カルカッタより愛を込めて・・・。

今月のアピア40のライブは3月21日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

愛犬の安楽死。

2019-08-29 11:54:04 | Weblog

 昨日、小学校の同級生のまっちゃんから夜九時半過ぎにラインが来た。

 まっちゃんちの柴犬クーは下半身麻痺になり、ヘルニアだと思われ、手術のために検査をした結果、ガンだと分かり、8月4日に安楽死させたとのことだった。

 ほんとうに辛い決断をまっちゃんはしたであろうことは、愛犬あんと暮らしている私には胸が痛むほど分かった。

 クーとまっちゃん、まっちゃんがもう一匹飼っている甲斐犬リキはあんの数少ない友達であった。

 あんはあんが小さい時に一緒に遊んだ犬や人間を忘れない。

 何よりもまっちゃんがリンゴのダンボールに入れて、あんを家に連れて来てくれたのであった。

 あんがそれを覚えているかどうかは分からないが、それから何度も散歩中にまっちゃんとクー、リキと会うと、あんは物凄く喜んだ。

 一緒に遊んだクーがもう居ないとなると、あんよりもきっと私の方が哀しいであろう、私も必ずあんと別れる日が来るのである、それを否応なしに考えてしまうからである。

 まっちゃんはラインでこうも書いていた「かなりこたえるね、年老いてからは、赤ちゃんだった頃よりも可愛く思えていたから。しばらく寂しさが襲ってくるよ・・・」と。

 犬の寿命は早い、それは人間にとって、飼い主にとって、そう思わずにはいられないのだろう、しかし、犬はそんなことを関係なしに、いつも傍にいて癒してくれる。

 私とあんの時間、それはかけがえのない時間であると言うことを死が教えてくれる。

 死は永遠の別れであるが、想い出、魂に永遠の別れはない。

 私とあんはそれを今日も育んでいる。

 あん、喜んでいようではないか。

 
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断捨離。

2019-08-28 13:02:05 | Weblog

 最近ずっと休みの日には断捨離をしていた。

 家を建て替えてから10年以上経つが、その時にタンボールに入れたものがずっとそのままだった。

 それをしまっていた押し入れも物が溢れ、私の心に「ダンシャリ・ダンシャリ」と声が響き始め、片付かずにあったのがどうも気になりだし、10年言う重い腰をようやくあげ、押し入れの整理に取り掛かっていた。

 流石に一日ではどうにもならず、休みの金曜日に少しずつやり始め、いまどうにか少し片付いて来た。

 粗大ごみの予約し、要らないものを片っ端からゴミ袋に入れて行った。

 断捨離は勢いが必要で、ちょっと立ち止まると、10年言う重い腰をまた下ろそうとしてまう。

 ビデオテープ、カセットはすべて捨て、もう聞かなくなったシングルCDは友達にあげたりした。

 一つだけカセットを残した。

 これは私が高校の時、ジョージと呼んでいた先生から録音してもらったカセットだった。

 川口と言う名前で、ジャズやブルースが好きだったのでドラマーのジョージ川口からジョージとなったのだった。

 ジョージからもらったカセットはマディー・ウォーターズ、ゲイトマウス・ブラウン、ハウリン・ウルフの曲が入っている。

 もう30年以上も前のカセットだが、いまもちゃんと聴けた。

 当時はあまり思わなかったが、17歳の高校生に素晴らしいブルースマンを紹介してくれたことはほんとうに有り難いことだと、カセットを聴きながら、いましみじみ思う。

 この三人のブルースマンを私は大好きになった。

 特に今聴いても、鳥肌が立つほど感動するのはマディー・ウォーターズのライブのスライドギターである。

 私も20代の時、下北沢の屋根裏でロング・ディスタンス・コールをカバーしてやったことがあったが、マディーのようにはぜんぜん弾けなかった。

 マディーのスライドギターはガラスが割れるような、何かが爆発するような極めがあり、聞く度に吠えてしまうほどである。

 またバンドでブルースがやりたくもなり、ジョージはどうしているのかとノスタルジックになり思うのである。

 断捨離中にはこうして過去の私と再会も出来る大切な意味もあった。

 {つづく}
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「社長さん」

2019-08-27 12:04:13 | Weblog

 私のことを「社長さん」と呼んでくれる、白髭橋のカレーの炊き出しに来るおばちゃんがいる。

 いつも彼女は男性と炊き出しに来ていたが、先週の土曜日は一人で来ていたので挨拶をしてから話し掛けてみた。

 すると、彼女は世田谷から電車とバスを使い、炊き出しに来ていて、一緒にいた男性は墨田区から来ているとのことだった。

 二人がどんな関係かは聞かなかった、根ほり葉ほり聞くことは節度を超えていく、それよりも彼女の話したいことを聞く方が良いと思ったからだった。

 彼女は二年ぐらい前から炊き出しに来るようになり、彼女が私のことを「社長さん」と呼んでいるのを知ったのは、昨年の五月のこと、インド・コルカタで会った友達を山谷に連れて行った時にことだった。

 私は友達に彼女と話したらと言い、彼女に友達を紹介した。

 話し終わってから、友達は彼女が私のことを「社長さん」と呼んでいたと教えてくれた。

 彼女はその時のことをまだ覚えていたようで「奥さんは今日は居ないの?」としきりに私に聞いて来た。

 「独身だよ」と言っても、「社長さんは目がパチッとしていて男前だから、一人じゃないでしょ」と言う。

 そして「映画に出なさいよ。社長さん、カッコいいから」と言った。

 「社長さんはどこから来ているの?」

 「川崎だよ」

 「国はどこなの?」

 「国って?」

 「生まれた国だよ」

 「日本だよ」

 「嘘でしょ!どこかの外国でしょ!」

 「だって、日本語、上手いでしょ?」

 「うん、良く勉強したんだね」

 彼女は私をどこかの国から日本に来た者だと思っていた。

 近くにいた女性のボランティアも冗談で「日本語、上手いでしょ!」と言うと、彼女は「ほんと!」と言って笑っていた。

 心が通い合う面白い出会いだと思った。

 さて、私は何人に見られるのだろうか。

 私が何人に見られようと、私たちは微笑み合うことが出来るのである。

 それを感謝せずにはいられない。

 
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思い込みの向こう側に。

2019-08-26 18:50:16 | Weblog

 下記はあるところへ提出する草案である。

 良かったら読んで下さい。
 


 私の好きなマザーの言葉をまず一つ紹介したい。

 「人は不合理、非論理、利己的です。
 気にすることなく、人を愛しなさい。
 
 あなたが善を行なうと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。
 気にすることなく、善を行ないなさい。
 
