続・笑う蜘蛛の糸

1969年生まれの私、
潮風太子が第2団塊世代特有の視点で書く
コッソリ系ブログです。

Sometimes, I write my blog

2023-05-01 00:33:56 | 日記
書ける時間のあるときはドンドン更新
させていきたいと思うのですが・・・

ということで
今回はYMOヲタネタです。

高橋ユキヒロが亡くなった
という記事を書いた途端
今度は「教授」こと
坂本龍一力尽くの悲報

結構ズシンと心に…
コレは時代のひと区切りなんだなと
初めて自分の小遣いで買った
レコードがシングルドーナツ盤の
このテクノポリス。
当時の価格にして600円ナリ

当時、この曲は今は無き
富士カセット(カセットテープ)の
CMソングに使われていたが
このCMに多くの人間が衝撃を受け
どれほど多くの人の「音楽観」とか
人生観まで変えてしまったことか。

♪TOKIO~TOKIO~の
ボコーダーを使った
あの有名すぎるフレーズは
当時、あまりに衝撃的すぎた。

ビートルズ以来の音楽革命が
始まった!と確信したもの。

YMOの代表曲は高橋ユキヒロ作曲の
ライディーンだと言う者が
結構多いが私、潮風太子としては
絶対的にこの「教授」作曲の
テクノポリスがテクノポップの
火つけ役的曲だと思っている。
この曲の衝撃に始まり
次のライディーンの大ヒットに
つながり細野晴臣作曲の
コズミックサーフィンを知ることに
なったワケだから。
更に衝撃的だったのは
このイエローマジックオーケストラが
世に知られるようになって間もなく
すぐさまロンドン→ニューヨークと
海外公演を敢行し、
これまた世界に衝撃を与えたこと。

当時、日本人ミュージシャンが
ヨーロッパやアメリカ
いや全世界中において
ガチウケするなんてことは
まぁありえないコトで
それこそ野茂英雄やイチローが
メジャーに行く前の我が国の野球界と
似たような状況だったのだから。

日本人が世界の音楽界を
けん引する時代が
遂にやってきた!と当時思ったのは
潮風太子少年だけじゃなかったハズ。

中でも「教授」は当時から
超スーパーヒーロー的存在で
特にキーボード小僧たちにとっては
神の領域のお方だった

キーボード小僧御用達の
キーボード専門雑誌キーボードランド
1986年2月号では1985年年間
人気キーボーディストランキングにおいて

2位の小田和正より
倍以上の票を獲得しての
ダントツ第1位。
このうちの1票に潮風太子が
あることは蛇足情報。

ちなみに1985年とはアメリカで
We Are the worldの
USAフォーアフリカ、
イギリスでも
クィーンの映画でお馴染みの
あのライヴイベントとなる
ライブエイドという
歴史的大イベントがあった年だ。
この頃の日本のキーボード関係の雑誌は
軒並み「教授」を特集していて
とにかく「教授」を記事にすれば
発行部数が確実に伸びた時代。
こうなると自分も少しでも「教授」に
近づきたいと思うようになり
レコード買ってスコア譜買って
コピーしつつ「技」を盗もうと
必死になっていたほどに
心酔していた者数知れず。

これがYMOヲタの始まりだったか。
その中の一人に私、潮風太子(^_^;)
LP新譜発売→スコア譜も発売は
当時の音楽業界においての
「王道的」販売スタイルで
「スコア譜が出て初めて一人前」
なんてプロミュージシャンの間でも
よく言われていたもの
そんなイケイケの調子なので
挙句に果てには更にマニアックな
「教授」の資料・分析本まで発売されることに。

こうして「教授」の手書きのスケッチを見ながら
「この曲はこういう風なカンジで書かれていたのか…」
などと学習していった者が
当時どれだけいたことか・・・

余談ながら
1991年12月に発売された当時
5800円だったこの本がAmazonで

「教授」死去直後にはなんと
27920円に高騰していてビックリ!
いやはやこれは「高騰必至」かと

思いきや最近では

約半値に「暴落・・・」(笑)
儲けそこなっちゃったか?
いやいや私メもうチョイ
保管しておくとします。
まさしく箪笥の肥やしですが…

閑話休題
かくしてYMOに衝撃を受けた面々が
やがて教授ヲタとなり
さんざんコピーをしまくったのち
オリジナル作品制作へと進み
のちに大勢の超人気ミュージシャンを
輩出していく流れになったのは
皆さんご存じの通り。

YMOそして「教授」が誕生していなければ
TMNも電気グルーヴも槇原敬之も
絶対に登場していなかったに違いないし

髪型ファッションにおいても
当時、皆が真似しまくった
テクノカット(今で言うツーブロ)も
登場しなきゃその後の
マッチカットやフミヤカットにも
派生しなかっただろう。
とにかくすべてが先進的だった
YMOそして「教授」。

