カルカッタより愛を込めて・・・。

今月のアピア40のライブは3月21日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

シアルダーの今。

2019-01-31 11:58:24 | Weblog

 シアルダーとはカルカッタ{現コルカタ}にある駅の名前である。

 私はそこで駅の構内、郊外を回り、瀕死の患者をマザーテレサの施設や病院に運ぶボランティアをしていた。

 前回の滞在時、2017年3月にある出来事があって以来、患者を施設に運ぶことが突然難しくなった。

 その出来事のことは今日は書かないが、患者を運ぶためにはまず警察署に患者を連れて行き、必要な書類などを書き、許可を取らなくてはならなくなった。

 この許可を取る仕事はシスターですら難しく、インド人のシスターでしか出来ないのであった。

 瀕死の患者を警察署に連れて行くことは並大抵のことではない、運んでいく最中に患者を亡くした場合、いくら愛情を込めてケアしていても殺人と言うことになってしまうのである。

 そうした決まりが決まったことをミサの後、マザーハウスでボランティア担当シスターメルシーマリアに駅のボランティアたちが集められミーティングがあった。

 しかしその時、私はあまり理解していなかった。

 彼女にそのミーティングとは別に、その朝、ある患者がセントテレサ教会の近くにいるから見てきてほしいと頼まれた。

 その患者を見つけることは私には容易いことであった、教会近くの路上に居たインド人女性に聞き、すぐにその患者と会うことが出来た。

 その女性も患者のことを気に掛けていて、私にどうか助けてほしいと言い、私たちの手伝いをしてくれた。

 私はその場所に若いアメリカ人のボランティアのティクラを連れて行った。

 私はすぐにマザーの施設のプレムダンに運ぶことを決めた。

 しかしプレムダンでは受け容れてはくれなかった、警察署の許可が無かったからであった。

 ここで私とティクラはシスターメルシーマリアの言っていたことを初めて理解したのであった。

 プレムダンから何度もマザーハウスに電話を掛け{電話がつながりにくかった}、患者をとりあえずマザーハウスにはシスターの指示で運んだ。

 患者がハエがひっきりなしにたかる口に大きな腫瘍があり、どうにか歩けたが口の中から肉の腐った匂いがしていた。

 私はプレムダンの救急車を借り、患者を運んだ。

 マザーハウスからパークストリートにある警察署にインド人のシスターと一緒に行き、許可を取り、今度はカリーガート{死を待つ人の家}に運んだ。

 身体的にも精神的にもかなり疲れたが、患者はきっともっと疲れていただろう、命を削っていただろう。

 私はカリーガートで患者にいろいろと連れ回したことを謝った、すると、彼は謝らなくて良いです、ありがとうと私に言った。

 彼はその二日後に亡くなった。

 昨夜、今シアルダーで働いているイタリア人のファビオに連絡すると、今もなお、患者を運ぶのは難しいようであるが私たちの出来ることを愛情を込めてすると返信があった。

 「何も出来ないのではない、出来ることが違うだけ」とマザーは言う。

 現状を嘆いたところで何になろう、それよりも何か出来ることはないのか、何が最良なのか、目の前の相手に微笑むことまで忘れては決してならない、例え非条理の死を目の当たりにすることがあったとしても、私たちは涙を捧げることが出来る、祈りを捧げることが出来るのである。


 
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今夜もサンチー。

2019-01-30 12:48:39 | Weblog

 「あぁ、今夜は何を肴にして晩酌するか・・・」と午前中から考えているだけでちょっとした楽しみは生まれてくるものである。

 それはもちろん私独自のものであるが、私だけではないだろう、この広い世の中、同じようなことを考えている人は必ず居るものである。

 そして私の目の晩酌の肴は水曜日なので「家売るオンナの逆襲」である。

 どうも私の年代になると「逆襲」と言う言葉を聞いたり読んだり、口にしたりすると、それは「逆襲のシャア」を連想せずには居られない。

 と言うことで、これも私独自の連想ではなく、きっと製作者たちも何らかしらの意図や思い、オマージュがあったのではないかと勘繰り、でも、流石にいつも赤い服ばかりサンチーに着さすことは出来ないのだろう、しかし、サンチーは不動産業界のニュータイプには違いないとか、勝手に想像して、また楽しんでいる。

 先日、どうも普段より私のブログを見る人が多いと思い、どこから私のブログを見ているのだろうと確かめてみると、「KITAGAWA KEIKO'S WRITINGS 外見より中身! 北川景子の書いた物の書庫と英訳。」と言うところに私の「サンチーが」のブログがリンクを貼られていた。