 目的を達しようとする時、邪魔立てする人に出会うでしょう。
 気にすることなく、やり遂げなさい。
 
 善い行ないをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。
 気にすることなく、し続けなさい。
 
 あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。
 気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい。
 
 あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう。
 気にすることなく、作り続けなさい。
 
 助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。
 気にすることなく、助け続けなさい。
 
 あなたの中の最良のものを、世に与えなさい。
 けり返されるかもしれません。
 でも、気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。
 
 最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。
 あなたと他の人の間であったことは一度もなかったのです 」

 私はこの言葉から、いつも深い勇気をもらう。これはマザーが生涯味わったであろう、痛みであり、行いであり、この「あなた」はマザーに他ならない。

 マザーはひたすらに目の前の痛み苦しむ人を勇気付けるためにあったと同時に常にそこに向かう人、ケアをする人を勇気付けるためにもあった。なぜなら、マザーは行い人であり、ケアをする人であったからである。

 私たちは時に自身の痛みを通してケアすることがある。それが勝手な思い込みになり、良い面もあれば、悪い面を生まれてくることがある。そこでは自他の区別を知ろうと試みている姿勢が必要である。そうでなければ、相手の必要としないもの、勝手に思い込んだ善意を強制的に与えてしまい、善意ではなく、ただの迷惑になりかねない。

 マザーのこの言葉の行間には失敗を恐れずに負けないで欲しいとの声が響いてくるように思う。その中で最良のことをと願う姿勢には常に自己を律することが意味深くあり、そして、感情を乗り越えて「し続けること」が必要であると励ましてくれている。
 
 人間は常に不完全であり、弱いものである、マザーはそれを知っていた方が良いと言う。

 ここでもう一つマザーの言葉を紹介しよう。

 「主よ、私は信じきっていました。私の心が愛にみなぎっていると。でも、胸に手を当ててみて、本音に気づかされました。
 私が愛していたのは他人ではなく、他人の中に自分を愛していた事実に。主よ、私が自分自身から解放されますように。

 主よ、私は思い込んでいました。私は与えるべきことは何でも与えていたと。でも、胸に手を当ててみて、真実がわかったのです。
 私の方こそ与えられていたのだと。主よ、私が自分自身から解放されますように。

 主よ、私は信じきっていました。自分が貧しい者であることを。でも、胸に手を当ててみて本音に気づかされました。
 実は思い上がりと妬みの心に、私がふくれあがってことを。主よ、私が自分自身から解放されますように。

 主よ、お願いいたします。私の中で天の国と、この世の国々とがまぜこぜになってしまう時、あなたの中にのみ、真の幸福と力添えを見いだしますように」

 
 マザーはこの言葉の中で恐れずに自分自身を知る必要があると伝えている。私たちは私たち自身の思い込みの向こうに何があるのかを、まず自分自身が知り、認め、受け容れ、それをむげに扱わず、丁寧に大切にしながら、乗り越えていき、「し続けること」が、その意味を生かし輝かせるものになるのではないか。

マザーは人間理解、人間観察、自己理解、自己認識にほんとうに長けていた。自己のうちにある影の存在を認めることにより、謙虚さ、柔和さが生まれ出し、より強く生きて行けるのではないか。

 私たちは他者とのケア、出会いの中で自分が自分を癒していく、その人を通して、自己を癒していく可能性が備わっている。その過程で自分が自分を救う。キリスト教徒だけではなく、これは誰もが持っている本能のようなものではないだろうか。それはケアするものが与えられるものに他ならない。マザーが言うように私の方こそ与えられているのである。

 そして、自らの感情を乗り越えて「し続けること」により、自己の中にある最良のものに気付き、育んでいく。それは相手の間に行われているのではなく、自己の中で行われているのである。それが他者へ贈る最良のものとなると同時に、自己の成長となり、より良く生きていく粘り強い糧になるのではないか。

 何より自分の感情を乗り越えることによって、あなたはあなたの知らなかったあなたに出会えるのではないでしょうか。

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カルカッタのこと。2000年。その5。

2019-08-22 12:00:35 | Weblog

 この2000年は7度目の3ヶ月間のインド・カルカッタ{現コルカタ}の滞在だった。

 ステーションワーク{ステーションワーク・瀕死の患者をマザーテレサの施設に運ぶボランティア}はまだ二度目だった。

 私はもともとプレムダンでボランティアしていたが1997年の12月から初めてステーションワークを始めた。

 その前は1997年1月から4月の滞在時にプレンダンが休みの木曜日のみ、ハウラーステーションに行っていた。

 1997年11月にまた戻り、そこでジョンとジムを声を掛けられ、最初は断ったのだが、始めて見るとすぐに好きなった。

 そして、路上で働いて見ると、マザーの施設が天国のような場所だと言うことがはっきりと分かるようになった。


 

