告知↓
(私)
そもそも死は罰なのかな?だとすれば被害者も罰を受けた事になるけど。寿命尽きるまで、反省の日々を送らせる、それが本当の罰ではないでしょうか?
(相手)
最悪な刑罰による重犯罪の抑止、被害者遺族などの感情における仇討ち的な刑、反省を前提としての更生、もちろん拷問に値する強制懲役を容認できる世の中ではない、世界基準に追随するのが正しいとも言いきれない…難しいですね…だからこそ議論しなければならないと思います。
(私)
なるほど、拷問に値する強制懲役を容認できる世の中ではない、これで納得。しかし、死刑は安楽死みないなもの。余程不治の病で苦しんでる人にさえ安楽死を許さないのに、なぜあっさり殺してやるのだ?
足立区の女子高生ドラム缶殺人なんて、どれだけむごい拷問の末殺されたか。いっそあっさり殺してくれと思っただろうに。生き地獄を味わった被害者を想うと足が震えてくる。しかも少年法に守らられるなんて最悪の結末。これじゃ抑止も何もあったもんじゃない。未成年なら何をしてもいいと宣伝しただけ。死よりも恐ろしいのは半殺しです。半殺しの状態で一生生かしてはいかがでしょうか?そうすれば長期にわたり拷問する必要は無くなります。男の場合、男の最も原動力である局部を切断し、両手両足を切断し、それでも殺さず最新の医療で生かし続ける。絶望の中、寿命尽きるまで生き続ける。これが生涯かけての反省です。どうでしょう、死刑よりも恐ろしいでしょう?死刑が廃止されても、十分抑止に繋がると思います。
(相手)
安楽死の話しはやはり死に値する野蛮な懲役や2?3年で重度の拘禁症になるとされる劣悪な禁固ありきと考えます
実際は被害者遺族の心は何をしても晴れません
私の考えは極論ですが死刑に限らず交通の反則金から全て防犯(犯罪抑止)にあると思います
しかし殺人率と死刑の有無も警察力や貧富などが加味されていないので微妙
思うのは、私も含め誰かが利己的な理由で人を殺めると想像し、死刑があるから踏み止まる、終身刑ならば殺る、どうだろうか?やはりわからない…
(私)
私なら死刑の方がむしろやる。終身刑の方が恐ろしい。死は、いずれ誰もが経験せねばならないことであって、けして罰ではない。皆、普段から死を意識せず生きている(つまり一生死なないくらいの考えで)だから極端に死を恐れる。死は、いうなれば無意識。では無意識とは?つまり分かりやすく言えば寝ている時の状態。つまり死そのものは簡単に言えば寝てるのと同じで、苦しみも無ければ悲しみもない、つまり“無” ということは、本当に恐れているのは死そのものではなく、死ぬ瞬間の苦しみと、この世の幸せ(富など)を失う事への恐れ。殺人を犯す人間は、概ね後者ではない。では、一瞬の我慢さえ出来れば死など怖くない。それとも天国と地獄があって、地獄に行きたくないから?なんて確証のない空想が抑止になど繋がる筈もない。要は何が言いたいか、失うものも無い、半ばやけくその殺人者にとって死などむしろ怖くないってこと。無意識なんだから。それより意識がある中で、永遠に続く苦しみの方がよほど辛い。
(相手)
たしかに、取り返しのつかない誤ちの対価に絶望感を設けるならば死こそが極刑とは言えませんね
色々な方々がいるのであえて回りくどい言い方にしますが、加害者にはどんな罪を命じても被害者及び被害者遺族に対する贖罪は無いとして執行部官の精神的負担も考慮した結論を出す時期にきているのですかね?
私のようなクズな親の元に生まれた小学生の子どもも成人判例で…話しがずれましたm(__)m
(私)
議論の必要があると言うなら、死刑の前に、死そのものをきちんと考える必要がありますね。学校でも教わらない、どんな偉い人でも知らない、それが死。だって、この世は生きてる人だけ(死の経験が無い人)で構成されているのだから。死を知らないのに、死を罰だと断言すること自体が恐ろしい。社会に出た事のない学生が社会を語るようなもんで、浅知恵と想像のとても確証のない世界。
私はこう思いますよ、たとえば歯医者で麻酔をせずに治療したらどうなりますか?激痛に耐えねばなりませんよね、それが償いです。死は、麻酔をするようなもんです。一度麻酔をしてしまえば、殴ろうが切り刻もうが痛みはありません。大切なのは、生きてこそ、痛みを覚える、という事です。つまりは生きてこそ償わせることが出来るのです。かと言って、卑劣な殺人者の人権だ何だと言うつもりはありませんよ、きちんと何らかの形で生き地獄を一生味わって頂きます。
あとは、殺人の場合、被害者も死んでいる訳で。遺族は、被害者は神様に認められ、人間界を卒業し天国に招かれた、そう思いたい筈。それなのに、その同じ場所に加害者を送り込むのはいかがなものか?加害者は地獄に行くから良いとでも?そんな確証のない空想に死後を委ねるのはリスクが高すぎる。もしも天国も地獄も存在しなかったらどうする?
人間、不治の病になって、初めて死を意識する。しかし実はそれじゃちょっと遅い気がします。今、元気な人も、普段から少しは考えてほしいもんです。(私は宗教家ではありません)
(相手)
自分もそうだと思います。制度の不備という話ならば、
裁判官や検事、弁護士の能力も個人差があり、そのために量刑にバラ
つきが出てしまうのは避けようがない。実質当事者主義そのものに
限界があることになるけど、そのことはここでは問題にしていない。
この事件というより、番組は死刑囚と個人的つながりができた検事が
初めて人を死刑台に送った心の葛藤に悩んでいる、という感傷の話です
自分から制度に疑問をもって死刑囚に面会して検証したわけではなく、
私信をもらってその人に興味を持ち、情がからんだというような話です
そもそも死は罰なのかな?だとすれば被害者も罰を受けた事になるけど。寿命尽きるまで、反省の日々を送らせる、それが本当の罰ではないでしょうか?
(相手)
最悪な刑罰による重犯罪の抑止、被害者遺族などの感情における仇討ち的な刑、反省を前提としての更生、もちろん拷問に値する強制懲役を容認できる世の中ではない、世界基準に追随するのが正しいとも言いきれない…難しいですね…だからこそ議論しなければならないと思います。
(私)
なるほど、拷問に値する強制懲役を容認できる世の中ではない、これで納得。しかし、死刑は安楽死みないなもの。余程不治の病で苦しんでる人にさえ安楽死を許さないのに、なぜあっさり殺してやるのだ?
