スイートは、もともとカレン難民だ。
ビルマ(ミャンマーよりこの国名の方が親しまれている)からの独立を宣言しているカレン族は、半世紀もの長い間、ビルマ政府と戦争を続けている。
戦禍を逃れて隣国タイに逃げ込むカレン族も多い。外交上手なタイの国内には、数多くのカレン族難民キャンプがある。
スイートは以前難民キャンプで生活していた。キャンプ内で教育を受け、カレン語だけでなくビルマ語、タイ語、そして英語を覚えた。その後タイ国籍を取得し、今はタイ側の国境の町に移り、難民のためのNGO(アメリカ出資)で働いている。
その頃、私はカレン難民のための無料診療所に通って、入院患者さんに按摩をしていた。そしてボランティア仲間の紹介で、スイートと知りあった。
スイートの語学力は確かだった。カレン訛りはあるものの、ビルマ語やタイ語も流暢に話す。英語にいたっては他のキャンプ出身の学生達より格段にうまい。それで、彼女は訪れる外人ボランティアにとってよい通訳となり、結果白人の友達を沢山持っていた。
しかし、スイートは主に欧州の人が多いボランティアの中でも、特に日本人が好きなようだった。難民キャンプや診療所に来るボランティアや見学者の中で、日本人を含むアジア人の割合は、とても少ない。それなのに、日本人に好意をもつスイートを不思議に思う私に、スイートは理由を教えてくれた。スイートには、日本人の恋人がいたのだった。
名前を南さんといった。
スイートに紹介されて初めて対面した時、彼はアメリカの大学で民主主義について研究している学生だった。明るく快発で、事あるごとに大きな声で笑う感性豊かなスイートと対照的に、南さんは寡黙で感情の起伏が少なく、優れた頭脳を用いて、常に落ち着いた口調でモノを語る、知性あふれる学者といった風情だった。私には、当初、こんなにも性格の違う二人が、どうして仲良くやっていけるのか不思議でならなかった。
しかし、南さんは、初めに抱いた印象とは違う人物であったようだ。一見冷静に見える彼も、話し始めると饒舌になった。豊富な知識と洞察の中に、情熱とユーモアが混ざる。いかにも可笑しそうに、かん高い声でゲラゲラ笑う事もある。南さんがしていた託児所のボランティアへ見学に行くと、小さな子供相手に身ぶりも大袈裟になり、子供達にとても人気があった。
数十キロに及ぶ大量の蔵書をアメリカから持ち寄り研究に耽る傍ら、スイートに自慢の料理を振る舞ってやり、家事をこなし、スイートを大事にあつかう。遊びに訪れた私の目を気にせず、二人ではしゃぐ姿に、私の方が目のやり場に困った事もあった。
当時の南さんは研究とスイートのために年に数回タイを訪れ、あとはアメリカで勉学を重ねていたようだ。
診療所での按摩のボランティアを終え、旅を再会してからも私はスイートとメール通信を続けていた。
そして、タイを離れて一年以上経った頃、スイートと南さんが結婚をしたという知らせのメールを受け取った。早速、私は祝いのカードを送った。しかし、二人が結婚をして、どういう生活を始めたのか、私は訊いていなかった。実際に二人に再会する直前まで、深く考えていなかったのだ。
スイートと南さんのいるその国境の町に、私が帰ってきたとき、既に四年の歳月が過ぎていた。懐かしい友人達は皆、成長していた。年若く結婚してしまうカレンの人達は、私より大分年下であるにもかかわらず、すでに家庭をつくり、子供をもうけていた。
その町も大きくなっていた。沢山のボランティアが国の内外から押しよせて来ている為、彼らのためのゲストハウス(安宿)や洋食レストランが増えていた。その収入のおかげで町はうるおい、道路も整備され、新しい建物が増えていた。四年前は町中を歩き回っていた私が道に迷ったぐらい、町は変っていたのだ。
