど……」と答えると、
「ダメじゃないか!ネクタイは水色の水玉模様ですよ」
「えっ、あの映画は白黒ですけど……」と私が言うと、
「白黒でも色は分かるんです!」
 もう口答えのしようもない。あのまくし立てるような早口で石森さんが言う。
「初めにネクタイが映って、そこからキャメラが上へ移動してギャバンの顔のアップになるんだよな。ギャバンって美男子じゃないよね。ジャガイモみたいな顔だけど、フランスじゃああいう男がダテ男なんだな」
「ダテ男って、もともと伊達藩の侍のことだから日本人のことを言うんじゃないですか」と私。
「まあそうだけど、あのネクタイにパリジャンのダテ男ぶりを象徴させているわけだよ。うまいと思わないのか」
「はい」
「ギャバンのペペ・ル・モコはパリジャンだろ。それがアルジェのカスバに逃げ込んで、ずっとそこに居るうちに故郷のフランスが恋しくて、もう帰りたくて仕方がなくなるんだね。カスバの女はみすぼらしくて、フランスから観光に来たパリジェンヌがやけに美しく見えちゃってさ。この女、金持ちの爺さんの愛人なんだけど、ぺぺは目が眩んじゃうわけよ。女にパリの地下鉄の匂いがするなんて言っちゃってさ」
 石森さんにとって『望郷』は、青春の記念碑のような想い出深い映画らしく、詳しいのなんの!微に入り、細に入り、あきれるほどよく覚えている。彼は『約束』という映画のシナリオを書いているが、そのラスト・シーンは『望郷』のラスト・シーンを真似たのだと言う。『約束』でショーケンが岸恵子と最後に別れるところで、鉄柵を使ったのがそうらしい。
 クイズは続く。第二問である。
「ギャバンがあの映画の中で唄うシャンソンがまたいいんだよな。知ってる?」
「えっ、歌なんかありましたっけ」
「僕はちゃんと歌えますよ。メロディだけだけど……」
「で、フランス語の歌詞は?」と尋ねると、石森さん、急に低姿勢になり、
「実は、あなたに頼みがあるんだけど……、あの歌の歌詞をメモしておいてくれないかなあ」と来た。
 とんだ課題を出されたものである。それを今の今までほったらかしにしておいた。そこで正月の暇なときに『望郷』をじっくり見直そうと思ったわけである。
 元旦にビデオを探し出し、さて観ようと思ったら、これが三倍モードで録画したヤツで、映画が3本入っているではないか。「寅さん」2本の間に『望郷』がはさまっている。早送りして『望郷』だけ観ようとも思ったが、面倒臭いので、「寅さん」から観始めた。「寅さん」もテーマは「望郷」である。
 まず、一本目の『男はつらいよ 純情詩集』を観る。マドンナは京マチ子で、壇ふみが娘役で出演しているアレだ。「寅さん」のシリーズでは、マドンナが最後に死んでしまう唯一の作品である。
 さて次にいよいよ『望郷』が始まり、ネクタイの柄を確認しようと目を凝らす。ギャバンの顔が現れる前にネクタイが映るのは石森さんの言う通りなのだが、柄が違うじゃありませんか!水玉模様ではなく、小さな四角形を並べた模様なのだった。色は分からないが、水色でないことも確かで、多分クリーム色の地に四角形の模様は赤色のような気がする。白黒の映画なので、これはあくまでも想像にすぎないのだが……。ソファに寝そべって、字幕を読まずにフランス語を聞いていたのがいけなかった。途中で睡魔に襲われ、ふと気がつくとラスト・シーンになっている。いやはや肝心な歌の部分は見逃してしまった。
 起き上がって巻き戻すのも面倒だから、そのまま次の「寅さん」を観る。リモコンが壊れているので、遠隔操作が出来ない。三本目は、『男はつらいよ 忘れな草』である。マドンナは浅丘ルリ子で、リリーさんが初登場する作品だ。「寅さん」のシリーズでは名作の一本に数えられるが、最後にリリーさんが結婚して寿司屋のおかみさんにおさまっているところには、いつも疑問を感じる。亭主が毒蝮三太夫では不釣合いだし、話のオチとしても無理がある。まあ、それはともかくとして。
 結局、『望郷』はもう一度初めから見直すことになってしまった。ビデオを巻き戻して今日でもまた観ようかと思っている。




