奥浜名湖の歴史をちょっと考えて見た

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初生衣神社(1 )ⅱー創建と御衣祭、浜松市北区三ヶ日町

2023-02-03 12:00:00 | 郷土史
初生衣神社の御衣祭の起源を久寿三年(1156)とする由緒書がありますが、これは鵺退治で有名な源頼政が「浜名郡岡本村之内伊勢神明為初衣領五町八反黄金壱枚銭拾八貫以焉永代買取令寄附畢」という久寿二年乙亥十一月付頼政寄進状によるといいます。荒唐無稽な話です。これが真実味をもつと地元で信じる人がいるのは、『平家物語』の頼政鵺退治の「鵺」地名の存在と、浜名氏祖先とする同物語の「猪鼻早太」の存在です。前者が戦国末から織豊期にかけて贄代から替えられた地名であり、後者は「井早太」ともいわれ、引佐郡井伊谷では井伊氏とみています。「早太」の「太」は太郎のように長子を指しているものだとすれば、「早」が字でしょう。そうすると渡辺党渡辺早が思い浮かびます。彼は頼政郎党であり、この氏族の元祖は遠江国焼風里と伝承されています。焼風里がどこかはわかりませんが、ここからも源頼政との関係を推測するようになった人もあったでしょうが、すべて想像の産物です。浜名氏が伊勢神宮大宮司の子孫で浜名神戸に土着した開発領主大中臣氏の一族かあるいは郎党であったことはほぼ確かです。

 御衣調進の最も信頼できる古い記事は寛政元年(1789)『遠江国風土記伝』でしょう。「従五位下神服部(称宿祢今世云目代)世住、織作神衣(中略)有織殿、併建於斎宮」とあり、これ以前から行われていたのです。しかし、伊勢神宮の神衣祭復活は元禄十二年(1699)で、その時和妙の服部・荒妙の麻続両氏は既に存在せず、代役を禰宜などや両神社の村人が勤め、織女も絶えていなかったといいます。つまり、応仁の乱以降元禄に至るまで祭事は執行されなかったのです。
伊勢神宮の神衣祭の古式では神服織機殿・麻績機織殿のみが関わったのであり、そのために両社それぞれ封戸二十二烟が与えられていました。他方浜名神戸の神税が九月に使用されたのは神嘗祭のものでした。ただ例外は三河国のみで、古代以来神衣祭の赤引糸を奉献していたのです。両織殿が復活した際には不足分を尾張木曽川町(荒妙)・大和月ケ瀬(和妙)が補っていましたが、これに初生衣神社などは入っていません。
 
文政二年(1819)五月二十六日付伊勢大宮司三位殿雑掌より神目代家へ来状の一節に、「往古より年々荒妙去寅年迄調貢有之候」も、今年はないがどうしたものかとあり、翌年は納めた旨神中丞(神因幡弼郷)宛に神宮から返事が届いています。そして、「右文政以降明治十八年まで古例の通り調貢せしにつき皇大神宮子良館或ハ本宮祈禱所の領収書なり」とあり、「往古より寅年(文政元年)」まで荒妙調貢が行われていたと書かれています。これは明治三年九月の「神嘗祭調進物雑記」(神宮文庫所蔵一冊神祇部)にあるように、神嘗祭献納品で、しかも和妙でなく荒妙です。
 ところが、寛政元乙酉(1789)三月神因幡宛「赤引糸納入関係書類写」は三州大野よりの詫びの証文です。すなわち、去未年(天明七年<1787>)に浜名ではなく当大野の値段にて買って下さいと頼んだが断られ、以来浜名の買い上げがなく困っているので、以後一切今まで通りでよいのでお買い上げください、というものです。これは「赤引糸」、すなわち和妙調進に関するものです。これについて先の「神嘗祭調進物雑記」に「皇大糸神宮御初生糸+旨(絹)」に「右者往古ヨリ今ニ至り中絶ナク遠江岡本村神目代貢方ヨリ調進」とあり、その但し書きに「毎年十月朔日ヨリ三州大野村ニテ製スル所ノ赤曳ノ糸ヲ買取リ十一月上旬迄同目代服部殿ニ納メ置吉日ヲ撰テ抜(祓)清メ織立出来後猶同殿ニ納めメ置翌年四月十三日岡本村ヲ持出シ司中江持参司庫江納ム 九月十七日大神宮司ヨリ進納」とあります。
 ここから初生衣神社調貢の和妙・荒妙は「神嘗祭」のために調進されたものとわかります。神嘗祭と神衣祭はほぼ同時期で、一連の祭事と認識されていますが、前者は外宮・内宮両宮の祭祀で、後者は皇大神宮と別宮荒祭宮という内宮のみの祭です。つまり伊勢神宮では初生衣神社の関りは神嘗祭のへの貢進と考えていたわけです。ところが、初生衣神社「由緒」には「(前略)神武以来無断絶掌天照太神御初生衣調進職、毎年奉供四月神衣祭是也、(中略)然處仁壽元稔辛未蒙勅宣叙従五位下、稱神服部宿禰毛人女、奉仕皇朝建羽槌神依為衣服元祖取其名波登里、後久壽二年乙亥七月辞官、従山城國乙訓郡渉住遠江國濱名岡本、用神服部一字稱神目代、伊勢神明為初生衣領、賜五町八反證状御初生衣調進畢。」と明治三年の神目代貢が浜松の郡方役所提出「神社取調明細書書上写」にあるからです。『遠江国風土記伝』は神服部の浜名神戸移住を「続日本紀曰神護景雲三年(769)奉神服部於天下諸社」を引いて認めています。しかし、この記事二月乙卯条の記事は、これに続けて「(中略)毎社男神服一具、女神服一具、其太神宮及月読社者、加之以馬形幷鞍」とあり、神服部の神衣調進はそれでなくとも人手が足りない上、諸国に行くことは不可能に近いので、諸社の男女神官の衣服を作り、それを朝廷の使いが配ったということでしょう。この「由緒」が信ずるに足りないことは確かです。

 明治十八年(1885)初衣神社織殿で織り立てた和妙を愛知県豊橋市安久美神明宮(元新神戸在)へ送り、それを同社神主の手により神宮に奉献していました。これも中断し、神明社から神宮への奉献は昭和二十四年(1949)初生衣神社から神明社への奉納は昭和四十三年(1968)にそれぞれ復興しました。

 註;「初生衣神社(2)」参照
 

 


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