未明にバスが到着し、迷って三時間ほど歩いて探してようやく昔の常宿に辿り着いたが、宿はお洒落なレストランになっていた。オーナーは変っていなかったので中に入れてもらい、仮眠をとっていた私のところに、スイートがスクーターに乗って迎えにやって来た。四年ぶりの再会・・・!私は夢うつつでスイートの手を握って、目をこすりながら再会を喜んだ。常宿がなくなってしまったのでスイートのところにやっかいになる事にした私は、スイートの家に着いて仰天した。
スイートと南さんは、以前の家から引越しをして、大きな家に住んでいた。二人は、ただ新婚生活を楽しんでいた訳ではなかった。アメリカでの研究を終え、タイに拠点を移した南さんは、スイートと暮らす家に、十数人のカレンの若者を一緒に住まわせ、彼らに教育を施していたのだった。
その教育は、難民に英語を教える白人ボランティアのレベルではない。本格的な英語の試験を受けさせ、国際社会で通用できる程のハイレベルな英語教育だったのだ。
さらに南さんは、あらゆる交渉のテクニックから民主主義とは何かについて、さらには日常生活の取り引き(難民キャンプで生まれ育ったカレンの若者達は、簡単な支払いや銀行の活用術、交友術や処世術などに明るくない)まで教えこもうとしているのだった。
南さんは、ビルマ政府との戦いに嘆き悲しみ、それを訴えては国連の援助を当てにするカレンの人々の暮らしを、根底から変えようとしているのだ。
カレン族の問題は、カレン族自らの手で解決しなければならない。
そのためにはカレンの人たちに知識を植え付け、やればできるという自信をつけさせる事が大切なのだ。長老の意見を最優先し、奥手で謙虚を美徳とするカレンの社会に生きる若者達に、自信をつけされるのは生易しい事ではない。南さんとスイートの力では、及ばないほど道は遠いのかもしれない。
カレン難民の為のNGOは数多くあるが、その出資者である白人達は、かわいそうにという慈悲の念だけで、本気でカレン社会を立ち直らせようとは思っていない。現状維持で満足しているのだから、誰も南さんに手を貸そうとする人がいないのだ。
南さんの、カレン社会に対する言葉は厳しい。南さんによると、カレン族の大半を占めるキリスト教も、カレンの女性達の得意とする手織りの布も、はてはカレン文字にいたるまで、全ては白人の宣教師によってもたらされたものだそうだ。<布教>の一念だけでカレンの言葉を覚え、文字を発明し、聖書を訳したその白人宣教師の行いは確かに尊敬に値する。一世紀近くも愛読されているカレン語訳の聖書は、しかし未だに、誤字、誤訳が直されず、そのままになっているという。
ほとんどのカレン族の人達は、誰しも身内をビルマ軍の襲撃によって殺されている。スイートももちろんその一人だし、私も、地雷で足を失った人たちを日常的に見ている。家を一度ならず焼きうちにされる事も珍しくない。どこのカレン人をつかまえても、皆、ビルマ軍とビルマ政府に対する憎しみの言葉を吐く。子供達は難民キャンプでそれを歴史として教わり、英語ができるようになると、それを外人に訴える事に懸命になる。難民を受け入れている西洋諸国(日本も含む)に、既に移住しているカレン人も大勢いる。
「このままでは先に進めません」南さんは熱っぽく語る。
「悲観して、訴えて、助けを求めるだけでは、何の解決にもならないんです。彼らが自分達で情勢をつかみ、交渉して、自分達の運命を切り拓いていかなければいけないんです」
私財を投じ、どこからの協力もなく、独力で奮闘している南さん。情熱にあふれた南さんは、私の見たことのなかったもうひとつの南さんの顔であった。スイートは、その南さんの妻として、またカレンの若者の師範として、「だらむ(カレン語で先生)」と呼ばれる存在となっている。
南さんのしていることは、<男の夢>だと私は思った。南さんの<男の夢>を背負ったカレンの若者達が、将来、カレン社会をどう変えていくのか、長老や国連やスーチー女史に頼らず、どんな未来を切り拓いていくのか、私は按摩以外、役に立つことはないかもしれないが、これからも、ずっと見守っていこうと思っている。
南さんを。
スイートを。
