背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

チャーリー・パーカーに関する文献・資料(7)

2019年09月02日 12時28分22秒 | チャーリーパーカー
 チャーリー・パーカーの演奏はたくさん残されていて、録音されたものを全部聴いたら二、三百時間はかかるかと思うが、パーカー自身が書き残した文章というものは何も残っていない。誰かがパーカーの生存中に彼の伝記を出版しようと企画して、長時間に及ぶインタビューを試みて録音したものでもを残しておけば良かったのだが、そんな記録もない。ルイ・アームストロングやディジー・ガレスピーやマイルス・デイヴィスは功成り名遂げてからそうした伝記本を残して死んでいったが、パーカーは死ぬのが早すぎたし、突然死んだために、本を残す暇(いとま)もなかった。さらに言えば、パーカーの評価と功績は、死んでからますます大きくなっていったので、それが定まった時には、もう間に合わなかったと言えよう。
 が、しかし、パーカー自身が語った言葉がまったく残っていないわけでもない。断片的ではあるが、若い頃のこと、自分の音楽のこと、またジャズや音楽の考え方などを語った言葉が記録されていて、まずこれがパーカー研究に欠かせない資料になっている。

 パーカーがインタビューで実際に話した言葉を記録した資料は、二種類ある。一つは、パーカーの話し声を録音した音源が残っているもの、もう一つは、録音はないがインタビューアーがパーカーの言葉を文字にしたものである。
 後者について先に述べると、前々回にこのブログで紹介した ”No Bop Roots In Jazz”と題する「ダウンビート」誌(1949年9月9日号)の記事は、こうした資料の中で最重要のものである。
 それ以前の資料では、パーカーと親しく接していた評論家のレナード・フェザーが1947年5月に行ったインタビューを基にして書いた記事 ”Yardbird Flies Home”(「メトロノーム」誌に同年8月に発表)がある。この記事を私はまだ読んでいないが、この資料が掲載されている本(Carl Woideick”Charlie Parker Companion”)を取り寄せたので、近いうちに読むつもりだ。

 さて、前者の資料には、ライブ演奏の前に司会者がパーカーを紹介し、その時パーカーが話した言葉も含まれるが、それを除外して、重要な音源を年代順に列記すると以下になる。
(1)評論家のレナード・フェザーがパーカーに行ったブラインドフォールド・テストの音源(1948年夏)
(2)大学教授マーシャル・スターンズと「ダウンビート」誌のジョン・メイアーによるインタビュー(1950年5月1日、ニューヨーク)
(3)レナード・フェザーによるインタビュー(1951年3月末か4月初め、ニューヨーク)
(4)ラジオ番組の司会者ジョン・マックレランによるインタビュー(1953年6月13日、ボストン)
(5)同じくジョン・マックレランとアルト奏者ポール・デスモンドによるインタビュー(1954年1月下旬、ボストン)


 この五つの音源はすべてYouTubeにアップされているので、パーカーの生の声を聴くことができる。そして、これらのインタビューは、すべて文字に起こした資料がある。英語のリスニング能力が不足している私にとっては、大変役に立つ資料である。しかし、話し言葉を文字にすると、テンポや間(ま)や抑揚がなくなり、ニュアンスも失われ、話し手がその時伝えたいと思っていた意味がかえって分かりづらくなってしまうという弊害も生じる。先日私はまず文字化した資料を読んでから、音源を聴いてみたのだが、ギャップを感じないわけにはいかなかった。
 パーカーというのは決して雄弁なタイプではなく、むしろ言葉が少なく、それに彼の話し言葉は、時には不明瞭で聞き取りにくい。また言葉を濁したりしているところも多い。パーカーが何を言わんとしているのかよく分からない箇所があちこちにあるのだ。文字にした資料は、その点、限界があり、実際の音源と比較してみると、判別不能の言葉を適当に文字化していたり、意味が通るように言葉を補足したりしている。つまり、記者の推測や解釈もいくぶん加わっていることを、知っておく必要があると思う。

コメント
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