去年、障害福祉をテーマにインターネットラジオ(実際にはボイスブログですが)OpenSession♪の蒲田駅前街頭収録を3ヶ月間、毎週行いました。反響は殆んどないに等しかったのですが、自分たちにとって、語り、伝える努力責任のようなものを再確認することになりました。
こんな世の中だから、伝え続けなければならない。
そんなわけで、今後も語ることを自らに課し続けようと思っています。
- - - - - - - - - - - -
本日のテーマ:死刑
- - - - -
私は死刑の廃止を望んでいます。
18年前には死刑廃止運動に参加していました。
今も当時参加していたいくつかの団体の通信を読んでいます。
★いまだに死刑廃止はタブーの話題
ただし、私の日常生活は死刑廃止を語ることはタブーに近いのです。
死刑存置は常識であり、廃止論者は非常識という扱いを受けます。
新聞で死刑廃止国が多数を占めつつあると報道されても、状況は変わらないように感じます。
また、死刑存置の是非は非常に感情的な問題になりやすいと感じています。
互いの意見の違いを静かに見詰め合うというわけにはいかない場合が多いのです。
かつて私が死刑廃止運動に参加していると職場に知られていたころは、それなりに親しい人からも、ニュースで死刑に関する報道や、死刑に相当しそうな凶悪犯罪の報道がされると、「人殺しの味方をする運動をしているとんでもないやつがいる」というような絡まれ方をしました。
今でも昼休みなど、ニュースで同様の報道があると、私に険しい視線を投げる人がいます。
そうしたとき、私には彼らや彼女らに届く言葉を見つけることができず、話題を避けるしかありませんでした。
なぜでしょうか。
★常識の強みとは
まったく理不尽に残虐な犯罪の餌食になった被害者と、その残された家族にとってみれば、加害者に極刑をもって報いることが唯一のけじめではないか・・・
まさにこれが世の常識というものであり、この常識を覆そうなどという理屈は非人間的な屁理屈だと、私のまわりの多くの人は言おうとしているのだということはよくわかります。
死刑廃止を掲げる「人権派」の弁護士や学者や政治家は、インテリすぎて常識のわからなくなった学者馬鹿で、言ってみれば「オウム真理教」みたいなものだ、と考えているらしいこともわかります。(実際「人権派」の弁護士は「オウム真理教」の教祖の弁護をしているではないか!と。)
私はそれなりに時間をかけて考えたり経験したりした結果、死刑を廃止すべきという考えにたどり着いたのですが、この多くの人々の直感的で明快な立場の中に入り込める言葉を持つのは難しいと考えていました。
死刑廃止運動に参加しているときも、人の考えはそう簡単に変わらないが、死刑囚と関係し続ながら情報発信し、少数意見を表現し続けることで時代の変化を待とうと考えていたと思います。「オウム真理教の仲間」と思われながら。
★18年たって、よくならない>むしろ悪くなった日本の現実
私が死刑廃止運動に参加していたころ、日本では死刑の執行は停止されていました。ところが、私が職場の事業存続問題で心身ともにいっぱいになり、死刑廃止運動を含むほとんどの市民運動から離れた後、私が文通したり面会したりしていた死刑囚は次々と死刑執行されてゆきました。
また、日本の死刑廃止運動の牽引者であり、私が尊敬して止まない安田弁護士は、今検察やマスコミから激しい攻撃を受けています。
大阪府知事選挙に立候補した橋本弁護士が彼を処分するようにテレビから呼びかけたのは有名です。
★やっぱり語ることから始めなければ・・・
私が経験の中から死刑廃止を選んだ根拠を、どうしても一言でいえというなら・・・
それは差別の問題であり、私たちが克服すべき課題を多く含んでいるから。
今後、少しずつこのテーマを掘り下げていきたいと考えています。
でも、毎回このテーマではありませんよ。たぶん。
こんな世の中だから、伝え続けなければならない。
そんなわけで、今後も語ることを自らに課し続けようと思っています。
- - - - - - - - - - - -
本日のテーマ:死刑
- - - - -
私は死刑の廃止を望んでいます。
18年前には死刑廃止運動に参加していました。
今も当時参加していたいくつかの団体の通信を読んでいます。
★いまだに死刑廃止はタブーの話題
ただし、私の日常生活は死刑廃止を語ることはタブーに近いのです。
死刑存置は常識であり、廃止論者は非常識という扱いを受けます。
新聞で死刑廃止国が多数を占めつつあると報道されても、状況は変わらないように感じます。
また、死刑存置の是非は非常に感情的な問題になりやすいと感じています。
互いの意見の違いを静かに見詰め合うというわけにはいかない場合が多いのです。
かつて私が死刑廃止運動に参加していると職場に知られていたころは、それなりに親しい人からも、ニュースで死刑に関する報道や、死刑に相当しそうな凶悪犯罪の報道がされると、「人殺しの味方をする運動をしているとんでもないやつがいる」というような絡まれ方をしました。
今でも昼休みなど、ニュースで同様の報道があると、私に険しい視線を投げる人がいます。
そうしたとき、私には彼らや彼女らに届く言葉を見つけることができず、話題を避けるしかありませんでした。
なぜでしょうか。
★常識の強みとは
まったく理不尽に残虐な犯罪の餌食になった被害者と、その残された家族にとってみれば、加害者に極刑をもって報いることが唯一のけじめではないか・・・
まさにこれが世の常識というものであり、この常識を覆そうなどという理屈は非人間的な屁理屈だと、私のまわりの多くの人は言おうとしているのだということはよくわかります。
死刑廃止を掲げる「人権派」の弁護士や学者や政治家は、インテリすぎて常識のわからなくなった学者馬鹿で、言ってみれば「オウム真理教」みたいなものだ、と考えているらしいこともわかります。(実際「人権派」の弁護士は「オウム真理教」の教祖の弁護をしているではないか!と。)
私はそれなりに時間をかけて考えたり経験したりした結果、死刑を廃止すべきという考えにたどり着いたのですが、この多くの人々の直感的で明快な立場の中に入り込める言葉を持つのは難しいと考えていました。
死刑廃止運動に参加しているときも、人の考えはそう簡単に変わらないが、死刑囚と関係し続ながら情報発信し、少数意見を表現し続けることで時代の変化を待とうと考えていたと思います。「オウム真理教の仲間」と思われながら。
★18年たって、よくならない>むしろ悪くなった日本の現実
私が死刑廃止運動に参加していたころ、日本では死刑の執行は停止されていました。ところが、私が職場の事業存続問題で心身ともにいっぱいになり、死刑廃止運動を含むほとんどの市民運動から離れた後、私が文通したり面会したりしていた死刑囚は次々と死刑執行されてゆきました。
また、日本の死刑廃止運動の牽引者であり、私が尊敬して止まない安田弁護士は、今検察やマスコミから激しい攻撃を受けています。
大阪府知事選挙に立候補した橋本弁護士が彼を処分するようにテレビから呼びかけたのは有名です。
★やっぱり語ることから始めなければ・・・
私が経験の中から死刑廃止を選んだ根拠を、どうしても一言でいえというなら・・・
それは差別の問題であり、私たちが克服すべき課題を多く含んでいるから。
今後、少しずつこのテーマを掘り下げていきたいと考えています。
でも、毎回このテーマではありませんよ。たぶん。