背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

チャーリー・パーカーの半生 (11)

2019年08月06日 11時16分44秒 | チャーリーパーカー
 アディ・パーカーは、初めて息子が結婚したいと言うの聞いた時のことを、後年(1957年以降)、こう語っている(ライズナー編著「チャーリー・パーカーの伝説」)。
 ある日、チャールズが私のそばへ来て、こう言ったんです。「ママ、ぼく、あの子に惚れちゃったんだよ。もう結婚できる年だよね」 息子はまだ結婚できる年ではなかったかもしれないけれど、身体の方はもう大きかった。私はこう答えました。自分で大丈夫だと感じる時が来たら、結婚してもいいよって。(拙訳)

 チャーリー・パーカーは1935年11月に演奏家組合(ユニオン)に加入し、15歳ですでにプロ・ミュージシャンになっていた(組合員の資格は18歳以上だったが、4歳サバを読み、19歳として加入したいう)。ハイスクールは退学し、自活の道を進み始め、少ないながら収入を得ていた。グリーン・リーフ・ガーデンズというクラブで白人のピアニストに雇われ、その楽団のリード・セクションでアルト・サックスを吹き、数ヶ月間定期出演。その後、トミー・ダグラス楽団に入り、カンザス・シティのナイト・クラブやダンス・ホールで演奏し、サックスの腕を磨いていた。仕事へ行く前には、レベッカに会い、相変わらずデートを続けていた。
 1936年の初夏、6月19日の金曜日の夜、チャーリーはレベッカにプロポーズした。場所は、二人の母校アタックス小学校の入口の階段。二人がしばしば待ち合わせに使うところだった。階段に座って話をしている時に、チャーリーが切り出したのだった。
 その日の夜は、ニューヨークのヤンキー・スタジアムでボクシングのヘビー級の大試合、ジョ―・ルイスとマックス・シュメリングの対戦があり、米国中が沸いていた。「褐色の爆撃機」の異名を持つ黒人ボクサーのジョ―・ルイスは、これまで24勝無敗で快進撃を続けていた。そのヒーローが、ドイツ人の元世界ヘビー級王者・マックス・シュメリングに12ラウンドにKO敗けしたのである。黒人たちにとって忘れられない痛恨の日であった。

 
<ジョ―・ルイス>   <ルイス対シュメリング>>
(ジョ―・ルイスが世界ヘビー級の王者になるのはこの1年後で、以後25回連続防衛の大記録を樹立する。シュメリングとの再戦は1938年7月に行われ、米国対ナチス・ドイツとの世紀の対決と言われたが、1ラウンドにKO勝ちして、雪辱を果たしている)

 レベッカの話によると、国中が騒然としたこの日に、チャーリーにプロポーズされ、嬉しくて、すぐその場で快諾したそうだ。その夜、家に帰って母親に話した時には大喧嘩になって、今度は家内が騒然としたにちがいない。翌朝、レベッカは自分の荷物をまとめると、家を飛び出し、パーカー家へ転がり込むのである。
 そして、その約1か月後の1936年7月25日、二人はアディ・パーカーを伴い、カンザス・シティにある地方裁判所へ赴き、正式に結婚する。花嫁のレベッカは黄色と白のドレス、チャーリーは茶の背広を着ていた。判事がチャーリーに指輪を求めたが、持っていなかった。それで、アディが自分の指にはめていた指輪をはずして息子に渡し、急場をしのいだという。
 チャーリー・パーカーはまだ15歳(一か月後に16歳になる)だった。これは間違いない。一方、レベッカ・ラフィンは、本人の話を信用すれば、16歳だったことになる。しかし、レベッカの実年齢というのは、三度の移り変わりを経て、近年の調査で、この時は18歳だったと確定したようだ。その調査によると、レベッカ・ラフィンは、2018年2月23日生まれで、チャーリー・パーカーより2歳半年上だった。


<レベッカ、結婚後、街の写真屋で撮った記念写真だと思われる>

 チャーリーとレベッカの結婚について、もう少し詳しく述べておこう。
 二人は教会では結婚式を挙げず、ミズーリ州ジャクソン郡(カンザス・シティがある行政区)の裁判所で、判事の前で宣誓し、結婚した。
 米国の結婚および戸籍制度というのはよく分からないのだが、どうやら年齢とか住所とかは自己申告して、婚姻届に署名すれば、結婚が成立するらしい。当時の米国の結婚に関する法律についても不詳で、州によっても違うと思うのだが、男子も女子も18歳以上になれば結婚できたようだ。ただし、男子は21歳未満の場合は保護者の同意が必要だった。レベッカはこの時18歳を越えていたので、問題なかったが、チャーリーは、本当は15歳なのに、18歳以上であると偽っていた(チャーリーは20歳、レベッカは19歳、と申告したという説もある)。それで、母のアディが二人に付き添って、同意の署名をしたのだろう。が、それにしても、アディ自身、息子の年齢を2歳あまり上にして、虚偽の申告(あるいは誓約)に加担したのだから、共犯者である。レベッカの母ファニーは、立ち会わなかったようだが、異議は申し立てず、否応なく黙認したのだろう。現在はどうだか知らないが、当時の米国の公的な申請というのは、いい加減だったと思わざるをえない。結婚する時に、出生証明書とか戸籍謄本とかは不要で、誓約して自己申告すれば、それで通ったのである。


<結婚証明書>

 チャーリー・パーカーとレベッカ・ラフィンの結婚証明書の写しの画像が、ギディンス著「セレブレイティング・バード」に載っている。レベッカが所有していたものだと思うが、写しの日付を見ると、1961年7月25日とある。結婚した日付は、1936年7月25日であるから、ちょうど結婚25周年にあたる日に発行されたわけだ。もちろん、パーカーは亡くなっていたが、多分レベッカが銀婚式を一人で祝おうと思って、取り寄せたのだろう。
 この結婚証明書には、「チャールズ・パーカー・ジュニアは21歳未満、レベッカ・ラフィンは18歳以上」になっていて、「チャールズ・パーカー・ジュニアの母アディ・パーカーがこの結婚に同意する」と記してある。

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