申し立て理由
1「母、一度目の結婚(申し立て人の出生)」
申し立て人は、昭和46年10月29日に、父・中川明憲、母・李福姫との間に長男として出生しました。
続いて、昭和49年1月26日に長女・幸子が出生しましたが、同年4月10日に死亡しました。(その後子は出生していません)
2「母、一度目の離婚(申し立て人・中川姓)」
昭和51年10月28日に、父・中川明憲と、母・李福姫は調停離婚し、申し立て人の親権は母・李福姫となりましたが、李福姫は日本国籍が無い為、申し立て人は、通称名としてそのまま「中川」の姓を名乗っておりました。
3「母、二度目の結婚(申し立て人・早藤姓)」
昭和59年11月24日に、母・李福姫が、早藤卓雄氏と再婚したことにより、申し立て人は、早藤卓雄氏の養子縁組となり、そこから「早藤」を名乗るようになりました。
4「母、二度目の離婚」
平成3年9月25日に、母・李福姫と、早藤卓雄氏は協議離婚したことにより、申し立て人は、早藤卓雄籍より除籍となりました。
5「母、三度目の再婚(申し立て人・戸籍独立)」
母・李福姫は、翌年の平成4年3月27日に安田寿一郎氏と再々婚しましたが、申し立て人は安田籍には養子として入らず、そのまま「早藤」姓を用いて、単独で戸籍を独立させる手続きを母・李福姫が行い、それ以降「早藤」を名乗って参りました。
6「母、三度目の離婚・死亡」
最終的に、母・李福姫は平成10年10月1日に安田寿一郎氏と協議離婚し、同年11月9日に自殺により死亡しました。(離婚後も死亡まで通称名として「安田」姓を名乗っておりました)
7「氏の変更名について」
本来ならば縁を辿り、「李」に変更するのが筋のようにも思いますが、
①日本国籍である申し立て人は韓国籍である母・李福姫の戸籍に入る事は出来ない事
②母・李福姫は既に死亡している事
③「李」姓はあからさまな韓国姓である為、日本国籍である申し立て人にとって矛盾が発生、及び周囲に対して誤解を招く可能性が高く、社会生活において支障をきたす可能性がある事
これらの理由により、氏を母・李福姫の姓「李」ではなく、実の父親姓である「中川」に戻す許可を求めます。
8「申し立てまで経緯・申し立て人の苦悩と願い」
申し立て人は、母・李福姫がとった手続きにより、これまで「早藤」姓を名乗って参りましたが、以下の理由によりこの度氏の変更申し立てを致します。
①前途のように母・李福姫は早藤卓雄氏と離婚しており、それ以来早藤卓雄氏と申し立て人は一切の関係を絶っている為。
②全く血縁も交流も無い人物の姓を名乗る事に違和感を感じる為。
③唯一の血縁である、「中川」を名乗る事が最も筋が通っていると思うと同時に、血縁を大切にしたいと思う為。
④個人的な事情ではありますが、昭和59年から平成3年迄における早藤卓雄氏との共同生活において、申し立て人は早藤卓雄氏より性的虐待を受けており、現在も精神的苦痛を伴っています。
これまでは仕方ないものと諦め、どうにか割りきって早藤を名乗って参りましたが、「早藤」を名乗る度に忌まわしい記憶が甦ります。
そのようなトラウマをどうにか拭い去りたいという思いがあります。
⑤5項にも書きました、申し立て人の「単独で戸籍を独立させる手続き」はあくまで当時の母・李福姫が行いました。
本来は「早藤」姓を名乗る事に対して、精神的苦痛と抵抗がありましたが、当時の申し立て人は氏における手続きについて知識が無く、それしか選択肢が無いものと思い込んでいた為、やむを得ず同意する形となりました。
その後時が流れ、本来ならばその時に、実の父親の姓である「中川」に戻す選択肢もあったという事を知り、更に「氏の変更」といった手続きがある事も知りました。
これほど長い年月が経ったにもかかわらず、今更氏の変更を申し立てる事については、これまでそのような申し立てが存在することを知らず、諦めてきたからです。
