カルカッタより愛を込めて・・・。

今月のアピア40のライブは3月21日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

帰りのバスの中で。その2。

2012-11-30 13:19:53 | Weblog

 マザーの列福式が終わり、山谷のブラザーたちとお茶会が行われていたその部屋に向かう時、暗く疲れた表情をした小柄な女性に声を掛けられた、その彼女がKさんだった。

 「Tetsuさんですよね、ありがとうございます。あなたとのメールがなかったら自殺していたと思います・・・。お礼が言いたくて・・・」

 彼女とは私のHPを通して知り合い、何度かメールのやり取りをしていた。

 彼女は幻覚幻聴に悩まされていたと私は思っていた、と言っても、彼女自身には間違えなく現実のものとして感じていた。

 彼女は苦しみはこうしたものだった。

 彼女がアパートの隣の人がうるさくて注意をして以来、いろんなところに隣の人が来て付回されている、銀行やビザを取りに向かったインド大使館まで付けてくると言う話だった。

 こうしたものが昼夜構わず彼女を激しく悩ませ苦しませ、最後には自殺を考えるようにまで追い込んでいったのだろう。

 だが、そこで私が何をしたのでないと思う。

 彼女にはただ自殺を選ばない力があったのである。

 その彼女とは次の年、カルカッタであった。

 何かを思い悩むような暗い感じはそのままあり、他人を近寄らせぬ鋭いものを心に持ち、またその情緒の不安定さも浮き彫りのままにカーリーガートで働いていた。

 彼女は自分よりも不幸のものに手を差し延べることによって、自分の苦しみを感じないように必死になっていたようにも思えた。

 その居た堪れない生き辛さに、私はその時関わりをあまり持たないように逃げたことを覚えている、その罪悪感とともに・・・。

 その後彼女と会うことはなかった。

 彼女の死はマザーハウスにいるシスタークリスティーから聞いた。

 カーリーガートで一緒にボランティアしていたスミコさんが彼女から連絡を受け、ガンの末期でボランティアをしていたホスピスにいるとのことだった。

 クリスティーが西新井のMCに連絡し、シスターに見舞いに行ってもらうとしたが、それは間に合わず、彼女は亡くなった。

 クリスティーから、それを聞いた私は胸が痛かった。

 しばらく彼女の痛みをうちに入れ込むように感じながら、二人とも黙った。

 Kさんの詳しい話はその後スミコさんから聞いた。

 そこでも同じように彼女の痛みをうちに入れ込むように、この身体はなっていた。

 {つづく}
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帰りのバスの中で。

2012-11-29 12:00:36 | Weblog

 帰りのバスのなかで岡さんは言った。

 「私、この前小金井のホスピスに行って来ました」

 岡さんは週に一度ぐらいだと思ったが、府中にある病院の緩和ケア外来に学びに行っている、そこの先生と一緒に小金井のホスピスを視察に行ったとのことだった。

 そのホスピスはジョルジュ・ネラン神父が亡くなったところである。

 ネラン神父は遠藤氏のフランス留学中に個人的に奨学金を出し、そのことを当時遠藤氏には言わずに行っていた。

 ネラン神父は「おバカさん」「悲しみの歌」「深い河」のモデルになった神父である。

 そして、そのホスピスでは私の知人Kさんも亡くなった。

 彼女はそこでボランティアしていた女性。

 マザーを愛していた女性。

 最後に彼女に会ったのはもう10年くらい前のカルカッタ。

 彼女と初めて会ったのは東京カテドラルで行われたマザーの列福式だった。

 {つづく}

 
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違いが分かる男の前で。その2。

2012-11-27 13:05:29 | Weblog

 菊正を飲むとすぐに和田さんの顔は赤くなり、遠藤氏の作品の出会いは教科書に「沈黙」が出ていたと話し出す。

 岡さんは私が「遠藤氏のお墓参りに行かない?」とメールした時にちょうど岡さんに貸していた「夫の宿題」のお墓のところの読んでいたと不思議な繋がりを話す。

 私は遠藤氏の知らないであろうとマザーのことを語り、私たちもマザーが大好きなことを伝え、「深い河・創作日記」に出てくる自分は大好きな作家先生の最後を教えたり、またその家庭がどれほどあたたかな素晴らしい家庭であることを伝え、またそのお孫さんも山谷のMCにも連れて行ったことを話した。

 そして、大好きな作家先生の奥さまが遠藤氏の一つ上の先輩であり、遠藤氏の影響を受けて洗礼を受けた安岡氏、そう、あなたが「深い河・創作日記」のなかに手紙を載せている彼の娘さんに奥さまは私が奥さまにあげたカルカッタのマザーハウスからのメダイを渡したことも伝えた。