これほど多くの民衆の
ファッションまで感化させた
ミュージシャンを知らない。

さて今の若い世代には
YMOや「教授」ってどんな風に
見えているんだろう?
チョイと興味深いところ。

さて「教授」の仕事について
もうひとつ書き残しておきたいことが。

発売された1983年当時は
郷ひろみとYMOファン以外には
それほど評価されなかった郷ひろみの

比呂魅卿の犯罪というアルバム。
坂本龍一プロデュース作品で
当時、まだ若手人気アーティスト枠だった
中島みゆきや忌野清志郎、
矢野顕子、一風堂の見岳章
(川の流れのように~を作曲)、
当時すでに大御所作曲家だった
「筒美京平」や
売れっ子作詞家だった三浦徳子に
コピーライターの糸井重里らが
歌詞や楽曲提供しているという歴史的名盤。
これも改めて教授の「偉業」の一つとして
お聴きいただきたいなと。
今改めて聴いてみたら
名曲佳曲揃い至高の一品ナリ

かくして来月で54歳になる潮風太子。

「教授」がヴォーカルの
YMOのPERSPECTIVEを
聴きながらこうして
「教授」についてブログなんぞ
生意気にも書いている

♪Everyday,I write my diary♫
♪Everyday,I go to sleep ♫

YMOそして「教授」を知って
かれこれ45年・・・

「教授」の影響を多分に受けた
大勢の中の一人として
今宵もコッソリ一筆
そして合掌。
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人生日々勉強ナリと…

2023-04-26 00:01:00 | 日記
またまたまた本当にお久しぶりです
なかなか続けての更新ができずスミマセン
桜もとっくに散って
気づけばもうゴールデンウィーク・・・
いやはや「本業」の方が
この2か月間まさしく
怒涛の展開でして(;^_^A
「改編」やら「春闘」やら
ただでさえ
慢性的人手不足にもってきて
連日無理難題絶体絶命的
大ピンチ連続のオンパレードに
必死の対応にて
殆ど記憶にナイような状況(;'∀')
それでも残業時間
100時間越えながらも
なんとか切り抜けたようで
再びストレス解消の
憂さ晴らしブログに
戦列復帰です
m(__)m
私的にはそんな状況下での
WBC侍JAPANの劇的な優勝!
いや本当に野球の魅力満載で
面白過ぎた今回のWBCでした。
WBCネタは書きたいこと満載ですが、
もう何を今更ってな有様で
ブログ書きとしてはホント
もったいないことをしてしまいました。

ただスクラップなどストックを
ソコソコ溜めるコトはできたので
別ネタのときにWBCネタを絡ませつつ
書かせていいただこうかと。
さて毎回、
WBCが終わるとたいがいWBC組は
そのシーズン「お疲れモード」で
ダメなカンジだったものの、
今回のWBC組の多くは今までとは
全く違う状況となっているなと。

これに驚くことしきり。

というか今回WBC出場選手たちは
軒並み皆バージョンアップ、
アップデートされ
「戻って」きた印象で
特にマリーンズ唯一のWBC戦士
「佐々木朗希」は
まさにその象徴で
今回のWBC参戦は、
本当にいい「キャンプ」になりました。
WBCのキャンプ1日は
ロッテのキャンプ2か月分
くらいの練習効果と価値が
間違いなくあったことは
真のマリーンズファンならば
誰も疑う余地ナシなところ。
本当に朗希が侍JAPANに
選ばれて良かったですホント。

昨シーズンはWBC対策としてアメリカに
スパイ要員としてマリーンズを離れ
アメリカ視察(偵察)などを行っていた
侍JAPANピッチングコーチ吉井理人が
昨シーズン終了寸前に
マリーンズ次期監督就任という
なんともやっつけな監督交代劇に
「まぁ2023シーズンは育成の年ですな」
なんて思っていたら
いやいやどうしてどうして・・・
福浦ヘッドコーチ
村田バッティングコーチ
ジョニー黒木ピッチングコーチ
小坂1塁コーチと大塚明3塁コーチが
うまくハマっているのか
ただいまチームは絶好調!
それどころか「森」?「小川」?
「友杉」?「大下」?
誰ソレ?選手名鑑をパラパラと・・・
いやいやお恥ずかしい限り
こんなんじゃ
「にわか」マリーンズファン
って言われても反論できませんな。
ってなうれしい誤算と悲鳴ナリ。

相変わらず「朗希」の記事以外は
毎度「小ネタ」扱いの
我が愛読紙「日刊スポーツ」では
ありますが
それでも気分は上々・・・
毎朝、楽しく拝読しております。
楽天TVで勝ち試合のVODを
深夜こっそり帰宅後
檸檬堂を飲みながら観る晩酌。
ストレスと疲れが癒されますホント。
久々に「ひょっとすると!」
なんて思わせてくれている
我が千葉ロッテマリーンズに
今宵も乾杯!

