背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

『の・ようなもの』

2013年08月28日 23時13分38秒 | 日本映画


 森田芳光の初長編映画『の・ようなもの』(1981年)を初めて観た。もう32年前の作品で、彼が映画監督として世間に注目されたデビュー作と言ってもよい映画である。田舎(栃木県?)から上京したと思われるまだ修業中の若手落語家を主人公(伊藤克信)に、その日常生活を描いたちょっぴりペーソスが漂うコメディであった。やりたいことや描きたいことをできる限り表現しようとした森田芳光の実験性と奔放さと斬新さはさすがであり、今観ても大変面白い映画だと思った。デビュー作には、良くも悪くも、映画作家の個性というものが表れるが、森田監督の特長は、観客を意識したエンターテイメント性であり、映像表現の意外性もセリフの面白さも、良い意味での「受け狙い」だと言えるだろう。深刻なことを真面目に描くのは苦手と言うか、多分照れ臭いのだろう。70年安保の世代(団塊の世代)より少し下の彼は、思想とかイデオロギーは胡散臭く、そんなものには不信感を抱いていたのかもしれない。彼の本領は、面白いことへの飽くなき追求であり、深刻な事柄でもドライでユーモラスに表現することであった。
 『の・ようなもの』の出演者も、普通の俳優を使わず、ユニークな顔ぶれだった。この頃すでに人気女優だった秋吉久美子が大胆にもトルコ嬢(ソープ嬢と改称する前だから古い)を演じ、兄弟子役の尾藤イサオは歌手から俳優に転身した頃だったのか。ほかにも懐かしいタレントが揃っていた。漫才の内海好江、将棋指しの芹沢博文、落語家の春風亭柳朝は、故人である。内海桂子、入船亭扇橋はまだ元気なようだ。ほかにも、でんでん、鷲尾真知子、ラビット関根(関根勤)、小堺一機、室井滋、三遊亭楽太郎などが出演していたが、私のように二、三十年ほど時間が止まっている者にとっては違和感がないが、今の彼らの顔をよく知っている人が見たら、昔日の感があるだろう。
 森田芳光が大学(明治大学)の落研にいたことは有名だが、この映画には、落語のネタがいくつか使われ、また落語通ならあの噺のパロディだと分かるような場面もあった。例えば、主人公の志ん魚(とと)が高校生の彼女の家(堀切駅)から夜中に歩いて浅草まで帰るくだりは、「黄金餅」のパクリであろう。タイトルの『の・ようなもの』は、三遊亭金馬の十八番「居酒屋」の中で小僧が酔客に酒の肴を言うセリフ「できますものは、つゆはしらたらこぶあんこうのようなもの」から採ったという。
 なにしろこの映画は、アイディアのてんこ盛りのような作品で、受けようが受けまいが、次から次へとアイディアを繰り出してくるので、終始、目が離せない作品であった。主人公の志ん魚の落語がまったく笑えないところが逆におかしく、秋吉久美子がボディー洗いしたり、兄弟子のでんでんが夜中に迫ってきたり、エロチックな見せ場もあり、人名の固有名詞(例えば、ジャンゴ・ラインハルトの名前が突然出て来た時は驚いた)を使ったセリフも効果的であった。主役の伊藤克信は、言われてみれば確かにアル・パチーノに目と鼻のあたりが似ているのだ。