 最初、それを見た時、あまりの驚きにしっかりと確かめることもせず、「サンチーが自分のブログを読んでくれたの!」と瞬時に思い込み、胸は急沸騰するかの如くドキドキと高鳴り、勝手に北川景子氏のオフィシャルサイトだと思い込んでしまい、サンチーが家の前の家を売りに来た時、通りの反対側でロケを見ていたがひと目もサンチーを見ることが出来ず残念がっていた同級生の石坂にラインをして私の驚きと喜びを送ってしまった。

 それはちょっと恥ずかしかったが、落ち着いて、改めて、考えてみると、こうしたところに私の駄文のブログが北川景子氏の関係のあるところに貼られてあることも、それはそれで十分嬉しい気持ちがじんわりと胸に残るのであった。

 あとはどこをどうやって私のブログに行き当たったのかと言う謎も残るのであったが、それは神秘だと思い、喜びに混ぜ合わせた。

 ちなみに私の題名は「サンチーが」だったが、英訳された題名は「Sanchi came」になっていた。

 私としては何の問題もない、「ありがとうございます」と思うだけであった。
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私は与えられている。

2019-01-28 12:09:26 | Weblog

 「先生、どっちから来るか、分からないから、オレ、ここで待っていたよ」

 満面の笑顔でこう言ったのは1月5日の土曜日のカレーの炊き出しの後に私が千円を貸したおじさんであった。

 彼は先週の土曜日、カレーが配られる場所で私のことを待っていた。

 「先生、ほんとうに助かったよ。ちゃんと仕事に行けた」

 「そう、ほんとうに良かったね」

 「これ、ありがとう」そう言って彼は私が彼に千円札を渡した時のように、右手のなかに千円札を小さくして、周りの人に分らないように握手をしながら返してくれた。

 {初雪の山谷}の題名で私は彼に千円を貸した時のことを書いた。

 しかし、私はそのこと、千円を貸したことはもう忘れかけていた。

 誰もが知っている通りと言うか、そう思っている人が多いと思うが、人にお金を貸すと言うことはあげたも同然、帰ってこなくても仕方がないと思い、お金を貸した方が良い、たぶん後腐れもないので、そう思うのだろう。

 それと当然、お金の借り貸しはしない方がやはり良いのである、そうした常識はもちろん私も知っている。

 千円を貸すことは私にとって痛くもない、犠牲を払うものでもなかった。

 マザーテレサは言う、「有り余ったものからあげないでください」と。

 しかし、私はお金の借り貸しなど普段しない、その常識を超えることに私の犠牲はあったように思う。

 カレーの炊き出しに来たおじさんにお金を貸し、戻ってくるなど、信じられなかった。

 信じて傷付くのが怖かったのではない、お金はあげたと思っていたからである。

 何よりも彼に必要だったものをあげただけであった。

 だが、それ以上のものを私は彼から与えられた。

 彼はなんとお金を喜びながら返してくれた、信じられないことを目の当たりにした。

 彼はきっと私にお金を返せる喜びを仕事をしながら感じていたのだろう。

 その喜びは私にしっかりと分け与えられ、その日は私は何度も彼の笑顔を見ることが出来たのであった。

 
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サンチーが。

2019-01-24 12:07:20 | Weblog

 今朝私の家の前の家をサンチーが売り来ていたようだ。

 9時ぐらいからロケの準備をし、撮影時間はほんの10分も無かったのではないだろうか、10時過ぎには撤収していた。

 「家売るオンナの逆襲」の撮影であった。

 サンチーこと、北川景子氏の声も聞こえたし、撮影が終わり、スタッフにちゃんと「お疲れ様でした」と声を掛けていた彼女も見ることが出来、このドラマの前回からのファンとしてはやはり嬉しかった。

 芸能人を見て、多く人が同じようなことを言うが、私も同じようなことを言う、やはり実際見ると「かなり細い!顔は小さい!」のであった。

 数秒間しか見ていないサンチーであったが明らかに周りのスタッフよりその身体は細いのであった。

 昨夜は晩酌をしながら、「神さまのカルテ2」の映画を見ながら寝落ちしてしまったが、普段なら水曜日の夜は録画した「家売るオンナ」を見ながら晩酌するのである。

 今から放映日を楽しみにしている。

 サンチーが売りに来ていた私の家の前の家の奥さんは私の愛犬黒柴のあんのことをとても可愛がってくれるので、また会った時に撮影の時のことを聞かせてもらおう。

 それにしても実際の放映は物凄い短い時間かも知れないが、その短い時間のために多く人がそれに携わっていることを目の当たりにすると、好き勝手にいい加減なことを言いながらドラマを見るとバチが当たりそうな気もしてきた。

