カルカッタより愛を込めて・・・。

今月のアピア40のライブは3月21日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

時が経つ。

2014-01-31 12:30:56 | Weblog

 時が経つのがほんとうに早い、来週の火曜日の早朝ジョンはオーストラリアに帰る。

 彼の顔が見れるのはあと4日である。

 毎晩一緒にご飯を食べていたし、彼がここを去ると寂しくなるだろう。

 今日の病院では4階にいる男性は薬が抜けてきたらしく、だんだんと良くなってきた、彼は麻薬中毒だったように思える。

 駅ではプレムダンに運ぼうと思った老女は何度も説得したが、行かないと強く拒んだので、運ぶのを断念せざるを得なかった。

 マリオはとても悲しいそうに「あんな年寄りが、、、」と嘆くように呟いていた。

 私たちは無理やり患者を運ぶことなど出来ないのである。

 周りのインド人たちも一緒に説得してくれたが無理だった、そして、明日もちゃんとまた説得することを周りのインド人に伝えた。

 時が経つのがここではほんとうに早い、私も最後の日をすでに十二分に感じなら働いている。

 今日はまたこれから登録のボランティアに行くので、このくらいで。

 
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カールプナ。

2014-01-30 12:43:10 | Weblog

 洗礼式の三日前の朝、私がマザーハウスで朝食を取っていると、以前に書いた私がプレムダンに運んだカールプナのケアをしてくれたアルゼンチンの女の子が私のところに来て、カールプナのことを話してくれた。

 彼女は私の洗礼式には出れず、その日が最後のボランティアだった。

 彼女はカールプナがあなたに会いたいとずっと言っていることを教えてくれた。

 そして、何よりも彼女はカールプナとの出会いが最高の素晴らしい思い出になったと涙ぐみながら話してくれた。

 私は思いっきりハグをした。

 彼女の瞳から涙が溢れ出していた。

 洗礼式の後、タバコをマリオと二人で吸っている時にマリオはアルゼンチンのボランティアの子から聞いたカールプナの話を教えてくれた。

 私の洗礼式の前日、カールプナはずっと涙を流していたと言う、食べる力もなく、衰弱も著しかった。

 私の洗礼式の朝、カールプナは微笑みながら亡くなったと言う、アルゼンチンのボランティアの子達は彼女を取り囲み、歌を歌いながら看取ったとのことだった。

 カールプナは周りの者たちから愛を受け、また周りの者たちに愛を与え、その命を全うした。

 私も彼女にもう一度会いたかった。

 彼女の小さな顔や頭、額に触れたかった。

 しかし、それは叶わなかった。

 しかし、彼女は愛のなかに漬かるようにして死を迎えることが出来た。

 神さまに見守られ、微笑みとともに。


 昨日から登録のボランティアを始めた。

 日本人は12人来ていたが六人の男性のグループがいた、彼はなんとパナソニックの会社の研修で来ていた。

 登録が終わり、シスターメルシーマリアが言った、「Tetsuが日曜日のシェアリングをすれば良いのに。みんな残ってあなたと話をしていたでしょ」と喜んでいっていた。

 もちろん、私はNOと言い、それはシスタークリスティーのお仕事ですと答えた。

 今日は休みなので少しゆっくりと書いた。

 これから部屋の掃除をしなくてならない。

 ゴザは干してきた、観葉植物にはシャワーを浴びせ、テラスに出し、今日向ぼっこしている最中である。

 
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ロザリオの祈り。

2014-01-30 12:14:41 | Weblog

 私のポケットにはいつも小さなノートを入れている、これに一日の出来事や患者の名前、必要な人の電話番号などを書いている。

 最初の時期に結構書くのであるが、時が経つにつれて、忙しくもなり書かなくなるのが、常であったが、今回はかなり書いていて、ノートが二冊になった。

 このノートにいつも英語のロザリオの祈りを入れていたが、ノートを新しくしたので昨夜のアドレーションの時には忘れてしまった。

 新しいロザリオは持ってきたのに、、と思った。

 しかし、シスターにもらったロシア人のボランティアが作ったロザリオは私にはあまりにも素敵過ぎるもののように思えたので、あまり人に見られないうように、こっそりとそれを手の中に入れて、自分の口から出すロザリオの祈りではない、シスターたちのロザリオの祈りに耳を傾けていた。