さだまさしの小説「アントキノイノチ」

2013年08月28日 05時18分06秒 | 


 先日、映画『アントキノイノチ』を観て興味を覚え、原作のさだまさしの小説を読んでみた。
 ラストで恋人の女の子が交通事故で死んでしまったことがどうしても気になったからだ。映画は死んだ女の子のアパートを遺品整理業の主人公が片付けるというシーンで終るのだが、交通事故も最後の片付けも、こんな終り方をしたら作品がぶち壊しではないかと感じたので、原作もそうなっているかを知りたいと思ったのだ。(映画の感想は8月9日に書いた)
 映画を観て、二週間も経たずに原作の小説を読んだので、その違いがよくつかめた。すると、やはり思った通り、恋人のゆきちゃん(小説では雪ちゃん)は交通事故で死なず、最後は主人公の杏平と手を携えて生きていこうというハッピーエンドであった。
 映画の脚本は田中幸子という人と監督の瀬々敬久であるが、主人公と恋人との最も重要な結末を180度変えてしまったのは一体どういうことのなのか、私にはどうしても納得がいかない。原作者のさだまさしがよくオーケーしたと、これも不思議に思っている。
 小説を映画化する場合には、細かい点で多くの変更があるものだが、それは読む小説と観る映画とでは表現方法が違うからである。映画にはもちろんセリフがあるが、セリフは簡略にしなければならず、また、映画は基本的に映像でストーリーを展開するので、小説のような叙述や心理描写はできない。しかし、重要な登場人物の性格や行動は、原作に忠実に描くべきだし、とくに原作者が表現したかったテーマは変えてはならないと思う。
 映画『アントキノイノチ』は、原作の小説とはまったく違うような作り変えをいくつか行なっていたが、許容範囲と思われるところもあるが、明らかに越権行為と感じる箇所もいくつかあった。ラストで恋人のゆきちゃんを交通事故で死なせたのは、意図的にドラマチックにしようという脚本家の浅はかさとしか思えない。低級なテレビドラマならいざ知らず、誰が見ても、あんな唐突な死なせ方はあり得ないと感じるにちがいない。監督も血迷ったとしか思えない。
 松木というタチの悪い高校生に非難され、激動した山木が松木をナイフで脅して仕返ししたあと、校舎から衝動的に飛び降り自殺するシーンも奇異に感じたが、ここも原作とは違っていた。原作では家で首吊り自殺するのだった。
 主人公の杏平の母親は、男と不倫して家出して、杏平と生き別れたことになっていたが、映画では入院中の母親と再会するシーンがあり、映画を見た時、テーマが違うように感じた。原作を読むと母親と再会するところなどない。
 ゆきちゃんは、映画では遺品整理会社の先輩社員で、新入りの杏平といっしょに仕事をしていくうちに恋人になっていくのだが、原作では居酒屋の看板娘である。しかし、ここは映画のように設定を変えた方が良かったと思う。
 さだまさしの小説は、文学的というより説話的であった。エピソードをいくつか省けばそのままシナリオになるような物語構成だと感じた。内容的には、テーマ小説に近い。主人公の杏平が遺品整理会社に入って、ベテランの佐相さんや吉田社長にこの仕事の大切さを教わり、生きることの意義を再発見していくのがメインストーリー。その過程で、居酒屋で働く雪ちゃんと恋人関係になって、愛を媒介に人間同士をつなぐコミュニケーションを回復していく。この現在の状況と同時進行しながら高校時代の回想が次々に挿入されるのだが、杏平が自己嫌悪から精神病になった原因が明らかにされる。それは、友人の松木の嫌がらせと邪悪な素行に、杏平が松木を殺そうと思い、実行寸前にまで至ったことだった。小説の後半からは、雪ちゃんの過去の告白と人生観の披瀝が始まり、高校1年の時に受けた痛手を克服して再起した雪ちゃんに勇気付けられ、杏平は生きがいを見つけ、遺品整理業に打ち込んでいくことになる。
 「アントキノイノチ」がテーマ小説に近いというのは、現代社会において人間同志のつながりの大切さを問いかけるというテーマのために、小説の題材も登場人物も集約されているからである。武者小路実篤の小説を現代的にしたような印象を受けた。これは、テーマ小説によくある欠点なのだが、この小説も登場人物がいささか単純で類型的すぎるように感じた。松木だけが悪魔的な邪悪な人物で、あとの人物は杏平の父親にしても、前科のある佐相さんにしても清廉な善人で、人間的な厚みがない。とくに杏平の父親は浮気をしたこともあり、妻の失踪にも責任があるような人なのに、悟りきっていて、話す言葉が寓意的で人間離れしていた。そして、恋人の雪ちゃんは聖女のようだった。この小説が主人公の杏平の独白という形式をとっているのは良いとして、いわゆるビルドゥングス・ロマン(自己形成小説、教養小説)の域にまで達していないのは、主人公の自意識が弱すぎることと、過去の回想を現在進行形で描写したことが人物の掘り下げ方を甘くしてしまったのではないかと思う。
 最後の数ページにある雪ちゃんの告白は作り物臭く、雪ちゃんが松木に犯されて妊娠したという設定がいかにも故意的に思えた。、また、ラストで杏平と雪ちゃんがディズニーランドへ行き、松木と彼の妻子を目撃して、「元気ですか」と言う場面は蛇足のように感じた。アントキノイノチが「アントニオ猪木」と発音が似ていて、猪木が「元気ですか」と言うことをこの小説は拝借してネタに使っているわけだ。小説中ではプロレスの人とだけ書いてアントニオ猪木の名前は伏せているが、タイトルのカタカナ書きにしても、「元気ですか」という問いかけにしても、私は面白いとは思わない。「あの時のイノチ」あるいは「あの時の生命(いのち)」で良かったのではなかろうか。
 最近の映画や小説を読んで感じることは、登場人物が病的だったり、狂気に取り付かれていたりして、それがかえって人間を脆弱にし矮小化していることと、ドラマのためのドラマを作ろうとして作者の作為が目立ちすぎることである。現代に生きる普通の人間を人間らしく淡々と描いて、感動と共鳴を覚えるような作品に出会いたいものである。