 遠藤氏が身体が丈夫でもっと長生きしてくれていたら、もしかしたら、山谷かカルカッタで会えたかもしれない、そんな妄想めいた話しをしては行き過ぎなことに気が付き、「先生、すいません。生意気なことを申しまして」お墓に向かって謝ったりもした。

 順子氏の「夫の宿題」にもあったが遠藤氏は身体が丈夫であれば、ほんとうは「深い河」に出てくる大津のように働きたかったであろうことを知っていたのでそんな妄想をした。

 ここでも分かるように奉仕できることはその人自身の希望・生きる糧・神さまの対話でもあるのだ、したくても出来ない人の思いも背負い、可能な限り丁寧にこうした繋がりを感じながら、この身体を有り難く動かして生きたいと思わずにはいられない。

 井深八重さんの話もした。

 あなたが小説に森田ミツを書いてくれなければ、私は「母にもまさる母」である八重さんのことも知らなかった。

 今は八重さんに実際に会ったことのあるクリストロア会のシスターからも八重さんの話しを聞くことが出来、見えないもので繋がるその環を大きくしていってくれている。

 あなたにしてみれば、これはすべてイエスの復活であると言われるだろう。

 私もそう思う。

 私たちのなかの神さまが生き、そうしたお計らいをしているのだと言う感覚を私も感じている。

 お墓の横を廃品回収の車が通る、スピーカーから聞こえる音は「深い河」の焼き芋のそれのように聞こえた。

 紙コップの菊正はどんどんなくなっていく。

 岡さんは裂きイカを遠藤氏の墓石の前、菊正の紙コップの隣にそのまま置き、「沖縄みたい」と言う。

 それは死者と私たちの間には何もないかの如く、死者は生きてそこにいるか如く、身近に接している沖縄の感覚のようであるその場に合った言葉だった。

 遠藤氏には短い間だが酒盛りのようになり、生意気なことばかりを語り、申し訳なかったかもしれないが、あなたを今もこれからも敬愛している者たちであることゆえに許してもらいたい。

 不思議なくらい楽しい会話をしていたので、あっと言う間に辺りの夕陽はかげり、灰色のマントが静かに私たちを覆っていた。

 500ミリのパックの菊正も空になり、最後に遠藤氏にお供えした紙コップに入った菊正を三人で割り、それを一気に飲み干した。

 「ダバダ~ダ~ダ~ダバダ~・・・」と私は口ずさみ、備えてあった缶コーヒーを見て、「やっぱり違いが分かる男はネスカフェでしょ」と言うと二人とも笑った。

 「それでも、遠藤氏はコーヒー好きだったから、このコーヒーも良いでしょ」

 違いの分かる男での死者の月「ありがとう」のささやかな酒盛りだった。

 
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違いが分かる男の前で。

2012-11-26 12:45:59 | Weblog

 「まずは菊正を買おう!」

 山谷のボランティアを終えて、私と和田さんは府中駅で待ち合わせた岡さんと一緒にカトリック府中墓地に向かう小金井行きのバス停を探した。

 バスはすぐに出発だったので、そのままバスに乗った。

 菊正は遠藤氏のよく飲んだお酒であろう「菊正なら問題なし」と奥さんの順子氏の書いた「夫の宿題」にあった。

 10分も経たない内に府中墓地近くのバス停に着き、まず近くのスーパーに菊正を探しに行った。

 菊正はあったにはあったものの一升だったので、さすがに遠慮し、近くのコンビニ行って見ると、ちょうど良い500ミリのものがあった。

 紙コップ、裂きイカ、ビール、500ミリの菊正を買い込んで墓地に向かった。

 御花はどうしようかと思ったが、まあ、お酒があれば、と言う勝手な言い訳で買わなかった。

 府中墓地は住宅地のなかに長く長方形にあり、大きな木が芝生の広場とかあるのかと思っていたが、そうしたものがなく、ただ静かなたたずまいのなか、夕陽を浴び、十字架のお墓がいくつも立ってた。

 和田さんはまず円谷英二氏のお墓に連れて行ってくれた、そこには小さなゴジラやモスラ、ウルトラマンたちが墓守をしていた。

 そこから遠藤氏のお墓はあまり離れていない場所にあった。

 飾り気のない質素なお墓に一メートルぐらいの梅の木があり、その葉はもう落ちていた。

 一週間以内に誰か着たであろうことを語るしおれた御花がいけてあった。

 缶コーヒーと小さなボトルのスパークリングのワインが恥ずかしそうに墓石の右横に備えてあり、またそれが寒そうだった。

 11月2日死者の祝日{カトリック教会で全ての死者の魂のために祈りを捧げる日}で、11月は死者の月にあたると、和田さんは教えてくれた。

 ならば、ちょうどいいお墓参りになると、三時過ぎ、冬の陽はもう暮れ始めていたが買い込んで来た菊正を紙コップに入れ、まず遠藤氏のところに置き、それから、暖をとるように私たちも菊正を頂いた。

 {つづく」

 
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八年ぶりに。

2012-11-23 11:50:30 | Weblog

 八年ぶりにエリクソンの「青年ルター1・2」を読み直した。

 まったく難しい、一度読んだが真新しい本として出現したような感じであり、眉間にしわをを寄せ、出来るだけ集中して読んだが、きっと頭のなかに入ったのは残念なことに5%ぐらいであろう。

 だが、以前読んでいた時に分からなかったことをこの八年の間に知り得た知識が少しだけ生きたように感じながらも読めた。

 それにしても、「ガンディーの心理」といい、この「青年ルター」といい、エリクソンの本は難解であり、読み辛く、そして、重いのである。

 「青年ルター」の翻訳者である当時東大の助教授{現在京大の教授}であった西平先生{西平先生のカウンセリングの講義を何度か聞いたことがあったので、そこで知りあった}に「青年ルター」の私の感想を聞かせてほしいと言われ、東大に出かけて行った事があったが、今思えば私の感想など薄いも薄く、まったく恥ずかしく思える。

 私の方こそ、もっと聞きたいことがあった。

 興味のある本を理解出来ないとはまったく悔しいし、その作者や翻訳者にも失礼のようにも思えてならないので、また必ず「青年ルター」も「ガンディーの心理」も読み直そうと誓う。

 そして、一気に読まなくても、たまにパラパラと開くようにして、私の興味を失わずに育てて行きたいと思う次第である。

 さて、今日からは、この前岡さんとアンさんと飲んだ帰りに酔った勢いで買った4冊の遠藤周作の本のなかから「死海のほとり」を読もうと思っている。

 解説は遠藤氏の仲間である井上洋治神父が書いている。

 そこをまずちらっと読むと、この「死海のほとり」は「沈黙」をもっと深くしたものとあったので、それは早く読みたいと思っていた。

 そして、明日は山谷のボランティアの後、ボランティアの和田さんが遠藤氏が眠る府中にあるカトリック墓地に連れて行ってくれる。

 何を語ろうか、今から楽しみにしている。

 
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あんのエンジン。

2012-11-22 12:50:48 | Weblog

 獣医さんに「柴犬は猫のように育てると良い子になりますよ」と言われ、その意味はよく分からない感じのままにあんを育てたのだが、あんは最近ちょっと猫っぽくなっている気がする。

 ストーブの前やポットカーペットの上が好きだし、たぶんもっと寒くなってくると自分の布団のなかに潜り込んで来るだろう。

 まあ、それはともかく今朝などは散歩に出ようとすると、玄関ですでに寒さにブルブルしているのである。

 そして、家の前の駐車場でウンチをすると、そのまま帰ろうとするのである。

 しかし、食っちゃ寝ー、食っちゃ寝ーだとあんも牛になってしまうかもしれないので「あん、寒くない。しっかり!散歩に行こう!」と声を掛け、あんを励まし散歩に出かけるのであった。

 大通りの信号待ちでも、まだブルブルしているので、あんの身体をさすりながら、「寒くない、寒くない、大丈夫!大丈夫!」と言う次第である。

 未だ寒そうにしているあんから「だって、てっちゃんはたくさん洋服着ているじゃん、あんは洋服着てないんだよ・・・」との声が聞こえてくる感じであんから見詰められると、あんにも洋服を着させてあげた方が良いかなと思う次第である。

 だが、自分の信条としては「和犬の柴犬には洋服など似合わぬ」である。

 さて、どうしたものだろうか。

 もしあんが喜んで洋服を着てくれるのなら、自分の信条などはいらぬものであるが、以前あんに雨合羽を着せたことがあったが、着た途端に尻尾をタラ~ンとするし、外を歩いても軽快さは微塵もなく、何でこんなの着せるのと言う感じであった。

