カルカッタより愛を込めて・・・。

今月のアピア40のライブは3月21日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

久しぶりに。

2008-06-30 11:56:30 | Weblog
 アサダの前の彼女と電話で話した。
 詳しく言えば、前の前の彼女だ。

 広島から七回忌に来てくれる。

 もう10年ぐらいは経つのかな、アサダと一緒に彼女の実家にも遊びに行ったことがあった。

 「とても長いようで、でも、あっという間だったよ。このアサケンの写真がたくさん出てきてさ。その頃を鮮明に思い出して笑ったよ」

 「そうか、そうだな。長いようで、いや、あっという間だったな」

 久しぶりに東京にいるみんなのことを話した。自分がインドに行っていたことも話した。

 「Tetsuアニィ、変わらずにインドに行っているんだ。なんか嬉しいよ」そう話していた。

 「お金もなくて貧乏でよ。まだ一人身だけど、まぁ、インドに行ってきたさ」

 何を自分と重ねているのか?
 変わっていくことと、変わっていないように見えるものへの安堵感、その期待、そして、愛した人が亡くなったことをどうにか受容していくこと。

 ゆっくりと癒されていくこと。命を見詰めるということ。思い出のすべてが今の自分たちに生きる力を与えてくれていることに気付いていく。

 それは自分の分かっていることなど、何一つ必要なく、誰もが一人ひとり違っている。

 そのことを今になって、ようやく、心と身体が納得している感じを見出していけるようなところがある。

 思い上がりの容易な自分はほんとうに過ちを繰り返してきた。

 そんなこともまたアサダの七回忌が考えさせてくれる。

 アサダはどっか言うかな。
 「オレはTetsuアニィのことがいつも好きだったぜ」

 そんなこと、分かっているけど、たまに聞きたくもなったりする。

 ブログを書いている隣にはピアノがあり、そこにはアサダが亡くなってから、ずっとアサダの写真が一枚飾ってある。

 自分はよく話しかけている。いつも返ってくるのは笑った笑顔だけだ。

 まだまだなんか寂しいな。涙も出てくる。そんなときもある。

 それはそれで良いんだと柔らかく思ってもいる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨の音。

2008-06-29 17:52:30 | Weblog
 今日はゆっくりと家でのんびりしていた。
 窓を開けて、雨の音を聞きながら、本を読んだりしていた。ギターも弾いてみた。

 ぼんやりといろんなことを思い浮かべたりしていた。

 最近、山谷での今までを思い出したりしている。
 山谷に行き始めた1,2年目は、そこの状況や、どんなに悲惨か、どんな制度があり、国は何をしているのか、とか、周りのことが気になっていた。

 しかし、10年以上経った今思うのはやはり一人ひとりと、どう向き合い、どう思い、何ができ、何をすべきか、自然と心掛けるようになっていた。

 やはり、一対一の付き合いを大切に思うようになってきた。

 カレーが足りた足りないも必要な問題でもある。もっとこうした方がいいと思ってきたものも多々あるが、それは一人でもやっていけばいいことのようにも思えてきた。

 実際、ずっと一人で行ってきたことも多い。そこにそうしない他者への批判があったことも事実だったろう。しかし、批判したところで何が生まれるのだろうか。愛などは決して生まれない。意識せずに批判してきたことをも、だんだんと認められるようになってきた。

 誰もが同じ考えで、その場に来ているわけではない。

 誰もが同じように成長していくわけでなけらば、同じように分かっていくわけでもないこと、長い時間をかけて、自分は納得して来たのかもしれない。

 だんだんと今まで以上に優しいものが見えてきたようにも思える。

 そして、静かに雨音を聞いている。部屋に飾ったアジサイはまだきれいに咲いている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

119番。

2008-06-28 19:41:52 | Weblog
 何気にいつも迷うのが救急車を呼ぶときの「119番ですよね?」と誰かに聞いてしまう。

 滅多にかけることはない番号だが、山谷でボランティアしていると何度かかけたこともある。

 今日は彼を並ぶ列の途中で一人のおじさんが倒れていた。

 周りにいたおじさんたちに自分が来る以前の状態を聞いたが、誰も何も知らないようだった。

 そのおじさんは会話不能、身体を左右に動かしながら意識が混沌としていた。今すぐに危険な状態でもないようにも見えた。

 列に並ぶおじさんたちに挨拶をしてから、また彼のもとに行き、状態をみた。すでに救急車は呼ばなくてはならないことも決めてはいたが、ナースが二人ボランティアで着ていたので、彼女らを呼んだ。