 きっとそこにいた人たち皆インフルエンザにならないように気を掛けていただろうし、多様のストレスをも乗り越えていただろうことを思うと、頭の下がる思いであった。

 どうか身体と心に気を付けながら良い作品を作ってくださいと祈る思いであった。

 サンチーを見れて、流れ星を見たような嬉しさが残った。

 
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永遠の感謝。

2019-01-23 13:19:08 | Weblog

 日本平ホテルでの清水新聞屋さんの新年会で歌うことも無事に終え、私の生活はまた平穏な日々に戻った。

 感想など書く時間はなかったが神さまのカルテも4冊全部読み終えた。

 いまはマザーテレサの1970代~1980代の講演などを集めた「マザー・テレサ 最後の愛のことば」を読んでいる。

 この時期のマザーの修道会は世界各国に勢いよく作られていく時期であり、マザーはそれから死ぬまで、ほんとうに忙しかったのだろう。

 それはまさに神業だったように思えてならない。

 と同時にマザーはこの時期には闇を感じていた事実を知ってから読むと、マザーの語る言葉の意味がその言葉以上に深いものとして、私のうちに入り込んでくるような気がしてならない。

 マザーは生涯、ほんとうにいつもでもどこでも、福音、良い知らせ、Good Newsをただただ知らせようと必死だったように思えてならない。

 必死と言う言葉が合わないかも知れない、なぜなら、そこには喜びが伴っているからである。

 闇があるからこそ、その信仰は尋常ではないほどに強められたことは言うまでもないだろう。

 しかしマザーは決して微笑むことは忘れなかった。

 微笑みの力を知り尽くし、信じて疑わなかった。

 微笑むことが辛い時にこそ、マザーも微笑み続けたのであった。

 私は永遠の感謝とともに畏敬の念をマザーに持たずには居られない。

 マザーは私に神さまを教えてくれたのである。
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富士山とお月さま。その2。

2019-01-22 11:53:45 | Weblog

 「馬鹿な奴だと」と私に言ったもう一人の私は良く知っている「自分を苦しめるものは自分である」と言うことを。

 そしてこう付け足した「せっかくの機会なんだから楽しめば良いじゃない。もういくらあがいたところで急にお前の歌が上手くなる訳ではないだろ。今日までインフルエンザにも掛からなかったし、あとは精一杯お前らしく喜びのうちに歌うだけだ」と励まし、「普段まったく感じないこの極度の緊張を感じることも悪くはないだろ。それはあらゆるところにある他人の緊張が見れるようになり、緊張を感じながらにもかかわらず、それを乗り越えて行く健気な姿に気付き、それはお前を勇気づけてくれるものになるだろ」と。

 普段のアピア40のライブとはまったく違う緊張があった。

 前回のライブの時に共演者ののぐちさんに「今度静岡に行って、ある会社の新年会に行って歌うんですよ」と言うと、「わぁーそれは怖い!」と言っていた。

 自分のことをまったく知らない人の前で、それも酒の入った席、新年会で歌うと言うこと、それに私は著名人でもなんでもない、どこの馬の骨かも分からないただの歌うたいである。

 そして弾き語りは会場の音がバンドよりもいろいろと聞こえてしまうし、何の利害関係もないから私の歌が気に入らなければ、雑音に見なされ、見捨てられるのは承知しておかなければならなかった、これが極度の緊張を生む元凶であった。