 「ゴ リ」      
 
 シアルダー駅のプラットホームで、私は彼と初めて出会ったのです。

 彼のような貧しい人と出会うのは私にとっても初めてでした。 
 
 その日、私はいつものようにプラットホームを歩いていました。

 私のバックの中には駅で出会う貧しい人たちのためにいつも、パン、バナナ、ゆで卵、Tシャツ、少しの医療道具がありました。

 マザーが言う「貧しい人々の中のもっとも貧しい人たちに仕えるのが私たちの仕事です」 

 この言葉は、このインドでは、時にとても難しいことに思えるのです。

 それは私の目に映るすべてが貧しいのですから。

 しかし、彼は間違いなく、もっとも貧しい人たちの中の一人でした。

 私が初めて彼を見かけた時、彼はひどく汚れた服を身にまとい、プラットホームの壁にもたれながら、ビニール袋を持っていました。

 うつむせに屈んだ彼の顔を覗き込み、「元気か?」 と声をかけ、彼の持っているビニール袋に目を向けると、その中には、なんと死んだドブネズミ二匹です・・・。
 
 私はすぐに「そんなもの食べるんじゃない、ほら、パンをバナナをたまごを食べなさい」と、彼に言い、ビニール袋を投げ捨てました。

 「これから毎朝、私はここに来るから、食べ物の心配はいらないから、ここで毎朝、私を待っていなさい」と彼に告げ、その場を去りました。

 以前、友達からは何回か、駅には、死んだネズミを食べながら、生活している頭の狂った女性がいると聞いていましたが、実際に目にすると、全く違ったものです。

 貧しさはここまで来るものか、そんなように感じたものでした。

 それから、何日かは、彼は私を待っていまし、駅にあるマザーの施設・シャンティ・ババン{ここでは無料で食事を配ったり、治療をしたり、赤ちゃんの健診をしている場所。シャンティ・ババンの意味はサンスクィットで平和の家。}でも彼を見かけることが出来ました。

 しかし、一週間ぐらいたってから、しばらく、彼の姿を見ることが出来ませんでした。
 
 私は心配していましたが、このようなことは良くあることです。

 毎日、私を待っていれば、彼は食べ物の心配は要りません。

 しかし、こうした単純なことですら、理解出来ないほど教育が貧しいのです。

 もちろん、生きることを教えてくれる親や友がいなかったでしょう。

 名前のない子供もいるくらいですから{私は名前のない障害者を施設に運んだことがあった}。

 彼らの生活は神任せなのです。

 私自身、彼を思い、彼のために祈ることぐらいしか出来なかったのです。

 しかし、この人を思い、祈ることが、私たちすべてを強く結びつける愛になることを私は信じていました。
 
 それから、しばらく経ったある日、私は、いつもように駅のプラットホームを歩いていると、線路のレールを越えた草むらに誰かが倒れていました。

 近くにいたクリーたち{駅で働く荷物持ち}が、「死んでるよ。死んでるよ。」と言うので、私はまた、列車に退かれた悲惨な死体を見るのかと駆け寄ると、そこにはあの彼が倒れるように寝ていました。

 「大丈夫か。」と声をかけると彼はゆっくりと起き上がり笑顔を見せました。

 その彼の手には、なんと今度はヤギの耳です。

 食べるものが無くて、それをかじっていたのでしょう。

 また、私はそのヤギの耳を投げ捨て、私の持っていた食べ物を彼に与えました。

 心が痛みました、しかし、そこから人を愛おしむ心が自然と生まれました。

 彼がマザーの言う、神様なのです。

 私はこうした中でマザーを常に感じ続けました。

 私は私の愛を彼を通して学んでいたのです。  

 それからも彼とは良く会いました。

 彼の名はゴリ、私にとって彼との出会いはとても大切なものになりました。

 私がいなくても、誰かが彼を救ってくれると信じています。

 あなたもそう信じられますか。

 私には不思議と信じられるのです。

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カルカッタのこと。2000年。その4。

2019-08-20 11:38:54 | Weblog

 タクシーに乗り、流れる景色を本当に嬉しそうに眺めていた彼を思い出す。

 インドでは貧しいものはタクシーなどは生涯乗らない。

 彼がタクシーに乗るのは彼は二回目だったろう。

 最初はハウラーステーションでゴミをあさり暮らしていたがすぐに病気になり、死にそうになり、意識があまりない状態の時にボランティアが彼をタクシーに乗せたのだろう、その記憶はないに等しい、この時が彼にとっては生まれて初めてのタクシーだったようだ。

 快適に走るタクシーから窓の外を子供のような笑顔でずっと彼は眺めていた。

 その彼を私は喜びに溢れ見ていた。



 「信じる心を」
 
 その日、私がステーションワークを終え、プレンダン{現コルカタ・マザーテレサの施設}で働いている時にシスターオルガに呼ばれました。シスターオルガは最近、プレンダンの男子病棟の委員長になったシスターです。彼女とはいろいろと言い争いもしましたけど、私が尊敬するシスターの一人です。彼女はシスターになる前はナースでしたから、患者に対するケアの仕方が本当に素敵でした。  
 
 彼女が私を呼んだのは、患者の一人が自分の家に帰りたいので駅まで送ってくれとの事でした。その患者は列車の中で、誰かに騙され、金もチケットも盗まれ、ハウラーの駅に辿り着いたそうです。金も無ければ、字も読めない彼は、駅で何日間か、生活していたそうですが、病気になり、ハウラーのステーションワークをしているボランティアがプレンダンに彼を運んだそうです。日本では有り得ない事と思われるでしょうが、このようなケースは本当に多くあります。金を奪われ、騙されたと警察に行ってみても、貧しい彼らのためには、警察は全く動いてくれませんし、家も無い人たちが自分の住所など知り得るはずがありません。家族のもとに帰りたくても帰る手段がないのです。
 
 インドには22の言葉{厳密にはそれ以上にたくさんと言われている}があります。学校に行けなかった人は働きながら、公用語であるヒンディー語を自分の力で学んでいくのです。しかし、話すことは出来でも、読み書きまでは難しいのです。それと、列車の中には、プロの詐欺師がいます。日本人ツーリストがよく騙されるように、インド人も騙され、駅で倒れていたり、そのまま死んでいく人も多いのです。  
 