まぁひと段落したら
1席ごと値段が
違っていたりするように
なってしまい年寄りにはホント
訳のわからない販売方法に
なってしまったマリスタの
チケットの買い方に加え
新戦力選手と新応援歌の暗記など
改めて「勉強」し直して
マリスタへ参ろうかと思う
今日この頃の私メ。
老いてなお人生日々勉強です…
(^_^;)
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アップデートされゆく街の片隅で

2023-03-09 00:40:00 | 日記
気付けばもう3月…
しかも前回から更新が
一か月近く過ぎていたとは・・・

光陰矢の如し過ぎて
今年は花粉症の症状も
まだ発症しないほど。
コロナに感染して
治ってしまったのかと思うくらい
今のところ大丈夫でして…(謎)
一体どうなってんだか。

もはや日にちの感覚を失った
私メは
すっかり2月末で津田沼PARCOが
閉店することを忘れてました(^_^;)
いや、すでに閉店してしまった
ワケで。
津田沼PARCO噺から
今一度改めて津田沼今昔
としてジジイ風に
懐かしんでみようかと
1977年営業開始の当時
津田沼周辺の船橋市、習志野市は
急激なベッドタウン化による
爆発的人口増加により
絶対的に
大型ショッピングセンターが
必要となっていたと。

当時の地元の
メジャースーパーといえば
新京成沿線にあるリブレ京成ぐらい。
それとブルーチップ大量ゲットに
もってこいだった雑貨系スーパー
エフジーチェーンか…
(※ブルーチップ=ベルマーク風の
切手タイプのポイントチケットで
ポイントをためて商品に交換できた)

いわゆる商店街も各駅にあって
時は小売店黄金期。

国鉄津田沼駅周辺といえば
北口はずれにあった
「市場」を起点として
雑多なバラック系の商店や
早朝からパンや乾物モノを
売っている店やら当時まだ
チェーン展開を始めたばかりの
「吉野家」や「山田うどん」に
年中無休のような赤ちょうちんと
パチンコ屋がごちゃごちゃと点在。
飲み屋街のすぐ横に
進学塾があったり…
北口、南口側に
それぞれボーリング場があって
78年頃のスペースインベーダー
ゲームブームの絶頂期には
プレハブのインベーダーハウスに
連日、大勢の若者が
(後々暴走族の溜まり場となる)
溢れかえっていたもの。

北口には唯一「サンポー」が
デパートの体を成していたものの
今思えば店内は昼間でも薄暗く
例えて書くなら
秋葉原ラジオデパートのように
小規模店舗が寄せ集め的に
あった程度の印象だったが
それでもソコが当時は
トレンド発信基地的な存在という
何とも雑多な街並み。
それが当時の津田沼だった。

そんななか近隣の新京成電鉄
新津田沼駅周辺の開発が
始まると早速、
新津田沼駅前に
サンバード長﨑屋ができた。

この建物はのちに長﨑屋撤退後、
大塚家具となり
やがて大塚家具も撤退すると
今は一階は銀行とパチンコ屋
地下にゲーセンで上の階は
集合型飲み屋とまんが喫茶の
フロアがある建物となっている。

長﨑屋ができた翌年に
この津田沼PARCO&西友が
国鉄津田沼駅北口前に
そびえ立つこととなった。

このPARCO&西友の登場は
サンポーから津田沼北口における
ランドマークの座を
奪い取る結果となり
ほどなくサンポーは消滅

当時は今のA館がPARCOで
B館が西友という
2コイチ店舗の作り。
このPARCO&西友開業くらいから
国鉄津田沼駅北口の再開発も
急激に推し進められる格好となり、
マイナーな総武快速線の始発駅
程度の認識だった津田沼を
近代的な街へと変貌させていく。
やがて南口にも
ダイエーと高島屋という
北口と対比的な大型店もできた。
今のモリシアのトコ
習志野文化ホールの場所。