 私と同じように20年以上アピアで歌っているのぐちさんはこうした名もなき歌うたいの宿命を良く知っているので「怖い!」と思ったのである。

 しかしである、世の優れた歌うたいはこの逆行を乗り越えて進んでいくのである。

 いつでもどこでも置かれた場所を花を咲かせように歌うだけなのである。

 それに私には私の歌を聞かせたいと思った友達が待っているのである。

 ただその一人のために歌えるだけで、私は幸せであった、それは素晴らしい神さまからの贈り物なのである。

 行きの新幹線からは富士山は雨雲に隠れて見えなかった。

 静岡では雨は上がっていた。

 友達の久しぶりの再会を喜び、私はクラフトビールを飲んだ。

 日本平ホテルまでのシャトルバスに乗っている間に雲が浮くなりはじめ、見えぬ太陽が辺りを明るくして行った。

 日本平ホテルに着き、大きな控室でギターを出し、音を合わせ鳴らしてみた。

 「覚悟を決めろ」とその音が言っているような気がした。

 あっという間に出演時間となり、私は歌った。

 自分の声とギターの音以外にもいろいろな音が耳に入ったが、私は緊張があったものの喜んで歌えた。

 中島みゆきさんの「糸」、ジュリーの「勝手にしやがれ」はとても盛り上がった。

 最後に中島みゆきさんの「ファイト」を歌った、誰とためであったのだろうか、といま思う、しかし誰かのためである。

 結局、私は気持ち良く歌い終わり、とりあえず、興奮を治めるために一服をしに向かうと、さっきまでいっこうに見えなかった雄大な富士山が微笑むように顔を出していて「お疲れ様です」と言ってくれているような心持に私をさせ、私は揺るがない優しさに包まれた。

 ほんとうにここに来れて良かったと思わずには居られなかった。

 私が禁煙所で雄大な富士山に感動しながら一服していると、私の歌を聞いてくれて人がタバコを吸いに来て、笑顔で「お疲れ様でした」と言ってくれた。

 他にもすれ違う人に笑顔で「お疲れ様でした」と何人かに言われた。

 私は有り難く会釈を返した。

 富士山の右、清水港の上には綺麗なお月さまも上がっていた。

 完璧な風景がそこにはあった、神さまはいつも完璧な計らいをしてくれていたのであった。

 それはそれまでの私の緊張のなかにもちゃんとあったものであろう。

 
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富士山とお月さま。

2019-01-21 11:34:37 | Weblog

 昨日は日本平ホテルの清水新聞屋さんの新年会で歌った。

 年齢層が高めと言うことでジュリーや中島みゆきさんの歌を歌って来た、その役目を終えて、全身の疲れを伴いながらもホッとしているところである。

 もう四ヶ月前にこの新年会で歌うことが決まっていた。

 縁というものは如何なるものなのであろうか、不思議な繋がりである静岡に住む友達から「知人から清水の新聞屋さんの新年会で音楽とかやってくれる人がいないかと言われたんですけど、私、すぐにTetsuさんが良いと思って・・・」と言うような内容のメールをもらい、私は何も考えず、自分で良ければ良いよとすぐに返事をした。

 後日詳しく話しを聞いて見れば、日本平ホテルで歌うと言うことであった。

 小さな集まりなのかと思っていたら、150人ほど新年会であるとのことであった。

 友達に恥を掻かせることは出来ないので可能な限り、より良いステージにしようと練習をしていた。

 仕事の行き帰り、自転車を漕ぎながら、歌う予定の歌をずっと口ずさんでいたし、12月のアピア40でのライブでは新年会用に練習していたジュリーの「勝手にしやがれ」を歌ったりもしていた。

 練習はし過ぎることなど決してない、例え、思いっきり練習したとしても、ステージに立てば何か瞬間に歌詞は跡形もなく飛んでしまうこともあるのである。

 それに新年会が近づけば近づくほど、インフルエンザに掛からないようにと心配する度合いも勝手に増してしまう、緊張の波は否応なし飛沫をあげ荒ぶるのであった。

 昨日東京駅から新幹線に乗れば、心臓が口から出ることなど決してないが出そうな感覚に襲われ、それを無理やりビールで押し返して喫煙所で煙りにしたりした、しかし、そうした小心者の私をまたもう一人の私から眺めれば「馬鹿な奴だと」と笑えたのも事実であった。

 {つづく}

 
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初雪の山谷。

2019-01-15 12:07:28 | Weblog

 南千住の駅を降りるとあちらこちらに白いものが宙を舞っていた、初雪であった。
 
 私は両肩で身震いし、寒さから逃げようと試みたが無駄な抵抗であった。

 この寒さのなか、変わらずおじさんたちはカレーを食べに来るのだろうと思うと、雪を見るのは好きであるが、あまり降らないでほしいと祈らずにはいられなかった。

 白髭橋のカレーを配るところではその雪も私の祈りが天に通じたのかどうかは分からないが止んでいた。

 この日は私はカレーの列に並ぶおじさんたちに「おはよう」と言った次に口を開けば、「今日は寒いね、寒いね」と、真夏の「暑いね、暑いね」の正反対の言葉が挨拶のようになっていた。

 私はなるべくいつも彼らに触れるようにしている、マザーテレサが言うように、彼らが神さまであるからである、貧しい人に姿を変えたイエスであるからである。

 おじさんが下を向きながら寡黙に空腹を満たそうとカレーを口に忙しく運んでいるところに私は彼らの肩に触れ、「美味しいかな」と聞くと、寡黙の穴からひょっこり顔を出すようにし、私と目を合わせ笑みを見せ「美味しいよ」と答えてくれた。

 そうしたおじさんの一人が炊き出しも終わり、おじさんたちの人影もまばらになってきた時に私に声を掛けてきた。

 「先生{おじさんたちから良くそう呼ばれることがある}、ちょっと相談があるんだけど」

 何かと思い、私は心の腰を据えたようにして彼と向き合った。

 もう頭も口まで覆うように伸びっぱなしの無精髭も真っ白な彼であった、使い古したマスクは話している間に下がり、歯が数本しか残っていない口が見えた。

 「今度、仕事に行くんだけど、朝6時に行かなくてはならないくて。バスでは行けないから電車で行きたいんだけど、お金が無くて、どこかで貸してくれるところはないかな?」

 そうか、と言い、私は最初そうしたところはない、と告げたが、やはり困りきっている彼を見捨てることは出来なかった。

 辺りに他のおじさんたちがいないのを確認し、それじゃ、自分が貸してあげると、「400円で良いんだ。それで電車に乗れるから」と言った彼の言葉から、私は右手をジーンズのポケットに入れてみたが400円が無かったのでお尻のポケットに入れていた財布を取り出し、じゃ、1000円貸してあげるねと、1000円札を私の右手のなかに丸め納め、握手をするようにして彼の右手に渡した。

 誰もがお金を必要するので、滅多にお金をおじさんに渡すことなどないが、その時、私はそうせざるを得なかった。

 「先生、必ず返すからね。先生、いつもここにいるからね。ありがとう。仕事を行ったら返すからね」と安堵の笑みを浮かべながら何度も彼は頭を下げた。

 私の脳裏はこれで良かったのかどうかやいろいろな思いが錯綜した。

 1000円は帰ってこなくても良い、お年玉をあげたと思えば良い、でも、帰って着たら、それはそれで嬉しい、お金が帰って着たことが嬉しいよりは約束を守ってくれたことが嬉しくなるだろう、その喜びが昔話の六地蔵の話しのようなことが起こるのではないかと初雪を見たから思ったのか、そんな他愛もないありもしない利己的な想像している自分にクスッとしたり、それ以上何も考えないようにしむこうとする自分がいたり、そしてやはり信じたいと思う自分がいたり、そう考えているうちに私は一人なぜか喜んでいた。

 有り難い、私は与えられている、と不思議とそう思えたのであった。

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Prem Dan。その3。

2019-01-14 11:56:40 | Weblog

 この本は私がカルカッタ{現コルカタ}にいた2011年震災の前であったと思う、マザーハウスから歩いて10分ぐらいのところにあるパウロ会の本屋で買った。

 ちょうどその時、学生時代からの知人である片柳神父もボランティアをしに来ていた。

 彼に「Come be my Light 来て、私の光になりなさい」の次にMC{マザーテレサの修道会の略}から出た本があるのは知っていると聞いて見ると、いや、知らなかった、と驚き、慌てるようにして、すぐに買いに行っていた。

 マザーの死後、MCから出された本は「マザーテレサの秘められた炎」そして「マザーテレサ 来て、私の光になりなさい」であり、未だ翻訳されていないのは「Where There Is Love,There Is God. Mother Teresa」である。

 英語力の貧しい私は未だこの本を読み切れていない、いや、読もうと腰を据えるどころか、誰かが翻訳してくれないかと棚から牡丹餅が落ちてくるのをずっと待っていたが、いっこうに牡丹餅は落ち来なかった、そこに牡丹餅を持って来てくれたのがいなますさんかも知れない。

 すでにマザーの本を翻訳しているいなますさんであれば、どうにかなると、その時、瞬時に私の脳裏で私の想像以上の良い風が私に吹き込んだであった。

 いなますさんは「マザーテレサの秘められた炎」と「マザーテレサ 来て、私の光になりなさい」の翻訳に至った過程を知っていた。

 そして「マザーテレサの秘められた炎」の方は最初翻訳が良くなかったので上智で引き取り、三人に寄って翻訳され直したと言っていた。

 私はやはりと思った、だから、最初と最後の方では同じシスターの名前も違って明記されていたことがわだかまりを残しながらも了解された。

 しかし翻訳の間違えはこれだけではなかった、カルカッタのマザーハウスで日本人のシスタークリスティーに私が問題と思うところを聞いてみると、やはりまったく違った翻訳であることを教えてくれた。

