背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

「マドモワゼル」24時間の恋人

2005年09月19日 08時54分03秒 | フランス映画
 ビデオで「マドモワゼル---24時間の恋人」というフランス映画を見た。出張中の既婚女と演劇志願の男との行きずりの恋愛を描いた映画で、よく出来ていると思った。実は、ちょっと感動してしまった。最近の映画はつまらなくて、ビデオを途中で巻き戻してしまうものが多い。借りて損した、ときまって思う。だから、新作はめったに見ないことにしている。しかし、「マドモワゼル」は予想に反した。途中で「おっ、これは」と驚き、ひざを乗り出した。そして、最後までちゃんと見た。
 見た後で、なぜよかったのかと考えてみた。まず主演女優がよい。名前は知らない。はじめて見る女優だ。「マドモワゼル」と呼ばれて心躍る若いマダムを上品に自然に演じている。恋愛映画では女優が大事なのだ。輝いていなければならない。個人的に言えば、私はこのヒロインの女優が好きになってしまった。一方、男優の方はまあまあだった。及第点だが、少々薄汚い感じが気になった。フランスでは今大変人気のある俳優らしいが、これまた名前は覚えていない。別の日に私の女房もこの映画を見たそうだが、この男優がとても素敵だったと言っていた。男と女で見るところが違うのだろう。
 ストリーに関して言うと、フランス映画によくある取って付けたようなわざとらしさがない。ないというより、感じなかった。所々に奇抜なアイデアは仕組まれている。しかし、それが効果的でかえって印象に残る。三人組の余興演劇、灯台の置き物、灯台守の作り話など。この映画の監督は技巧派だと思った。
 二人の場面の最初と最後に、「ピクルスが好き?」と確かめ合うセリフがある。フランス語でピクルスは「コルニション」といい、「間抜け」の意味もある。ピクルス好きが共通点の男と女。その二人を巻き込む「間抜けな」出来事が、次第に笑えない不倫へと進んでいく。その展開がすばらしい。

カトリーヌ・ドゥヌーヴ

2005年09月18日 18時13分39秒 | フランス映画
 「8人の女たち」という映画にカトリーヌ・ドゥヌーヴが出ていることは知っている。しかし、どうも見る気がしない。還暦を過ぎふっくらと肥えてしまった彼女を広告記事でちらっと見て、幻滅を感じたからだ。見てはいけない醜い姿を見てしまった、なんて言ったら、今も現役で活躍しているドゥヌーヴに失礼かもしれない。が、私にとってこの冷たくて妖艶な女優は70年代半ばまでなのだ。できれば引退してもらいたいとずっと願ってきた。だから「終電車」も「インドシナ」もあえて見ていない。
 事故死した実姉の女優フランソワーズ・ドルレアックは、開花する前に消えてしまった。が、「ロシュフォールの恋人たち」の妹はその後まさに大輪の華となり、10年間以上活躍し続けた。これでいいのではないか。お姉さんの分までもう女優の仕事は果たしたと思うのだ。マストロヤンニとの大恋愛後、彼女は退くべきだった。あとは余生を楽しめばいい。これがファンとしての気持ちだった。
 ドゥヌーヴが主演している昔の映画で私がいちばん好きな作品は「昼顔」である。監督のブニュエルがこのころ3本たて続けにドゥヌーヴ主演の映画を作ったが、そのうちの最初の1本だ。富裕な貴婦人が昼間だけ娼婦を勤めるというストリーで、ドゥヌーヴの気品と魔性が最大限に発揮されている。こんな映画はアメリカでは作れない。貴族社会の伝統のあるにヨーロッパならでは映画だといえる。そして、あの頃のドゥヌーヴでなければ、こんな役はできない。とくに凄いのは、サドの若い男に滅茶苦茶にされ、逆にえもいわれぬ愉悦を感じる場面。そこに漂うエロティシズム。この時、彼女は何歳だったのか。脂の乗り切った*20代後半だったと思う。
「シェルブールの雨傘」から「うず潮」までのドゥヌーヴは輝いていた。そのイメージをいつまでも大切にしまっておきたい。そう思うのは私だけではあるまい。
 (*調べてみたところ、「昼顔」のドゥヌーヴはなんと24歳だった!!)

