背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

映画「ふたたび SWING ME AGAIN」

2012年06月28日 23時43分12秒 | 日本映画
 DVDで映画「ふたたび SWING ME AGAIN」(2010年11月公開)を観た。
 いい映画だった。暗くて重いテーマが背景にあるのに、それを前面に出さず、老人の青春回帰のドラマにしていて、とても良かった。老人と孫息子との心の交流、老人の昔のバンド仲間たちと暖める旧交も、ヒューマニスティックに描かれ、感心した。

 この映画は一種のロードムービーで、ハンセン病で島の療養所で人生の大半を棒に振った老人・貴島健三郎(財津一郎)が、大学生の孫息子(鈴木亮平)の運転する車であちこちに住む昔の仲間を訪ねていくというストーリーである。主人公の老人は元トランペッターで、昔の仲間とは、50年前に結成していたジャズバンドのメンバー。バンドの名は、クールジャズ・クインテット。レコードを一枚出していて、孫息子は子供の頃、家にあったそのレコードの「ALIVE AGAIN」を聴いて、ジャズが好きになり、大学のジャズ研でトランペットを演奏しているという設定。実は、老人の息子(陣内孝則)は、ハンセン病の父が生きていることを家族にずっと隠していたのだが、父の死期が近づいて初めてみんなに打ち明け、神戸の自宅に招くのだった。だから、孫息子はそのレコードのトランペッターが祖父だったことを知って、驚く。そして、バンドのメンバーを訪問する旅に付き合うことになるのだ。
 この映画、ファーストシーンから徐々に主人公の家族関係やジャズバンドのことを観客に知らせていくので、観ていて飽きないし、惹き付けられていく。財津一郎の存在感が大きく、また孫息子の鈴木亮平という男優もなかなか良い。



 ただ、回想シーンがちょっと多いのが気になった。主人公の50年前の様子がほとんど回想シーンで説明され、しかも二十代の主人公役が財津一郎でないので、違和感を感じた。たとえば、神戸のジャズクラブにバンドの出演が決まって、メンバーが喜んだのも束の間、主人公はハンセン病を発病。主人公が療養しなくてはならなくなって、出演が流れてしまう。これは回想シーン。また、主人公の恋人がバンドの女性ピアニストで、この時すでに婚約者の彼女は妊娠していて、結局主人公と彼女は離れ離れになってしまう。ここも回想シーン。女性は出産後、赤ん坊と引き離され、両親に冷たくあしらわれる。この回想シーンは誰の回想なのか不自然で、描き方も拙劣だった。また彼女がなぜ死んだのかよく分らなかった。自殺でもしたのだろうか。この子供が主人公の息子(陣内)なのだが、この息子の半生は不明。苦労したようだが、この映画のドラマの軸は息子にはないので、説明できなくとも仕方あるまい。
 とはいえ、主人公が孫息子と車の旅に出るまでの流れはうまく描かれ、ユーモラスなシーンもあって、この映画のシナリオライター(矢城潤一)と監督(塩屋俊)の手腕とセンスの良さを感じた。
 また、登場人物で言うと、療養所の看護師(福祉士か)の韓国人の若い女性が重要で、MINJIという女優だが、演技はうまくないが不思議な魅力があった。一人二役で、主人公の恋人のピアニストもやっていた。彼女は最後に主題歌のバラードも唄っているが、この歌が心に滲みた。
 ほかに、孫息子の恋人と姉が出て来るが、たいした役ではない。姉の結婚が破談になったり、恋人が親に反対されて、いったん別れてしまうところなど、サブストーリーとしてやや取ってつけたような印象を受けた。また、主人公の息子の妻(古手川祐子)の描き方は類型的で中途半端だった。
 一方、主人公と孫息子が訪ねるバンドの元メンバーたちの面々は、それぞれ個性的で、キャスティングも良かった。犬塚弘、佐川満男、藤村俊二であるが、みんな年を取ったものだと思った。なかでも犬塚弘がとくに目立っていた。療養所の友人宅で織本順吉も出ていたが、年を取って、最初誰だか分らなかった。
 ラストシーンで、バラバラになったメンバーが50年ぶりに神戸のジャズクラブに集り、ジャズを演奏するのだが、ここは感動的だった。この時、ジャズクラブのオーナー役で渡辺貞夫が出て来て、アルトサックスを演奏するのも見せ場だった。
 最後に主人公の老人は、想い出の教会に赴き、早世した恋人の元へ帰っていくのだが、この終わり方も悲惨ではなく、幸福感が滲み出て、良かったと思う。
 映画「ふたたび」は、最近作られた映画の中では出色の出来ばえで、心に残る一作であった。(了)



 

落語「芝浜」(最終回)

