知床日誌⑥
昨日の写真は羅臼の名物船頭、嶋磯松のものだ。嶋さんは長く知床の海で船に乗り2017年に亡くなった。私は嶋船長の教えを受け知床を漕いできた。昭和17年に半島先端の昆布番屋で生まれた嶋さんは
根っからの漁師であり、コンブ漁や刺し網漁に長く励んだ。冬のスケソウダラ漁が知床の基幹産業だった時代、嶋磯松の松栄丸は羅臼で一二の漁獲を上げる船だった。私はその時期に嶋さんと知り合った。
NHKの番組制作に雇われていた時のことだ。船長は私のメシを褒めることはなかったがロープの扱いなど船上での動きは褒めてくれた。そして弟子にさせられた。30年以上前のことだ。私は漁師にはならなかったが、その後知床のカヤックの漕ぎ手として生きてきた。
昨日の写真は羅臼の名物船頭、嶋磯松のものだ。嶋さんは長く知床の海で船に乗り2017年に亡くなった。私は嶋船長の教えを受け知床を漕いできた。昭和17年に半島先端の昆布番屋で生まれた嶋さんは
根っからの漁師であり、コンブ漁や刺し網漁に長く励んだ。冬のスケソウダラ漁が知床の基幹産業だった時代、嶋磯松の松栄丸は羅臼で一二の漁獲を上げる船だった。私はその時期に嶋さんと知り合った。
NHKの番組制作に雇われていた時のことだ。船長は私のメシを褒めることはなかったがロープの扱いなど船上での動きは褒めてくれた。そして弟子にさせられた。30年以上前のことだ。私は漁師にはならなかったが、その後知床のカヤックの漕ぎ手として生きてきた。
流氷に閉じ込められる知床羅臼側ではこの時期にタラコやメンタイコの原料となるタラ漁がおこなわれる。やんちゃな古株の嶋磯松は他の船のひんしゅくを買いながら漁を行って財をなした。
しかし何故か若い猟師たちに「イソチャン」と呼ばれて慕われていた。私が漕ぎだした頃は、私だけでなくツアーに参加したお客の面倒もよく見てくれた。半島一周を終えてウトロから電話するとゴミを運ぶトラックで知床峠を越えて迎えに来る。そして艇と人の上に臭いシートをかけて再び羅臼まで私たちを運んだ。嶋磯松の思い出は尽きない。迷惑だが愛すべき人だった。今も私は時々仏壇に線香を上げる。
羅臼の人たちは信心深い。知床羅臼では国境の海で大勢が亡くなっている。昭和30年代には一度で70数名が亡くなる事故が起きた。知床山脈から羅臼側に突然吹き降ろした暴風が多くの漁船をなぎ倒したのだ。
転覆せず国後島まで流された船はかろうじて助かり、港に戻ろうとした人たちは死んだ。森繁久弥の映画「地の果てに生きるもの」はこの事件を題材にしている。海難で息子が死んだ老人が、冬の番屋でネコとともに一人網を守って暮らす話だ。当時の網はマニラ麻なとの天然繊維で出来ておりネズミが食べる。そのため番屋ではネコを飼って食害を防いだ。冬の知床では孤独な老人がネコとともに暮らしていた。
「魚の城下町らうす」として漁業にプライドを持つ羅臼には今もこの「オホーツク老人」の銅像が建ち、にこやかに私たちを見守っている。
しかし何故か若い猟師たちに「イソチャン」と呼ばれて慕われていた。私が漕ぎだした頃は、私だけでなくツアーに参加したお客の面倒もよく見てくれた。半島一周を終えてウトロから電話するとゴミを運ぶトラックで知床峠を越えて迎えに来る。そして艇と人の上に臭いシートをかけて再び羅臼まで私たちを運んだ。嶋磯松の思い出は尽きない。迷惑だが愛すべき人だった。今も私は時々仏壇に線香を上げる。
羅臼の人たちは信心深い。知床羅臼では国境の海で大勢が亡くなっている。昭和30年代には一度で70数名が亡くなる事故が起きた。知床山脈から羅臼側に突然吹き降ろした暴風が多くの漁船をなぎ倒したのだ。
転覆せず国後島まで流された船はかろうじて助かり、港に戻ろうとした人たちは死んだ。森繁久弥の映画「地の果てに生きるもの」はこの事件を題材にしている。海難で息子が死んだ老人が、冬の番屋でネコとともに一人網を守って暮らす話だ。当時の網はマニラ麻なとの天然繊維で出来ておりネズミが食べる。そのため番屋ではネコを飼って食害を防いだ。冬の知床では孤独な老人がネコとともに暮らしていた。
「魚の城下町らうす」として漁業にプライドを持つ羅臼には今もこの「オホーツク老人」の銅像が建ち、にこやかに私たちを見守っている。