醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより   1088号   白井一道

2019-06-08 13:30:06 | 日記



 菊の花咲や石屋の石の間(あひ)     芭蕉 元禄六年



 この句には「八町堀にて」と前詞がある。江戸北八町堀河岸には石屋が多かった。
小学校からの帰り道に石屋があった。長方形に綺麗に削られた大谷石が所狭しに立てかけてあった。私は一度大谷石と大谷石との間に分け入り、何の気の無しに石を動かそうとしたとき、石屋の若い職人が走ってきて注意を受けた覚えがある。
私はとっさに質問した。この石は何に使うのと聞いていた。この石は石塀にするんだと若い職人は答えてくれた。私は石屋の職人に手を引かれて道路に出された。私はごめんなさいと頭を下げて石置き場から家路についた。
 そういえば石と石との間に野生の野菊が咲いていることもあったような記憶がよみがえる。芭蕉も石と石との間に咲いている野菊を見て、即興で詠んだ嘱目吟なのだろう。
 石屋の石置き場に発見した野菊に俳諧を芭蕉は発見した。これが俳諧というもの。町人の住む街の中に詩を発見する。これが俳諧だった。石屋の石置き場に詩がある。この詩が俳諧というもの。私たち庶民の生活の中に詩を発見するのが今の俳句というもの。狭苦しい台所にも農民が働く田畑にも、道路で働く人の間にもどこにも俳句になるものがあるということを芭蕉は教えてくれている。
 俳諧が町人や農民のものであるということを芭蕉は実作をもって述べている。
         



醸楽庵だより  767号  三々九度とは  白井一道

2018-06-21 11:56:16 | 日記


  三々九度とは


侘輔 ノミちゃんはもう三々九度は済んだのかい。
呑助 いや、まだなんですよ。せっつかれてはいるんですがね。
侘助 誰に。
呑助 いやー。言わなくちゃだめですか。
侘助 そういうわけでもないけどね。どうなの。
呑助 女にですよ。はっきりしてよと、逢うと言われるんですよ。
侘助 おお、ノミちゃん、隅におけないね。それも二・三人の女に言われているのかな。
呑助 いや、そんなことはないですよ。もちろん、
 二・三人ですかねと、言いたいところですが、高校の時からの女友だち一人からですよ。
侘助 長い付き合いだね。女としてもそろそろという気持ちになっているのかな。
呑助 そうかもしれませんね。
侘助 今じゃ、三々九度というと神社での婚姻の儀式の一つになっているけれども、三々九度というのは昔の酒の飲み方だったそうだよ。
呑助 へぇー、そうなんですか。どうしてまた、
侘助 昔と言っても室町時
 代の頃だそうだがね。その頃はお酒を普段に飲むことなんてできなかった。神社の祭礼、例えば千葉県の北部、このあたりでは今でもオビシャが行われているよね。
呑助 農家が中心みたいだけれど、街場でも古いお店が集まる飲み会をオビシャと言っているね。
侘助 もともとオビシャというのは年頭に弓を射ってその年の豊凶を占う神事だったそうだよ。
呑助 へぇー、そうなんですか。酒飲みと神事というのは切っても切れない関係なんですね。
侘助 神様の意向を伺い、聴いた後の直会(なおらい)が神様に捧げたお酒を下げ、頂く行事だったらしい。
呑助 人によっちゃ、飲み会のことを直会という人がいますね。
侘助 そうかい。昔は一人一人の杯というものがなかったらしい。大きな杯に並々とお酒を注ぎ、回し飲みした。参加する人の数にもよるが、おおよそ三回まわると大盃のお酒が無くなった。仲間の数多くなると大盃を二つ用意した。一つは右回り、もう一つは左回りという具合に行ったようだ。一つの大盃のお酒が無くなるまで飲むことを一献といったそうだ。この大盃に三回お酒を並々と注ぎ、飲み干すことを三々九度といったらしい。
呑助 そういうのが三々九度の始まりですか。
侘助 大盃が回ってきたら、三口お酒を飲むのが仕来りだった。
呑助 そうですか。みんな自分の番になったときはガブッと大口あけてたっぷり飲んだんだろうな。
侘助 もちろん、この時とばかりに皆、たっぷり飲んだじゃないかと思うよ。だから、酩酊する人が多かったそうだ。
呑助 当時の人にとってはオビシャのような行事の時にしかお酒は飲めなかったんですかね。
侘助 そうだと思うよ。ほとんどの人がお酒を一人で晩酌するなんていうのは日清・日露の戦争後のことのようだよ。
呑助 それはどうしてですか。
侘助 戦争に行った兵隊たちにはふんだんに酒を軍隊は飲ましたんだ。大半の兵隊は戦争で酒を覚えたんだ。

