これにたいして、鮎貝房之は神功紀摂政四十九年「意流村」(オルノスキ)も似た音で、百済王都所在地「尉禮」と日本音としても朝鮮音と同借字とするが、州流湏祇(ツルスキ)の古い名と見るべし。朝鮮語「籬」「檻」を울(uli)といふ。「意流」は此の語に當てたるもの。襄陽郡護府、故俗名蔚山とする、と書いています。籬・檻の意味は「まがき・かこい」で、囲まれた村の意となります。また李炳銑も似た説を述べています。すなわち「<意流>と<宇流>は新羅の王邑に由来するもので、この<意流・宇流>は王邑を意味するəra-buruのəra、またはその異形態uruの表記」とします。しかし、新羅の王邑は神話伝説的な時代は不明ですが、少なくとも、実質的新羅建国と言われる奈勿尼師今元年(三五六)以降は大体金城(慶尚北道慶州市)にありました。蔚山広域市は南隣となり、ここは王邑の地ではないのです。
朝鮮地名研究者の坪井九馬三によれば、「蛇神即ち八俣ノ大虵は、新羅に阿良、阿那、烏禮、烏也、百済に慰禮、知留として崇められ」ていると言います。そのうち、「<阿良>(alā)は内地のナカラス(名烏)、八俣ノ蛇に當り、仏教経典の龍王、印度史のnaga gotraのナガのこと」と述べたあとで、慰禮城も同義だとしています。ちなみに「慰禮城」は『三国遺事』「王暦第一百済 」温祚王条に、「慰礼城に都した。あるいは虵川ともいい、今の稷山」と述べ、虵(蛇)に関係する地名だとわかります。 これらは、「蔚山=オロ山」と音の上からも意味上も同じと考えて差し支えないでしょう。こうして、「オロ(於呂)」は朝鮮半島で龍蛇神信仰に関わる地名として、広く分布していたのです。
次に、朝鮮半島と九州の間にある対馬について、平凡社版『長崎県の地名』は上対馬町浜久須(倭名抄上県郡久須郷)に、於呂岳があり、雷神に関係するといい、その西にある朝日山古墳は、五世紀前葉あるいは後葉の対馬北部最大の大型箱式石棺を持ち、初期須恵器・伽耶系陶質土器などのほか、鉄製の利器が多いことは島内に例がないといいます。また同じく対馬には、「於呂志加浦」の地名があり、「志加」は、この浦で四集落共同のイルカ漁を行うことから四箇浦と称し、鹿浦と記す例もあるという。「対馬でシカの地名は各地にあり、それは海神磯良を祀る場合が多い。オロシカ浦に神功皇后の伝説があることから、磯良を祭神とする志賀の神が祀られ、オロはオロガム(拝む)、またオロチ(大蛇)にも通じるとしますが、オロ岳が雷神すなわち龍蛇神を祀っていることから、ここもオロチの意で良いでしょう。さてもうひとつ、朝鮮半島と九州本島の間に、小呂島があります。「島名は於呂とも記され、(「続風土記附録」など)<海東諸国記>所収の日本国西海道九州之図には<於路島>とみえる。<続風土記>は大虵島と記し、<おろ><おろち>のこととし、かつて島に大蛇がいたことからこの名がついたと伝える」と『福岡県の地名』(平凡社)にあります。中世には宗像社領で、建長四年(1252)の文書に「小呂島」と載っています。
このように、朝鮮半島と九州の間にも「オロ」地名は龍蛇の意として伝承されています。
つまり「オロ」地名は龍蛇神に関わる地名として、朝鮮半島で生まれ、玄界灘に足跡を残し、九州に伝わったもので、それがさらに本州の天竜河畔に残ったのです。時代はずっとあとの江戸時代になりますが、内山真龍著『遠江国風土記伝』では、於呂神社側の赤佐の地は赤蛇の転であると述べています。
伊勢神宮の鳥名子舞の演目のひとつの舞踏歌第五段に「オロノミヤ」がでてきます。「オロノミヤノ。マヘノカワノコト。カワノナガサ。イノチモナガリトミモシタマヘ。」とあり、宮の前を大きな川が流れていることから、この川は麁玉川(天竜川)であると考えられ、それゆえ「オロノミヤ」麁玉郡式内於呂神社のことであろうと思われるのです。しかし原位置は現在とは異なっていたでしょう。おそらく、近くの椎ケ脇明神がこれだと思われます。この神は龍神=水神であり、天竜川が平野部に流れ出る首の付け根付近に鎮座しており、中世の渡し舟の地とみられる永島からもそれほど離れていないことから、古代の渡もこの近辺にあったはずで、とにかく重要な神であったことでしょう。先の『風土記伝』は式内猪家神社の後身としますが、猪家神社は長下郡の神で天竜川でももっと下流の神です。「椎」は『常陸国風土記』「行方郡」条に「夜刀の神(蛇)、池の邊の椎株に昇り集まり」、「今、椎井の池と號(なづ)く」とあって、蛇が現れるのが椎の木であったり、椎ケ脇神社(浜松市浜北区)の祭神が龍(蛇)神であるように、水神=龍蛇の依りましです。ちなみに井伊氏の祖赤佐氏の氏神であったと推測され、その一族の奥山氏は自らが建立した奥山方広寺の鎮守神に据えています。
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