今年もほんとうにいろいろと反省しなくてはならないことがあった。
許してもらえるのだろうか。
胸の奥には痛みとしてはっきりと感じられる場所がある。その責任を感じている。その痛みを十分に味わうことをしている。
十分に味わった痛みは何かに姿を変えていくだろう。
誤魔化した痛みはそのまま何かに姿を変えてでもあり続けてしまうだろう。それはしないように努めたい。
自分自身が非合理、非論理、利己的なものであることを認めざるを得ない。
こうした自分に向き合って生きたい。そうすることによって、他人ともほんとうの意味で向き合えるようになるのではないかと考える。
痛みとともにあり続けることでいいと思っている。そこには痛みだけがあるのではないことを分かっているからだ。
一つのものへの執着が他のものへの可能性を奪ってしまう。一つのものへの意識が他のものへの気付きを感じさせなくなってしまう。
きっと何度でも自分は過ちを繰り返すだろう。にもかかわらず、そこにあり続けることへの意味の意志に答えて生きたい。
今朝、目が覚めるとケイタイにパトリックからメールが来ていた。
五年前に一緒に働いていたアメリカ人のSTジョンのブラザーだった。彼は修道会を辞める決意をしにカルカッタに来ていた。
自分たちはほんとうに仲が良かった。よく笑った。同じゲストハウスに彼が引っ越してきてから、なおさら、仲良くなった。彼がどうして修道会に入ったか、そして、離れるのかをよく聞いたりした。
今はどうしているのだろう?
また会えるような気がしている。
何年ぶりかの彼らの短いメールに彼の声まで付いてきたように思えた。
さて、今年の仕事納めを丁寧に働いていこうと思っている。
良いお年を。