2012年06月28日 17時00分49秒 | 落語
 ずいぶんと長い「芝浜」論になってしまった。
 最後に、補足事項だけ列記しておきたいと思う。
 
 興津要編の「古典落語(上)」(昭和47年 講談社文庫)の「芝浜」を読んだ。昔読んだことがあるが、まったく憶えてなかった。この「芝浜」、どの演者のものを参考にしたのか分らないが、何人かのものを混ぜくって旧作と新作を合体してダイジェスト版にしたような「芝浜」で、気の抜けたサイダーのようだった。魚屋は金さん。

 今村信雄の「落語の世界」(平凡社ライブラリー 昭和31年青蛙房刊の再版)に「小さんと芝浜」という一節があった。この小さんは昭和3年に四代目を襲名した小さんで、先代の小さんの師匠である。それによると、「芝浜」の昔の演じ方にも、三木助のように芝浜の情景描写を挿入する型があったようで、その部分を略す現行の演じ方に苦言を呈している。
「海岸に荷をおろして、パクリパクリ煙草を吸っているうちに、海の向うから太陽が昇って来る。芝浜の夜あけの風景などを十分に描写する。演者の腕はここらに現せるのだから、ここを略してしまっては、この落語をやるかいがない」
 また、「濡れた革財布を、腹がけに入れるか『ばにう』(盤台)に入れるかは、演る人の自由に任せてやりいいようにやらせてよかろう。我々前座の時は、楽屋帳に『芝浜』などとは書かず『ばにう』と書いたものである」(前掲書にある興津要の解説によると、拾った金を旧三遊派は『ばにゅう』へ、柳派は『腹がけのどんぶり』へ入れていたという)
 さらに、「昔は拾得物は役所に届けてなければいけないとか、拾った物を着服したことが露顕すると罰せられるとかの規則はなかったようで、『芝浜』以外には講談でも落語でも拾った物を役所に届け出たという話は全然ない。正直な者が自身先方に尋ねて行って、落し主に渡す話ばかりである。そんな所から考えて見るのに、最初このはなしの出来た時は、金を家主とか、あるいは出入りのお店(たな)に預けたもので、明治になって新しい規則が出来てから、現在のように直したのではなかろうかと思う」
 確かに、道で拾った物は江戸時代にはどうしていたのかという疑問を抱く。前々回に「窓のすさみ」の美談を紹介した。正直な若者が落し主の分らない金十両を町役人に届け、奉行所が三日間お触れを出して、落し主が出て来ないので、若者にお下げ渡しになったという話である。が、これなどはごく稀な事例なのではあるまいか。落語「芝浜」では、女房が拾った財布をどうしたらいいかと大家さんに相談し、大家さんが代わりにお上に届け出て、落し主が現れないので一年後くらいにお下げ渡しになったことになっている。現代の拾得物の扱いと同じであるが、江戸時代にはたしてこんな規則があったのかどうか。落し主が現れなければ、没収されてしまうような気もする。また、拾った金を黙って着服して勝手に使ってしまったら、罰せられるというが、これは盗んだ金とみなされるからだろう。演者によって刑罰を大袈裟にして、島流しにされるとか、死罪になるとかしているが、ここは牢屋に入れられる程度でいいのではなかろうか。

 立川志らくの「落語二四八席辞事典」(2005年講談社)は、時々鋭いことが書いてあるので覗いてみるのだが、「芝浜」の項は師匠の談志の受け売りなのだろう。談志のように女房を可愛い女として演じるのが正解だと言っているが、談志の演じ方はちっとも可愛くなく(とくに談志晩年の「芝浜」の場合)、単に才覚のない憐れな女房にすぎない。志ん朝の「芝浜」の女房の方が数段可愛い。

 この数日間で、いろいろな落語家の「芝浜」を聴いた(あるいは観た)。三木助(昭和29年の録音)、志ん生(三木助没後の録音で昭和36年頃)、談志(若い頃と晩年のもの)、志ん朝(若い頃のもの)、小三治、円楽、さん喬、権太楼。
 笑える「芝浜」と、笑えない「芝浜」がある。
 三木助と志ん生の「芝浜」はどちらも笑える。志ん朝の「芝浜」が一番明るく、笑えるところが大変多い。円楽の「芝浜」も明るい。
 談志の「芝浜」はまったく笑えない。と言うか、笑わせようとしていない。小三治の「芝浜」は、寒々として暗く、間(ま)が多すぎてやや冗長である。
 さん喬と権太楼の「芝浜」は、まだまだ改善の余地あり。後半で女房が打ち明けるところは、オーバー過ぎて良くない。談志も小三治もさん喬も権太楼もなんでこの部分を力んでやるのか、私には分らない。泣きながら許しくれと懇願するように演じるのはどうかと思う。

 ほかにも若手でいろいろな落語家がやっていると思うが、機会があったら聴いてみたいと思っている。