ゆうべも「ビアカフェ・クナイペ」ビールを飲みながらサイボウズのチェック。
飲んでいるのか仕事しているのか、よくわからない。
それでも、結局、22時30分に送られていたフェイスブックのメッセージを見落としたために、
今朝、朝一番の動きが空振りに終わった。
ところで、
携帯端末によるSNSやメール利用を日常としている人々は、その通信がほぼリアルタイムだという認識を持っているようだ。
比較的急を要することでも、確認を要することでも、あらかじめ伝えてある携帯電話等には連絡せず、メールやSNSのメッセージ一本、という人は多い。
最近は、電車の中でずっとスマートフォンを操作している人が多数を占めている。
困ったことに、歩きながら、あるいは自転車を運転しながら、という人も少なくない。
そのことによって、非常に多い頻度の発信と、それに対応するリアルタイムの応答を可能にしているのだろう。
ただ、そうした携帯端末を利用したリアルタイムのやりとりが成立するのは、実は、あらかじめ、連絡を取り合う関係性の数が絞られているという前提に依存している。
常に端末を操作している、という状況でも、それで確認できる情報量はさほど多くないからだ。
以前も書いたことだが、
視野を「知人」から一歩「公共」に向けて広げようとすると、
あるいは、「1課題への集中=シングルイシュー」から、「さまざまな課題への着目=トータルイシュー」に広げると、
やりとりされる情報量は、瞬時に個人の処理能力を超えて、まっとうな応答が成立しなくなる。
情報を出している個々の人たちは、限定された数で応答が成立する前提で、こまめに情報量を発信してくるので、(例えば、一人が30分間に10回も小出しに応答してくるとか)複数の課題にまたがって活動する側は、すぐパンクする。
この環境下では、もはや「すべてを見る」という前提ではなく、「情報のすべてを読むことはできない」とわりきってしまって、「必要な情報を検索して抽出する」というスタンスにならざるをえないはずだ。だが、この過渡期の現実では、なかなか、そうもいかなくて、まだ、「しらみつぶし」が必要だったりする。
さまざまな工夫を考えて、この状況を乗り切っていく必要がある。
その工夫を、いろいろな人々に問いかけながら作っていきたい。
ところが、そんな苦労は何のことやら、と超然としている人たちもいる。市民運動にかかわる先行世代の人たちに、それは多いと感じる。
SNSを運動分野で活用するどころか、メールすら、活動の場面では、利用しない。僕らが嫌というほど味わっている、リスクへの拒否感が強いのだろう。使えない、というわけではなく、一方で、しっかりと、メールや携帯端末の利用を、家族やプライベートなネットワークに限定している。
僕は、そうした人たちへの違和感をずっと感じている。
この問題だけではない。自分の都合、自分の居心地の良さから離れない。自分たちの都合や居心地の良さと折り合いのつく世界の中で、「形のいい」正しさだけを表現している。そうした彼らの社会運動へのスタンスは、どうしても「趣味の領域」と感じざるをえない。
「無理をしないから長続きしている。」それは重要だ。結構なことだ。でも、そんな人たちも、たぶん、職場(賃労働!)では、いろいろと妥協して、最低限の適応をしているはずだ。
同じように、状況を変えるために最低限必要な、客観的物量は、社会運動にはないのだろうか。そこと折り合うための適応、努力、多少の無理もしてもらいたいのだ。