 彼女らはカレーを配っていた。とりあえず、以前にも山谷に来たことのある人を呼んだ。

 「ちょっと来てください」

 彼女はどこに連れて行かれるかも分からないまま、自分のあとに付いてきた。

 「おじさんが一人倒れているから、救急車を呼ぼうと思う。ちょっと見てくれないかな」そう伝えた。

 やはり彼女がみても、どうにもならない様態だった。

 自分の心のどこかでは知ってほしいと思っていた。
 おじさんの誰一人、それまで、倒れている彼を見ている人がいても、ボランティアにはそのことを伝えることなかった。そして、自分たちはすぐそばに倒れている人がいるのに、何もせず、ただ食べるものを配っているだけの状態がそれまであったことを。

 そこにはボランティアとおじさんたちの信頼感もなかっただろう。もちろん、彼らと信頼感を作り出すことは難しいだろうが、ただ待つだけであるその体制への否定的な気持ちが自分にはあった。
 このなかの誰かはここに倒れている人がいるから、どうか助けてほしいと声に出したかったのではないかと思う。愛を表現したいと思った人もいるだろう。そうできない罪悪感をも感じた人もいるかもしれない。

 ただすでに並んでいるときに自分は倒れている彼がいる周りのおじさんたちには話しをしていた。たぶん、救急車で運ぶから、ちょっと待っていてとは伝えていた。

 そして、救急車は来た。待っていた自分は救急隊員を様態を話しながら、そのおじさんの場所まで連れて行った。

 こうなるとボランティアも集まってくる。何も出来なくても集まってくる。他に仕事があっても集まってきてしまう。

 カルカッタで会ったボランティアの学生には、マザーはこういう時にはよく言っていたのが、他にもあなたを必要としている人がいるから、そこに行きなさいということを伝えた。

 実際にはそうであるが、しかし、そう考え、行動できるものはやはり少ない。しなくてもいいことをしたり、落ち着いて、自分が何をすれば最善か、そして、倒れているおじさんに自分はどう影響しているのかを考え行動するものはあまりなく、そうできないものが目立ってしまう。

 これはカルカッタでもよく見た光景であった。

 自分はそれらがあまりにも度が行き過ぎないように気をつけながら見ていた。

 ユングがいうメサイヤコンプレックス{人を助けずにはいられないような共依存的心理}の表れだった。

 これはボランティアをするものには誰もが持っているものであるだろう。

 いつか、このこのことはゆっくりと書いてみたいと思う。

 マザーはこのコンプレックスをほんとうに注視していたと思う。彼女は自分がその目の前の人、そして、周りの人にどんな影響を与えているかをほんとうに気を付けていた人だからだ。

 人は愛・善意だと思い込んで行った行為のなかで、自分を見失うことと相手を見失うことは少なくない。

 そうしたものは自分のなかにも残念だがあってしまう。しかし、そこから何かを学べることがあるのも事実だと思う。

 どう、それに向き合うかはほんとうに難しいだろうが、向き合うことにより、柔和さ、謙虚さが生まれてくるのだろう。

 先週、「もう死にたいよ」と言っていたおばちゃんはほんの少し元気に見えた。

 オカマのヨシコちゃんは髭が少し伸びていた。そのことは言わずに肩に手を置いた。笑った。

 今日も彼らがいろいろと教えてくれた。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いつか。

2008-06-26 18:58:37 | Weblog

 いつか、きっと来るだろうと思うことがある。

 それは親の人生をも受け容れるときが来るのだろう。

 子は親を選べず、その親もまた親を選べずに生まれてきた。

 悲しみの連鎖を止めるべく、人は意識せずにあたふたもするのだろう。しかし、いつか、きっと、自分を取り巻くすべてを受け容れられるときが持たされる。持たされることを切に期待する。

 愛を伝わるように、痛み悲しみ苦しみも伝わる。

 では、自分たちの本心を他者に何を伝えたいのか?深く自己を問いかけてみる。

 それはやはり愛を伝えたいのではないだろうか。

 自分の思い通りにはすべてはならない。ならないことが当たり前のように思えることの方が多い。

 思い通りにならないもののそのなかには何があるのだろう。

 逃げないで見詰めることは出来ないだろうか。

 怖いだろうが見詰めることは出来ないだろうか。

 居心地の悪いその場所は成長し切れていない。成長することをずっと待っている大切な場所ではないかと思う。

 深く長く思い続けたものは、素晴らしい英知になりえるだろう。

 すべてはこの自己のうちに起こりえているものに他ならない。

 そして、自分たちはかけがえのない出会いに逢い続ける。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元気ですか?