 今日は言葉を出さずに黙想のようにしていようと決めると、一人のシスターが祈っていた私の傍に来た。

 そのシスターは小さな祈りの本を私にくれた。

 「シスターガットゥルーダから」とシスターは言った。

 ほんとうに不思議だった、私がロザリオの祈りを忘れてしまい、困っているところに神さまはそれを優しく差し出してくれたのである。

 神さまの使者となったのが、それもナンバー3のシスターガットゥルーダであった。

 もしかしたら、彼女はマザーの声を聞いたのかもしれない。

 「あの子が祈りたくても、祈りのカードを忘れ困っているから、これをあげなさい」と見守っていたマザーがそっとガットゥルーダに言ったのかも知れないと、頂いた祈りの本の中からロザリオの祈りを探し、感謝とともに祈りながら思っていた。

 これはマザーなら間違えなく言う、「偶然ではなく、必然である」と。

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無事に終わった。

2014-01-29 12:32:30 | Weblog

 洗礼式が始まるまで、どんな風になるのかどうか分からなかったが素晴らしい式になった。

 式が始まる前、私の頭に塗油する油を忘れていたため、シスターメルシーマリアが司教のところまで急いで取りに行った。

 これは胸に塗油する油と違い、司教のところまで取りに行かなくてはならない大切なものだったので、慌ててメルシーマリアは取りに行った。

 なんとサイクルリクシャーも彼女は使わざるを得なかった、そこで「500ルピーだ」とか言われたが、無事にマザーハウスに戻って来れた。

 だから、式は少し遅れて始まった。

 さて、何を書こう、式の内容を書こうか、それとも、その後のことを書こうか、悩むところであるが、とりあえず、簡単に書こう、今日は三時にはシュシュババンに行かなくてはならない、登録のボランティアを始めるのである。

 式のジョンの説教は私の葛藤の話などを聞くと、この20年掛かった時の重さからだろう、やはり涙が溢れてきた。

 隣ではママも時折涙を流していたようだった。

 式にはマザーハウスのほとんどのシスターが出席し、ボランティアもまたそうだった。

 式を終えると、ゆっくり少し祈ろうと思ったが、すぐにマリオに呼ばれた。

 マリオはこの日、特別に待者をしてくれた。

 チャペルの外に出ると、まずセントジョンから観想会のシスターラファエルをはじめ、他にもたくさんのシスターが待っていてくれた。

 シスターラフェエルはシスターニルマラからの手紙を持ってきてくれた。

 シスターニルマラ{マザーの次に総長になったシスター}はまだ不自由な手で手紙を書いてくれた。

 そこで待っていてくれたシスターと一人ひとり握手をした。

 シュシュババンの院長をしているシスターポリタも来てくれた。

 彼女とはベンガル語だけで話した。

 以前と何ら変わらぬ屈託のない笑顔で祝福してくれた。

 シスターカリーナも待っていてくれた。

 彼女は私が10年前、他のボランティアのようにミサの間になぜパンを食べに行けないのかと涙を毎日流していたことを知っているので、彼女が私の手を強く握った時には感極まった、そして、大きなイエスの絵をくれた。

 それから、グジャラートで一緒に働いたシスターニルマラマリアも満面の笑みで私を待っていてくれ、祝福の手紙をくれた。

 アルゼンチンのボランティアの女性も私に手紙とパパ様のカードをくれた。

 ナンバー3のシスターガットゥルーダも私にマザーのカードなどいろいろとくれ、祝福と私の額にキスをしてくれた。

 書き忘れたがミサの最後には日本語で「あめのきさき」をシスターたちは歌ってくれた。

 これには流石に驚いた。

 この歌は私が大好きな歌で12月のアピアのライブの時に歌った歌であった、やはりとてつもない繋がりと導きを感じた。

 そして、マザーのお墓のところに行き、そこでまた日本語の歌をメルシーマリアやクリスティーたちが歌ってくれたが、練習不足か、何回か間違え、笑いを誘った。

 もう一曲は英語の「congratulation」だったので他のボランティアたちもみんなで歌ってくれた。

 ほんとうにみんなに祝福された、それは想像以上の何ものでもなかった。

 すれ違うシスターたちは皆満面の笑みでおめでとうと握手をしてくれた。

 ボランティアたちもそうだった。

 マザーハウスのカウンセラーのシスターからは、マザーハウスにあるマリア像と一緒の小さなマリア像をプレゼントしてくれた。

 メルシーマリアやマーガレットからはロシア人のアーティストが作ったロザリオやカードなどをもらった。

 そのロシア人の絵はマザーのお墓のところに飾られていたこともあった。

 他にもスペイン人の神父やボランティアたちやママからもプレゼントをもらった。

 カトリックになると言う事は家族の一員になることであると言う事は肌身で感じ教えてもらった。

 ここまで書いたが到底書ききれぬ祝福を私は受けた。

 日本に帰ったら、またゆっくり書こう。

 
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あと二時間。

2014-01-28 11:46:02 | Weblog

 洗礼式まで、あと二時間である。

 もう少しゆっくりと書こうと思っていたが、もうあまり時間が無くなってしまった。

 式の前にママの家に行く必要もあるし、マザーハウスには二時に集める予定である。

 だが、今日は仕事を休み、十分身体を休めたので調子は悪くない。

 今朝は久しぶりにシスターシャンティと話をした。

 シスターメルシーマリアがチャペルで車椅子に座りながら祈りをしていた彼女のもとに私を連れて行き、私の洗礼のことを伝えてくれた。

 彼女はドクターでマザーが生きていた頃、彼女がマザーのマザーハウス内でのドクターであった。

 以前は元気だったが、ガンや骨折などをしてからはもう歩けることが出来なくなった、歳もかなり取っている。

 しかし、彼女の微笑みの中には深い愛情と平穏な心が十二分に伺えた。

 彼女は私の顔は覚えていた。

 私の友達のグレッグとタンと彼らの子供のことを話した。

 それから、シスターメルシーマリアは私のために洗礼服を用意してくれていた。

 私がジムとジョアン「ママ}がすでに服は買ってくれていると伝えたが、念のために用意したと言う。

 だが、その二着ともかなり大きすぎて、やっぱりちょっと駄目かなって、彼女は笑っていっていた。

 昨日、いや、もう一昨日になる、ダバタさんと夕食を食べた。

 その時にどうして自分がカトリックになろうと思ったかを来たれたので話した。

 カトリックの家族のなかに普通に生まれ育った私の悩みや葛藤などは、彼女は想像していなかったらしい、それはそうだろうとも思った。

 もうボランティアにはいないが、この前までいた中国人のイキと言う子はカトリックになりたがっていた。

 中国でカトリックになるのは私には良く分からないがまず不可能であろう、それも十分彼女は承知しながらも、カトリックになりたいと望んでいた。

 その彼女が持つ悩みや葛藤は、私のものとは同じとは言えないが、彼女のその痛みを私は感じられる。

 私は私の喜びのうちに、誰かの痛みを忘れたり、感じられなかったりするようなことにはなりたくない。

 もう少し書きたいことはあるが、もう時間である。

 行かなくてはならない。
 
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最後の日。

2014-01-27 17:57:19 | Weblog

 カルカッタに来てから、今日まで一日も朝のミサに出なかった日はなかった。

 それはミサに出なくてはならないと思ったのではなく、ミサに出たいと思ってきた結果である。

 そして、今日のミサでも聖体拝領の時、私は祝福を受けた、これが最後の祝福になる、明日は聖体を頂けるのである。

 その時、私はどうなるのかはまったく分からない。

 今日も駅のプラットホームを一人で歩いている時、ふと今までのことを考えると、自然と涙が溢れてきた。

 必ずと言って良い、私は明日泣くだろう。

 恥ずかしいけど、泣くだろう。

 今朝アルゼンチンのボランティアからプレゼントをもらった、今のパパ様の言葉集だった。

 その本を開くとすべてのアルゼンチンボランティアからと書いてあった。

 その他もスペイン人のボランティアもみんな喜び、私を祝福してくれた。

 明日、私の夢が叶う、それは私の夢以上の夢にすでになっている。

 さぁ、明日、私はどうなるのだろうか。


 少し病院のことを忘れないうちに書こう。

 前にも書いた両足のない患者が退院した。

 その前日、彼は私とバーニーにこう言った。

 「私はあなたたちを忘れない、私は明日家に帰るけど、神さまと常に一緒にいる。そして、私は三つ目の目で{ここで私は私の額に手をあてると彼は頷いた}、私はあなたたちを見ることが出来るだろう。そうすれば、また私は嬉しくなるだろう」

 彼は両足を失った絶望があっただろう、そして、これから不自由な生活を免れないだろう、にも関わらず、彼は私たちを喜ばせる、彼は私たちに愛を与え続ける、それは表面的なことではなく、深いところから来る純粋な深い愛とともにであった。

 バーニーには病院を出た後に詳しく彼の言った言葉を教えてあげた。

 すると、全身から彼女は喜んでいた。

 今日はイングリットと連れて病院に向かった。

 彼女は私をずっと見ていると言った。

 彼女に言った約束の一つ、ずっと微笑みを絶やさないこと。

 病室では二体の遺体の前で祈った、他にも亡くなった患者がいた。

 その彼は私とバーニーの手を持ち、自らの額に持っていき、祝福を願った患者であった。

 前日バーニーはいつもよりも長く彼の額に両手を置き祈っていた。

 病院の訪問が終わり、イングリットに「どうだった?」と聞くと「Tetsu、ありがとう」と深く感謝して言った。


 明日私は仕事を休みにしている、また午前中に最後の思いを書き残したいと思っている、十分に書き示すことが不可能であるが、まとまりのない文章であれ、書き残そう。

 水曜からは登録のボランティアをしなくてはならない、今までのようには書けなくなるだろう、しかし、それは仕方がないことである。

 私はここに書くために来ているのではないからである。

 愛し愛されに来ているのである。
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白のクルーター。

2014-01-26 11:42:41 | Weblog

 昨日は洗礼式用の服をゴットマザーとゴットファーザーになるママとジムに買ってもらった。

 真っ白なクルーターを買ってもらった。

 そして、ランチをご馳走してもらった。

 それから、4時半にシスタークリスティーとファーザージョンと洗礼式の打ち合わせをした。

 さすがに緊張は高まってきた。

 夜はジョンとプロテスタントの牧師のイギリス人のジョンにディナーをご馳走してもらった。

 それと同時に身体がかなり疲れていた。

 ネットカフェに来る時間は取れず、ブログを書くことが出来なかった。

 今もあまりよく私の頭は回転していない、とにかく、少し寝たい。

 今日も三時にマザーハウスに行き、クリスティーに洗礼式のジョンの言う言葉などの訳や意味を教えてもらう。

 明日時間を作り、また少しゆっくりと書きたいと思っている。

 明日が私がカトリックになる前の最期の日になる。

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花を。

2014-01-24 16:40:01 | Weblog

 今日は病院に向かう前にバーニーから哀しい話を聞いた。

 MCではないが、マザーハウスのミサに来ていた若いシスターが先週バスとバスに挟まれて亡くなったとのことだった。

 ほんとうに交通事故には気を付けなければならない、、。

 病院にも交通事故にあった小さな子供が病院に来ていた、父親がケアをしていたが、子供は痛さのあまり悲鳴をあげていた。

 子供の悲鳴ほど胸に刺さるものはない、私には胸の痛めることしか出来なかった。

 病院の4階には家族のいない患者が二人いる、その一人は廊下の運搬用のベッドから降りて、モーフに包まって床で寝ていた、服は何も来ていなかった。

 私はメリーと二人で病院に向かい、彼に服を着せ、エッグトーストを与えていたが水とビスケットも彼に与えた。

 彼の様態は良くはない、何て言ったら良いのだろうか、彼はずっと体を左右に揺らし震えているようだった。

 ベッドの上は糞尿で汚れていたので、それをきれいにしてから、彼をベッドに乗せ、帰ってきた。

 すでに他のメンバーは駅に向かっていたので、メリーはサウスステーションに向かい、自分はノースステーションに向かった。

 私は一人でボランティアの誰かが来るだろうと思われる場所で待っていたが、しばらく待っても来ないのでディスペンサリーに行こうとした。

 歩いていると、骨だけの下半身を丸出しにし、寝ている男性{35歳くらい}の患者を見つけた。

 彼の臀部は皮が向け、激しい下痢の後があり、もう死にそうだった。

 苦しさのあまり、のた打ち回るように体を動かしていた。

 彼は初め、私が病院{プレムダン}に連れて行くと伝えると拒否するような仕草を見せた。

 少し離れて様子を伺うようにしてから、またゆっくりと彼に近づき、話しかけた。

 病院はお金は要らないし、きれいなベッドもある、食べ物をあげるし、何の問題もないと言うと彼は微かに頷き、受け容れてくれた。

 ここに患者がいると言う事はまだ他のボランティアはここを歩いていないことだと言う事が分かったので、みんなが一度集まる場所に向かうと、バーニーたちがいた。

 一度みんなディスペンサリーに集まり、休憩を取りながら、それからの行動を話し合った。

 私とマリオと新しく加わったケベック出身のジェニンがプレムダンに運ぶことにした。

 バーニーはタクシーに乗せるところまで付き合うと私たちと一緒に来た。

 患者のところに着くと、彼の意識はすでに無かった。

 私が両足を持ち、マリオが肩を持ち、バーニーが頭を支えながら患者を車椅子に乗せた。

 すでに虫の息だった。

 運んでいる途中、これはタクシーの中で亡くなるかもしれないと思った。

 しばらく歩くとマリオが少し叫ぶように言った。

 「死んだ、、」

 だが、彼はまだ微かに息をしていた、止まったように見えた彼の喉仏はまだ間を置きながらだが動いた。

 そこで私は言った。

 「もうこの患者はタクシーでは運べない」

 バーニーは言った。

 「ポリスのところに連れて行こう」

 そこからポリスステーションまで100メートルも無かったが、そこまで行くと、彼は亡くなった。

 バーニーとマリオと私で患者を車椅子から降ろし、持っていたビニールシートに彼をきれいに包んだ。

 ジェニンはそれをずっと見つめていた。

 バーニーが警察のところに行き、話しをしている間、ジェニンを見ると小さな声でロザリオの祈りを祈っていた。

 戻ってきたバーニーは亡くなった人のために花を買いに行くとジェニンと一緒に買いに行った。

 マリオは真剣そのものの顔していた、パーカーを脱いでいなかったから熱かったのだろう、彼の鼻先には汗が一粒光り、今にも落ちそうになっていた。

 私は亡くなった彼の瞳を閉じようと右手の人差し指と親指で彼の瞳を閉じると、私の右手の小指は微かに震えていた。

 私の意識にはない行動を小指はしていた、小指は私の感じる感情以上の感情を感じていたのだろう、私はそれを見て、その思いを知るのだった。

 バーニーが帰ってくるまでずっと彼の傍に腰を下ろし、祈っていた。

 もう苦しくないだろう、どんなに苦しい時を過ごしていたんだろう、もうゆっくりと休むと良い、もう何も苦しむ必要はないんだから、そんなことを私は胸の中から、彼に向かって話しかけていた。