 私はシスターの頼みを喜んで受けました。それは、このように駅では、誰からも救われずに亡くなっていく人たちを毎日のように目にしてきたからです。私は本当に心から嬉しくなりました。プレンダンの昼食を終えた、その患者は、真新しい赤い服とルンギを身にまとい、片足引きずりながら、私の前に現れました。不安そうな顔と家族に会える喜びの顔を持ちあわせながら・・・。  
 
 シスターオルガは、彼の赤いシャツの襟を直しながら、彼にこう言いました。「この赤い服を着ていれば、あなたがクリ―のように見えるから、騙されないよ。しっかりと今度は、チケットを持って取られないようにするんだよ。分かったね。」 クリ―とは駅で荷物を運ぶ労働者のことです。彼らの上着は赤いシャツですから、それに見合わせて彼の服をシスターが選んだのです。彼はシスターに向かって、ふかぶかと礼をし、彼女と握手をしました。それは心と心を結んでいるように、私には見えました。  
 
 私はプレンダンのマーシーにタクシーを呼んでくるように頼み、シスターに私の手助けをしてもらうボランティアを二人連れていくと告げ、イタリア人の男性と日本人の女性を選びました。私は彼らに知ってほしいと望んだのです。どのような人たちがこの場所にくるのか、どういう状況の中、このマザーの施設に運ばれてくるのかを。そして、どのようにこの施設から出て行くのかを・・・。言葉では簡単に説明がつかないのです。その間には多くのドラマがあり、苦しみと涙があるのですから・・・。それと、もちろん、駅では大変なことになることが想像つきますから。自分一人で足の悪く、金持ちには見えない患者と一緒にチケットを買うことなんて不可能に近いことを知っていましたし、彼をこれ以上、不安がらせることをさせたくはありませんでしたから。もし、駅で私とその患者だけでチケットを買っていたりしたら、何十人というインド人が集まり、中には私のことを平気で騙す人も現れますし、私と放れた後、また、誰かに騙されるかもしれませんから・・・。  
 
 タクシーが着き、プレンダンを旅立つ準備が整い、シスターたちと多くの患者に見送られ、私たちはハウラー駅に向かいました。その患者はタクシーに乗るのは、これが最後になるのでしょう。普段の生活の中では、タクシーなどには乗れませんから。心地よい風が彼に笑顔を運んでいるかのよう、落ち着いた幸せの笑みを浮かべていました。私は嬉しくて涙が出てきたくらいです。私は何百という傷ついた人たちをタクシーで運んできました。タクシーの中で患者を亡くしたこともあります。元気になって家族のもとに帰る患者を見送ることは本当に嬉しいのです。  
 
 駅に着くと、ほこりが舞う雑踏の中をゆっくりと歩く患者の手を引きながら、私には次の不安がありました。それは旅慣れていない私がちゃんとチケットを買えることが出来るかと、列車がうまく出発するかということでした。思ったとおり駅では何度も「あそこに行け、こっちに行け。」、「誰が乗るのか、冷房車がいいのか。」、「俺が買ってやる。お金を出せ。」、「列車は今日はない。」、当たり前のように自分を騙す人たちに囲まれて、かなり辛い思いをしましたけど、どうにか、チケットを買うことが出来ました。それも、列車は10分後に出発するのです。私たちは急いでそのプラットホームに行きました。

 手荷物も何も持っていない彼に、私は列車の中での食べ物と水を買い与えていると、まわりはすでにインド人であふれていました。想像がつかないでしょうが、インド人は見物好きというか、なんと言うのでしょう。何かがあると、すぐに人だかりが出来ます。もちろん、その中には物乞いもいます。私はすばやく買い物を済ませると、彼にまわりの人に見られないようにチケットと少しのルピーを与え、彼の手を引き、列車の中に入りました。ツーリストなどいない一般車両の中は人で溢れかえっていました。しかし、ほんの狭いところでしたが、彼を座らせることが出来ました。私は持っていた食べ物と水を彼に渡すと、彼の額に手をあてて思いの限り祈りました。すると、彼はその手を自分の胸元に持ってきて、満面に笑みを浮かべ、私に感謝の心を伝えたのです。私は涙が出るほど感動しました。
 
 「分かりますか?」、彼は人に騙され、病気になり、絶望を味わい、死の淵にいたのです。しかし、その彼は今、もう一度、人を信じることを学び、感謝する心を覚え、喜びを感じながら家族のもとに帰るのです。このカルカッタには何万というほどの貧しい人たちが生活をしています。マザーの言う「私たちの仕事は大海の中の一滴ようなもの」 私はこの一滴の奇跡を見たのです。マザーの本当の偉大さを改めて実感したように思えたのです。
 
 私たちはこれ以上、周りに人が集まると危険になると考え、彼のことが心配でしたが、列車の出発を待たず、祈るようにして、その場を離れました。疲れていたはずの身体がとても軽くなったことを今でも覚えています。