もっと早く知っていれば、長い年月に渡り違和感と苦痛に苛まれて来る事は無かったと悔やまれますが、これからでも決して遅くはないと思い、この度思いきって申し立てをする決意をしました。
⑥以前、家庭裁判所のご担当者様にご相談した際、たとえ姓が「早藤」でも、それは戸籍上、かつて養子縁組した早藤卓雄氏の「早藤」とは異なる「早藤」であって、ある意味での別姓であると考えてはいかがなものか」との、大変為になる助言を頂きました。
その考え方を元に、再度「早藤」を名乗り続ける努力をしながら、改めて申し立て人にとって、氏の変更が必要なのかどうかを、様々な角度から良く考え治した結果、やはりこの度の申し立てを行う結論となりました。
その理由について、ご担当者様から頂いた助言を元とした新たな考え方を意識しながら「早藤」を名乗る生活の中で、改めて感じた(感じる事が出来た)追加理由(要因)の一つとして、「早藤という姓の珍しさ」がございます。
世間に多く溢れる名字ならともかく、「早藤」という姓が珍しい為に、「早藤」を名乗る度に、その名字が話題となり、時にはそのルーツを問われる事も多く、その度に申し立て人の複雑な経歴を、状況や相手によって、隠したり打ち明けたりと精神的に翻弄させられると共に、その度に過去の早藤卓雄氏における性的虐待の忌まわしいトラウマが嫌がおうでも甦り精神的苦痛を伴う事から、折角ご担当者から頂いた助言ではございましたが、ことに「早藤」という珍しい姓においては、意識転換が難しいとの結論となりました。
この様に、この度の氏の変更申し立ては、一時的な感情ではなく、家庭裁判所のご担当者様の助言も頂きながら、長い時間をかけ試行錯誤を繰り返し、ようやくたどり着いた結論でございます。
9「中川」姓への想い
こちらも、家庭裁判所のご担当者様にご相談させて頂いた上で、よく考えた事です。
ご担当者様より、もし氏の変更における可能性があるとすれば、実の父親姓である「中川」なら考えられる、との助言を頂いた上で、こちらについてもあらゆる角度から良く検討を行いました。
実の父親である中川氏は、申し立て人が物事つく前に離婚した事により、申し立て人の記憶には全く無く、未だに現在におけるまで全く面識もございません。
当時(早藤姓にて戸籍独立した)の申し立て人にとっては、実の父親である中川氏は、「自負と母親を捨てた悪い人」という意識が強く、それもあって「中川」姓を避けたように記憶しております。
しかし、長い年月が経ち、現在は、いつか、中川氏が生きている内に、会いたいと願うようになりました。
正直、複雑な想いは拭いきれない所もございますが、担当者様の助言もあり、改めて血縁の大切さを噛みしめておる次第です。
どんな事情にせよ、申し立て人が、中川氏の実の子である事に間違いはないと受け入れ、中川氏を信じたい意味も込めて、「中川」姓に戻したいと思いました。又、余談ではございますが、亡き母親に最後に会った際、幾度の再婚を繰り返し、最終的に一人に戻った母親の口から初めて中川氏について語られた事があったのを思い出しました。(それまではタブーのようになっていました)
それによると、「三回結婚し、三回離婚したが、今思えば、最初の中川さんが一番男らしく誠実な人だった」
「当時は在日韓国人に対する偏見も強い中、中川さんは実家から勘当されてまで私と結婚してくれた」
このような内容でした。
きっと様々な事情があって、残念ながら申し立て人は中川氏に育てては貰えませんでしたが、母親の最後の言葉を信じ、申し立て人は、中川氏を信じたいと思ったのです。
いつか、もしも中川氏に会えたら、中川一也で会いたい、と思いました。
10「証明書類」
別途同封致しました、組織図並びに申し立て人や母・李福姫の戸籍謄本(韓国籍)、各婚姻及び離婚相手の戸籍謄本等の複写をご参照の上、何卒ご審判の程宜しくお願いします。
1「母、一度目の結婚(申し立て人の出生)」