「彼女たちの時間」のベアール

2005年09月17日 08時32分28秒 | フランス映画
 エマニュエル・ベアールの映画は10年ほど前にビデオで何本か見た。その頃この女優にちょっとハマったが、なぜか遠ざかってしまった。彼女の体当たりの演技に存在感は感じたが、胃が痛むようなシリアスな映画が多かった。フランスでは、イザベラ・アジャーニ以後、久しぶりに現れた新星という評判だった。当時イザベラ・ユーペールなる女優も賞されていたが、彼女の映画はついぞ見ないで通り過ぎてしまった。
 先日ベアールの映画のビデオを2本借りて見た。「エレーベーターを降りて左に」と「彼女たちの時間」だ。「エレベーター」の方は見ているうちに、以前見たことに気づいた。年をとると、前に見たビデオを知らずに借りてしまう。私は同じ本やCDを何度も買ったことがある。ボケて来た証拠かもしれない。「エレベーター」は愚作で、つまらなかった。主演のピエール・リシャールもまあまあで、ベアールは喜劇には向いてないんじゃないか?と疑問に思った。
 それに対し、「彼女たちの時間」は良かった。シリアスな映画だと、やっぱりベアールは生きる。自由奔放に見えて分裂気質の女を演じた彼女も良かったが、共演の引き立て役の女優A(名前を知らない)も熱演だった。演劇研究生の二人、B(ベアール)とAは、幼なじみで実はずっとレズの関係だった。ある日Aは、Bの才能と男出入に嫉妬逆上し、手首を切って自殺未遂をする。Bは魅力的な女で、両刀づかい。Aは真面目で器量も十人並み、男にももてない。この設定が良い。
 映画の本格的な展開は、AがBと絶交後、何年か経って再会するところから始まる。原題は La Repetition で、「繰り返し」と「演劇の稽古」の二つ意味を含めているが、磁石のように引き付けあうレズの腐れ縁がこの後見事に描かれる。若い頃のレズごっことは違う。二人には社会的な立場がある。Bは劇作家の愛人で、しかも期待の主演女優。Aはアルジェリア系(勝手にそう思った)の男を夫にもち、入れ歯の技工士をしている。再会後のストーリーの展開は速い。Aは失ったBとの関係を必死で取り戻していく。女の執念だ!
 これも一種の恋愛映画なのだろう。レズを描いた映画など普通見る気もおこらないが、この映画は特別だ。内容を知らないで見たのも良かったのかもしれない。「彼女たちの時間」という日本語のタイトルも今思えば暗示的だったのだが……。最後にこの映画の監督はカトリーヌ何某と言う女性だということが分かった。見終わって、そうかと膝をたたいた。こんな映画、女性にしか作れない。昔のベアールのはまり役は非行少女だったが、レズの女役もいいな、と感服した。

アルヌールよ、再び。

2005年09月16日 21時52分30秒 | フランス映画
 仕事の関係でフランス映画のビデオを毎晩見ている。
 最近フランソワーズ・アルヌールの映画を3本見た。20年ほど前にテレビから録画したもので、どれも3,4回は見ているが、再見するは15年ぶりだった。『ヘッドライト』と『過去を持つ愛情』と『フレンチ・カンカン』である。
 フランソワーズ・アルヌールは今でも好きな女優だが、しばらく彼女の映画を見ていなかったので、大変懐かしく感じた。
 アルヌールは1950年代の人気女優だった。とくに当時の日本人男性の憧れのフランス人女優だったという。「という」といった伝聞表現をつかったのは、私自身リアルタイムで見たわけではないからだ。
 私は1952年生まれなので、アルヌールの全盛期を知らない。私どもの世代が10代から20代初めの頃のスター女優は、フランス人ならカトリーヌ・ドヌーヴだった。ドヌーヴの氷のような冷たい美しさに対し、アルヌールは可憐でアンニュイが漂う美しさといったらいいか。小柄でなにより小顔なところが日本人好みである。抱きしめても抵抗する力が弱い女、それでいて身体の芯では燃えている女。それがアルヌールの魅力なのだろう。
 私が見た3本のなかでは、『ヘッドライト』のアルヌールがいちばん素晴らしく、映画自体もフランス映画らしい悲恋物の名作である。原題は、”Les Gens Sans Importance” (重要でない人々)。日本では封切り時のタイトル『ヘッドライト』で通っているが、この英語まがいの邦題はあまり良くない。が、映画は何度見ても胸にじーんと迫るものがある。暗い映画だが、ジャン・ギャバンとアルヌールの愛人関係が実にせつない。二人とも饒舌でないところが良い。監督はアンリ・ヴェルヌイユで、心理を投影した情景描写がうまい。白黒映画ならではの陰影に富んだ美しさ。黒いエナメルのレインコートを着たアルヌール。歩く姿が瞼に焼きつく。彼女がパリに出てきて、売春宿で仕事を見つける場面はハラハラする。もしや娼婦になってしまうのではないか、という不安。その半面、娼婦に堕ちたアルヌールも見たい、という男の願望。男に黙って、さりげなく堕胎に行く場面は、可哀相で涙がこぼれる。