2008-06-23 14:48:10 | Weblog
 山谷ではおじさんたちに「元気ですか?」とは聞かない。

 元気でないばかりか、今日一日を生きることで精一杯な人たちが多いからだ。

 たまに間違って、そう聞いてしまうと、「元気な訳ないよ。久しぶりのご飯だよ」肩を下げて答えたりする。

 「身体の調子はどう?」そう声をかける。

 しかし、「元気だよ」答える人は少ない。「なんとか生きているよ」そう答える人が多い。

 土曜も彼らの背中に手をあてながら声をかけ続けた。彼らが人の温もりを忘れないように、優しくそうした。人から優しく触れられることのない毎日を生きている彼らである。だから、出来る限りの思いをそこに込める。

 あるおばちゃんが「もう死にたいよ」虚ろな顔をして言った。
 「どうかした?何かあった?」彼女には旦那さんがいて、彼女の背中を「そんなこと言うな。恥ずかしいだろ」こうした思いを手にのせ、彼女に触れた。

 おばちゃんは明らかにウツ傾向の強い顔をしていた。
 「月々の年金だけじゃ、生きれないよ。一人だったら福祉も受けやすいけど、二人じゃ無理だよ。病気をしたら、もうお終いだよ」
 話しを聞くと、まだ貯金があるために生活保護も受けれないということだった。

 自分には何も出来なかった。ただ歩きながら、おばちゃんの話しを聞いた。そして、あまり喋らない旦那であるおじちゃんの苦悩も響いた。

 彼らには出来るだけ炊き出しに来るように話しをした。また会えたら、話しを聞こうと思った。

 不安や恐怖は自らの心が生み出してしまう。それをどう自分たちは乗り越えていくのだろうか?唯一の答えなどない、一人ひとりが違うだろう。

 祈るように思う。何も出来ないが、せめて、ほんの少しでいいから、その人のなかの生きる力を支えたい。その人がその自身の力で生きれるように、自分は何かをしたいと切に祈る。

 別れたあとも、何か心に重く残った。彼らの痛みがきっと心に残った。それを静かに観ては祈った。

 「どうか生きてください」そう祈った。重く残ったものは風に流した。

 山谷に一年くらいよく来られているボランティアの男性と話しをした。
 最初は500人以上並ぶ、彼らの姿を見て、やはり怖かったと言う。
 そうだろうと思う。普段の生活のなかでは見ない風景だろうし、生まれて初めてそうした現実のなかに自分の身を置くことは知識として知っていることとはかけ離れたものがあるだろう。
 切迫したものも、憤りも、悲しみも、生も、何もかもが混ざって、そこには現存する。そして、それらが自己のなかの思いを激しく揺さぶる。

 彼は「ただ山谷は凄い!」と言う。
 「ここに来るだけで、自分の毎日が変わる」と言う。

 どう凄く、どう変わるのかは彼にとってとても大切であることが伝わってきた。

 「ここに来るまでほんとうに大きな壁があった」と言う。それはここに来なくては分からなかっただろうし、来てからも、その壁がどういったものかはだんだんと分かっていくものであろう。

 命、生きること、否応なしに問われる。そして、自己の愛、何よりも自分というものを。

 マザーの言葉。
 私たちの働きは表面的ではなく、深くならなければなりません。
 私たちは、心に届かなくてはならないのです。
 心にまで届くまでには行いの中に愛がなくてはなりません。
 人々は、聞くことよりも自分の目で見ることに引きつけられるのです。
 もし、手伝いたいと思っている人がいるなら来てもらいましょう。
 現実の姿は、抽象的な理想よりもずっと人を引きつける力があるのです。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

告解。その4。

2008-06-22 14:18:45 | Weblog

 告解する。
 自分はほんとうに大切に思っていたアサダの最後の時、そして、今と未来を自分の勇気のなさで無くさせてしまった。その許されようがない罪を人に擦り付けていた。長い間。