申し立て人は、昭和46年10月29日に、父・中川明憲、母・李福姫との間に長男として出生しました。
続いて、昭和49年1月26日に長女・幸子が出生しましたが、同年4月10日に死亡しました。(その後子は出生していません)
2「母、一度目の離婚(申し立て人・中川姓)」
昭和51年10月28日に、父・中川明憲と、母・李福姫は調停離婚し、申し立て人の親権は母・李福姫となりましたが、李福姫は日本国籍が無い為、申し立て人は、通称名としてそのまま「中川」の姓を名乗っておりました。
3「母、二度目の結婚(申し立て人・早藤姓)」
昭和59年11月24日に、母・李福姫が、早藤卓雄氏と再婚したことにより、申し立て人は、早藤卓雄氏の養子縁組となり、そこから「早藤」を名乗るようになりました。
4「母、二度目の離婚」
平成3年9月25日に、母・李福姫と、早藤卓雄氏は協議離婚したことにより、申し立て人は、早藤卓雄籍より除籍となりました。
5「母、三度目の再婚(申し立て人・戸籍独立)」
母・李福姫は、翌年の平成4年3月27日に安田寿一郎氏と再々婚しましたが、申し立て人は安田籍には養子として入らず、そのまま「早藤」姓を用いて、単独で戸籍を独立させる手続きを母・李福姫が行い、それ以降「早藤」を名乗って参りました。
6「母、三度目の離婚・死亡」
最終的に、母・李福姫は平成10年10月1日に安田寿一郎氏と協議離婚し、同年11月9日に自殺により死亡しました。(離婚後も死亡まで通称名として「安田」姓を名乗っておりました)
7「氏の変更名について」
本来ならば縁を辿り、「李」に変更するのが筋のようにも思いますが、
①日本国籍である申し立て人は韓国籍である母・李福姫の戸籍に入る事は出来ない事
②母・李福姫は既に死亡している事
③「李」姓はあからさまな韓国姓である為、日本国籍である申し立て人にとって矛盾が発生、及び周囲に対して誤解を招く可能性が高く、社会生活において支障をきたす可能性がある事
これらの理由により、氏を母・李福姫の姓「李」ではなく、実の父親姓である「中川」に戻す許可を求めます。
8「申し立てまで経緯・申し立て人の苦悩と願い」
申し立て人は、母・李福姫がとった手続きにより、これまで「早藤」姓を名乗って参りましたが、以下の理由によりこの度氏の変更申し立てを致します。
①前途のように母・李福姫は早藤卓雄氏と離婚しており、それ以来早藤卓雄氏と申し立て人は一切の関係を絶っている為。
②全く血縁も交流も無い人物の姓を名乗る事に違和感を感じる為。
③唯一の血縁である、「中川」を名乗る事が最も筋が通っていると思うと同時に、血縁を大切にしたいと思う為。
④個人的な事情ではありますが、昭和59年から平成3年迄における早藤卓雄氏との共同生活において、申し立て人は早藤卓雄氏より性的虐待を受けており、現在も精神的苦痛を伴っています。
これまでは仕方ないものと諦め、どうにか割りきって早藤を名乗って参りましたが、「早藤」を名乗る度に忌まわしい記憶が甦ります。
そのようなトラウマをどうにか拭い去りたいという思いがあります。
⑤5項にも書きました、申し立て人の「単独で戸籍を独立させる手続き」はあくまで当時の母・李福姫が行いました。
本来は「早藤」姓を名乗る事に対して、精神的苦痛と抵抗がありましたが、当時の申し立て人は氏における手続きについて知識が無く、それしか選択肢が無いものと思い込んでいた為、やむを得ず同意する形となりました。
その後時が流れ、本来ならばその時に、実の父親の姓である「中川」に戻す選択肢もあったという事を知り、更に「氏の変更」といった手続きがある事も知りました。
これほど長い年月が経ったにもかかわらず、今更氏の変更を申し立てる事については、これまでそのような申し立てが存在することを知らず、諦めてきたからです。