醸楽庵だより  766号  日本食について   白井一道

2018-06-20 11:45:27 | 日記


  日本食について


侘輔 「和食;日本人の伝統的な食文化」がユネスコ無形文化遺産に登録されたということは日本食が世界文化遺産として世界に認められたということだよね。そうだろ、ノミちゃん。
呑助 ワビちゃん、日本食って、凄いんだね。
侘助 日本食がこんなに世界に認められた理由は何だと思う。
呑助 それは日本食が健康に良いからなんじゃないの。世界一の長寿国だしね。そうでしょ。
侘助 日本食を世界無形文化遺産にしたもの、その
 もとになったのは日本酒造りの文化が決定的に重要な役割を果たしているんだ。
呑助 へぇー、日本食の味と日本酒とはどんな関係にあるのかねー。
侘助 日本食の味のもとになっているのは、出汁(だし)にあるんだ。この出汁を作るのは昆布と鰹節だろう。
呑助 その昆布と鰹節の出汁で作った味噌汁はうまかったな。俺が子供の頃おふくろは削り節と昆布で出汁を採っていたのを覚えているよ。粉末の味噌汁の素とは味が違って
いたように思うね。
侘助 そうだろう。昆布と鰹節で採った出汁がどうておいしいのかというと、それは昆布も鰹節も熟成したものを使っているからなんだ。熟成したものというのはカビの生えたものをいうんだ。
呑助 へぇー、カビなんだ。カビというと毒、そんな思いが強いけれどもねぇー。カビか。
侘助 そうなんだよ。カビはもともと毒だったんだ。その毒を無毒化し、旨味を作り出すカビにしたのは酒造りをしていた者たちだったんだ。酒造りはまず、蒸した米に麹菌を撒き、カビを繁茂させるでしょ。それを麹と言っているわけだけどね。そのカビが米のでんぷんをブドウ糖に変える。ブドウ糖を酵母が食べてアルコールをだす。そのアルコールが日本酒だ。
呑助 そんな技術を昔の日本人はどのようにして手に入れたのかね。
侘助 甘い水があれば、その水は酒になる可能性を持った水なんだ。その甘い水に酵母が入れば酒になる。原始の人は自然の中に酒を発見した。同じように炊いた飯米にカビが生え、その飯が甘くなることを知る。その偶然を意識的に作り出そうと試みたわけなんだ。
呑助 そりゃ、長い年月がかかったことだろうね。
侘助 もちろん、数千年かかったことだろうね。カビとはもともと毒だったんだから。その毒のカビの中から旨味を作り出すカビを作り出していったのだからね。それも経験を蓄積し、経験に経験を繰り返してカビづくりをした。
呑助 カビとはデンプンを糖に変えるものだよね。
侘助 そうだよ。そのカビが大豆のでんぷんを糖に変えると醤油や味噌になる。穀物のでんぷんを糖に変えると酒や酢になる。昆布に生えると熟成した昆布になる。魚のカツオに生えると鰹節になる。そのカビをアスペルス・オリゼというんだ。
呑助 へぇー。なんか、難しい名前だね。そのオリゼとかいうカビが日本食の味を作っているということなのかね。
侘助 そうなんだよ。アスペルス・オリゼというカビがわれわれの祖先が作り出した物なんだ。

醸楽庵だより  765号  草の戸も住替る代ぞひなの家(芭蕉)  白井一道

2018-06-19 14:39:42 | 日記


  草の戸も住替る代ぞひなの家  芭蕉


句郎 華女さん、「おくのほそ道」に出てくる最初の句「草の戸も住み替る代ぞひなの家」をどのように鑑賞するのかな。
華女 私の持っている「おくのほそ道」では著者の堀切実は「天地の流転の理法そのままに、わびしい自分の草庵も、次の人がもう代わりに住んでおり、あたかも雛祭のころなので、自分のような世捨人の住まいとは異なり、雛を飾った普通の人の家になっていることだ」。このように鑑賞しているわよ。
句郎 なるほどね。堀切実のような鑑賞に対して俳人の長谷川櫂は異論を唱えているんだ。
華女 どこに問題があるの。
句郎 だってそうだろう。芭蕉は自分の住んでいた草庵を他人に譲り、その他人の家族が移り住み、雛段を飾っているのを見て、詠んでいるという解釈だよね。そうだとすると他人がすでに住み、その部屋の中に芭蕉は入り「面(おもて)八句を庵の柱に懸置」ことをしたことになるでしよ。そんなこと実際にはしないし、できないと思わない。
華女 言われてみると、確かにそうね。それじゃ、あまりにも図々しすぎるわね。
句郎 そうでしょ。だから、この句を芭蕉が詠んだのは草庵を引き払う直前に詠んでいるということになるでしょ。芭蕉の草庵に引っ越してきた人は草庵の柱に懸けてあった八句を見たのじゃないかな。
華女 そうすると芭蕉は雛段を飾り、雛祭を祝っている家族を見ないでこの句を詠んでいるのかな。
句郎 多分、そうなんじゃないかな。
華女 そうすると、解釈というか、鑑賞はどのように変わってくるの。
句郎 芭蕉は自分が住み慣れた庵をいよいよ立ち退くときがきたと感慨にふけった。住替る代が巡ってきた。新しい主には家族があるのでやがて雛祭には雛人形が飾られ、今までの独り者のわび住まいと打って変わり華やぐことだろう。
華女 芭蕉は「ひなの家」を見ず、ただ想像しただけなの。
句郎 長谷川櫂はそう主張しているんだ。
華女 立ち退く草庵を想い、変わり行く草庵の幻影を見たという句なのね。
句郎 長谷川櫂は蕉風俳諧の特徴を実際に見たものと想像したものとの取り合わせにあると主張している。
華女 それを蕉風というの。
句郎 そのように思うけど。
華女 よく蕉風俳諧の代表的な句に「古池や蛙飛び込む水の音」があるでしょ。この句も実際のものと想像したものとの取り合わせなの。
句郎 そのように長谷川櫂は主張しているよ。
華女 それじゃ、古池に蛙が飛び込む水の音を聞いたという句じゃないの。
句郎 芭蕉は庵の中で蛙が水に飛び込む音を聞いた。その音に刺激されて芭蕉の心の中に古池のイメージが浮き上がった。このように長谷川櫂は「古池」の句を理解しているようなんだけれどね。華女さんはどう思うかな。
華女 長谷川櫂は「草の戸も」の句も「古池や」の句も句の成り立ちは同じだと主張しているわけなのね。
句郎 そうなんだよ。「おくのほそ道」の行脚に出る前に「古池」の句を芭蕉は詠んでいるんだ。