ちなみに当時左側がダイエーで
右側が高島屋で真ん中に
習志野文化ホールという
少しお洒落で権威的風な
建造物だったが今では
タワーマンションから
見下ろされる風の建物だ。
ちなみに当時この裏に研数学館
右側の先には以前書いた代ゼミ
という位置関係。
新津田沼駅周辺は
駅ビルにイトーヨーカ堂が入り
ここの地下食料品売場は
1980年代には
南口のダイエーの
地下食料品売場とともに
それぞれのグループで
日本一の売り上げを
互いに争っていたほど
ところが栄枯盛衰
21世紀に入った2003年
イトーヨーカ堂の反対側に
大型スーパー店舗の雄
イオンの津田沼店ができると
一気に形勢逆転
津田沼はイオンが制する
結果となりつつある。

丸井は2007年頃に撤退して
今はニーナという専門店系の
ショッピングモールとなった。

こうして書くと1980年代前後の
当時の津田沼は
渋谷のテイストを取り入れるも
蒲田と二子玉川をごっちゃに
したような少しお洒落なようで、
それでいてどこか
アンビバレンスにしてカオスな
情景の街だったかなと。

新進気鋭の都会派PARCOと
無頼派キャラ「津田沼おじさん」が
当たり前のように共存していた街…
と書けば当時のカオスさが
少しでも理解してもらえるかと。
(※津田沼おじさんとは当時、
地元では超有名だったホームレス
噂は多々あれど真偽は未だ不明)

西友のおもちゃ売場で売る
当時爆発的人気だった
ガンプラを毎週日曜日
早朝から並んで買い
(列真ん中組でも旧ザクやギャン
クラスのモノしか買えなかったが…)
一階の「チケットぴあ」に徹夜で
コンサートのチケット獲得に並び、
PARCOのポストホビーで
金メッキの弾の出ないモデルガンや
Nゲージやらラジコンキットを買い、
ガキばかりで満員の
小さな映画館で友達と
銀河鉄道999を観たあと
屋上でソフトクリームを食う。
これが我々世代の遠い記憶だ。

あの頃の屋上から観た
津田沼周辺の光景を
写真に残しておくべきだったか。
今にして思う

そうあの頃といえば、
PARCOの一階入り口には
ココ山岡という
チェーン店の宝石屋があって
朝から閉店まで女店員が
「お客様~お客様~!」と
小学生にまで声掛けしているのが
津田沼PARCOの日常の風景だった。
(ノルマが相当キツかったんだろう)
※ココ山岡の詳細については
ウキペディアをご覧ください

いつもジャージ姿だった
子供たちはいつしか
PARCOのショップで買った
ラルフローレンにレノマの
サブバックの出立ちとなり
いよいよ「本場」の渋谷へと
進軍を始め

津田沼には無いセーラーズや
TAKA-Qへと歩みを進め
(なぜかイタトマはあったが)
進学や就職を期に
東京に遊興拠点が移ると
アルマーニやシャネル
アニエスbやディオールという
「単語」を覚えるようになり
次第にローカルシティ
地元津田沼を小バカにし始めた。
いわゆる「津田沼あるある」だ。
しかしそれが大人になる
ということなのだと
理解出来るようになったのは
実はつい最近のコトだったりする。

そして、この津田沼。
見渡す限り畑だった土地は
今ではすっかり消えて
そこに新たにタワーマンションが
続々と建設され
次世代の人たちが「入植」を
始めている。
世代交代というヤツだ。
ここ最近、
マスメディアなどで今話題の
発展都市といえば西の溝の口
東の津田沼などと評され、
また新たなる変ぼうを
遂げつつある。
クラッシュ&ビルド
破壊と構築とまでは
少し言い過ぎかもしれないが、
津田沼開発の象徴的
ランドマークの終焉から
こうしてまた変わりゆく街の
アハ的変化を緩やかに
そして確実に感じ取る・・・
コレ俗にいう歳をとる
ということになるか。
PARCO津田沼店の閉店は
この先、
象徴的出来事として後世へと
記憶されていくのだろう。

かくして私メ潮風太子も
「昔ココは・・・」と言う
生き字引的長老筋への
仲間入りを果たすことに
なっちゃうのかなと。

この先ボケる前、
こうして記憶が確かなウチに
ブログに記録として
残しておこうかと思い
我が記憶のアップデート前に
コッソリ一筆。

ではまた次回にて。

コメント (3)
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寒空の朝に想ふ

2023-02-12 09:35:00 | 日記
また超多忙な日々が続くことに…

睡眠時間が毎日4時間取れれば
イイような状況では
なかなかブログを書く時間も
取れないワケでして(^_^;)

ましてこの極寒期の朝、
まだ暗いうちから家を出るのは
結構キツい。

朝6時すぎ
あ~寒い寒い!と泣き入れながら
駅へ向かうとどこかで見覚えのある
ずんぐりむっくりなオジサン。
アレ?と見ると、
すかさずそのオジサン
間髪入れず
「おはようございます(^-^)」
と潮風太子へビラ配り。
第95代内閣総理大臣
野田佳彦先生じゃないの!と。
早朝からこうして千葉4区の
各所で冬の寒空の下、
かつてのような警護もなく
丸腰でヒラ議員そのままで
ビラ配りと辻説法なんて
こんな総理経験者は歴史上、
まぁいない。