足立区の女子高生ドラム缶殺人なんて、どれだけむごい拷問の末殺されたか。いっそあっさり殺してくれと思っただろうに。生き地獄を味わった被害者を想うと足が震えてくる。しかも少年法に守らられるなんて最悪の結末。これじゃ抑止も何もあったもんじゃない。未成年なら何をしてもいいと宣伝しただけ。死よりも恐ろしいのは半殺しです。半殺しの状態で一生生かしてはいかがでしょうか?そうすれば長期にわたり拷問する必要は無くなります。男の場合、男の最も原動力である局部を切断し、両手両足を切断し、それでも殺さず最新の医療で生かし続ける。絶望の中、寿命尽きるまで生き続ける。これが生涯かけての反省です。どうでしょう、死刑よりも恐ろしいでしょう?死刑が廃止されても、十分抑止に繋がると思います。
(相手)
安楽死の話しはやはり死に値する野蛮な懲役や2?3年で重度の拘禁症になるとされる劣悪な禁固ありきと考えます
実際は被害者遺族の心は何をしても晴れません
私の考えは極論ですが死刑に限らず交通の反則金から全て防犯(犯罪抑止)にあると思います
しかし殺人率と死刑の有無も警察力や貧富などが加味されていないので微妙
思うのは、私も含め誰かが利己的な理由で人を殺めると想像し、死刑があるから踏み止まる、終身刑ならば殺る、どうだろうか?やはりわからない…
(私)
私なら死刑の方がむしろやる。終身刑の方が恐ろしい。死は、いずれ誰もが経験せねばならないことであって、けして罰ではない。皆、普段から死を意識せず生きている(つまり一生死なないくらいの考えで)だから極端に死を恐れる。死は、いうなれば無意識。では無意識とは?つまり分かりやすく言えば寝ている時の状態。つまり死そのものは簡単に言えば寝てるのと同じで、苦しみも無ければ悲しみもない、つまり“無” ということは、本当に恐れているのは死そのものではなく、死ぬ瞬間の苦しみと、この世の幸せ(富など)を失う事への恐れ。殺人を犯す人間は、概ね後者ではない。では、一瞬の我慢さえ出来れば死など怖くない。それとも天国と地獄があって、地獄に行きたくないから?なんて確証のない空想が抑止になど繋がる筈もない。要は何が言いたいか、失うものも無い、半ばやけくその殺人者にとって死などむしろ怖くないってこと。無意識なんだから。それより意識がある中で、永遠に続く苦しみの方がよほど辛い。
(相手)
たしかに、取り返しのつかない誤ちの対価に絶望感を設けるならば死こそが極刑とは言えませんね
色々な方々がいるのであえて回りくどい言い方にしますが、加害者にはどんな罪を命じても被害者及び被害者遺族に対する贖罪は無いとして執行部官の精神的負担も考慮した結論を出す時期にきているのですかね?
私のようなクズな親の元に生まれた小学生の子どもも成人判例で…話しがずれましたm(__)m
(私)
議論の必要があると言うなら、死刑の前に、死そのものをきちんと考える必要がありますね。学校でも教わらない、どんな偉い人でも知らない、それが死。だって、この世は生きてる人だけ(死の経験が無い人)で構成されているのだから。死を知らないのに、死を罰だと断言すること自体が恐ろしい。社会に出た事のない学生が社会を語るようなもんで、浅知恵と想像のとても確証のない世界。
私はこう思いますよ、たとえば歯医者で麻酔をせずに治療したらどうなりますか?激痛に耐えねばなりませんよね、それが償いです。死は、麻酔をするようなもんです。一度麻酔をしてしまえば、殴ろうが切り刻もうが痛みはありません。大切なのは、生きてこそ、痛みを覚える、という事です。つまりは生きてこそ償わせることが出来るのです。かと言って、卑劣な殺人者の人権だ何だと言うつもりはありませんよ、きちんと何らかの形で生き地獄を一生味わって頂きます。
あとは、殺人の場合、被害者も死んでいる訳で。遺族は、被害者は神様に認められ、人間界を卒業し天国に招かれた、そう思いたい筈。それなのに、その同じ場所に加害者を送り込むのはいかがなものか?加害者は地獄に行くから良いとでも?そんな確証のない空想に死後を委ねるのはリスクが高すぎる。もしも天国も地獄も存在しなかったらどうする?
人間、不治の病になって、初めて死を意識する。しかし実はそれじゃちょっと遅い気がします。今、元気な人も、普段から少しは考えてほしいもんです。(私は宗教家ではありません)
(相手)
自分もそうだと思います。制度の不備という話ならば、
裁判官や検事、弁護士の能力も個人差があり、そのために量刑にバラ
つきが出てしまうのは避けようがない。実質当事者主義そのものに
限界があることになるけど、そのことはここでは問題にしていない。
この事件というより、番組は死刑囚と個人的つながりができた検事が
初めて人を死刑台に送った心の葛藤に悩んでいる、という感傷の話です
自分から制度に疑問をもって死刑囚に面会して検証したわけではなく、
私信をもらってその人に興味を持ち、情がからんだというような話です
眠りは、死に近い現象か。
よく、精神を病んでいる人は睡眠薬を飲んで長時間眠ろうとする。
この世の概念で言う“現実逃避”、しかし理解出来るところもある。
眠りとは、“無意識”になることで、無意識になるということは、一時、全てを忘れられるから、悩みや苦しみから解放される。
普通の人でも、単純に疲れたら眠るが、そういう意味では前者は疲れまくっているのだろう(一般的に言う疲れとは違う種類だろうが)
死を考えた時に、一般的には“無”を連想する。
無とは、無意識。つまり、この世の現象でいうなら、失神や眠っている時。
ということは、死を恐れる、ということは、無意識を恐れる、ということになり、おちおち眠ることも出来なくなる。
厳密に言うなら、体は存在している訳だから、完全な“無”ではないが、
眠っている時は意識が無い訳だから、体の存在は意識していない。
ということは、やはりこの世の“生”という認識は、意識と体、その両方が揃って成立しているのだろう。
眠っている時は、体は存在しているが、意識が存在していない、なのでそのひとときだけは、体があるという意識もなく、生きているという概念も忘れている。
しかし、夢を見る時がある。それはつまり、無意識の中に、もう一つの意識があるということになる。
ここがポイントなんです。
夢は時に、この世の価値観では理解出来ない、不可解な世界を映し出す。
自分が空を飛んでいたり、意味不明なストーリーの主人公になっていたり。
これはまさに、体から離れた意識だけの世界であり、死後に近い現象と連想させられる。
なんてこというとどうしても宗教的になってしまうが、そこは誤解しないでほしい、私は宗教家ではない。
二つの考え方が生まれる。
一つ目は“希望”、もう一つは。。
確かに、この世の悩み、苦しみの多くは体が関係している。
何よりも、まず“健康”でなければ、仮にどんなにお金があっても心から楽しめない。
しかし、無意識の中の意識では、時に鳥のように大空にはばたく事も出来る。これはまさに“希望”であり、睡眠薬を使ってでも眠る価値がある。
ただ、そうなると、どうしてももう一つの考えが頭をよぎる。
この世の意識とは、基本、自らの意志で構成されるが、無意識の中の意識は、基本、自らの意志では構成されない。
この世でも、良い日があったり、悪い日があったりするように、無意識の世界でも、鳥のようにはばたく日もあれば、蛇のように地面を這いつくばる日もある。
そしてその全ては自らが培った記憶が根源となっている(基本的には)
歓迎される内容なら良いが、たまには思い出したくもない内容もあるだろう。
つまり、こういうことだ。
自分の意志で構成はされない不可抗力の世界ではあるが、その世界を作ったのは自分自身ということになる。
つまり世界を創るのは神だというなら、その世界の神は、自分自身ということだ。
こうなると、出来れば夢を自在に操りたくなるだろう、それが死後の世界だと思うのなら尚更だ。
そこで宗教家なら往々にしてこのように言う。悔い改めなさい、と。
確かに、夢を死後の世界に例えるなら、合点はいく。夢=本性、となれば、単純に心の綺麗な人が綺麗な夢を見る、となるからだ。
それはそれは皆、恐ろしくなって善行に励むだろう。いい夢を見る為に。
信じる者は救われます、なんて言われて多額のお布施もしてしまうかもしれない。なんだかんだ言って、皆、自分が可愛いから。
せっせと善行を行うのもいいが、それが死後の幸せの為ならば、結局は自身の保身のように思う、やれやれ、死後までこの資本主義の概念をもっていかねばならないのか。
それでも別に良いのだが、、もっと別次元な問題だと思いますね、真実は私にも分からないですが。
話はそれますが、前途した無意識の世界というのは、眠りに例えると然程怖くはありません。では何故死は恐れられるのか?