カレン社会を。
ビルマ(ミャンマーよりこの国名の方が親しまれている)からの独立を宣言しているカレン族は、半世紀もの長い間、ビルマ政府と戦争を続けている。
戦禍を逃れて隣国タイに逃げ込むカレン族も多い。外交上手なタイの国内には、数多くのカレン族難民キャンプがある。
スイートは以前難民キャンプで生活していた。キャンプ内で教育を受け、カレン語だけでなくビルマ語、タイ語、そして英語を覚えた。その後タイ国籍を取得し、今はタイ側の国境の町に移り、難民のためのNGO(アメリカ出資)で働いている。
その頃、私はカレン難民のための無料診療所に通って、入院患者さんに按摩をしていた。そしてボランティア仲間の紹介で、スイートと知りあった。
スイートの語学力は確かだった。カレン訛りはあるものの、ビルマ語やタイ語も流暢に話す。英語にいたっては他のキャンプ出身の学生達より格段にうまい。それで、彼女は訪れる外人ボランティアにとってよい通訳となり、結果白人の友達を沢山持っていた。
しかし、スイートは主に欧州の人が多いボランティアの中でも、特に日本人が好きなようだった。難民キャンプや診療所に来るボランティアや見学者の中で、日本人を含むアジア人の割合は、とても少ない。それなのに、日本人に好意をもつスイートを不思議に思う私に、スイートは理由を教えてくれた。スイートには、日本人の恋人がいたのだった。
名前を南さんといった。
スイートに紹介されて初めて対面した時、彼はアメリカの大学で民主主義について研究している学生だった。明るく快発で、事あるごとに大きな声で笑う感性豊かなスイートと対照的に、南さんは寡黙で感情の起伏が少なく、優れた頭脳を用いて、常に落ち着いた口調でモノを語る、知性あふれる学者といった風情だった。私には、当初、こんなにも性格の違う二人が、どうして仲良くやっていけるのか不思議でならなかった。
しかし、南さんは、初めに抱いた印象とは違う人物であったようだ。一見冷静に見える彼も、話し始めると饒舌になった。豊富な知識と洞察の中に、情熱とユーモアが混ざる。いかにも可笑しそうに、かん高い声でゲラゲラ笑う事もある。南さんがしていた託児所のボランティアへ見学に行くと、小さな子供相手に身ぶりも大袈裟になり、子供達にとても人気があった。
数十キロに及ぶ大量の蔵書をアメリカから持ち寄り研究に耽る傍ら、スイートに自慢の料理を振る舞ってやり、家事をこなし、スイートを大事にあつかう。遊びに訪れた私の目を気にせず、二人ではしゃぐ姿に、私の方が目のやり場に困った事もあった。
当時の南さんは研究とスイートのために年に数回タイを訪れ、あとはアメリカで勉学を重ねていたようだ。
診療所での按摩のボランティアを終え、旅を再会してからも私はスイートとメール通信を続けていた。
そして、タイを離れて一年以上経った頃、スイートと南さんが結婚をしたという知らせのメールを受け取った。早速、私は祝いのカードを送った。しかし、二人が結婚をして、どういう生活を始めたのか、私は訊いていなかった。実際に二人に再会する直前まで、深く考えていなかったのだ。
スイートと南さんのいるその国境の町に、私が帰ってきたとき、既に四年の歳月が過ぎていた。懐かしい友人達は皆、成長していた。年若く結婚してしまうカレンの人達は、私より大分年下であるにもかかわらず、すでに家庭をつくり、子供をもうけていた。
その町も大きくなっていた。沢山のボランティアが国の内外から押しよせて来ている為、彼らのためのゲストハウス(安宿)や洋食レストランが増えていた。その収入のおかげで町はうるおい、道路も整備され、新しい建物が増えていた。四年前は町中を歩き回っていた私が道に迷ったぐらい、町は変っていたのだ。