これが長年に渡り
「立憲民主には票を入れないが
野田佳彦には投票する」
という千葉4区の多くの
有権者のオバケ得票数の
理由なのだ。

こういう地べたでの
ひとつひとつの積み重ね
かれこれ30数年になるか。

方や
たいした政治活動、
選挙活動もせず
今風のネットの力で「国会議員」
になれたにも関わらず、
一度も国会に出席することなく
選挙民に地べたで語ることもなく
遠く離れたドバイでYouTubeという
政治活動に忙しい新人議員もいたり
まぁ議員もいろいろだ。

皮肉を言うワケじゃないが
野田佳彦が総理を辞めた経緯が
議員削減法案の可決に
当時は野党党首だった
安倍晋三がそれを争点に
やりましょう!と国会討論で
煽った結果、
野田が国会を解散し選挙で
民意に問うたら
自民党に敗北し首相の座を
安倍晋三に奪われたんじゃ
なかったか?

その後、
安倍晋三はネトウヨたちの
熱狂的支持を集め
不動の地位を作りあげ、
右派総理として長年に渡り
絶対王として君臨したが、
ネトウヨ連中がもっとも
忌み嫌う韓国の新興宗教団体の
手先になっていた事実が
安倍晋三「暗殺」によって改めて
明らかになると暗殺直後は
怒り狂っていたネトウヨたちも
潮が引くように離れていき
朝の右系ワイドショー番組
「虎ノ門ニュース」まで
番組を打ち切りにしてしまった。
さて議員定数削減のハナシは
どうなった?

そしてガーシー議員一人くらい
いなくてもこうして
国会が運営出来ていることが
今さらながら明らかになった。
ということは
議員の数を減らしてもよくね?
となる皮肉。
1議席減らすだけでどれだけ
血税が浮くか…
となるのだが、
そんなこと国民に
言い出されてはマズいので、
ガーシー先生を早くクビにして
現議席数の安定確保に躍起な
老政治家たちの必死なところが
笑える。
1990年代初頭、
若き野田佳彦が政治の世界
(千葉県議会議員)の舞台で
頭角を現し始めた頃、
これまた若造イカレポンチの
潮風太子は週末ごと
クラブ・キャバクラ通い。
といっても潮風太子が率先して
行っていたワケじゃなく、
この時代は大先輩方のお付きで
否応なしの強制参加。
今なら完全なパワハラ行為。

まだバブル景気の雰囲気が
残っていた当時、
どこの店もそうだったように
「人気姫」上位は
太い客の先輩上位順の接客。
枝客の末席の新人には
当然のことながらヘルプ対応(笑)
しかしこのヘルプの数こそ
大人数の太い客の証となるので、
店側も人気の姫を太客の席に
優先的に投入する。
ということは、
太客の先輩方はお気に入りの
「姫」との楽しい時間を
過ごすことができる確率がアップ↑
数こそ「力」は政治の世界と同じ。

この頃はちょうど
フィリピンパブという
新たなジャンルが
登場し始めた頃だったので
不安定な新規店よりも
日本式の既存型クラブや
キャバクラにヘルプとして
フィリピン出身のいわゆる
ジャパゆきさんが
働いていることが多かった。

言わずもがな、
正直フィリピンマニアでない
先輩方からすれば
日本人人気姫を呼ぶための
呼び水でしか彼女たちを
みていないので、
ヘルプ対応は新人の役目。

「オイ潮風!
オマエ学校出たばっかで
まだ英語話せるだろ?」
となる。
ハァ~?と言う間もなく
「コンバンワ~イタダキマス」
「あ、どぞ…」(長い時間の始まりだ)
である。

大概のヘルプのフィリピンの姫は
正直あまり喋らないことが多く
無言の時間が続くことしばしば…

ニホンゴがまだ苦手なことに加え
向かい席に鎮座する
トップの姫の鋭い視線を
常に気にしていたことは
改めて書くまでもないが、
どうしても店では
下に見られがちな
劣等意識の表れでもあったか。

あるとき、
そんな中にあって
英語で話しかけると案外饒舌に
話をするフィリピンの姫が
ヘルプについたときがあった。
タガログ語のほか英語も
話せるのが彼女たちの
ストロングポイントであり、
トップの日本人姫とはいえ、
英語を流暢に話したり
トークを理解できる姫は
まだ当時は
いないに等しかったので
英語での会話なら
「治外法権」
ということになる。