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カルカッタのこと。2000年。その3。

2019-08-19 17:34:39 | Weblog

 私は歳を取ったから、ここ最近、涙もろくなったのか、と思っていたが、そうではないかも知れない。

 私はカルカッタ{現コルカタ}で働いている時によく涙を流した。

 流した涙を超えて、感情を超えようと努め、祈りに祈り、この身体を動かしていた。

 下記の文章の一人の患者はその後、マザーテレサのブラザーの会の施設に収容された。
 



 「私の罪」 
 
 それは私が毎朝シアルダーの駅を回る{ステーションワーク・瀕死の患者のマザーテレサの施設に運ぶボランティア・長期滞在者のみ}前に訪問していた病院での事だった。

 その病院のトイレの前には精神障害の二人の患者が鉄板で造られている患者を運ぶ運搬用のベットの上で生活をしていた。 

 彼らの毎日はベットの上のみ、外の光や匂いなどがさえぎられている場所、その隣には毎朝、他の患者達から出る、悪臭放つゴミの山の横だった。

 ゴミには糞尿はもちろんのこと、切り落とされた足や手も含まれていることもあった。

 彼らは病室に移れるわけでもなく、無期限にそこで厄介者を飼うように扱われ暮らしていた。

 その患者の一人は三年前に私が訪問を始めた時から居た。

 働いてるワーカー達からさえも馬鹿にされながら日々を送っていた。

 彼らは頭から汚れきったモーフに身を包みながら獣のように生きていた。

 信じられない光景がそこにはあった。

 人間の住めぬようなところ、生きれぬようなところに彼らは居た。

 病院で働くワーカーの中には彼らに会ってくれと言う、やさしさを持つ者も居た。

 私は彼らにいつもビスケットをあげていた、しかし、そのビスケットはすべての患者に配っていた訳ではなった。

 子供や全くというほどお金がなく、誰も訪ねてくる者がいない患者にだけにビスケットをあげていた。

 彼らの生活状況はあまりにも悲惨、言葉で言い表せないほど悲惨であった。

 同じ人間、それもとても弱い人なのに・・・、私は彼らに会う度に現実の不条理に目の当たりにし、また自分の無力さでつぶされそうに何度もなった。

 私の出来ることはこの病院内では限られていた。

 どうすることも出来ない力の無さに涙を飛び越すような重い心持ちがあった。
 
 ある日の事だった。

 私とジョアン{ニュージーランドの女性}で彼らの前に行った時だった。

 一人の患者が両足と片手をベットに縛りつけられていた。

 それも何の服も着せられていない状態で・・・、私は言葉が出なかった・・・、私のすべてがあまりのショックに固まり、怒りを通り越したかように・・・。
 
 どうしてこんなことが有り得るんだろうか、理解する事が不可能だった。

 私は自分のバックからTシャツを出し、彼の体を覆い、彼の身体を温めるようにさすった。

 どうすることも出来ない憤りを感じながら・・・、そして、いつもより多くビスケットを残し、その場を胸を痛めながら去った。
 
 次の日、同じように私とジョアンはトイレの前に居る、彼らのところに行った時だった。

 昨日、私がTシャツをあげた彼がゴミの上に裸のままベットにつながれたまま倒れていた。

 私が彼に近づこうとするとワーカー達が「死んでる、死んでる」と言い、私を彼に近づけようとはしなかった。

 その時、私は「お前達が殺したんだろ・・・」 心の中で叫び、怒り、悲しみ、体が引き裂かれるような苦しみが全身を駆け抜けた。

 人の命を何だと思っているんだ・・・、言葉が急に出ない分、涙が溢れ出た。
 
 私達はどうすることも出来ず、その場を去り、病院の外で、私は泣き崩れながらも気付いたことがあった。

 私も彼を殺したんだと・・・、何も出来ずに、何もせずに、ワーカー達にも彼のことを聞くこともしなかった。

 私がもっと注意して彼のことを思い考えていれば、彼は亡くなる事は無かったかも知れない・・・。

 私がジョアンにこう言うと、しばらく経ってから、彼女は、こう答えた。

 「昨日、彼の体にふれた時には、私はもう彼は長くはないと思っていたよ」 

 そんなジョアンの慰めより何より、私は私の愛の無さ、無力さ、勇気の無さがどうしても許せなかった。

 事実、怖かったかもしれない、面倒だったのかもしれない。

 心の中にある私自身の弱さを叩き付けられた。  

 しかし、それでも私は悲しみの内に自分を見失いたくは無かった。

 意地っ張りな私が涙を通り越して、弱い私に問いかけてきた。

 「ここにお前は何をしに来たんだ。苦しみ悲しみ嘆きに来たのか?愛あるお前の笑顔はどこに行くんだ?」
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カルカッタのこと。2000年。その2。

2019-08-15 11:46:33 | Weblog

 私は私が絶対に正しいとは思わない、絶対に正しいなどは私の内にはないと思う。

 良い所もあれば、悪い所もある。

 見たくない所もある、しかし、それを見て受け容れることが必要であろう、柔軟な柔和な心の持ち主になるためには。

 失敗しながら、今もなお成長していく、そして、その可能性は私の負の中にあるかも知れない。
 



 「友達」  
 
 カルカッタでインド人と友達になることはとても難しい事だと思います。
 
 貧しい人達から見れば、旅行者はお金が歩いてるようなもの・・・、そう考える人も少なくないでしょう。
 
 事実、私も何度となく騙されたものです。
 
 仲良くなり、信じていても、結局はお金か・・・、裏切られては怒り、思い悩んだりもしました。

 私はそんな時にいつも自分にこう言い聞かせます。

 「あなたを許します。どうか、私を許してください」と。

 怒りからは、何も生まれません。

 許す心を持つことが大切だと考えます。

 しかし、それは容易な事では決してありません。

 それだからこそ、私は祈るように自分に言い聞かせるのです。

 友達と言えるのか、どうか、わかりませんが、シアルダーにある国の病院を毎朝訪問していた時に一人の患者と出会いました。

 その患者の片足は膝下からありませんでした。

 しかし、とても明るく、ユーモアたっぷりの顔つきで、いつも自分を楽しませてくれました。

 私が病院の子供の患者のために持っている風船を欲しがって、私の手をつかんでは、風船を渡すまで、手を離してはくれなかったり、私の誕生日には歌を歌ってくれりもしました。

 とても悲惨な病院内でしたが、彼の歌声、明るさが回りの患者たちの笑顔を生んだことを、今でもはっきり覚えています。

 一度、彼が「あなたはだれ・・・?」と笑いながら聞くので、私は冗談で、「Shanti Baba ・平和の父・」と言うと、照れている私を知るなり、回りの患者たちに言いふらしたり、とても愛敬のあるいい男でした。
 