「仁義」と「フリック・ストーリー」

2006年01月04日 12時46分14秒 | フランス映画
 正月にアラン・ドロンの映画が見たくなって、70年代初めの映画を4本ビデオで見た。ジャン=ピエール・メルヴィル監督の「仁義」と「リスボン特急」、ジャック・ドレー監督の「ボルサリーノ」と「フリック・ストリー」である。すべてギャング映画で、アラン・ドロンは、「仁義」と「ボルサリーノ」ではギャング役を、「リスボン特急」と「フリック・ストリー」では刑事役を演じている。
 作品の出来から言うと、「リスボン特急」は駄作だった。画面構成が冗長で、ストリーも矛盾しているため、途中から退屈になった。カトリーヌ・ドゥヌーヴがチョイ役で出ていたが、看護婦に変装して、負傷した仲間のギャングを殺すところだけが良かった。
 「ボルサリーノ」は、アラン・ドロンがジャン=ポール・ベルモンドと初共演したことで当時話題になった映画で、私は日比谷映画のロードショーで見たことを覚えている。ベルモンドの方がドロンよりずっと良かったというのがその時の印象だったが、今度も同じように感じた。ドロンは、ベルモンドを意識したためか、格好の付け過ぎで、それが嫌味ったらしく見えてしまった。ドロンはベテラン俳優(たとえばジャン・ギャバン)と共演した方がずっと引き立つと思う。この頃似たようなギャング映画に「明日に向かって撃て」(ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード共演)があったが、こちらの方が素晴らしかった。

 「仁義」は今にして思うと、題名が東映ヤクザ映画(「仁義なき戦い」は後年の作)みたいだが、当時は違和感を覚えなかった。メルヴィルには前作に同じくドロン主演の「サムライ」があり、その流れで「仁義」という邦題を付けたようだ。が、原題は「赤い輪」(Le Cercle Rouge)で、映画の初めに釈迦のことばの引用がある。「赤い輪」とは人間の奇縁を意味するらしい。映画の前半は、出所したばかりのアラン・ドロンと護送中に列車から逃亡した凶悪犯とが偶然出会うまでを描いているが、メルヴィル独特の緊迫感に満ちたシーンが展開していく。後半は、この二人が腕利きの元刑事(イヴ・モンタン)と組んで宝石店に侵入する話である。前後半を通じ、逃げられた凶悪犯を追跡する刑事(ブールヴィル)が登場するが、深夜に帰る自宅のアパートで、彼を待っている三匹の猫にエサをやるシーンが印象的だった。「サムライ」では籠の鳥が出てきたが、孤独な男の描写をするときにメルヴィルは好んでペットを使うようだ。「仁義」はカラー映画なのだが、青い靄のかかったモノトーンに近い。フランスの風景はこうした色調にぴったりで、静寂感が緊張を高めていた。メルヴィルの映画は極端なほどセリフが少なく、絵(画面)で見せるところが特長だが、「リスボン特急」のように退屈を感じることもある。が、「仁義」はこれがうまく成功し、見飽きることがなかった。この映画は、メルヴィル晩年の秀作だと言えるだろう。
 「フリック・ストリー」(Flic Story)を見たのは多分今回が5度目かと思う。私の好きな映画である。70年代のアラン・ドロンが主演した映画では、傑作の一つだと思う。フランス語でフリック(flic)とは、「警官」「刑事」の俗語で、「ポリ公」「デカ」にあたる。アラン・ドロンはフランス国家警察のスーパー刑事役で、極悪非道な凶悪犯役のジャン=ルイ・トランティニアンを捜索し、追い詰めて逮捕する話である。この映画ではアラン・ドロンもいいが、トランティニアンが最高にいい。その冷酷な無表情は鳥肌が立つほど恐ろしく、あの映画「男と女」の主役のトランティニアンとは似ても似つかぬ変貌ぶりなのだ。この凶悪犯、強盗殺人を繰り返すだけでなく、裏切った思った仲間も容赦なく次々と殺してしまう。逃げ足も速く、なかなか捕まえられないのだが、最後にドロンが居場所を突き止める。この田舎のレストランでのラスト・シーンは秀逸である。ドロンの美しい若妻役がクローディーヌ・オージェで、彼女も逮捕に一役買う。オージェと言えば、007のボンド・ガール(「サンダーボール作戦」)で有名だが、「フリック・ストリー」の彼女は紅一点、実に引き立っていた。同僚役の刑事、所長、ギャング仲間みな個性的で、共演者も助演者も適材適所で、ぴったり映画の中にはまっていると感じた。良い映画というのは本来そういうものだろう。最後にドロンが調書を取るためにトランティニアンと面会するシーンが付け加えられるが、これが大変印象的だった。互いに交流がなかった刑事と凶悪犯とが逮捕の後で人間的に結びついて行く。「フリック・ストリー」は何度見ても、見飽きない映画である。