 アサダよ。
 どうか兄さんを許してほしい。
 きっとお前は「Tetsuアニィ、そんなこと言うなよ。オレはそんなこと、ぜんぜん思っていないぜ」そう言うだろう。
 それでも、ごめんな。ほんとうにごめん。勇気がなかったよ。自分はお前を思っていると思いながら、自分しか思っていなかった。別れが来るの恐ろしさ、それから逃げていた。来ることが分かっているのに逃げていたよ。逃げれないのに逃げていたよ。
 
 アサダよ。
 兄さんは、これからこうなりたい。
 苦しむもの、死をむかえるものの心と向き合えるようなものになりたい。そして、その人を通して、お前の苦しみ・孤独も観ていこうと思う。感じようと思う。
 もうこの耳では聞けないお前の声を、この心で聴いていこうと思う。そこで出来るだけ明確に自分を知り、相手を知っていこうと思う。
 今でも大したことは出来ない自分だが、そうさせてもらうよ。これはお前への罪滅ぼしではなく、自分が生きていくという意味・問いからさせてもらう。

 お前とはよく「本物になれ」っていうことを語り合った。
 自分はこれから自分という本物になるよ。

 いつまで経っても、まだまだ兄さんでカッコ悪いけど、ダサくてもそうした夢を見続ける。

 お前の見れなかった世界も自分がお前の分も見続ける。

 お前は自分が好きなった子と会うこと、いつも楽しみにしていた。それをネタに良く笑い、良く飲んでいた。
 お前にはちゃんと会わす。自分もそうしたいと思っている。

 そして、自分たちはまた笑い合えるだろう。腹がよじれるくらいまでな。

 お前の家族とも、これからもちゃんと付き合っていくよ。そこでは、お前をネタに笑う。
 文化学院のみんなとも会えば、お前をネタに今でも変わりなく笑い転げる。

 もう過去を変えたいとは望まない。過去を受け容れていくよ。

 どんな未来があるか、分からないけど、楽しみにしている。

 ほんとうに多くのことをお前はその命で自分に今もなお語りかけている。成長させてくれている。

 ありがとうな。

 書き上げた思いは心のなかのほんの一部だろう。書き上げられない、まだ気付けない思いはたくさんあるだろう。
 それも、ゆっくりと思い続ける。

 この命がある限り、お前は生き続ける。この心の一部はお前が作り上げてくれたもの。

 それをあたたかく大切にしていく。

 きっと、まだ今年も悲しくもなるだろう。だけど、それだけではない。あたたかな思いにもなる。

 生きていく。思いっきり。
 人生を楽しむ。思いっきり。

 いつまでも、まだまだかもしれない。だけど、まだまだだから、希望が有り得るんだよ。

 そして、お前と自分の付き合いは終わることはないんだよ。

 

 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

告解。その3。

2008-06-20 12:08:05 | Weblog
 アサダに告知など。

 この自分が告知など。

 残された日々をアサダとの仲を崩れてしまうことを恐れた。

 アサダを傷つけることをしてしまう。その役目をどうして出来よう。残された日々、笑うこと、笑いあうことが出来なくなることを恐れた。

 尼さんは自分の思いをただ受け容れてくれた。

 それからも、アサダの父親には何度か告知を静かに勧めた。

 母親にも勧めた。母親も父親と同じ考えだった。アサダが知りたいと聞いてきたら教えると。

 アサダの優しい性格上、聞ける訳はなかった。心配をかけることを彼は避けて一人我慢に我慢を重ね、最後までいた。

 ある日、こんなことがあった。
 アサダの会社の上司でいつもアサダがお世話になっている二人がきた。
 「Tetsuアニィ、・・さんに無礼がないように」そう言った。
 「バカだな、兄さんだって大人だから、そんなことするか」自分は笑いながら答えた。

 上司の一人が「調子はどう?」そう聞くと、アサダは指を一本上に上げ、「良くなっていますよ」そう答えた。

 それを見た瞬間、涙が溢れそうになった。アサダの前では泣かないことを決めていた。泣くことなんか出来る訳はない。自分の涙がアサダを弱くさせてしまうと勝手に考えていた。必死に堪えた。しかし、目は潤んでいた。もう少しでこぼれそうになっていた。