私の場合は、死というより、“死に方”ですね。単純に、その瞬間がどれほどの苦しみなのか、どれほどの痛みなのか。それでも一瞬ならまだ良いですが、最悪の場合、何らかの事件に巻き込まれ、じわじわ拷問されなぶり殺されることなんて想像すると足が震えてきます。
1988年に起きた、女子高生コンクリート詰め事件なんて、辛くて恐ろしくて未だに震えます。あまりの悲しさに涙が出ます。
こんなこと書いたら不謹慎ですが、せめて、いっそ一思いに逝かせてあげてほしかった。長時間にわたり拷問を受け、どれだけ苦しんだだろう。
彼女は、この記憶と共に死後を過ごしているとは到底思いたくない。そんな筈は決してない。
となると、やはり、全てはうまく帳尻が合うように出来ている、そう思う。そう信じたい。
私は宗教家ではないから、神や仏とは言わない。だが、我々の概念を超越する何かがある、それだけは確か。
私は、人より善行を積んだ訳ではない。人を傷つけたこともある。墓参りにも行ってない。神も信じてない。
宗教家なら、地獄に行くぞ、悔い改めなさい、神を信じなさい、と言うだろう。
本当に、日本人全員が“本気で”そうしたら、資本主義は崩壊する、何故なら日本人全員が全財産を寄付するから。全員が破産、つまり国が破綻。
極端な発想はやめて、“出来る範囲で”やりましょう、つまり“おすそ分け”?
私はおすそ分け研究員ではないから正確な比率は分からないが、おすそ分けとは、せいぜい良くて1割くらいではなかろうか。
つまり9割保身、1割寄付。1万円持ってる人は千円、100万円持ってる人は10万、、
ということは、9割地獄に行く。いえいえ意識の持ち方です?10万100万寄付する人もいれば10円、100円の人もいる、尊いお気持ちに変わりはありません?尊いお気持ち、というのは、その人一人一人の価値観、つまり一人一人の人間性であって、、
じゃ年金や税金も、その一人一人の尊いお気持ち、でいいのか、良くないよな。つまり我々は信用されてない、ルールを決めなきゃちゃんと出来ない不完全な存在。法律があり、警察や刑務所があるから抑止されているだけで、もしもその全てが無くなったら、、?犯罪し放題、そして多くの人は、地獄行き決定か。
だから私はこうして意識をしている。
答えは出なくとも、常に意識し、考えている。
そして健康に生きている今を、心から感謝している。
地獄に怯え、何かに委ねはしない。ただ、後悔と反省は日常茶飯事だ。
そんな中、今日も眠りにつく。滅裂尻切れ御免。
よく、精神を病んでいる人は睡眠薬を飲んで長時間眠ろうとする。
この世の概念で言う“現実逃避”、しかし理解出来るところもある。
眠りとは、“無意識”になることで、無意識になるということは、一時、全てを忘れられるから、悩みや苦しみから解放される。
普通の人でも、単純に疲れたら眠るが、そういう意味では前者は疲れまくっているのだろう(一般的に言う疲れとは違う種類だろうが)
死を考えた時に、一般的には“無”を連想する。
無とは、無意識。つまり、この世の現象でいうなら、失神や眠っている時。
ということは、死を恐れる、ということは、無意識を恐れる、ということになり、おちおち眠ることも出来なくなる。
厳密に言うなら、体は存在している訳だから、完全な“無”ではないが、
眠っている時は意識が無い訳だから、体の存在は意識していない。
ということは、やはりこの世の“生”という認識は、意識と体、その両方が揃って成立しているのだろう。
眠っている時は、体は存在しているが、意識が存在していない、なのでそのひとときだけは、体があるという意識もなく、生きているという概念も忘れている。
しかし、夢を見る時がある。それはつまり、無意識の中に、もう一つの意識があるということになる。
ここがポイントなんです。
夢は時に、この世の価値観では理解出来ない、不可解な世界を映し出す。
自分が空を飛んでいたり、意味不明なストーリーの主人公になっていたり。
これはまさに、体から離れた意識だけの世界であり、死後に近い現象と連想させられる。
なんてこというとどうしても宗教的になってしまうが、そこは誤解しないでほしい、私は宗教家ではない。
二つの考え方が生まれる。
一つ目は“希望”、もう一つは。。
確かに、この世の悩み、苦しみの多くは体が関係している。
何よりも、まず“健康”でなければ、仮にどんなにお金があっても心から楽しめない。
しかし、無意識の中の意識では、時に鳥のように大空にはばたく事も出来る。これはまさに“希望”であり、睡眠薬を使ってでも眠る価値がある。
ただ、そうなると、どうしてももう一つの考えが頭をよぎる。
この世の意識とは、基本、自らの意志で構成されるが、無意識の中の意識は、基本、自らの意志では構成されない。
この世でも、良い日があったり、悪い日があったりするように、無意識の世界でも、鳥のようにはばたく日もあれば、蛇のように地面を這いつくばる日もある。
そしてその全ては自らが培った記憶が根源となっている(基本的には)
歓迎される内容なら良いが、たまには思い出したくもない内容もあるだろう。
つまり、こういうことだ。
自分の意志で構成はされない不可抗力の世界ではあるが、その世界を作ったのは自分自身ということになる。
つまり世界を創るのは神だというなら、その世界の神は、自分自身ということだ。
こうなると、出来れば夢を自在に操りたくなるだろう、それが死後の世界だと思うのなら尚更だ。
そこで宗教家なら往々にしてこのように言う。悔い改めなさい、と。
確かに、夢を死後の世界に例えるなら、合点はいく。夢=本性、となれば、単純に心の綺麗な人が綺麗な夢を見る、となるからだ。
それはそれは皆、恐ろしくなって善行に励むだろう。いい夢を見る為に。
信じる者は救われます、なんて言われて多額のお布施もしてしまうかもしれない。なんだかんだ言って、皆、自分が可愛いから。
せっせと善行を行うのもいいが、それが死後の幸せの為ならば、結局は自身の保身のように思う、やれやれ、死後までこの資本主義の概念をもっていかねばならないのか。
それでも別に良いのだが、、もっと別次元な問題だと思いますね、真実は私にも分からないですが。
話はそれますが、前途した無意識の世界というのは、眠りに例えると然程怖くはありません。では何故死は恐れられるのか?
私の場合は、死というより、“死に方”ですね。単純に、その瞬間がどれほどの苦しみなのか、どれほどの痛みなのか。それでも一瞬ならまだ良いですが、最悪の場合、何らかの事件に巻き込まれ、じわじわ拷問されなぶり殺されることなんて想像すると足が震えてきます。
1988年に起きた、女子高生コンクリート詰め事件なんて、辛くて恐ろしくて未だに震えます。あまりの悲しさに涙が出ます。
こんなこと書いたら不謹慎ですが、せめて、いっそ一思いに逝かせてあげてほしかった。長時間にわたり拷問を受け、どれだけ苦しんだだろう。
彼女は、この記憶と共に死後を過ごしているとは到底思いたくない。そんな筈は決してない。
となると、やはり、全てはうまく帳尻が合うように出来ている、そう思う。そう信じたい。
私は宗教家ではないから、神や仏とは言わない。だが、我々の概念を超越する何かがある、それだけは確か。
私は、人より善行を積んだ訳ではない。人を傷つけたこともある。墓参りにも行ってない。神も信じてない。
宗教家なら、地獄に行くぞ、悔い改めなさい、神を信じなさい、と言うだろう。
本当に、日本人全員が“本気で”そうしたら、資本主義は崩壊する、何故なら日本人全員が全財産を寄付するから。全員が破産、つまり国が破綻。
極端な発想はやめて、“出来る範囲で”やりましょう、つまり“おすそ分け”?