もっと早く知っていれば、長い年月に渡り違和感と苦痛に苛まれて来る事は無かったと悔やまれますが、これからでも決して遅くはないと思い、この度思いきって申し立てをする決意をしました。
⑥以前、家庭裁判所のご担当者様にご相談した際、たとえ姓が「早藤」でも、それは戸籍上、かつて養子縁組した早藤卓雄氏の「早藤」とは異なる「早藤」であって、ある意味での別姓であると考えてはいかがなものか」との、大変為になる助言を頂きました。
その考え方を元に、再度「早藤」を名乗り続ける努力をしながら、改めて申し立て人にとって、氏の変更が必要なのかどうかを、様々な角度から良く考え治した結果、やはりこの度の申し立てを行う結論となりました。
その理由について、ご担当者様から頂いた助言を元とした新たな考え方を意識しながら「早藤」を名乗る生活の中で、改めて感じた(感じる事が出来た)追加理由(要因)の一つとして、「早藤という姓の珍しさ」がございます。
世間に多く溢れる名字ならともかく、「早藤」という姓が珍しい為に、「早藤」を名乗る度に、その名字が話題となり、時にはそのルーツを問われる事も多く、その度に申し立て人の複雑な経歴を、状況や相手によって、隠したり打ち明けたりと精神的に翻弄させられると共に、その度に過去の早藤卓雄氏における性的虐待の忌まわしいトラウマが嫌がおうでも甦り精神的苦痛を伴う事から、折角ご担当者から頂いた助言ではございましたが、ことに「早藤」という珍しい姓においては、意識転換が難しいとの結論となりました。
この様に、この度の氏の変更申し立ては、一時的な感情ではなく、家庭裁判所のご担当者様の助言も頂きながら、長い時間をかけ試行錯誤を繰り返し、ようやくたどり着いた結論でございます。
9「中川」姓への想い
こちらも、家庭裁判所のご担当者様にご相談させて頂いた上で、よく考えた事です。
ご担当者様より、もし氏の変更における可能性があるとすれば、実の父親姓である「中川」なら考えられる、との助言を頂いた上で、こちらについてもあらゆる角度から良く検討を行いました。
実の父親である中川氏は、申し立て人が物事つく前に離婚した事により、申し立て人の記憶には全く無く、未だに現在におけるまで全く面識もございません。
当時(早藤姓にて戸籍独立した)の申し立て人にとっては、実の父親である中川氏は、「自負と母親を捨てた悪い人」という意識が強く、それもあって「中川」姓を避けたように記憶しております。
しかし、長い年月が経ち、現在は、いつか、中川氏が生きている内に、会いたいと願うようになりました。
正直、複雑な想いは拭いきれない所もございますが、担当者様の助言もあり、改めて血縁の大切さを噛みしめておる次第です。
どんな事情にせよ、申し立て人が、中川氏の実の子である事に間違いはないと受け入れ、中川氏を信じたい意味も込めて、「中川」姓に戻したいと思いました。又、余談ではございますが、亡き母親に最後に会った際、幾度の再婚を繰り返し、最終的に一人に戻った母親の口から初めて中川氏について語られた事があったのを思い出しました。(それまではタブーのようになっていました)
それによると、「三回結婚し、三回離婚したが、今思えば、最初の中川さんが一番男らしく誠実な人だった」
「当時は在日韓国人に対する偏見も強い中、中川さんは実家から勘当されてまで私と結婚してくれた」
このような内容でした。
きっと様々な事情があって、残念ながら申し立て人は中川氏に育てては貰えませんでしたが、母親の最後の言葉を信じ、申し立て人は、中川氏を信じたいと思ったのです。
いつか、もしも中川氏に会えたら、中川一也で会いたい、と思いました。
10「証明書類」
別途同封致しました、組織図並びに申し立て人や母・李福姫の戸籍謄本(韓国籍)、各婚姻及び離婚相手の戸籍謄本等の複写をご参照の上、何卒ご審判の程宜しくお願いします。
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