昨夜谷川健一氏の「わたしの天地始之事」を読み終えた。
天地始之事とは250年間潜伏キリシタンが司祭のいない間に信者であった貧しい漁民、農民の手で作り上げられた聖書である、もちろん、いつそれが出来たのかはもう誰も知ることは出来ない。
この「わたしの天地始之事」は谷川氏の戦時中の青年期の精神史として自らの天地始之事のとの関わりを物語り調に書かれたエッセイはある。
私にとっても、それはとても興味深い物語りであった。
いろいろと書いておきたいこともあるのだが、今日はこの本のなかで紹介されていた沖縄の古宇利島と奄美の宇検村に伝わる神話を紹介する。
古宇利島の話し。
「昔はじめて男の子と女の子がその島に出現したが、二人は裸体でも恥じる心を知らず、毎日天から降ってくる餅を食べて無邪気に暮らしていた。
餅の食べ残しを貯えるという分別が出てくると、いつしか餅の配給はとまってしまった。
二人は食うために働かねばならず、朝夕、海辺で貝を漁って命をつないだ。
ある日、ジュゴンが交尾するのを見て、男女の道を知った。
そこでようやく裸体を恥ずかしいと思うようになり、クバの葉で恥部をかくした。
沖縄三十六島の住民はこの二人の子孫である」
宇検村の話し。
「大昔、マジン{ハブ}には翼があったという。
島には赤い実のなる木が生えていた。
天の神が人間たちにその実は毒だからぜったいに食べていけないと禁じていたのに、マジンが飛んできて、ある夫婦に{その実には毒なんかない。食べるなというのは、天の神が独り食いしたいがためだ。食べろ食べろ}とそそのかした。
まず女が食べた。
美味しかったので、次に男が食べると、うまくノドを通らず途中でひっかかった。
これを見た天の神はたいへん怒って、男には「おまえは一生、その実をノドにかからせ」といい、女には「おまえが子種を生むときには、うんと苦しめ」と罰を下した。
それで男にはノドガメ{喉仏}ができ、女はお産に死ぬ苦しみをなめるようになった」
この二つの話しを読んで、どうしても創世記を思い出さずには居られないだろう。
古宇利島の話しには天を疑い、餅を貯めると言うことをし、天から餅が降ってこなくなった、この天が神に他ならない、神を疑うようになり、ゆえに、楽園から追い出され、労働させられるようになったのである。
宇検村の話しも同じように神を裏切り、罰を下されている、それも禁断の実を食べてである。
太古から人間にとって大切なのは神の存在であり、神を裏切ってはならないということに他ならないことが聖書の生まれた場所以外にも神話としてあることはユングのいう無意識の繋がり、元型の繋がりではないだろうか。
今日は大晦日、太古からの日本の二つの神話をぼんやりと内省したり、考えみてみたり、その続きを自分が物語って見たり、あーでもない、こーでもないと思いを巡らしてワクワクしながら時間旅行をするのも良いのではないだろうか。
そうこうしている間に歳は明けて行くのだから。