私はおすそ分け研究員ではないから正確な比率は分からないが、おすそ分けとは、せいぜい良くて1割くらいではなかろうか。
つまり9割保身、1割寄付。1万円持ってる人は千円、100万円持ってる人は10万、、
ということは、9割地獄に行く。いえいえ意識の持ち方です?10万100万寄付する人もいれば10円、100円の人もいる、尊いお気持ちに変わりはありません?尊いお気持ち、というのは、その人一人一人の価値観、つまり一人一人の人間性であって、、
じゃ年金や税金も、その一人一人の尊いお気持ち、でいいのか、良くないよな。つまり我々は信用されてない、ルールを決めなきゃちゃんと出来ない不完全な存在。法律があり、警察や刑務所があるから抑止されているだけで、もしもその全てが無くなったら、、?犯罪し放題、そして多くの人は、地獄行き決定か。
だから私はこうして意識をしている。
答えは出なくとも、常に意識し、考えている。
そして健康に生きている今を、心から感謝している。
地獄に怯え、何かに委ねはしない。ただ、後悔と反省は日常茶飯事だ。
そんな中、今日も眠りにつく。滅裂尻切れ御免。
不眠症の人が、眠る為にロシアンルーレットに参加して、敢えて命の危機を味わい、そこから生還する事で、ぐっすりと眠った。
そんなファンタジーな物語をどこかで見ました。
幸せとは、やはり当たり前になっては幸せではないんだなと、つくづく再確認させられる場面ですね。
これまでも度々お伝えしてきたように、物事の全ては相対している。
くどいようで申し訳ないが、↓
人生の悲しみを知ってるから、人生の喜びも知ることが出来る。
人生の苦しみを知ってるから、人生の楽しみも知る事が出来る。
人生の不幸を知ってるから、人生の幸せも知る事が出来る。
死を身近に知ってるから、生きている事を実感出来る。
つまり、幸せを感じる為には、適度に不幸も体験せねばならないということ。
私の知り合いで、産まれた時から金持ちの家で、成人後もいまだに親に養ってもらっている人がいる。
我々のように誰にも頼れず、泥を噛みながら自力で這い上がって来た者からすれば何とも羨ましい話だが、どうやら当の本人は幸せではないようだ。
毎日、暇なんだって。なるほど、これがいわゆる平和ボケか。
君は一度、ロシアンルーレットをやったほうがいい。
うん、さぞ生きていることを実感できるぞ。
私は新宿に在住してるが、路上喫煙の注意係、路上駐輪の注意係などで、定年後のご老人をよく見かける。
老後に敢えて働く人も増えている、なるほど分かってる人たちだ。
多くは賃金の為ではない、労働後の旨い酒を飲むためだ、というのは冗談だけど、つまりはそういうこと。
日々に充実感をもたせるためだ。確かに、年金や恩給で悠々自適だとしても、毎日テレビをぼーっと眺めてるだけじゃ幸せは感じられない。
幸せとは、頑張って、苦労してこそ、得られるものなんだ。だから、幾つになっても、頑張らねばならないのだ。
そう、たとえばうれし涙。
うれし涙は苦労して手に入れた者にしか流せない。楽して手に入れたら涙も出ない。喜びもその一瞬だけですぐに流される。
うれし涙を流せる人生、我ながらなんて素敵な言い回しだ(自画自賛笑)
そんなファンタジーな物語をどこかで見ました。
幸せとは、やはり当たり前になっては幸せではないんだなと、つくづく再確認させられる場面ですね。
これまでも度々お伝えしてきたように、物事の全ては相対している。
くどいようで申し訳ないが、↓
人生の悲しみを知ってるから、人生の喜びも知ることが出来る。
人生の苦しみを知ってるから、人生の楽しみも知る事が出来る。
人生の不幸を知ってるから、人生の幸せも知る事が出来る。
死を身近に知ってるから、生きている事を実感出来る。
つまり、幸せを感じる為には、適度に不幸も体験せねばならないということ。
私の知り合いで、産まれた時から金持ちの家で、成人後もいまだに親に養ってもらっている人がいる。
我々のように誰にも頼れず、泥を噛みながら自力で這い上がって来た者からすれば何とも羨ましい話だが、どうやら当の本人は幸せではないようだ。
毎日、暇なんだって。なるほど、これがいわゆる平和ボケか。
君は一度、ロシアンルーレットをやったほうがいい。
うん、さぞ生きていることを実感できるぞ。
私は新宿に在住してるが、路上喫煙の注意係、路上駐輪の注意係などで、定年後のご老人をよく見かける。
老後に敢えて働く人も増えている、なるほど分かってる人たちだ。
多くは賃金の為ではない、労働後の旨い酒を飲むためだ、というのは冗談だけど、つまりはそういうこと。
日々に充実感をもたせるためだ。確かに、年金や恩給で悠々自適だとしても、毎日テレビをぼーっと眺めてるだけじゃ幸せは感じられない。
幸せとは、頑張って、苦労してこそ、得られるものなんだ。だから、幾つになっても、頑張らねばならないのだ。
そう、たとえばうれし涙。
うれし涙は苦労して手に入れた者にしか流せない。楽して手に入れたら涙も出ない。喜びもその一瞬だけですぐに流される。
うれし涙を流せる人生、我ながらなんて素敵な言い回しだ(自画自賛笑)
何かの物語でこんなシーンがあった。
侵略する兵士、迫害される奴隷、愉快犯のように次々に奴隷を殺す兵士。
兵士が銃を突きつけると、殆どの奴隷は怯え嘆き命乞いするが、
ある奴隷に銃を突きつけると、その奴隷は微動だにしない。
兵士「お前は死ぬことが怖くないのか?」
奴隷「ありがとうございます」
兵士「何故、有難うなのだ、死は恐ろしい筈だ」
奴隷「人間は生かされているので、死にたくても死ねないものです。だから死なせてくれてありがとうなのです」
兵士「人間は自らの意志で生きている、だから殺される事は感謝ではない筈だ、本当に怖くないのだな?」
奴隷「心から感謝致します」
兵士「なんてムカつく奴だ、本当に殺してやる!」
奴隷「ありがとうございます」
ドキューン!!
このシーンは私の遠い記憶なので、概ね自己流に再現されています。何の物語だったかは思い出せない。恐らくキリスト系なのは想像つく。
私は、まだまだ、いわゆる善人にはなれない。
許容範囲内の親切はするが、寒空の中に眠る老婆に声はかけなかった。
そんな日は、このシーンを思い出すんだ。つまり私は兵士だ。
侵略する兵士、迫害される奴隷、愉快犯のように次々に奴隷を殺す兵士。
兵士が銃を突きつけると、殆どの奴隷は怯え嘆き命乞いするが、
ある奴隷に銃を突きつけると、その奴隷は微動だにしない。
兵士「お前は死ぬことが怖くないのか?」
奴隷「ありがとうございます」
兵士「何故、有難うなのだ、死は恐ろしい筈だ」
奴隷「人間は生かされているので、死にたくても死ねないものです。だから死なせてくれてありがとうなのです」
兵士「人間は自らの意志で生きている、だから殺される事は感謝ではない筈だ、本当に怖くないのだな?」
奴隷「心から感謝致します」
兵士「なんてムカつく奴だ、本当に殺してやる!」
奴隷「ありがとうございます」
ドキューン!!
このシーンは私の遠い記憶なので、概ね自己流に再現されています。何の物語だったかは思い出せない。恐らくキリスト系なのは想像つく。
私は、まだまだ、いわゆる善人にはなれない。
許容範囲内の親切はするが、寒空の中に眠る老婆に声はかけなかった。
そんな日は、このシーンを思い出すんだ。つまり私は兵士だ。
当ビルに、ウェルカムボード復活です!
今月より、更に四谷四丁目のシンボルタワーとなるべく、遂に当ビルのメインスペースに、最大のウェルカムボードを設置しました!
当ビル発信のご当地アイドル34644projectをイメージキャラクターに起用し、「ようこそ四谷四丁目へ」という超キャッチ―なコピーでドーン!!
これからも、もっともっと四谷四丁目を活性化させます!!!
今月より、更に四谷四丁目のシンボルタワーとなるべく、遂に当ビルのメインスペースに、最大のウェルカムボードを設置しました!
当ビル発信のご当地アイドル34644projectをイメージキャラクターに起用し、「ようこそ四谷四丁目へ」という超キャッチ―なコピーでドーン!!
これからも、もっともっと四谷四丁目を活性化させます!!!
正確には、殺す(殺してあげる)ことは罰ではない。
死とは、誰もがいつか必ず経験せねばならない過程であって、それを「罰」とは何事だ。
ならば、全ての人間が、いつかは「罰」を受ける、という解釈にもなるではないか。
殺人罪が死刑だとして、
ならば不幸にも殺された人までが、「罰」を受けたというのか?
先に結論を言う。
重罪の人間に死ぬ権利は無い。ましてや殺して頂く権利など論外だ。
生涯かけて“生かされねばならない”。生きるのではない、“生かされる”のだ。“生かされねば”ならないのだ。
いきつくところは結局いつも同じで恐縮だが、やはり世の中の多くは“死なないつもりで生きてる”から、そのような発想になるのだろう。
私の母は50で死に、親友は35で死に、妹は0才で死んだ、母や親友はともかく、0才で死んだ妹は罰を受けたというのか?
ほんの短い時間で突然の死を受け入れざるをえなかった、1984年の日航機の方々、
思い出すだけでいまだに涙が出てしまう、むごい仕打ちを受け殺された1988年の女子高生、
短い人生の最後に、この世に無い恐怖を味わった、2001年の池田小の子供たち、
皆、罰を受けたとでも言うのか?
そんなわけないでしょう・・・・
又は、同じ死でも、この死とあの死は違います、とでも?
被害者の遺族の心中を思えば、胸が張り裂けんばかり、
どれだけの深い悲しみと、どれだけのやり場のない怒りに震えただろう
それでも、残された人間は、どうにか心に折り合いをつけて、生きていかねばならない
天国に迎えられた、そう思いたいだろう。そう思う(願う)しかない。
この世の概念での、早死にはただただお気の毒、つまり不幸のような言い方をされるが、
本来、この世での長い修行を全うせねば逝けない所を、短い時間で修行を終えたからこそ、神様が特別に、一足早く天国に呼んでくれたのだ、そう思いたい筈だ。
そん神聖な場所に、最も憎い犯人に、すぐに後を追わせるのか。
しかも、一瞬の苦しみで確実に逝けるようお膳立てして。まるで安楽死ではないか。
この世で余程の生き地獄を味わってる人にさえ安楽死を認めないくせに、世にも恐ろしい犯罪者に認めるなんて、、正気の沙汰でない。
皆様はどう思いますか?
例えば、死後の世界に天国と地獄があって、悪人は地獄へ行くから殺せば良い、と思いますか?
ではもしも、死後の世界が無ければどう思いますか?
仮に死後の世界があったとしても、地獄だけが無ければどう思いますか?
そんな不確定要素が満載の死後の世界に罪を託すなんて、リスク高すぎませんか?
私はこう思う。仮にあの世があるとして、天国や地獄というのは、客観的に決められるのではないと思う。たとえば閻魔様のような裁判官がいて、「はい君は地獄へ行け」ということではない気がする。
閻魔様に全てを委ねるのはおかしい。
人生は、長生きが全てではない。大切なのはどう生きたか、だ。
当然別れは悲しいが、死そのものは、その人の卒業であり、次へのステップなのだ。つまり最終的にはおめでとう、だと思う。
そういう意味では、死を、ただただ悲しく不幸なものとは思いたくない。
逆に、この世でいうところの、死刑に値する重罪人は、永遠に卒業など訪れない。訪れてはならない、という事になる。
人が、人を裁く、そのやり方でこれからも続けるならば、
折角の、その人工的システムを、もっと正しく使ってもらいたい。
“意識”
死を意識するのも“意識”
生を意識するのも“意識”
喜びを認識するのも“意識”
不幸を認識するのも“意識”
なので、“意識”は殺してはならない
何度も言うように、死、そのものより、
皆が恐れるのは“死に方”
その“死に方”(殺され方)に対して、
自己中心的に残虐な行為した、と認められた者に、罪と罰が科せられる。
珍しく、ちょっとした結論を反感覚悟で書こう
死刑の代わりに、
意識を殺さず、被害者と同じ死に方(死ぬ間際の意識・恐怖)をまず体感して頂かなくてはならない。
そして、その行為が二度と出来ないよう、それを行った箇所を切除して頂きたい。
その上で、生かして頂きたい、決して自殺など出来ぬよう、折角のシステムを駆使して頂きたい。
そこに経費がかかるなら、喜んで税金を払おう。(初めて喜んで払う気になった)
絶望と後悔と反省の日々と、死にそうで死ねない恐怖と苦しみを、命が尽きるまで全うして頂きたい。精神が狂いそうになっても、折角の最新システムを使って、決して意識だけは殺さないようにして頂きたい。出来れば、命が尽きそうになっても、1年でも長く延命して頂きたい。
つまり、閻魔様などあてにせず、この世でしっかりと生き地獄を味わって頂く。
つまりは死刑の真逆だ。
生かすのだ。
どうですか?死刑より恐ろしいでしょう?これはきっと抑止にも繋がる、二次的効果だ。
1988年、女子高生にあんなむごい殺し方をした犯人には、両手と局部を切除した上で、死なない程度に女子高生と同じ恐怖を味合わせねばならない、少なくともその遺族が生きている限り。
それなのに、今もどこかで普通に生きているだなんて。反吐がでそうだ。
抑止どころの騒ぎじゃない、未成年なら何をやっても許されると大々的に宣伝しただけだ。
死刑から論点がずれてしまったか。
我ながら矛盾だらけだが、同じくらいこの世も矛盾だらけだ。
死とは、誰もがいつか必ず経験せねばならない過程であって、それを「罰」とは何事だ。
ならば、全ての人間が、いつかは「罰」を受ける、という解釈にもなるではないか。
殺人罪が死刑だとして、
ならば不幸にも殺された人までが、「罰」を受けたというのか?
先に結論を言う。
重罪の人間に死ぬ権利は無い。ましてや殺して頂く権利など論外だ。
生涯かけて“生かされねばならない”。生きるのではない、“生かされる”のだ。“生かされねば”ならないのだ。
いきつくところは結局いつも同じで恐縮だが、やはり世の中の多くは“死なないつもりで生きてる”から、そのような発想になるのだろう。
私の母は50で死に、親友は35で死に、妹は0才で死んだ、母や親友はともかく、0才で死んだ妹は罰を受けたというのか?
ほんの短い時間で突然の死を受け入れざるをえなかった、1984年の日航機の方々、
思い出すだけでいまだに涙が出てしまう、むごい仕打ちを受け殺された1988年の女子高生、
短い人生の最後に、この世に無い恐怖を味わった、2001年の池田小の子供たち、
皆、罰を受けたとでも言うのか?
そんなわけないでしょう・・・・
又は、同じ死でも、この死とあの死は違います、とでも?
被害者の遺族の心中を思えば、胸が張り裂けんばかり、
どれだけの深い悲しみと、どれだけのやり場のない怒りに震えただろう
それでも、残された人間は、どうにか心に折り合いをつけて、生きていかねばならない
天国に迎えられた、そう思いたいだろう。そう思う(願う)しかない。
この世の概念での、早死にはただただお気の毒、つまり不幸のような言い方をされるが、
本来、この世での長い修行を全うせねば逝けない所を、短い時間で修行を終えたからこそ、神様が特別に、一足早く天国に呼んでくれたのだ、そう思いたい筈だ。
そん神聖な場所に、最も憎い犯人に、すぐに後を追わせるのか。
しかも、一瞬の苦しみで確実に逝けるようお膳立てして。まるで安楽死ではないか。
この世で余程の生き地獄を味わってる人にさえ安楽死を認めないくせに、世にも恐ろしい犯罪者に認めるなんて、、正気の沙汰でない。
皆様はどう思いますか?
例えば、死後の世界に天国と地獄があって、悪人は地獄へ行くから殺せば良い、と思いますか?
ではもしも、死後の世界が無ければどう思いますか?
仮に死後の世界があったとしても、地獄だけが無ければどう思いますか?
そんな不確定要素が満載の死後の世界に罪を託すなんて、リスク高すぎませんか?
私はこう思う。仮にあの世があるとして、天国や地獄というのは、客観的に決められるのではないと思う。たとえば閻魔様のような裁判官がいて、「はい君は地獄へ行け」ということではない気がする。
閻魔様に全てを委ねるのはおかしい。
人生は、長生きが全てではない。大切なのはどう生きたか、だ。
当然別れは悲しいが、死そのものは、その人の卒業であり、次へのステップなのだ。つまり最終的にはおめでとう、だと思う。
そういう意味では、死を、ただただ悲しく不幸なものとは思いたくない。
逆に、この世でいうところの、死刑に値する重罪人は、永遠に卒業など訪れない。訪れてはならない、という事になる。
人が、人を裁く、そのやり方でこれからも続けるならば、
折角の、その人工的システムを、もっと正しく使ってもらいたい。
“意識”
死を意識するのも“意識”
生を意識するのも“意識”
喜びを認識するのも“意識”
不幸を認識するのも“意識”
なので、“意識”は殺してはならない
何度も言うように、死、そのものより、
皆が恐れるのは“死に方”
その“死に方”(殺され方)に対して、
自己中心的に残虐な行為した、と認められた者に、罪と罰が科せられる。
珍しく、ちょっとした結論を反感覚悟で書こう
死刑の代わりに、
意識を殺さず、被害者と同じ死に方(死ぬ間際の意識・恐怖)をまず体感して頂かなくてはならない。
そして、その行為が二度と出来ないよう、それを行った箇所を切除して頂きたい。
その上で、生かして頂きたい、決して自殺など出来ぬよう、折角のシステムを駆使して頂きたい。
そこに経費がかかるなら、喜んで税金を払おう。(初めて喜んで払う気になった)
絶望と後悔と反省の日々と、死にそうで死ねない恐怖と苦しみを、命が尽きるまで全うして頂きたい。精神が狂いそうになっても、折角の最新システムを使って、決して意識だけは殺さないようにして頂きたい。出来れば、命が尽きそうになっても、1年でも長く延命して頂きたい。
つまり、閻魔様などあてにせず、この世でしっかりと生き地獄を味わって頂く。
つまりは死刑の真逆だ。
生かすのだ。
どうですか?死刑より恐ろしいでしょう?これはきっと抑止にも繋がる、二次的効果だ。
1988年、女子高生にあんなむごい殺し方をした犯人には、両手と局部を切除した上で、死なない程度に女子高生と同じ恐怖を味合わせねばならない、少なくともその遺族が生きている限り。
それなのに、今もどこかで普通に生きているだなんて。反吐がでそうだ。
抑止どころの騒ぎじゃない、未成年なら何をやっても許されると大々的に宣伝しただけだ。
死刑から論点がずれてしまったか。
我ながら矛盾だらけだが、同じくらいこの世も矛盾だらけだ。
“あかしやの雨にうたれて、このまま死んでしまいたい”
曲名は分からないが、古い時代の名曲であることは間違いない
実は詩の前後を知らないので何とも言えないが、この“死んでしまいたい”とは、一見悲しみのようにとれるが、喜びの絶頂のようにもとれる
つまり何が言いたいかというと、死とは、一般的に言う所のただただ“不幸”ではないということ
時には“希望”のようにさえ思うのだ
“ああ、このまま死ねたら幸せだろうな”、こんな風に、人間は無意識にゴールを意識している
それなのに死はタブーだから、もはや“死”という言葉さえ口にする事は許されない、この世の概念では。
恐らく、誰もが死を恐れているからだと思う。怖いから、“そんな話をするな”“暗くなる”“嫌な気分になる”
誰もが必ず迎えるゴールなのに
“死んだつもりになって“とか、“死ぬ気になれば”、なんて死を比較対象として、希望を見出すこともある
“最悪、死ねばいい”とか、逃げ道にする場合もある
これだけ聞けば、不幸な考え方のようにも聞こえるが、実はそれ以上にもっと残酷なのは、
“死ぬ自由さえない”ことである
当然、自殺はいけないが、“死ぬ気になって”と、前向きに死を意識して頑張る分には良いとされる
つまりそれは、自ら命を絶てる可能性を前提としている訳だが、勿論、それでも多くの人は自ら命を絶ったりはしない。が、一応最悪の手段としてその選択肢があるからこそ、少し気分が楽になって前向きに生きられることもある
逆に例えば、もしも、貴方は(貴方だけ)絶対に永遠に死ねません、と宣告されたらどうだろう、嬉しいですか?
この世の概念で言うところのいわゆる“幸せ”な時が止まるというなら話は別ですが、もちろん時は止まらないことが前提です
となれば、すべての物事には、必ず“終わり”が来ます、歳もとります、病も発症します、すべてがどんどん劣化します。
平均寿命80を超え、100を超え、150を超え、200を超え、500を超え、、、その頃には、今の我々が想像もつかないような恐ろしい老け方をし、当然一歩も外に出られず、医療機器だけが最新で、ただただ生ける屍として生かされているかもしれませんね
私の心の友で、死ぬ自由を奪われた奴がいました
“死ぬことさえできない”と彼は動かぬ体で泣いていた
それでも彼はまだ口が動く、と歌を歌っていましたが、昨年、突然逝きました。恐らく苦しまずに。
当然死は悲しい、だってお別れですから。
でも、それは、貴方が認められたから、ようやく迎えたゴール(或いはスタート)であると私は思いたい。
悲しいけど、ほんの少しだけ羨ましい。
何故なら、これを書いている私自身、未だに死に怯えているからだ。
死に怯えず、命は決して自らでは絶たず、天命を全うするには、この“怯え”を何とかしたい
かといって、希望的観測で、無理やり前向きに考えるのは少し違う。「きっと僕は大丈夫」とか「きっと楽にうまく死ねる」とか「きっと天国に行ける」とか
そんな風に自己中心的な考え方の人が天国に行けるとは私は思わない(取り急ぎ分かりやすく“天国”という表現を使っていますが、論点はそこではありません)
まず、生と死を分けてはならないと思う。生と死はセットで“人生”なのだと。お芝居の舞台や映画と同じ、エンディングが無ければオープニングもない。マラソンだってゴールが無ければ、スタートもない。まずはそこを大前提とする。
次に、何故人は死を怯えるのか、を考える。
よく、死後の世界が話題に出るが、それを言い出すと宗教的な話になりがちなので、そこはひとまず置いといて、
とりあえず私は“死に方”が大きいと思う。
いかに“死ぬか”は、いかに“生きるか”と同等、いや、ひょっとしたらそれ以上に大切だと思うのだ。
映画も芝居も、やはりエンディングが肝心ですよね。もっと言うなら、エンディングの為に、それまでのストーリーがあると言っても過言ではない。
マラソンも、ゴールした時の充実感や幸福感、達成感があるから、苦しい思いをしてでも走り続ける訳で。
しかし、いかに死ぬか、なんて言ったら、いわゆるその瞬間の事だけ言ってるみたいで勘違いされそうだが、勿論そうではない。
私の言う“死に方”というのは、死ぬ方法の事ではない。むしろ、生きる方法なのだ。
話を戻すと、先の私の友に対し、“羨ましい”と思った。もう何が言いたいか、大よそ分かってもらえると思う。
“彼は、彼の過酷な人生を、彼なりに立派に全うしたからこそ、良い死に方が出来たのだ”
あかしやの雨にうたれて、このまま死んでしまいたい
失礼は百も承知で誰の歌かは知らないが、せつない中に、なんだか心がふっと楽になる詩だ。
※繰り返しになりますが、ここに結論はありません。ただ、考えたいのです。“意識”したいのです。出来れば、誰かと一緒に。
曲名は分からないが、古い時代の名曲であることは間違いない
実は詩の前後を知らないので何とも言えないが、この“死んでしまいたい”とは、一見悲しみのようにとれるが、喜びの絶頂のようにもとれる
つまり何が言いたいかというと、死とは、一般的に言う所のただただ“不幸”ではないということ
時には“希望”のようにさえ思うのだ
“ああ、このまま死ねたら幸せだろうな”、こんな風に、人間は無意識にゴールを意識している
それなのに死はタブーだから、もはや“死”という言葉さえ口にする事は許されない、この世の概念では。
恐らく、誰もが死を恐れているからだと思う。怖いから、“そんな話をするな”“暗くなる”“嫌な気分になる”
誰もが必ず迎えるゴールなのに
“死んだつもりになって“とか、“死ぬ気になれば”、なんて死を比較対象として、希望を見出すこともある
“最悪、死ねばいい”とか、逃げ道にする場合もある
これだけ聞けば、不幸な考え方のようにも聞こえるが、実はそれ以上にもっと残酷なのは、
“死ぬ自由さえない”ことである
当然、自殺はいけないが、“死ぬ気になって”と、前向きに死を意識して頑張る分には良いとされる
つまりそれは、自ら命を絶てる可能性を前提としている訳だが、勿論、それでも多くの人は自ら命を絶ったりはしない。が、一応最悪の手段としてその選択肢があるからこそ、少し気分が楽になって前向きに生きられることもある
逆に例えば、もしも、貴方は(貴方だけ)絶対に永遠に死ねません、と宣告されたらどうだろう、嬉しいですか?