 そんな彼が病院を退院する日、私は病院の外で彼を待っていると、松葉杖をつきながら、彼は笑顔で私の方に近づいて着ました。

 嬉しいようで、それでも、別れが少し寂しい思いがありましたから、私は彼を食事に誘おうと思い、彼に「チャイでも、飲みにいこう」と言うと、彼は「もう、いいよ、さっき飲んだから」、そして、私がまた、「何か、食べよう」と言うと、今度も、「いいよ、食べたから」と言うのでした。

 「少し、お金が必要か?」と聞くと、「いい、入らないよ」、私は何か、彼にしてあげたかったので、バックの中にある石鹸を渡そうと思い、「そうか、それじゃ、石鹸をあげようか?」と尋ねると、彼は照れながら、受け取ってくれました。

 私は想像が付きませんでした。

 私は絶対に気持ち良く、私の好意を受けとってくれると思い込んでいましたが、しかし、彼には誇りと私への遠慮があり、その時の私には驕りと思い込みがあったのです。

 私は自分のいやらしさに気付きました。

 彼が気付かせてくれたのです。

 お金があれば、どうにかなる、もちろん、嘘ではないでしょう。

 しかし、お金よりも大切なものがあるんです。人と人の間には。

 私は自身の心の貧しさを感じながらも、とても爽やかな思いを味わいました。

 彼が雑踏の中、松葉杖をつきながら歩いていく後姿を見ると、人間の底はかな力強さを感じずにはいられませんでした。

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カルカッタのこと。2000年。

2019-08-14 12:46:28 | Weblog

 もう20年くらい前のことになってしまう、この文章を読み、過去を振り返ると、若い私からの声が聞えてくるようである。

 「愛を持って歩んでいるのか」と。


 「尊敬する人」
 
 カルカッタ{現コルカタ}では、私達ステーションボランティアが触れる事の出来ないケースがある。その一つにアクシデントケースがある。たとえ、アクシデントケースの患者に出会い、その場に救急車も来なく、手助けをする人がいなくとも、その患者をマザーハウスには連れて行く事は出来ない。アクシデントケースはすべて最初に警察扱いになる。  
 今回のこんなケースがあった。その日は、私がアイルランド人神父のケビンとシアルダーのサウスステーションを回っていた時の事だった。
 
 ケビンは本当にやさしく、太陽のように温かい男である。彼はカルカッタの本当に汚いスラムの中に3つ学校を作った。インドの国の許可などはまだ取っていなかった。許可などを取っていたら、何年も掛かってしまうからだった。私はケビンとの仕事は本当に楽しかった。いつでも、私を元気付けてくれた。私が心から尊敬する人の一人であった。
 
 私がプラットホームを歩いていると列車の中を覗き込んでいる二十人ぐらいの人だかりに出会った。近づいてみると、その中心には血まみれの男が起きようとしては、倒れ、頭を打っても、また、立ち上がろうとしていた。回りにいるインド人達は、その彼に向かって、「寝なさい、寝なさい」と叫ぶように言い聞かしていたが、彼は多分、意識は無かったのかも知れない。何度も同じ動作を繰り返してた。

 私は回りにいたインド人達に「どうしたんだ?彼はどこから来たんだ」と聞いても誰一人して知る者はいなかった。しかし、何人もの人達が私に「彼を運んでください」と願うように頼んできた。私は「分かった。今、シスターに相談してくるから、もう少し待ってくれ」そう言い、その場を離れ、隣のプラットホームを歩いていたケビンに話しをしに行った。

 私達は何より先に彼を列車から降ろさなくては行けなかった。なぜなら、サウスステーションのどの列車も二十分ぐらいで発車してしまうからである。病人がいようがいまいかは関係なく発車するからである。彼はまた、どこかの駅まで運ばれ、ゴミのようになる死が待っているだけになってしまうのである。
 
 私達は急いで彼のもとに戻った。しかし、血まみれの彼を素手で運び出す事は危険過ぎた。私は持っていた新聞を患者の背中、足の下に回し、半分をケビンに渡した。以前として、患者は狂ったように暴れていたので、ケビンの持っていた方の新聞がずれ、外れてしまった。私が「ケビン、大丈夫?」と聞くと、ケビンは「自分の事はいいから、このまま運び出そう」と言い、そのままは私達は患者を列車の外に運び出した。もちろん、ケビンの腕には患者の血が付いてしまった。
 
 インドは計り知れないほど多くのエイズ保持者がいる。この患者がどんな病気を持っているかは分からない。その事はもちろん、ケビンも良く知っていた。彼のとった行動は問題があるかもしれないが、しかし、私は感じた。ケビンの愛と勇気を感じた。一刻でも早く患者を運びたい、自分の事よりも患者が大切であり、神様なんだと言う思いが伝わった。彼が素敵な心の持ち主だと言う事を改めて知ったのだった。
 
 私達は患者をプラットホームに寝かし終えると、本当に急ぎ足で近くにあるディスペンサリー{マザーテレサの修道会の施設}シャンティ・ババンに向かった。しかし、私達には不安があった。彼はアクシデントケースの患者だったからである。シスターが「Yes]と言うか、どうか、分からなかった。それでも、シスターもこの場を見れば、分ってもらえるだろう。マザーハウスの救急車を貸してくれるだろう。そう期待した、そう思いたかった・・・。  

 シャンティ・ババンに着いた私達は、委員長シスターテレスィーナに患者の事を話した。しかし、やはりと言うか、どこかでは分っていたけれど、答えは「No」だった・・・。    
 私とケビンはどうしようもない憤りを感じていた。しかし、決して、シスターがいけないのでは無い事もしっかりと知っていた。このインドには問題が多過ぎるのである。言葉が無くなり、私は立つ事が出来なくなりしゃがみ込んだ。
 
 何人かの、そこで働いていたボランティアも塞ぎ込む私達に気付き、「何があったんだ」と聞いてきた。私は答える気力もなく、ケビンが話してくれていた。

 シスターは「祈りだけは出来る」といい、マーシーにホーリーウォーターを渡し、神父であるケビンに祈って来てくださいと話した。シスターもその場に行き助けたかったのかも知れない。しかし、行く事は出来なかった。もし、マザーの修道会のサリーを着て、死にかけている人を助ける事無く、祈りだけをしていたら、誰もマザーの事を愛してくれなくなるかもしれないことも想像出来た。
 
 ちょうど、そこで患者の治療を終え、私達の話しを聞いていたボランティアに、「行ってみる?」と私は聞いてみた。ケビンも「見るべきだ。これがカルカッタの現実だから」そう言い、私達はスイス人女性ボランティアのクリスティーナとマーシーの4人で患者のもとに戻った。
 
 私達が駅の構内を抜け、プラットホームに入ると、インド人の子供が「あの人、死んじゃったよ」と言いながら、私のそばに来た。私は嘘だろ、嘘だろ、ただただそう信じたかった。助ける事が出来ないと思い、足が重たかったが、子供の言っている事が本当か、どうかを確かめたく、自然に足が患者のいる方へと急いだ。
 
 人だかりの中に行くと、彼は本当に息を引き取っていた。「どうしてだよ。なんでこんな事があるんだよ」と心の中で嘆いた。それから、血まみれになった患者の顔を綺麗にしてから、私は祈った。
 
 私はこの悲しみを決して忘れない、この悲しみは、私の身体を傷付けながら通り、そして、愛に変わる。それは私が勇気の無い時に勇気を与えてくれ、私が苦しみの中にいる時でも人を励ます事の出来る力を与えてくれ、次に会う、もっと悲惨で苦しむ人に限りなく優しく出来るようにしてくれる。
 
 ケビンは亡くなった患者のそばに来る事が出来なかった。神父である彼も神を信じきれなくなるくらい悲惨な状態だったからかも知れない。私には良く分かった、彼の痛みが・・・、同じ痛みを私も感じていたからである。  

 ほんの10分ぐらいの前には、患者は生きていた。「どこに行ったんだよ。お前はどこに行っちゃったんだよ」その問いが私の身体を悲しみに縛り付けていた。一緒に来たクリスティーナもどう理解していいか、わからない様子で、ただただ、手を合わせ、祈っていた。
 
 私達は、深く祈り終えると悲しみを引きずった重い足でシャンティ・ババンに戻った。途中、私とケビンは肩を組んで歩きながら、こう言い合った。「自分達は、彼に触れる事が出来たんだ・・・」この意味は、最後の一瞬だったが、私達は愛を持って、彼に関わる事が出来たんだ。神に触れる事が出来たんだ。慰めにも思えるこの思いだが、私達の心は同じだった。
 
 シスター達に患者が亡くなっていた事を話すと、彼女らも深い悲しみに包まれた。私は気持ちを落ち着けるために、外に出て、タバコに火をつけた。涙がどうしようもなく溢れてきた。煙草の煙が人の一生のように見えた。私の悲しみ、亡くなった彼の悲しみ、そんな事を知らない人達が、私の前を通り過ぎて行くのを見ながら、私はこう思っていた。  

 私は彼の死を決して忘れない。もし、私が忘れてしまったら、彼の意味がどこかに消えてしまう。彼は私の中で必ず笑顔になり、多くの人達に愛を与えて行く。  

 ありがとう、私と出会ってくれてありがとう。
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山谷のこと。2003年。その2。

2019-08-13 15:21:40 | Weblog

 2003年は私が山谷に行き始めて8年目である。

 あの頃の山谷と今の山谷はかなり違うが、その過程で私はどう変わって行ったのだろうと考えたりする。

 私は私を深められたのだろうか。

 だが、私は未だ生意気で驕りに包まれやすい、それをいつも忘れずにいたいと思わざるを得ない。




 「光り伝わる」
 
 カレーを配る白髭橋まで歩くことを私は大切にしている。このわずかな時に彼らの歩く道を同じように歩く、彼らの姿をこの胸に刻みながら、祈るようにして歩く。
 
 最近は彼らからも声をかけられるようになってきた。嬉しい限りだ。それでも、私は自身に驕りが生まれないよう祈りながら、彼らと会話をする。
 
 背中丸め、足元しか見えないような姿で歩く人、姿孤独の人に微笑み声をかける。彼らのうちにある笑顔を引き出し、見ることが何よりの喜びである。
 
 その日もそうして隅田川に架かる白髭橋まで向かっていた。真冬の寒さの中、叔父さん達に会えば、決まって、「今日は寒いねぇ・・・、元気にしている」と声をかけながら歩いていた。 
 
 橋の近くまで行くと、電話ボックスのなかに一人の叔父さんがうなだれるように寝ていた。
 
 「大丈夫?・・・大丈夫?叔父さん、カレーを食べに来ない?すぐそこの橋の下でこれから配るからね。どうかな、立てる?ちゃんと歩ける?」そう聞くと、かすれた声で、「あぁー、食べるよ」と言いながら、どうにかよろめきながらだが立ち上がることが出来た。
 
 彼の右手の指は三本しかなかった。その三本もしっかりと動くようではなく、伸びる指は一本、あとは丸くなっていた。多分、火傷だろうと思う、焼け焦げ残った棒のように腕から固まっていた。その腕を杖のようにして、何度と立ち上がったのだろう。地面に付ける部分は血でにじんでいて、左手もグローブのよう貼れ上がり、あかぎれで血がにじんでいた。
 
 どうにかふらふらと橋を超えて来てくれたはいいが、階段を上がることが出来ずに倒れてしまい、私が支え、彼は右手を杖代わりにしてやっと5段ぐらいの階段を上がって来れた。これ以上、彼には階段の登り降りは出来ないようだった。
 
 「陽のあたる場所で座って待ってて、カレー、もう少し経ったら自分が持ってくるからさ」そう言うと、彼は「しょんべんするから」と答え、後ろを向いた。
 
 その間、近くにいた叔父さんと、私は話していた。彼の背を見ながら、その叔父さんはこう話した。
 
 「俺なんかはどうにか、テントがあるから、生きていけるけど、なんにも持ってなきゃ、この寒さのなかほんとうにキツイ・・・」そう彼は何一つ持ってはいなかった。
 
 彼はしっかりと排尿することが出来なかった。上手く手も指も動かせなかったのだろう。ズボンをびしょびしょにしてた。
 
 背中丸まった年老いたその後姿を前に、もう、私の胸は引き裂かれんばかりに痛んだ。同じ人間です、どうして・・・?世の中は彼に死ねと言うのか?生きる資格のない人なんかいるのか?何がこのような人を生むのか?やはり無関心がゆえか?私は見よう、心を閉ざさず、開き、愛を持って見よう、見付けよう。空を仰ぎ見、誓った。
 
 陽のあたる場所で彼を座らせ待っててもらい、カレーを私が運び、彼に与えた。暖かいお茶とおしるこも買って来て与えた。
 
 すべての仕事が終わり、山友会{無料のクリニック}に行ってズボンとパンツをもらい、彼に与えた。MC{マザーテレサの修道会の略}に帰って来てから、モーフをまた渡しに行った。その途中、私に一人の叔父さんが話しかけた。
 
 「どう、彼は大丈夫?」私が話していた叔父さんのことを彼も心配していた。嬉しかった。なぜなら、愛が一つ、光れば、その周りにも光り伝わる。私はそう信じていたからである。誰もが持つ、愛を引き出したい、厳しい毎日のなか、忘れ去られようとした愛を引き出したい。それには言葉だけでは足りない。何年という時間も必要かも知れない、この街にいる人達への理解、それに愛ある表情と自身の落着きをもった心も必要である。神様じゃない限り、一度の出会いで愛を上手く伝えることはとても難しいことであろう。

 MCからモーフを持って行ったときに、彼の座っているすぐそばにテントで暮らしていた叔父さんに「もし彼がダメそうだったら救急車を呼んでほしい」と頼んだ。その叔父さんは彼がしょんべんをしていたときに話しをしていた人である。彼自身も心配してくれていた。
 
 誰もが年老いた汚く貧しい人が死んでいく姿を見たくはない。それはあまりにも残酷であり、悲し過ぎるものであるから、もし目の前にしたら、誰もがこう思う。「もう少し何かが出来なかったのか?悲しい、可哀想に・・・」 それゆえ、炊き出しに大切な意味があると思う。山谷にいる人は何度となく悲しい死を知っている。そして、死を感じ知っているからこそ深く優しい。
 
 MCに帰ってきてから、今MCにいる日本人の人にも夕方に食べ物を持って見てきて欲しい頼んでから山谷を放れた。
 
 私は自分がしてきたことに満足などはしない、もし、自分がしてきたことに安易に満足してしまえば、それ以上、何一つ成長し得ないからである。まだまだ、何かある、何かが出来る、そう求め続ける。そして、人の愛を信じる、裏切られたとしても信じる、信じたい。祈るが如く何度でも、この胸に言い聞かせる。
 
 片腕を杖のようにしていた叔父さんは、昨日の夜から電話ボックスで寝てたいたらしい。彼は「もう昨日はダメかと思った」と話した。何日も食べていなかったと話した。「身も知らずの人にこんなにしてもらうなんてありがとう」と笑顔を見せた。私がもし声をかけなければ、彼は次ぎの日には亡くなっていたかも知れない。
 
 私こそ、あなたに出会えて嬉しかった、この上ない喜びを私は得た。「ありがとう」と思うのは私自身だ。あなたにどうにかして生きて欲しいから、そして、生きることを諦めないでほしいから、あなたの笑顔を見るためにこの私はありたい。
                                          

 次ぎの週、彼のことがどうしても心配だったので、彼がいた近くのテントに住んでいる叔父さんを探した。
 
 「彼がどうしてもダメそうだったら、救急車を呼んでほしい」と頼んでいたからである。
 
 私がいつもようにカレーをもらうため、並んでいる叔父さん達に挨拶していると、その叔父さんが私を見つけ近づいて来てくれた。
 
 彼はわざわざ私を探していてくれたのだった。「彼のことを教えたかったんだよ」と倒れていた叔父さんのことを話してくれた。
 
 その叔父さんいわく、「日が落ちても動かないようだったら救急車を呼ぼうと思っていたんだけど、それでも、あなたがモーフを彼にあげに来てくれてから、一時間ぐらいあとに争議団の人がたまたまビラを配りに来て、倒れている彼を見て、何かおかしいと言うんで救急車を呼んでくれたんだ」
 
 「最初は白髭病院で点滴を二、三本打たれて出されると言うことだったんだけど、それじゃ、また出されても、どうにもならないって困っていたらしいけど、結局、脳梗塞の疑いがあって中村病院に入院したらしいんだよ」
 
 「ありがとう、教えてくれてさ、ほんとうにありがとう。良かったね、入院が出来て、これで彼が元気になれば、福祉も受けることが出来るようになるだろう。でも、結局は死ぬ間際まで救急車を呼べないという現実があるね・・・」 二人、どうしようもない現実に胸が一杯になり、何かを吐き出すよう、無言で光り照らされた隅田川をほんの少し眺めた。それから、再度、叔父さんに礼を言って別れた。

 誰かがいるということ私は信じている。その人に必要な誰が目の前に現われると信じている。それは偶然でない、必然として必ず現われる。どんなに苦しいときにもいかなる時もそうあると、あなたに語っていきたい。嘘だと思うかも知れない、何の根拠もないかも知れない、だけど、私はたとえ死が待っていようとも・・・、その最後の時まで、「大丈夫だよ、あなたは大丈夫だよ、あなたは愛されている」 そう語りたい。何も信じることが出来ないより、何かを限りなく信じていてほしい、あなたに必要な人が必ず現われる。そう信じていてほしい。
 
 
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