シアルダーとはカルカッタ{現コルカタ}にある駅の名前である。
私はそこで駅の構内、郊外を回り、瀕死の患者をマザーテレサの施設や病院に運ぶボランティアをしていた。
前回の滞在時、2017年3月にある出来事があって以来、患者を施設に運ぶことが突然難しくなった。
その出来事のことは今日は書かないが、患者を運ぶためにはまず警察署に患者を連れて行き、必要な書類などを書き、許可を取らなくてはならなくなった。
この許可を取る仕事はシスターですら難しく、インド人のシスターでしか出来ないのであった。
瀕死の患者を警察署に連れて行くことは並大抵のことではない、運んでいく最中に患者を亡くした場合、いくら愛情を込めてケアしていても殺人と言うことになってしまうのである。
そうした決まりが決まったことをミサの後、マザーハウスでボランティア担当シスターメルシーマリアに駅のボランティアたちが集められミーティングがあった。
しかしその時、私はあまり理解していなかった。
彼女にそのミーティングとは別に、その朝、ある患者がセントテレサ教会の近くにいるから見てきてほしいと頼まれた。
その患者を見つけることは私には容易いことであった、教会近くの路上に居たインド人女性に聞き、すぐにその患者と会うことが出来た。
その女性も患者のことを気に掛けていて、私にどうか助けてほしいと言い、私たちの手伝いをしてくれた。
私はその場所に若いアメリカ人のボランティアのティクラを連れて行った。
私はすぐにマザーの施設のプレムダンに運ぶことを決めた。
しかしプレムダンでは受け容れてはくれなかった、警察署の許可が無かったからであった。
ここで私とティクラはシスターメルシーマリアの言っていたことを初めて理解したのであった。
プレムダンから何度もマザーハウスに電話を掛け{電話がつながりにくかった}、患者をとりあえずマザーハウスにはシスターの指示で運んだ。
患者がハエがひっきりなしにたかる口に大きな腫瘍があり、どうにか歩けたが口の中から肉の腐った匂いがしていた。
私はプレムダンの救急車を借り、患者を運んだ。
マザーハウスからパークストリートにある警察署にインド人のシスターと一緒に行き、許可を取り、今度はカリーガート{死を待つ人の家}に運んだ。
身体的にも精神的にもかなり疲れたが、患者はきっともっと疲れていただろう、命を削っていただろう。
私はカリーガートで患者にいろいろと連れ回したことを謝った、すると、彼は謝らなくて良いです、ありがとうと私に言った。
彼はその二日後に亡くなった。
昨夜、今シアルダーで働いているイタリア人のファビオに連絡すると、今もなお、患者を運ぶのは難しいようであるが私たちの出来ることを愛情を込めてすると返信があった。
「何も出来ないのではない、出来ることが違うだけ」とマザーは言う。
現状を嘆いたところで何になろう、それよりも何か出来ることはないのか、何が最良なのか、目の前の相手に微笑むことまで忘れては決してならない、例え非条理の死を目の当たりにすることがあったとしても、私たちは涙を捧げることが出来る、祈りを捧げることが出来るのである。