 アサダはその朝、自分がどこにいるかすら分からない状態だったのに。
 それなのに、どうして、どうして、そんなに気を使うの。
 もう歩くことすら出来ないその身体で、薬の副作用で膨れ上がったその顔に笑みを浮かべて、麻痺が出ている不自由なその手で、どうして・・・。

 それがアサダのなかの神さまだったのか。

 アサダが天使だったのか。

 今でも良く分からない。しかし、アサダの優しさは輝いていた。目が眩むほどに。

 アサダが亡くなった日は多くの友達が病院に集まった。
 自分は泣くことを忘れ、静かにいた。そして、アサダの死を惜しみ、それを分かち合うようにみんなと抱き合った。

 病院の霊安室で酒を飲んだ。
 アサダが好きだった映画のノックオン ザ ヘブンス ドアのワンシーンを思い、テキーラを買ってきてもらい、がぶ飲みした。その場で自分は酔いつぶれた。そして、友達に家まで送ってもらった。

 自分はアサダが死んでいくなか、ずっと告知を出来なかった父親、医者をずっと責めていた。アサダが亡くなってからも、心のどこかではずっと責めていた。

 しかし、アサダが亡くなってから五年目が経った頃から、責めることをやめた。責めることはなくなった。

 それは何よりも自分も彼らと同じく、告知を避けたからだ。告知する勇気がなかったことをほんとうに認めた。認めることが出来た。

 尼さんに言われたことは自分が勇気があれば可能なことであった。
 アサダの父親に頼めば、きっとそのときにその役目を自分に与えてくれただろう。その信頼感は確かにあった。

 自分はただアサダを信じきることが出来なかった。告知をしたことでアサダが自分を恨むだろうか、いや、恨まない。自分を嫌うだろうか、いや、嫌わない。勝手に変わっていたのはこの自分だった。

 ほんとうの気持ちを言い合うこと、分かち合うこともせずにいてしまった。短く残された貴重なその時間のなかで。

 ほんとうに大切な友達、弟のようだったアサダの最後のときを、自分は自分の勇気のなさを誤魔化し、言い訳をし、罪を人に擦り付けていたその弱さ、汚さ、醜さを何年もの間、気付かずにいた。いや、気付かないようにしてきてしまった。ほんとうに愚かだった。

 それを告解するようにやっと人に言えるようになった。やっと何かがこの身体と心に馴染んできたような感覚になってきた。

 {つづく}
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

告解。その2。

2008-06-19 12:02:24 | Weblog
 アサダの余命を知ったのは彼が亡くなる四ヶ月ほど前だった。

 深夜に切迫したメールをコウキチがよこした。
 「Tetsuさん、アサケン{アサダ}のことですぐに電話をしてほしい」と。

 すぐに電話をした。コウキチは見舞いに行った今日、父親からアサダの余命があと三ヶ月だということを知らせれた。あまりにもショックでどうしていいか何も分からなくなり、自分に電話をしたかったらしい。

 自分は震えた。初めてだった。身体が言うこと利かずにただ震えた。

 コウキチと同じようにアサダの死を、彼が死ぬということを自分もどうしていいか、受け容れることなど考えることすら出来ずにいた。

 だが、とりあえず、ゆっくりと震えが止まるまで、少し落ち着くまで話しをした。

 それまでも何人もの人の死と関わってきた自分だが、弟のように接してきたアサダが死ぬということがどういうものなのか、想像も付かなかった。身体のなかでは血がほんとうに騒いでいた。

 コウキチには、ただ、これからもよく会いに行こう、そして、話し合っていこうと何かあったらお互いに伝え合おうと約束した。

 アサダの余命が分かってからも変わらずに今まで通り見舞いには行った。何人もの友達も余命のことは話さずに誘って、アサダに会いに行った。

 コウキチと同じ日に見舞いに行き、アサダの余命を知った矢島ゆかちゃんともしっかりと連絡を取り合った。

 この三人とアサダの彼女、アサダと同居していた友達だけが家族以外にアサダの余命を知っていた。

 このメンバーで見舞いに行く帰りは飲んで泣いた。

 余命を知らない文化学院の友達とは、見舞いの帰りはバカ話をして笑いながら飲んだ。その友達たちには病人に対してどう接して方がいいのか、機会を見つけて話し、また彼らの話しを聞いた。そして、また来てくれるように話した。