未明にバスが到着し、迷って三時間ほど歩いて探してようやく昔の常宿に辿り着いたが、宿はお洒落なレストランになっていた。オーナーは変っていなかったので中に入れてもらい、仮眠をとっていた私のところに、スイートがスクーターに乗って迎えにやって来た。四年ぶりの再会・・・!私は夢うつつでスイートの手を握って、目をこすりながら再会を喜んだ。常宿がなくなってしまったのでスイートのところにやっかいになる事にした私は、スイートの家に着いて仰天した。
スイートと南さんは、以前の家から引越しをして、大きな家に住んでいた。二人は、ただ新婚生活を楽しんでいた訳ではなかった。アメリカでの研究を終え、タイに拠点を移した南さんは、スイートと暮らす家に、十数人のカレンの若者を一緒に住まわせ、彼らに教育を施していたのだった。
その教育は、難民に英語を教える白人ボランティアのレベルではない。本格的な英語の試験を受けさせ、国際社会で通用できる程のハイレベルな英語教育だったのだ。
さらに南さんは、あらゆる交渉のテクニックから民主主義とは何かについて、さらには日常生活の取り引き(難民キャンプで生まれ育ったカレンの若者達は、簡単な支払いや銀行の活用術、交友術や処世術などに明るくない)まで教えこもうとしているのだった。
南さんは、ビルマ政府との戦いに嘆き悲しみ、それを訴えては国連の援助を当てにするカレンの人々の暮らしを、根底から変えようとしているのだ。
カレン族の問題は、カレン族自らの手で解決しなければならない。
そのためにはカレンの人たちに知識を植え付け、やればできるという自信をつけさせる事が大切なのだ。長老の意見を最優先し、奥手で謙虚を美徳とするカレンの社会に生きる若者達に、自信をつけされるのは生易しい事ではない。南さんとスイートの力では、及ばないほど道は遠いのかもしれない。
カレン難民の為のNGOは数多くあるが、その出資者である白人達は、かわいそうにという慈悲の念だけで、本気でカレン社会を立ち直らせようとは思っていない。現状維持で満足しているのだから、誰も南さんに手を貸そうとする人がいないのだ。
南さんの、カレン社会に対する言葉は厳しい。南さんによると、カレン族の大半を占めるキリスト教も、カレンの女性達の得意とする手織りの布も、はてはカレン文字にいたるまで、全ては白人の宣教師によってもたらされたものだそうだ。<布教>の一念だけでカレンの言葉を覚え、文字を発明し、聖書を訳したその白人宣教師の行いは確かに尊敬に値する。一世紀近くも愛読されているカレン語訳の聖書は、しかし未だに、誤字、誤訳が直されず、そのままになっているという。
ほとんどのカレン族の人達は、誰しも身内をビルマ軍の襲撃によって殺されている。スイートももちろんその一人だし、私も、地雷で足を失った人たちを日常的に見ている。家を一度ならず焼きうちにされる事も珍しくない。どこのカレン人をつかまえても、皆、ビルマ軍とビルマ政府に対する憎しみの言葉を吐く。子供達は難民キャンプでそれを歴史として教わり、英語ができるようになると、それを外人に訴える事に懸命になる。難民を受け入れている西洋諸国(日本も含む)に、既に移住しているカレン人も大勢いる。
「このままでは先に進めません」南さんは熱っぽく語る。
「悲観して、訴えて、助けを求めるだけでは、何の解決にもならないんです。彼らが自分達で情勢をつかみ、交渉して、自分達の運命を切り拓いていかなければいけないんです」
私財を投じ、どこからの協力もなく、独力で奮闘している南さん。情熱にあふれた南さんは、私の見たことのなかったもうひとつの南さんの顔であった。スイートは、その南さんの妻として、またカレンの若者の師範として、「だらむ(カレン語で先生)」と呼ばれる存在となっている。
南さんのしていることは、<男の夢>だと私は思った。南さんの<男の夢>を背負ったカレンの若者達が、将来、カレン社会をどう変えていくのか、長老や国連やスーチー女史に頼らず、どんな未来を切り拓いていくのか、私は按摩以外、役に立つことはないかもしれないが、これからも、ずっと見守っていこうと思っている。
南さんを。
スイートを。
カレン社会を。