といっても潮風太子も
英会話は正直苦手。
それでも以前にも書いたが
町工場回りでイランや
バングラデシュからの
出稼ぎ職工とのカタコト会話で
なんとか仕事を必死に
こなしていたことが
こういう場面で
それなりに役に立ったが、
もっと勉強しときゃ良かった…
と本当に後悔したもの。

それからほどなく
日本各地のキャバレーや
クラブ、キャバクラなどで
トーク力を磨いた面々が
やがて自分たちの力で…と、
後々起こる
フィリピンパブブームに
多大なる尽力することとなる。
こうした彼女たちの頑張りが
フィリピンパブの礎を築き上げ
確固たる風俗界での新たな
ポジションを作り上げていく。

崔洋一監督の映画

「月はどっちに出ている」は、
そんなフィリピンパブ創草期を
見事に描いている作品で、
映画館で観た時に
「いいとこ突いてんなぁ」と
唸ったことを思い出す。

そのフィリピンで最近
日本人強盗窃盗団が
外国人収容所をアジトに仕立て、
そこから遠隔で指示を出し
犯罪を起こすという新たな
ギャングビジネスを
展開し始めたという。

現代版「からゆきさん」の
勃興かと思われたが、
調子に乗りすぎた末端の
闇バイトがヘマを打って
強盗殺人事件を起こした途端、
さすがにこれはマズいと
思ったか、
警察庁の鶴の一声の下
各都道府県の警察が
一斉にギャング狩りを
始めた。

ケイサツとて
詐欺師程度ならボチボチ
テキトーに相手していたものを
日本にギャング団は不要
とばかりに例によって
江戸時代から脈々と続く
火付け盗賊改めの如く
エゲツないやり口で
盗っ人狩りをやる。

かつての過激派、革マル派や
大手暴走族やオウム、
広域暴力団組織や
関東連合掃討を思い出す。
組織の規模がデカくなり
暴力的になってきて
やがて死者が出ると毎回こう。
こうして歴史は何度も
同じことを繰り返す。

流行りの特殊詐欺
主犯格の4人組とやらが
先日アジトである本店の
フィリピンから強制退去ののち
日本国内領海に入った途端、
窃盗容疑で逮捕された。
あくまで別件扱いでの逮捕だが
本丸は強盗殺人の共同正犯容疑だ。
かくして
フィリピンにとっては
彼らの逮捕の一件により
マルコス大統領訪日に
いい手土産ができた。
いくら日本がマルコスに
金をせびられるのか注目だ。

潮風太子としては内心
それはそれで勝手にやってくれ
という気持ちだが
問題はこのバカどものおかげで
今後は
あちこちに監視カメラが設置され
LINEはじめSNSの情報が
いとも簡単に政府の管理下に
置かれていくように確実になる。
そういう流れに順次
シフトしていくいうこと。

短期的には治安維持にとって
素晴らしい傾向ではあるが
今後はロシアや
中国を笑えなくなる
ということだろう。
常にどこかから監視される毎日。
我々現代に生きる日本人たちは
どうやら自由という権利を
履き違えて来てしまったらしい。

ただ幸いまだそこまで
殆どの人間が
気付いていないのが
不幸中の幸いとはいえ
遅かれ早かれ気付く。
しかし気づいた時には
すでに時遅しで
こんな風に自由なブログも追々
おちおち書けなくなるだろう。

かくして我が日本でも
いよいよ戦前のような
言論統制が始まることに…
ってか。

これもまたいつものパターン。
中学校の社会科の教科書から
似たような歴史の項を
学んだことを忘れたか?
図に乗るのも
程々にした方がいい。
これじゃ悔しいけど
お調子者のバカどものせいで
宮台真司教授の言った通りに
なってしまう。

こと最近
昔(バブル期頃)は良かった的な
我々世代がZ世代の
窮屈で閉塞的な
いまどきの不幸感を
小バカにしたような
地上波のテレビ番組が
やけに増えた。
何かにつけ優越感に浸りたがる
我々世代の嫌なトコを
見せられている気がするのは
皮肉屋の哀しい性分なのか
はてまた
更年期障害の始まりか…