 自分自身は心が折れそうになっていた。いや、心はぼろぼろだった。どうにか歩けているような瞬間や思い出のものたち、思い出の場所、思い出に似た空、風、何もかもが瞬間的に涙を誘った。一人でぼろぼろ泣くことが何度もあった。

 アサダに余命は知らせるべきだ。そうずっと思っていた。

 知り合いの二人に相談した。
 一人は山谷でよくお世話になっているフランチェスコ会の神父、死刑囚の面談などもしている人だ。
 「知らせた方がいいです」彼も言った。

 一人は浄土真宗の尼さん、ホスピスもしており、カウンセラーでもある。自分が信頼している人だ。
 「知らせなければ罪です。必ず、知らせた方がいい」そう言った。
 
 自分はそれまでもアサダの父親に余命を告知することを進めていたが、彼はアサダが聞くまで話さないと言っていた。

 医者との病状の会話もいつも父親とアサダで話しを聞いていたが、それが脳腫瘍が進行していくことでアサダは外されていった。

 どれほどの孤独だったろう。どれほど怖かったろう。自分の想像を絶するものだったろう。

 医者が余命を告知しようと一度した。しかし、アサダがあくまでも治ると思うその姿勢に負け、話すことが出来なかったらしい。

 こうしたことを尼さんにも話した。彼女は言った。
 「あなたは告知できないの?」

 {つづく}
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京駅まで。

2008-06-17 21:57:03 | Weblog
 大切な友達を見送りに行って来た。

 いつでも見送ることは寂しい。またいつ逢えるか、どうか分からなければ、なおさら胸の内側には言葉にならない思いたちが騒ぐ。流れていく時間も、その速度を変える。

 見送ったあと、一人の帰り道は目に映るものも行きとはまったく違うものになっている。

 やはり、心でものを見ていることに気が付く。

 カルカッタでは何度もこうした思いに包まれた。そのときと同じような心模様になっている。

 その人との思い出が美しければ美しいほど、心のなかの小さな子供は別れの寂しさに泣きじゃくっているように思える。

 その人をどれほど大切に思っていたかを改めて気が付く。

 この気付くことへの思いを自分をどうするのだろう?

 やはり、ただ今はゆっくりとその思いをそのまま味わおう。

 今は今の思いを大切にしてみよう。

 そして、この思いが愛することの意味を高めていくことを期待する。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天気が良い。

2008-06-15 12:41:23 | Weblog

 仕事前にミニに乗って近所に買い物に行った。

 白い雲が日差しの切れ間をきれいに作っていた空、この空の模様は決して同じものはない。その瞬間だけに描かれた美しいものである。

 きっと、自分たちのその瞬間もそうして描かれた美しいものでもある。

 青空の下、なだらかな坂道を軽快におじさんが自転車をこいでいた。背中には一眼レフのカメラを背負っていた。

 目に映ったものはそうだった。

 心に映ったものはこうだった。

 楽しいそう。良い写真を撮りに行くのにウキウキしている。どんな写真を撮るのか、いま、自分は勝手に彼のカメラで美しいものを撮り続けている。誰に自慢するのか、誰がその美しさを判ってくるのか?見せたい人はいるのか?きっといるだろう。その人とも自分が見たその風景を見せてあげたいのだろう。それは楽しみ。心は今日の空のようにすがすがしくあるのだろう。

 その心が自分に映った。そして、移った。

 父親が小さな女の子と道を歩いていた。
 一瞬立ち止まり、道端に咲き始めたアザミの花を手に取り、何かを話していた。

 子供知らない新しいもの新しい世界を教えていた愛が映った。未来へ続く愛が映った。

 ミニは軽快にこの青空を喜ぶように走ってくれている。

 時を楽しもう。


 昨日の山谷はおじさんたちの笑顔がその天気の良い空から降りてきているように笑顔が多く見られた。

 もちろん、全員ではない。悲しい顔をしている人もいた。重苦しい心も映り移った。

 それは自分の心のなかの一部に移ったものである。だから、その一部は一部として大切に思い、その一部以外のものであたたかな笑顔を生み出し、彼らに声をかけ続けた。

 何もないように見えても何かがある。何もないように思えても何かがあり続けている。

 そして、心を持って生きている。

 あたたかく生きていようと思っている。誰にもあたたかいものが備わっている。それに出会い、それを大切にしてほしい。

 そう望む。


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする