知床エクスペディション

これは知床の海をカヤックで漕ぐ「知床エクスペディション」の日程など詳細を載せるブログです。ガイドは新谷暁生です。

知床日誌⑯

2020-06-24 18:32:33 | 日記



知床日誌⑯

知床岬は太平洋へとつながる根室海峡とオホーツク海とを分ける岬だ。対岸の国後島はかっては日本だったが、終戦でソビエト・ロシアに占領された。島は羅臼から僅か約30キロだ。木々の色や火山の噴煙まで見える。崖まで見える日は注意しなければならない。必ず嵐が来る。ここを外国と呼ぶならこれほど近くに国境がある海は日本では他にない。しかし多くの日本人はそれを知らない。知っているつもりても住む人の心情までには思いが至らない。政治家にとってここはパフォーマンスの場でしかない。戦後、知床にはエトロフや国後からの引き揚げ者が多く住みついた。そして漁業に従事した。島は故郷だ。しかしもう返ってこないと人々は知っている。知床羅臼側では戦後長く、この海で拿捕、銃撃の危険を冒して漁業が営まれている。

知床岬はカヤックにとって危険なところだ。沖まで瀬が伸びており危険なブーマーが生まれやすい。岬が静かなことはまれだ。暗礁は時に5m以上も上下して現れ、通過にはいつも神経を使う。波があっても風が弱ければ良いが、電信柱のような不規則な波と速い潮の中で漕ぎ続けるのは恐怖だ。みんなを励ますしかない。私も怖い。口がカラカラで唾も出ない。沖を回れば良いだろうと言う人もいるが陸寄りのほうが安心だ。何かあっても必ず岸にたどり着ける。怪我はするが死ぬことはない。私はいつも岬が平穏なことを祈っている。しかし南極半島から波が押し寄せるホーン岬ではさすがに沖を漕いだ。岸に衝突する波はまるで爆発のようで高さ50mにも及ぶ。二回回ったがもう二度と行かない。

北や北東の波は危険だ。何枚もの重く高い波が重なって押し寄せる。波に向かって漕ぎ続けるしかないが、どこかで曲がらなければならない。羅臼側には漁師が「潮切り」と呼ぶ細い水路がある。ここに入ればとりあえず安全だ。しかし沖に出過ぎていると入り口を見落とす。だいぶ前に一人のカヤッカーが岬を回りそこね、国後島まで流されたことがあった。そしてロシア国境警備隊に捕まり、その後日本に送還された。出発前、彼はウトロの浜で「海を漕ぐのは自由です」と言って出て行ったという。それはそうだが生きていて良かった。、知床では漕ぎ始めて三、四年目の単独カヤッカーのトラブルが時々ある。どこを漕いでいるかわからぬまま岬を回り、ペキンノ鼻の先でようやく陸地に着いた人もいたし、中間ラインの向こうで巡視船に回収された人もいる。私は昔、知床のカヤック用水路誌を書いた。知床財団の山中さんには嫌な顔をされたが、それは海上保安庁のホームページにも使われているらしい。しかし刻々と変化する海でガイドブックは役に立たない。そもそも水路誌はガイドブックではない。知らない海で道を求めるのは自分だ。海図がなくても地図さえあれば海は漕げる。アリューシャンでもパタゴニアでも私はそうやって未知の海を漕いできた。詳細な地図は要らない。20万分の1の航空地図でも間に合う。あるだけで有難い。海図は座礁したら困る帆船や動力船のものなのだ。

カヤックは歴史ある道具だ。素材は変わったが手漕ぎは変わらない。この危なっかしい小舟は水深が20cmと浅くても進み、外洋を行くことも出来る。カヤックは現代にあっては唯一自由な乗り物かもしれない。私はその自由さに憧れて海を漕ぎ始めた。シーマンシップは普遍的な常識だ。そしてそれはカヤックにも当てはまる。知床の海でカヤックが認められるようになるには長い時間が必要だった。カヤックは場所によっては禁止されている。特に北海道では漁港の利用が条例で禁じられている。原因を作ったのはカヤッカー自身だ。海の生活者を忘れて自由を主張したことが結果的に排除された理由だ。漁港や斜路は税金で作られている。しかしそれは漁業者の生活の場所だ。そこで納税者としての権利を主張するのは間違いではないが他者への配慮もない。シーマンシップは言葉ではない。互いに尊重し合う気持ちだ。カヤッカーは漁師ではない。だから彼らの邪魔をしてはならない。へりくだってもならず馴れ馴れしくしてもならない。私はその土地の生活者を尊重して漕いできた。漕ぎ続けることだけが彼らに受け入れられる道だった。自由には代償が伴う。

新谷暁生