寒空の朝に想ふ

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ユキヒロと呼べる世代の嬉しさよ

2023-01-21 00:45:54 | 日記
そういえばYMOについて
これまであまり書いていなかった。
ちと中2病風情で書いてみようかと…

YMO(イエローマジックオーケストラ)
のドラマーでありボーカルだった
高橋幸宏のことを「ユキヒロ」と
呼べる世代って
意外と狭い範囲だったとは
今まで気づかなかった。
確かに案外と活動期間の
短かったバンドだから
そうかもしれない。
ユキヒロが亡くなった・・・
享年70歳
あぁユキヒロもそんな歳だったのか。
確かに自分とて現在53歳、
今年で54歳だ。
人生で初めて
自分の小遣いで買ったレコードが
このテクノポリスのシングル盤。
かれこれ43年前のハナシ。
このレコードのライナーに
「ユキヒロ」の文字。
このときすでに
芸名をユキヒロにしていたので皆、
高橋幸宏のことを
尊敬と親しみを込めて
「ユキヒロ」と皆で
呼ぶようになったのだろう。
当時、
小学4年生の潮風太子クンも
その一人だった。

この「ユキヒロ世代」は今でいうと
50歳以上70歳未満といったところ。
それ以外の世代ではまず聞かない。
70歳以上は概ねビートルズ、
ベンチャーズ、ストーンズ世代であり
テクノを小バカにしていた連中層で、
49歳以下となるとBOØWYからの
X(あえてこう書く)、TMN、
ZIGGY以降と書けば分かり易いかと。
またこれに属さない「尾崎豊」組に
始まった近代フォーク層の
アンチテクノ派が派生した時期とも
追記しておきたい。

念のため補足で書くと潮風太子の
50歳代はYMOからのBOØWY、
ハウンドドッグ、佐野元春、
初期ユーロビート世代にあたる
とも書いておこう。
次に買ったレコードが
お年玉で購入したLPの
パブリックプレッシャー
というライヴアルバム。

連日何度も繰り返し聴き
アドリヴフレーズや
僅かなミストーンまで
完全記憶できるほど聴き倒した。
かくしてYMOをキッカケに
シンセサイザーに興味をもつと
ドイツのクラフトワーク、
冨田勲、喜多郎、
ワルターカーロスと聴きまくり
シンセサイザー音楽という
無限の魅力に取り憑かれていった
音楽小僧がどれだけいたことか。

そしてYMOの成功は
音楽テクノロジーの
急速発展にも比例し、
今で言うビンテージシンセ
巨大シンセのムーグⅢから
MIDIデジタルシンセへ
完全移行するまで
僅か数年で
飛躍的進歩発展を遂げた。
ちょうどPC-8001から
PC-9801やMacintoshへと
コンピューターの世代交代が
起きた時期に重なる。

と同時に「シンセ」の廉価化も
劇的に進みバイトを頑張れば、
61鍵盤(5オクターヴ)シンセが
高校生でも入手可能な
レベルまでになり、
どこのバンドでも
シンセキーボーダーが
いるのが当たり前となった。
キーボーダーはこの当時独特の
言い方で最近は聞かない。

ちなみに、
この頃にはもう
シンセサイザーという言葉は
死語に分類されている。
超人気お笑いコンビだった
ギャグシンセサイザー
から「とんねるず」に人気が
シフトしていった時のように。

はてさていざシンセを買ったら
当時必ず最初に
コピーする曲といえば
高橋ユキヒロ作曲のレガシー的
神曲「ライディーン」がお約束。

この曲はまさにテクノポップの
入り口に位置する曲で、
バイトしてシンセを買って
必ず最初に弾いてみる曲
それがライディーン。

その次にテクノポリス、
コズミックサーフィン、
東風の順…
そこから泥沼に嵌まるかの
如くYMOコピー地獄へと
引き込まれていくことになる。
ヤマハのFM音源デジタルシンセ
DX7が登場するまでは
アマチュアの間では
セミアナログのローランドJUNO
が再現性の高いキーボードと
されていて皆がこぞって
バイトして購入したもの。
ちなみに
潮風太子は中古で購入(笑)
また
こんなセッティングつきの
楽譜も飛ぶように売れた時代
でもあった。
こういうのを見ながら
波形や音作りの基本を
マスターしていった。
今の若い世代には到底
理解不能な世界だろう。
YMOとまったく同じ音源を
手にして再現した時の感動は
今でもハッキリと覚えている。
やがて廉価なリズムマシーン
(ドラム音符を打ち込む)が
発売されては購入し
廉価なシーケンサー
(音符を記憶させることで
複雑なフレーズでもミスなく
自動演奏してくれる補助マシーン)
まで手に入れると
完コピを目指すようになる。
とにかく手間のかかる
気長な作業だったものの
睡眠時間を削ってでも
楽しくてしょうがない!
次々と「課題」を
クリアしていくうち
すっかりYMOヲタへと
なっていくが、

