改めまして、今年度石神井南中学校PTA会長を務めます早藤と申します。
つたない私ですが何卒お力添えを宜しくお願いします
保護者の皆様、日々のPTA活動お疲れ様です。
今年度のPTA活動もようやく折り返しとなりました。残りの半分も、何卒ご理解ご協力の程宜しくお願い申し上げます。
この場をお借りして、僭越ながら私の活動報告と、様々な課題に対する思いを記させて頂きます。
今年度PTAでは、昨年の3.11レベルの万一の震災に備え、現在、生徒と教職員の最低限の食料備蓄を計画しております。
現在備蓄されております中には生徒分は含まれておらず、万一の食料確保が懸念されておりました。
それを踏まえ、他校では既に準備されているPTAもあり、情報を交換しながら当PTAでも着手した次第です。何卒ご協力の程宜しくお願いします。
中P連の方では、現在小P連と連携して、練馬区からの緊急時における一斉配信メールのシステム導入を要望しております。早ければ来年度から導入される見通しです。
しかしながら、3.11レベルの大災害の場合は携帯も機能しませんし、メールもアテには出来ません。
そんな時に、唯一機能していたのはインターネットです。
3.11の際にはフェイスブック等が活躍したと聞きますが、私としては折角ある学校のホームページをもっと活用すべきと考えます。
ホームページは、副校長先生が、小まめに最新情報をアップしてくれています。
3.11レベルの場合、電話もメールも機能しない中でも、まずはホームページを見るという癖をつけることで、子供は無事か?果たして子供を残すのか?それとも帰すのか?そのような保護者にとって一番気になる情報をいち早く得られると思います。
身近なところでは、例えば天気が微妙な時に果たして運動会が決行か中止か等、小まめにホームページをチェックし活用することでホームページからの情報への信頼感も培えると思います。
いじめ問題についてですが、昨今の連続する中学生の自殺に、私も一人の親として胸が張り裂けん思いと、深い憤りを感じます。
“いじめる側”“いじめられる側”そしてそれを“ただ見てる側”
この三者の中で、私は幼少時代に“いじめられる側”と“ただ見てる側”の二者を体験したことがあります。
大変個人的な話で恐縮ですが、幼少時代、私の家は母子家庭で貧しく、家に風呂が無い事で“貧乏”などという卑劣なあだ名をつけられ辛い思いをしました。
その後引っ越しを期に私の状況は変わったのですが、今度は別の子が、同じように“貧乏”などとあだ名を付けられ苦しんでいたのです。
しかし、私は助ける事が出来なかった。
その時の私は“ただ見てるだけ”でした。
本来なら、私がその子の痛みを一番分かってあげられる筈なのに。
私は、何十年経っても未だに後悔し、その当時の自分を心から恥じております。私にとってはいじめられた事以上に心の傷となったのです。
私は、記憶が蘇る度に、心の中で
「ふざけんじゃねえ!」
大声で叫びます。
子供の小さなキャパシティの中でこの世の全てともいえる“学校”
40年生きてきて、確実に言えることは、決してそこが“全て”ではないということ。
だから、たとえまたいじめられる側になったとしても、リーダー格にぶん殴られたとしても
私は私を貫くべきだった
私は自分で自分の誇りを踏みにじったのです
人間には必ず良心がある
いじめる側いじめられる側だけでなく、ただ見てるだけの側にも深い傷を残す事を子供達に伝えたいです
この場を借りて子供達へ
長い長い人生にとって、学校は全てじゃない、どうせあっという間に過ぎる通過点なのだから、ならば、勇気を持とう!!
自分の心に、聞いてみて
実はうしろめたい自分はいないかい?
本当は、頭では分かっているのに、出来ていないことはないかい?
誰にも言えない、真実(ホントウ)のこと
自分にしか分からない、本当の自分に
一人の時に、聞いてみて
本当にすべきことは?そしてもしそれが出来ないのならばその理由は?
実は臆病な自分がいないかい?
一度、臆病を自分で受け入れてしまったら、ずっとずっとそれを背負わねばならない
「私は臆病者なのだと」
人にはそうじゃないフリが出来ても、自分自信は決してごまかせない
きっと無防備な時に出てくるよ、眠っている時とかにね
「実は、私は臆病者だ・・」
自分が自分にそう言うんだ、夢の中でね
自分で自分をごまかすような生き方は、必ず一生しこりとなって残るから
自分に恥じない生き方を
そこが“全て”ではないのだから