醸楽庵だより  764号  『おくのほそ道』より殺生石  白井一道

2018-06-18 16:17:53 | 日記


  殺生石


 禅の恩師仏頂和尚山居の跡を訪ねた後、芭蕉は殺生石に行く。恩師はどのようなところで禅の修業をしたのか、芭蕉は訪ねたかったに違いない。その気持ち、分かります。しかし殺生石になぜ芭蕉が行くのか、その理由が「奥の細道」を読むかぎりでは分からない。読者の想像に任せている。
 当時、東海道には観光案内書のようなものがあったが、那須野は観光案内書がでまわるような名所にはなっていない。それにもかかわらず芭蕉は旅立つ前に殺生石には行こうと決めていたに違いない。殺生石についての情報を事前に芭蕉は得ていたのだ。その情報によって芭蕉は殺生石に行きたいという気持ちになった。
 その情報とは何かというと、それが謡曲「殺生石」である。きっと能舞台を見たことがあったのであろう。この謡曲「殺生石」に芭蕉は感銘した。殺生石とはどんなところなのだろう。殺生石とはどのような石なのだろう。生き物を殺す石とは、好奇心に燃えていた。
 当時那須野は徳川の勢力範囲の辺境にあった。少し行くと白川関である。この白川関は「奥の細道」に書
いてあるように三関の一つである。この三関とは平安時代のものであるから芭蕉が生きた徳川・元禄時代にはその役割を終えていた。平安時代の役割とは蝦夷は来る勿(なか)れ、大和民族が異民族・蝦夷の侵入を防ぐために設けられたものである。勿来関(なこそせき)とは読んで字のごとく、蝦夷の侵入を防ぐ意味を表している。勿来関は太平洋岸、白川関は東北道、鼠ヶ関(念珠関)は日本海岸、それぞれ侵入のしやすい所に設置された。
坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命され、八世紀末、蝦夷との激闘をした場所の一つが那須野の原であった。そこは戦場に散った兵士たちの幽鬼が往生出来ずにさまよい出るところであった。
 那須野の原がそのような場所であったが故に生き物を殺す石は兵士たちの怨念ではないかという物語を紡ぎだした。
 十二世紀初め、鳥羽上皇の寵愛を受けた妃に氏素性のはっきりしない玉(たま)藻(も)の前がいた。眉目秀麗な玉(たま)藻(も)の
前は妬(ねた)みの対象になった。その妬みが玉藻の前の本性
を暴く。玉藻の前は金毛と九つの尾を持つ狐だと化けの皮をはがす。本性が暴かれた玉藻の前は宮廷から逃れ、那須野に逃げ延び、都人への怨念(執心)が石となった。玉藻の前が逃げ延びた所がなぜ那須野だったのかというと、そこは死んだ兵士たちの幽鬼がさまよいでるところであったからだ。怨念に苦しむこの石に玄翁和尚が念仏を唱えると殺生石は割れ、玉藻の前の怨念は消え、極楽への往生を遂げる。このような物語が謡となり、元禄時代の人々の心を癒した。
那須岳の噴火で吐き出された溶岩が固まり、硫化水素や亜硫酸ガスをだし、生き物を殺すという認識を当時は得ることができなかったので、このような物語ができた。
芭蕉は謡「殺生石」を胸に抱き、怖れながら石に近づき、怨念のもつ恐ろしさを、恨みに執心する恐ろしさを感じた。きっと芭蕉は殺生石に手を合わせ、念仏を唱え、極楽への往生を願い殺生石を拝んだことであろう。