 なので、洋服はどうかと思っている。

 ならば、ベストみたいなものは良いかなとも想像するが、さて、どうしたものだろう。

 いろいろと迷走するが、寒さに対するあんのブルブルの心配はしばらく歩いていると自然に消えてくるのである。

 そのサインはあんはクンクンし始めることである。

 「クンクンクンクン、た・の・し・い・な」となることであんの足は軽快に動き始め、次々と向かえ来る電信柱をやっつけるのであった。

 そして、自分の寒さに対するあんのブルブルの心配も自然と消えていくのであった。

 あんのエンジンは温まり、軽快にその音を鳴らし始め、寒さのなかをもろ共せず走るのであった。

 
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今日で三年。

2012-11-21 13:06:04 | Weblog

 あんがうちに来て、今日で三年になる。

 まだ耳も立っていない小さなあんはダンボールに入れられて、まっちゃんとまっちゃんの長男ケイタがうちに連れてきてくれた。

 その愛らしさとは表現出来るものでは到底なく、銃で打ち抜かれたことなどないがそうのようで、的にぴったり当たりの大当たりの喜びをうちにもたらしてくれた。

 あんはまったく小さな天使であった。

 その日のことは生涯忘れないだろう。

 大きくなったあんは今ホットカーペットの上で日向ぼっこしている。

 ちなみにまっちゃんの長男ケイタは菅村に新しく出来たガールズ・バーのキャッチを金髪でスーツを着てやっている。

 まっちゃんは心配しているだろうが、ケイタはケイタのモラトリアムのなかを今生きているのだろう。

 たまに会うと「コンチワ!」と可愛い顔をして元気に挨拶してくれるケイタは、自分には良い子に見えるのだ。

 話しを戻そう、うちに来て、あんはあんになった。

 その以前は何者であったのか。

 その以前をあんは覚えているのか。

 今は日向ぼっこしていても、「あん」と呼ぶと耳を立て上辺使いに自分を見る、そして、用事がないと思えば、またゆっくりと目を閉じるのである。

 今はあんはあんでしかありえないのである。

 今も幸せそうに日向ぼっこしているあんはとても愛らしいのである。

 あんと出会った記念日の今日、感謝の意味を深く感じ考え味わいたいと思っている。

 
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嘘か本当か。

2012-11-20 13:10:44 | Weblog

 炊き出しをしている時にクリストロア修道会のシスターが一人のおじさんとかなり長い時間話していたのでそばに行っていた。

 シスターと話していたおじさんは病院を出たばかりだと言っていた。

 彼の持ち物は手提げ袋一つと傘だけ、他には何も持っていなかった。

 彼の顔は激しく浮腫んでいて、その右目は開けられる状態ではないほど、そして、手まで浮腫み、指の爪は真っ白だった。

 たぶん、洋服を着て見えない足や背なかにも浮腫みはあるように思えた。

 彼は言った。

 「病院で看護婦のいじめにあったんだよ。だから出てきた」

 彼のようなお金のない者を毛嫌い見下し、心あるあたたかなケアをしない病院があることは間違いないだろうが、それはその瞬時の私の見解であり、まずはその病院であったことの云々より、また彼の話したことが嘘か本当かよりは、彼の傷付いた心、分かってもらいたいと望む痛む心をあたたかな態度で十二分に受け容れてあげることであり、彼が必要としているを差し出すことが先決だった。

 私はカレーを食べ終えそうになっていた彼に二つ目のカレーをそっとあげた。

 そして、後でモーフなどを渡すから、MCの施設に来るようにと約束した。

 MCに戻り、シスターはモーフのことを心配していたので、私がブラザーに確認し、モーフがあることを知ると少し安堵はしたものの、ナースでもあるシスターとともに彼の様態が悪すぎることは分かっていたので重苦しい思いに口を閉じた。

 彼の命はもう長くないだろう、だが、歩けるその状態で救急車は呼べないし、看護婦に傷付けられた彼がまた病院に行きたいとは思わないだろう、彼は路上で亡くなるかもしれない・・・。

 私たちは待ったが、彼は施設に来なかった。

 すぐにモーフを渡しに行けば良かったのだ、また失敗した。

 心配りと思いやりが足らな過ぎるのである。

 もっと真剣に向き合う必要があったのだ。

 私のうちには心のどこかで面倒だ、楽をしたい、病院で彼をいじめた看護婦のように、モーフをやるんだから、そこまで歩けと見下しがあったように思えてならない。

 ロザリオの祈りを終えると、時計は一時半になっていた。

 外の雨は急に強く降りだした。

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お別れ。

2012-11-19 13:10:08 | Weblog

 カルカッタでは本国へと帰るボランティアはその施設や路上で出会った人たちを想い出として残すために写真を撮る。

 その一人ひとりはどんな想いでレンズを覗き、その瞬間に色鮮やかな確信はないが生涯想い出となるその被写体を撮るのである。

 その写真のその後、何をその人は語るのだろうか。

 またその人はどんな時にその写真に何を語るのだろうか。

 それはシャッターを押した一瞬の出来事から独自の大切な物語りが描かれ始めているのだろう。

 慈しみ、悲しみ、愛、涙、笑顔、生と死、汗と埃、音と匂い、あらゆるものより、時にその人自身の成長ととも演出も加えられ物語りは意味深いものと成り得るのだろう。

 土曜はGucci・Japanの社長の彼はデジカメを手にして、いろいろと写真を撮っていた。

 彼が写真を撮っているところなど、今まで見たことがなかった。

 「一緒に撮りましょう」と彼と彼の息子と次女と一緒に写真を撮った。

 彼はニューヨークにあるGucci・USに転勤になるらしく、山谷に来るのも、もう一度来れれば良いが、これが最後になるかもしれないといつもの彼のように明るく話してくれたが、やはりどこか寂しい感じはあった。

 その日はブラザーノアスと伊藤さんと一緒に彼の車に乗って、白髭橋まで行った。

 彼は配り終わっても一番最後までいて、写真を撮っていた。

 そして、MCに戻り、彼はみんなに別れの挨拶してから帰ると言うと、彼の子供たちはボランティア一人ひとりと握手をしていた。

 彼の五歳くらいになる息子もしっかりと別れを認識しているらしく、その微妙な表情がとても愛らしくて、思わず、彼を持ち上げ抱きしめると彼は別れのキスをしてくれた。

 それがカルカッタの別れを思い出させた。

 そして、この子たちは今日父親が撮った写真をこれからどのように見るのだろうかと思えば、彼らの人生に祝福あれと祈らずにはいられなかった。

 
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ボジョレー。

2012-11-18 15:08:25 | Weblog

 木曜日は岡さんと岡さんの友達のアン・サリーさんと秋津でボジョレーを飲んだ。

 アンさんは医者であり、歌手である。

 以前岡さんとアンさんのライブに行ったときに「今度は秋津の立ち飲み屋で一杯やりましょう」との約束を守ってくれ、忙しいなかにもかかわらず時間を割いてくれた。

 ところが行こうとしていた立ち飲み屋が一杯だったので、近くの居酒屋で飲むことになった。

 私はアンさんは二人の子持ちで医者であるから、いつ歌の練習などをしているのか、その時間はあるのかと不思議に思っていた。

 そのことを岡さんに聞いてみると、アンさんは練習していないと思いますと言っていたが、彼女のライブを見て練習していない訳はないと思っていた。

 折角なのでアンさんに聞いてみると、やはり電車待ちの時間に口を動かしていたり、子供が寝た後に発声練習などをしていると教えてくれた。

 やはり練習していないとステージには立てないものであることを知ると、それはそうだと納得するのと同時に私自身も歌の練習をしなくてはならないときりっとした感じにもなった。

 ただ身近な存在の岡さんにもそうしたものを見せないアンさんのスタイルにも彼女の素敵さを浮き彫りにさせた。

 アンさんはどんな人かと言うことが飲みながら会話のなかで一つ浮き上がった。

 それは私がこの前の健康診断で血圧が高かったので、その話しをした。

 血圧の専門のアンさんに「上が139なんです、大丈夫ですよね。もう少し後に測ってくれれば、きっともっと下がるんだけど・・・」と言い、まことに勝手な患者の都合の良い希望へと導こうとしている私に「そうですよね、血圧は最初の方に測りますものね」と言ってくれた。

 そこでアンさんは彼女の師匠の医師の笑い話をしてくれた。

 血圧に関する名医であるその医師の顔はごつい感じらしく、ある患者の血圧を彼が測ると高くなり、アンさんが測るとどうしてか下がるらしい。

 それは血圧と言う物はそうしたことですら変わりやすいと言っているようにあり、血圧を心配している私への配慮と、それ同じく、彼女の穏やかさが相手の血圧を穏やかにすることを感じさせた。

 歌で人を癒やす歌手は医師でも人を癒やすのであろうと思った。

 素晴らしい彼女の人間性をしっかりと伺えた。

 さて、私といえば、普段芋焼酎ばっかり飲んでいるのでボジョレーは新鮮で美味しかった。

 それと来年にアンさんは長崎にドサ回りに行くらしく、それを聞けば、隠れキリシタンの話しをせざるを得なくなった私は水を得た魚のように語った。

 そして、みんなで行こうと盛り上がり、ボジョレーは空になった。

 アンさんも岡さんも楽しい時をありがとう。

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