 バーニーたちが戻ってきた、花を首に掛け、みんなで最後に一緒に祈り、彼のもとを離れた。

 
 もう一度ディスペンサリーに戻り、もう一度休憩をした。

 私の指先はしっかりと洗い、消毒もしたにも関わらず、彼の死臭が残っていた。

 
 帰る途中、メンタルな女性が道路脇の水を野良犬のように飲んでいた。

 すぐにそれを止めさせ、私のミネラルウォーターをあげ、パンを買い与えた。

 一緒にいたジェニンに「ハードライフ」とだけ、私は言った。

 ジェニンは一度も患者に触れなかった、私はあえて何も言わなかった。

 あまりにショックだったのか、それとも怖かったのか、それとも何が何だか分からなかったのか、それは分からない。

 「彼が神さまだよ」とは彼女には伝えなかった。

 彼女は彼女自身でこの現実を受け容れていく方が良いと私は考えていた。
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良く寝た。

2014-01-23 12:42:26 | Weblog

 今日は仕事を始めてから、初めて何もしない完全の休みを取っている。

 ほんとうは今日、日本の私のうちにも遊びに来たことがあるダバタさんが一週間だけ来ているので、彼女のホテルに泊まっている日本人数人と一緒に少し出かけようと思ったが、生憎彼女たちに用事が出来てしまい、キャンセルになったのは残念だった。

 ハウラーの橋のところにある花のマーケットに行って、ママに花を買ってきてあげたかった。

 そして、ハウラー橋を歩いて渡り、フェリーに乗り、運良くイルカを見れれば、素晴らしい気分転換になると思っていたが、まぁ、ここでの約束はなかなか果たせないのが常時であるから、それはそれ、次の休みはいつになるか分からないが、またいつかの機会に行こうと思っている。

 用事が無くなったので、ミサの後、ママの家に寄り、ゆっくりと朝食を食べられたのも、これも良かった。

 洗礼式に着る服をママとジムが私にプレゼントしてくれるようである、それは土曜日の12時にシアルダーで待ち合わせて、一緒に買いに行くことになった。

 それとママが殺されそうになった話を詳しく教えてもらった。

 ママは十月に午後6時半くらい家の近くの通りを歩いている時に行き成り後方から頭部を殴られ倒れ、一瞬気を失い、また気の狂った男が切り崩されたセメントの塊を持って、殴りかかってきそうになったところを必死に走って逃げたらしい。