 とても残念に思わずには居られなかった、なぜなら、この本はとても素晴らしい本であるからである。

 私は実はこの本により、洗礼を受けることを考えた一つの大切な要因なのであった、もちろん、この本だけではない、いろいろとものが絡み合い、泣き笑い、熟し、発酵し、私は洗礼を受けることになったのである。

 その洗礼をマザーハウスで受けた2014年に私はこの「マザーテレサの秘められた炎」をカルカッタに持って行ったのであった。

 いなますさんに誰か良く翻訳してくれる人はいないかと聞くと、しばらく考えてから彼女だったらと目星が付いたらしい人がすぐに浮かび上がったようだ。

 私はもし翻訳が進んでいくのであれば、是非翻訳の過程でそれを読ませてほしいと願い出た。

 なぜなら、今まで訳の間違えが多かったシスターやブラザーの名前、カルカッタの地名、物の名前などが私には分かるからである。

 それをいなますさんは喜んで承諾してくれた。

 後日、良い翻訳家が見つかったと言う知らせを受けた、その人は私のことも知っているとのことであった。

 神さまは素晴らしい計らいをしてくれるのであった。

 さて、翻訳がいつ始まるかなどはまだまだ到底分からないが、私にはPrem Danが与えれた、愛の贈り物が与えられた。

 1月5日の出来事である、神さまからの、マザーからのお年玉と言って良いかも知れなかった。

 
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Prem Dan。その2。

2019-01-09 12:40:30 | Weblog

 炊き出しが配られる白髭橋で私はいなますさんにカレーの列に並ぶおじさんたちへの挨拶に誘った。

 新年の初めての炊き出し、おじさんたちは苦しい状況には変わりがないはずであるが、どことなく歳を超えられた喜び、新年を迎えられた喜びが彼らの笑顔のなかに見られた。

 その喜びはもしかすれば、苦しい状況のおじさんたちの方が肌身、いや、全身で、命で感じられるのかも知れない、のうのうと暮らしている私の方が有難みや喜びが薄れているのかも知れないと思わざるを得なかったが、その私の貧しさを癒してくれているような彼らの笑顔だった。

 私は大きな声で新年の挨拶をし、可能な限り一人ひとりの顔を見ながら声を掛けて行った。

 いなますさんには所々でおじさんたちの一人ひとりの状況を話した。

 彼女は「テツさん、歌を歌っているから声が良いですね」と言われ、私は少し照れて「そうですか」と答えた。

 いつも聞いている自分の声のことなどは普段考えないものであるが、良いと言われ、悪い気はしないものであった。

 彼女を引き連れて、おじさんたちがカレーを食べているところに向かった。

 首に大きな腫瘍のあるホームレスのおじさんが大きなリュックを背負ったまま、地べたに座り込んでカレーを食べていた、その人に、私は彼女に「神さまですよ、話しかけて来ませんか?」と言うと、即座に彼女はそのおじさんの傍に近寄って行った。

 どのように声を掛ければ良いものなのか、見るのものは見られているものであり、目の前の相手に愛を届けようとしているのか、その愛はどこにあるのか、それは本物か、作り物か、複雑に行きかう心ながらも、落ち着いて微笑んで、声を掛けることが出来るのか、私の問いは切りがないように私自身にいつも問いかけるのであるが、彼女はたぶん彼女らしく、優しく声を掛けていたその姿のなかにも、私は神さまを見ているような気がした。

 それからも私は彼女を連れて、おじさんたちに声を掛けて行った。

 この日はイチゴが一パックずつ、カレーと一緒に配られた。

 そのイチゴはクリスマスのケーキ用のイチゴであったが残ったものをどこかのベーカリーが寄付してくれたものであった。

 すでに少し悪くなっていたものもあったが、そうしたものをはけ、良いものをおじさんたちに配った。

 150人くらいのおじさん全員に一パックずつ、ちゃんと配れ、おじさんたちも喜んでいた。

 今年最初の炊き出しも無事に終わり、MC{マザーテレサの修道会の略}の施設に戻り、昼食時に私はふと脳裏に過ぎったことをいなますさんに話した。

 それは彼女に相談すれば、何とかなるのではないかと言う思いが私の記憶の奥底から顔を出したのであった。

 私がずっと期待していた「マザーテレサ 来て、わたしの光になりなさい」の次にMCから出された本の翻訳の話しであった。

 {つづく}

 
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