「どうして、インドに行きたいと思ったの?」
「よく言うじゃないですか。インドに行くと人生観が変わるって」
「いや、変わらないよ。そんなに簡単に人生観なんて・・・」と私はインドに行けば人生観が変わるということにいつからか何故か否定的だった。
しかし、インドに行くのと行かないのと、ボランティアするのとしないのとではまったく違いあることも疑いようのない事実だと知っている。
今まで見たこともない景色や触れたのことのない習慣、文化のなかに入り込めば否応なしに脳は刺激されるのである。
さて、私はと振り返れば、実は間違えなく人生観が変わったと思わざるを得ないのに気付き苦笑する次第だった。
私の場合、もう20年以上前になる生まれて初めてのボランティアとカルカッタでの生活を通して、唯一無二の体験にしたのだった。
今ではよくボランティアのオリエンテーションなどで話したことであるが、私はボランティアを通して、今まで知らなかった自分に出会えた感動がある。
それは例えば、それまでは介護の必要な老人や障害者などに接することなど、気持ち悪かったり、汚いと勝手に忌み嫌ったりしていたのだったが、カルカッタのマザーの施設で、その日まで何も食べることをしなかった患者がスプーン一杯の食べ物を口にしたことに無性に喜んでいる自分にはっと気が付いた時、それは誰なのかと思うほどの真新しい自分に出会えた感動を味わったのである。
まさに私のなかの今まで未開発だった場所が発掘された喜びだった。
それはマザーの愛の魔法に掛かったと言っていいかもしれないと今では思う。
今でも私の外見は決してボランティアなどやっている人間には見えることないし、ボランティアなど柄でもない人生をそれまで送ってきた。
私はそれまで好きなると言えば、可愛い女の子だけだったが、スプーン一杯を口にしてくれた老人のことを間違えなく私は心配し続け、思い続け、それがマザーの伝えたかった愛だと言うことを知るようになったのである。
それだけではない、いつも一緒にいてくれたカナディアンのカップルがいた。
その時、英語もろくに話せもせずにいた私に関わらず、私たちはほんとうに仲良くなることが出来た。
カルカッタでの毎日が喜びの日々になり、私はこの世界に生まれてきてほんとうに良かった、私が私でいてほんとうに良かったのだと、私のそれまでの人生を全肯定した素晴らしい体験と経験をしたのである。
それは私のうちに喜びの泉となり、その水は絶えない。
ここでもう一度インドに行けば人生観が変わるということに、私は何故否定的になっていたかを考えてみる。
知らないものを知る前と知った後では何かが変わる、しかし、本をたくさん読めば賢くなれるとは思わない、実際違うと思うのような両極化した方程式が私の中にいつしか成り立っていたのかもしれない。
そして、私は何度も何度もカルカッタに行ったが、私のうちの私が変わりたいと思う部分が変わらずにあり続けることへの憤りを見つめ続けてきたからかもしれない。
しかし、今はその弱い部分こそ、私の指針となり、私を教育してくれる師のようにも思えるようになっている。
それにたぶん安易にそこに行けば人生観が変わるなどと思う他力本願的な渇望の危険性を感じ続けてきたからかもしれない。
ほんとうはどこにいても変わらぬ者として生きれることが何よりなのだ。
ただアイデンティティーの定まらぬ時期には藁をもつかむ思いでどうしても彷徨うことになるが、それも人生には必要なことと思える。
人生観を変えるターニングポイントは必ずあると思うが、それは後になって分かることであり、不意にそれは訪れることの方が多いのではないだろうか、そして、またそこから自身の人生観を育てていく地道な作業を怠ってはならないのである。
人生はそれを喜ぶと私は思うのである。