 その男もママが逃げ出したので、反対方向に逃げたらしい。

 腕と肩を骨折し、手術を受けた。

 だが、ママはその時、髪の毛が長く、ポニーテールにしていたのが運が良く、ワンショットのアタックを少し和らげたようである。

 今も少し肩の痛みを感じているが、普通の生活は大丈夫、しかし、まだリハビリをしていて、病院には通っている。

 このことはママのNZの子供にはさすがに内緒にしていると言う、もし言えば、心配のあまり、カルカッタにママを住ませないようにするだろうからだ。

 それはそうだろう、だが、ママはこんなことがあっても、このカルカッタを愛しているのだろう、ここからまだ離れるつもりはまったくないようである。

 ママは笑いながら話した、私の逃げ足はほんとうに速かったと、それは自分自身でも信じられないと言うくらいの感じで話していた。

 ちょっと違うかもしれないが、火事場の馬鹿力が働いたのか知れない、生き延びるために普段使わない力が出たのかもしれない。

 よく言われることだが、「カルカッタでは何でもポッシィブル{可能}である」と長期の滞在者は言う。

 それは自国では考えられないようなことが平気で起こる事実を何度も目の当たりにするからである。

 しかし、私たちはそのすべてを乗り越えて行くのである、マザーがそうだったように。

 もちろん、何人かのボランティアは離れても行くが、その問題は起こった事実よりもその個人の内面の問題が大きく関わっているように思える。

 昨日アドレーションの後、スイスから来たイングリットに会った、彼女とも三年前に一緒に働いた。

 彼女はシュシュババンから子供を養子として受け入れ、もう一人子供を他から受け容れている女性でスイスでホテルを経営している。

 また彼女に会えて嬉しかった。

 それと明日からケベック出身の女の子をシアルダーに入れる、彼女は6月までカルカッタにいるので、私たちには必要であった。

 とても可愛い子であるが、どんな人間性の持ち主なのか、一緒に働くのが楽しみである。

 その彼女はミサやアドレーションでの姿を見ていると、シスターになりたいのではないかと言う感じである、これはアイリッシュジョンが言っていた。


 さて、今日はこれから家の掃除をする、今ここに来る前にゴザは干してきた。

 観葉植物もこの前一つ買ってきたので、ママにもらったバンブーと二つになり、なかなか感じの良い部屋になっている。

 掃除をしたら、しっかりベンガル語の勉強をしよう。

 病院の両足のない患者がほんとうに分かりやすくベンガル語を話してくれるのに、それが理解出来ないのは胸が痛むのである。
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マリオとは。

2014-01-22 15:47:10 | Weblog

 今日は病院では一人の患者が亡くなっていた。

 病院に行く前に病院内に住む子供二人を「Hope」の学校に連れていくと、子供の母親に10時にディスペンサリーに来るように約束したが、彼らは来なかった。

 一人の子供は11歳ぐらいだが、明かにドラッグ中毒のようなくすんだ瞳をしていた、そういう状態から学校に通わせ、仕事につかせるようにするにはほんとうに難しいが、私たちが始めから諦めては神さまは喜ばないだろう、だから、これからも声を掛け続けるようにする。

 駅は一人の女性をディスペンサリーに運び、体を洗わせ、新しい洋服を与えるようにした。

 彼女はパンジャビーを尿で濡らしていた、片足は痛めたようで一人で立ち上がることは出来なかった。

 彼女は初めヒンディーで話していたので、私はヒンディーが分からないから、ベンガルで話すように言うと、少しベンガルは話せると言い、それから、ベンガル語で会話した。

 彼女はマザーテレサを知っていた。

 
 今日マリオが朝のミサで祈っていた私のところに来て、「おめでとう!」と言った。

 「あれ?」と私は思った、何がおめでとうなのか、まぁ、たぶん、洗礼のことだろうと思ったが、昨日バーニーが私の洗礼のことを詳しく教えたのだろうと思った。

 だが、今こうしてブログを書く前にフェイスブックを開いて分かった。

 マリオは私のフェイスブックを見て、昨夜やっと私が洗礼することを知ったのだった。

 ずっとディスペンサリーで私の洗礼のことを話していたが、彼はまったく分からなかったらしい、しかし、ミサが終わり、彼は満面の笑顔で私にこう言った。

 「素晴らしい!!!おめでとう!!!今朝目が覚めて、自分はTetsuのために嬉しくて涙を流した」と言ってくれた。

 マリオはそう言う男である。

 きっと日本人にはあまり分からないかもしれないが洗礼を受けるとは、新しい命が生まれるようなものであり、赤ちゃんが生まれ、それを見た周りの人たちが感動するのと同じようなものなのである。

 今日マザーハウスではシスターメルシーマリアが洗礼式とミサの時間をボランティアたちから、少し離れたところに呼んで、時間の変更などを教えてくれ、ここでも見たこともないような笑顔をメルシーマリアは見せ、キリストの子になるんだと言ってくれた。

 何度も思うが、私はやはりマザーハウスで洗礼を受けることを決めてほんとうにほんとうに良かった。


 28日洗礼式の時間が二時半に変わった。

 最初は洗礼式のみの予定だったが、ミサも同時に行うことにもなった。

 私は一時間早くカトリックになれる、素晴らしいことである。
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