この世の概念で言うところのいわゆる“幸せ”な時が止まるというなら話は別ですが、もちろん時は止まらないことが前提です
となれば、すべての物事には、必ず“終わり”が来ます、歳もとります、病も発症します、すべてがどんどん劣化します。
平均寿命80を超え、100を超え、150を超え、200を超え、500を超え、、、その頃には、今の我々が想像もつかないような恐ろしい老け方をし、当然一歩も外に出られず、医療機器だけが最新で、ただただ生ける屍として生かされているかもしれませんね
私の心の友で、死ぬ自由を奪われた奴がいました
“死ぬことさえできない”と彼は動かぬ体で泣いていた
それでも彼はまだ口が動く、と歌を歌っていましたが、昨年、突然逝きました。恐らく苦しまずに。
当然死は悲しい、だってお別れですから。
でも、それは、貴方が認められたから、ようやく迎えたゴール(或いはスタート)であると私は思いたい。
悲しいけど、ほんの少しだけ羨ましい。
何故なら、これを書いている私自身、未だに死に怯えているからだ。
死に怯えず、命は決して自らでは絶たず、天命を全うするには、この“怯え”を何とかしたい
かといって、希望的観測で、無理やり前向きに考えるのは少し違う。「きっと僕は大丈夫」とか「きっと楽にうまく死ねる」とか「きっと天国に行ける」とか
そんな風に自己中心的な考え方の人が天国に行けるとは私は思わない(取り急ぎ分かりやすく“天国”という表現を使っていますが、論点はそこではありません)
まず、生と死を分けてはならないと思う。生と死はセットで“人生”なのだと。お芝居の舞台や映画と同じ、エンディングが無ければオープニングもない。マラソンだってゴールが無ければ、スタートもない。まずはそこを大前提とする。
次に、何故人は死を怯えるのか、を考える。
よく、死後の世界が話題に出るが、それを言い出すと宗教的な話になりがちなので、そこはひとまず置いといて、
とりあえず私は“死に方”が大きいと思う。
いかに“死ぬか”は、いかに“生きるか”と同等、いや、ひょっとしたらそれ以上に大切だと思うのだ。
映画も芝居も、やはりエンディングが肝心ですよね。もっと言うなら、エンディングの為に、それまでのストーリーがあると言っても過言ではない。
マラソンも、ゴールした時の充実感や幸福感、達成感があるから、苦しい思いをしてでも走り続ける訳で。
しかし、いかに死ぬか、なんて言ったら、いわゆるその瞬間の事だけ言ってるみたいで勘違いされそうだが、勿論そうではない。
私の言う“死に方”というのは、死ぬ方法の事ではない。むしろ、生きる方法なのだ。
話を戻すと、先の私の友に対し、“羨ましい”と思った。もう何が言いたいか、大よそ分かってもらえると思う。
“彼は、彼の過酷な人生を、彼なりに立派に全うしたからこそ、良い死に方が出来たのだ”
あかしやの雨にうたれて、このまま死んでしまいたい
失礼は百も承知で誰の歌かは知らないが、せつない中に、なんだか心がふっと楽になる詩だ。
※繰り返しになりますが、ここに結論はありません。ただ、考えたいのです。“意識”したいのです。出来れば、誰かと一緒に。
生まれたばかりの赤ん坊は、自分の事しか考えられない。腹が減って泣き、眠くて泣き、不快で泣く。それがお仕事。
つまり、人間は究極の“自己中”からスタートする。
そして、大人になるにつれ、思いやりを覚え、譲り合いを覚え、助け合いを覚え、労わり合いを覚え、それらの為に、犠牲を覚え、妥協を覚え、我慢を覚える。そうやって徐々に“成人”となる。もはや、腹が減っても泣かない、眠くても泣かない、不快でも泣かない。そうやって強くなる。
更に今度は、弱い人に食べ物を与え、ベッドを譲り、自分は我慢をするようになる。そうやって強く優しくなっていく。
そうして年々、人間は強く優しくなってゆき、寿命を全うした時に、完全に“自己中”は消え、“人の事だけ”を考えられる“聖人”となる。(そう思いたい)
そう考えると、自殺というのは、聖人となる前に、途中退場することとなる。これは究極の自己中だろう。
どんなに辛く、悲しいことがあっても、自らの命を絶つことは、子供が腹を空かして泣くのと同じ。聖人どころか、成人にすらなっていない。そして、
もう一つ大切なことは、普段から死をきちんと意識してないから、その人にとって死が逃げ道でしかない。
死は、そんなに甘くはない。死をなめてもらっては困る。死んだら楽になる?それなら今すぐ死をお薦めするが、そうは問屋が卸さないのですよ。
そもそも、苦労対効果と同じで、“不幸”というのは、それまでの幸福と比較して生まれる訳であって、あくまでその人の“価値観”でしかない。
初めて転んだ子供はこの世の終わりのように泣き叫ぶだろう、しかし、大人達は、それを乗り越える事を知っている。そして二度目は泣かなくなる。つまりは免疫ですね。
恐らく、その人にとって、これまでに経験したこともない勢いで転んだのだろう、そしてこれまで積み重ねて来たものを全て失ったのだろう。
本来ならば、初めて転んだ子供のように、乗り越えねばならないが、またゼロからやり直すのは気が遠くなるから、ついつい投げやりな気持ちになり、全て辞めてやろう、と思う。しかし、何もしないで生きられるほど資本主義社会は甘くないから、だったら死ぬしかない、という結論になる。これじゃもはや逆ギレの開き直りです。そしてもっというなら、これは自殺ではない、社会に殺されてますよね。
自分が不幸だと思う人は、自分しか見えていない証拠。
本来は、自力で乗り越えてほしいのでこのような考え方は本意ではないが、どうしてもダメなら、これだけインターネットが普及したのだ、“世の中の不幸”で検索してみるといい、世の中には、貴方よりはるかに不幸な人がいる筈だ。それでも貴方は自分が一番不幸だと思うなら、それはやはり、貴方は自分しか見えていない証拠。つまり自分大好き人間。
“不幸”なのではなく、ただ単に自分が弱く、我慢できない“赤ちゃん“という事だ。
大人は、どんなに不運、不幸に見舞われようとも、“運も実力の内”ときちんと割り切り、それに耐え、どうにか乗り越える。それが大人だ。
なのに、それを他人のせいにしたり、世の中のせいにしたり、運のせいにしたりして、自己責任を認めず、言い訳や愚痴ばかり言って、挙句の果てに「自殺してやるー!」ってか。心配しなくても、そんな人は死ねないから。
私が敬愛していた不死鳥ハヤブサは、(知らない人は検索して下さい)我々が想像もつかない全身不随という壮絶な状況下で、しっかりと割り切り、今自分が出来る事をやろう、そうやって最後まで生き抜いた。だからこそ、ある日突然苦しまずに逝けたのだ。
死を、別世界の別物と思わない方がいい。死と生は1セットと考えたら分かりやすい。もしくは、生にとっての死だが、逆に言えば、死にとっての生だと考える。
やはり、こちらも相対的なものだと思うのだ。生きる(死ぬる)ということは死ぬ(生きる)ことであり、死ぬる(生きる)ということは生きる(死ぬる)ということ。