もうその頃になると
すっかりテクノポップも
終焉期を迎えていて
誰もコピーバンドとして
やる者もいなくなり、
演奏を披露する場を失っていた。
なんせメンバーが集まらない(笑)
今どきテクノポップかよ…と。
気付けばヲタク系音楽などと
揶揄も始まっていた。
折しも空前のバンドブームが
迫っていた時代。

少しハナシを戻して
1983年潮風太子が中2のとき
ユキヒロのメインボーカル曲、
君に胸キュンがヒットすると、
この曲がYMOいや、
ジャパニーズポップスにとって
ひとつの決定的転換期となる。
この曲は当時賛否あったものの
今にして思えばこの曲こそ
アンチテクノ派と打ち込み派の
イデオロギー対立から
融合へと融和させていく
キッカケを作った気がする。
現在のジャパニーズポップスの基本が
ぎっしり詰まっている作品だ。

同時に、
この曲以降完全に
「テクノポップ」の制作手法が
現代の音楽づくりの
基本メソッドとなり
進化発展していっていき、
デモテープはもっぱら
シンセを使った
オーバーダビング(重ね撮り)で
作り数パターンを
カセットテープに録音して
それをバンドに持っていき
みんなで仕上げるという作業が
当たり前のようになった。

当初こそピコピコサウンドと
笑われたりしたテクノ系歌謡も
ほどなくテクノロジーの飛躍的
かつ劇的進化と先述したように
音楽的融合発展から
のちに小室サウンドが誕生し、
それをパクるいや競うかの如く
追いつけ追い越せで更なる
音楽面、技術面ともに
一連のバンドブームとも相成って
プロアマ問わず
世界の音楽シーン自体が、
爆発的進化を遂げることとなり
結果として今もこうして音楽が
進化を続けてきて現代に至る。

ちなみに
カラオケボックスの
カラオケ伴奏曲などは
まさしくテクノポップの
末裔そのもので、
歌番組でのビッグバンドの
伴奏が無くなり
MTRカラオケ伴奏へと代わった。
やがてそれが庶民のカラオケへと
フィードバックされていった。

この歴史的な流れも
テクノポップの産物のひとつだ。

YMOから
ロックやポップス、
ジャズフュージョン、
クラブミュージック系へと
テクノで育った子供たちは
それぞれに大人となり
巣立っていくことになった。

やがてそれぞれに
あちこちで華開くと、
大物アーティストが続々と現れ
幾多の名曲が生まれ
その曲たちを聴いて育った
そのまたチルドレンたちが、
追いつけ追い越せとあとに続く。
これが日本のいや世界の
音楽シーンを作っている構図
といっても過言では
ないだろう。
日本ではじめて
全世界で通用したバンド、
それがYMOであり
後にも先にも恐らくもう
YMOを越える日本人バンドは
出てこないだろう。
それ故に
一時代の音楽シーンを
日本人バンドYMOが席巻した
テクノポップ勃興期の
あの時代をリアルタイムで
見ることができたことは
本当にラッキーだった。

1993年東京ドームで行われた
いわゆるテクノドンライヴで
久々に3人がステージに上がった。
この時、
潮風太子は一階アリーナ席の
端っこの席から
ユキヒロ~!と絶叫した。
キョージュー!は何度叫んだか
記憶してない(笑)

新作テクノドンという
正直よくわかりずらい
アルバムだったことと、
まだ出来て間もない頃の
東京ドームの音響は反響音で
ズレて山びこみたいに
聞こえるわで途中まで
いまいちノリが悪かったが、
後半のBehind the Maskの
イントロが聞こえてくると
突然全体のテンションが上がり、
次の中国女でユキヒロの
歌声が響くと
そうそうコレよコレ!
とばかりに会場は一気に
ハイテンションなステージへと
変わった。
ユキヒロ~!

そしてこの時以来私メは
ユキヒロ~!と叫んでいない。
叫ぶ機会もなかったが…

この東京ドームのライヴ後、
地元のデニーズで止めどなく
久しぶりにYMOについて
真夜中まで長々と語り合った。
10年前の中学生の頃に
戻った気さえしたほどに。

ただこの半年後、
潮風太子のバンドが解散。
潮風太子こと私メは
フツーのオッサンへの道を
行くことになり今日に至る。

一緒に東京ドームの
ライヴに行った
中学時代の同級生の
メンツが面白いのだが
そのハナシは取っておこう。

そして最後に今一度叫ぼう
ユキヒロ~!
と、
そしてありがとう!

週末はSpotifyで
YMOを久しぶりに
聴きまくろう…

そして時間が出来たら
久々キーボードいじりをして
ライディーンのコピーなど
やってみようかなと。

いや、
もはや単なる年寄りの
ボケ防止の為の
リハビリそのものか(^_^;)

ユキヒロに合掌。
コメント (2)
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