つまり、生も死も、同じような世界。我々は当たり前のように“生きている”と言っているが、簡単に言うと、ひょっとしたら、実はこちら側が“あの世”かもしれないということだ。
この世では、なまじっか赤ん坊からスタートするから、死はある種の“リセット”を連想させる。又は前世や輪廻などを言い出す人もいる。
どうしてこの世の概念ばかりを基準に考えるのだろう。
死ねば、必ずまた赤ん坊から生まれ変わる訳ではない。はたまた、いわゆるあの世のような異空間で、天国や地獄に行く訳でもない。
私は、ただ、“引っ越し”をするようなものだと思うのだ。
だからと言って、この世の肉体や記憶をもって引っ越しかどうかは分からない。恐らくそれは違うような気もする。ただ、ちゃんと“帳尻が合うように”うまく出来ているとだけは思うのだ。
だから、死んだからといって、辛さがチャラになるか?罪がチャラになるか?といえば、そんな訳がない。
死をただただ辛いもの、悲しいものとしか考えていないから、それを志願することで、まるで“だから救われる”とか、“許される”とか勘違いする。“天国にいける”なんて論外だ。誰でもいつかは必ず死ぬのに、それを早めたからといってだから何?だ。自ら絶ったからといってそれがどうした?だ。しいて言うなら、自殺の痛みや苦しみによく飛び込んだなぁ、とだけ思う。ただそれだけ。
自殺は、夏休みの宿題をたっぷり残したまま、登校するようなもの、つまりルール違反だ。その宿題は、きっといずれ居残りをしてでもすることになる。どっちにしても同じことなのに。
こんな事を断言してると、一部の宗教家や占い師、霊能師などから怒られそうだが。
根拠が無いのはお互い様だ。
つまり、人間は究極の“自己中”からスタートする。
そして、大人になるにつれ、思いやりを覚え、譲り合いを覚え、助け合いを覚え、労わり合いを覚え、それらの為に、犠牲を覚え、妥協を覚え、我慢を覚える。そうやって徐々に“成人”となる。もはや、腹が減っても泣かない、眠くても泣かない、不快でも泣かない。そうやって強くなる。
更に今度は、弱い人に食べ物を与え、ベッドを譲り、自分は我慢をするようになる。そうやって強く優しくなっていく。
そうして年々、人間は強く優しくなってゆき、寿命を全うした時に、完全に“自己中”は消え、“人の事だけ”を考えられる“聖人”となる。(そう思いたい)
そう考えると、自殺というのは、聖人となる前に、途中退場することとなる。これは究極の自己中だろう。
どんなに辛く、悲しいことがあっても、自らの命を絶つことは、子供が腹を空かして泣くのと同じ。聖人どころか、成人にすらなっていない。そして、
もう一つ大切なことは、普段から死をきちんと意識してないから、その人にとって死が逃げ道でしかない。
死は、そんなに甘くはない。死をなめてもらっては困る。死んだら楽になる?それなら今すぐ死をお薦めするが、そうは問屋が卸さないのですよ。
そもそも、苦労対効果と同じで、“不幸”というのは、それまでの幸福と比較して生まれる訳であって、あくまでその人の“価値観”でしかない。
初めて転んだ子供はこの世の終わりのように泣き叫ぶだろう、しかし、大人達は、それを乗り越える事を知っている。そして二度目は泣かなくなる。つまりは免疫ですね。
恐らく、その人にとって、これまでに経験したこともない勢いで転んだのだろう、そしてこれまで積み重ねて来たものを全て失ったのだろう。
本来ならば、初めて転んだ子供のように、乗り越えねばならないが、またゼロからやり直すのは気が遠くなるから、ついつい投げやりな気持ちになり、全て辞めてやろう、と思う。しかし、何もしないで生きられるほど資本主義社会は甘くないから、だったら死ぬしかない、という結論になる。これじゃもはや逆ギレの開き直りです。そしてもっというなら、これは自殺ではない、社会に殺されてますよね。
自分が不幸だと思う人は、自分しか見えていない証拠。
本来は、自力で乗り越えてほしいのでこのような考え方は本意ではないが、どうしてもダメなら、これだけインターネットが普及したのだ、“世の中の不幸”で検索してみるといい、世の中には、貴方よりはるかに不幸な人がいる筈だ。それでも貴方は自分が一番不幸だと思うなら、それはやはり、貴方は自分しか見えていない証拠。つまり自分大好き人間。
“不幸”なのではなく、ただ単に自分が弱く、我慢できない“赤ちゃん“という事だ。
大人は、どんなに不運、不幸に見舞われようとも、“運も実力の内”ときちんと割り切り、それに耐え、どうにか乗り越える。それが大人だ。
なのに、それを他人のせいにしたり、世の中のせいにしたり、運のせいにしたりして、自己責任を認めず、言い訳や愚痴ばかり言って、挙句の果てに「自殺してやるー!」ってか。心配しなくても、そんな人は死ねないから。
私が敬愛していた不死鳥ハヤブサは、(知らない人は検索して下さい)我々が想像もつかない全身不随という壮絶な状況下で、しっかりと割り切り、今自分が出来る事をやろう、そうやって最後まで生き抜いた。だからこそ、ある日突然苦しまずに逝けたのだ。
死を、別世界の別物と思わない方がいい。死と生は1セットと考えたら分かりやすい。もしくは、生にとっての死だが、逆に言えば、死にとっての生だと考える。
やはり、こちらも相対的なものだと思うのだ。生きる(死ぬる)ということは死ぬ(生きる)ことであり、死ぬる(生きる)ということは生きる(死ぬる)ということ。
つまり、生も死も、同じような世界。我々は当たり前のように“生きている”と言っているが、簡単に言うと、ひょっとしたら、実はこちら側が“あの世”かもしれないということだ。
この世では、なまじっか赤ん坊からスタートするから、死はある種の“リセット”を連想させる。又は前世や輪廻などを言い出す人もいる。
どうしてこの世の概念ばかりを基準に考えるのだろう。
死ねば、必ずまた赤ん坊から生まれ変わる訳ではない。はたまた、いわゆるあの世のような異空間で、天国や地獄に行く訳でもない。
私は、ただ、“引っ越し”をするようなものだと思うのだ。
だからと言って、この世の肉体や記憶をもって引っ越しかどうかは分からない。恐らくそれは違うような気もする。ただ、ちゃんと“帳尻が合うように”うまく出来ているとだけは思うのだ。
だから、死んだからといって、辛さがチャラになるか?罪がチャラになるか?といえば、そんな訳がない。
死をただただ辛いもの、悲しいものとしか考えていないから、それを志願することで、まるで“だから救われる”とか、“許される”とか勘違いする。“天国にいける”なんて論外だ。誰でもいつかは必ず死ぬのに、それを早めたからといってだから何?だ。自ら絶ったからといってそれがどうした?だ。しいて言うなら、自殺の痛みや苦しみによく飛び込んだなぁ、とだけ思う。ただそれだけ。
自殺は、夏休みの宿題をたっぷり残したまま、登校するようなもの、つまりルール違反だ。その宿題は、きっといずれ居残りをしてでもすることになる。どっちにしても同じことなのに。
こんな事を断言してると、一部の宗教家や占い師、霊能師などから怒られそうだが。
根拠が無いのはお互い様だ。