芭蕉の酒を詠んだ句から
「鰹(かつお)売りいかなる人を酔はすらん」。貞享4年、芭蕉44歳の時に詠んだ句である。この句は酒を詠ったものではない。芭蕉は自分の詫しい生活を詠っている。
花粉症などという煩わしい病が無かった時代である。杉花粉が飛び、梅の花が咲き始めると初鰹がスーパーの店先がならぶ。芭蕉が生きた元禄時代は、桜の花が咲き始めると初鰹を天秤で一肩に担ぎ、売り歩く声が聞こえ始めた。当時、初鰹はあまりにも高価だった。一度は食べてみたいものだ。初鰹を食べて幸せな気分に浸りたいものだと、今の自分の生活を思って感じたことを芭蕉は詠んだのであろう。
「酔う」とは、幸せな気分になることだ。今時の高校生でも使う。「彼の甘い言葉にアタシ、酔っちゃった」などと年端もいかぬ女子高校生か女友だちと話しているを聞くとフンと言いたくなる。
初鰹を食べる人ってどんな人なのだろう。自分の侘びしい生活を芭蕉は詠った。
「盃の下ゆく菊や朽木盆(くつきぼん)」。延宝3年、芭蕉32歳のときに詠んだ句である。
近江の朽木地方には菊や桜の花模様をあしらったお盆がある。そのお盆の上にのせた盃に酒をなみなみにつぎ、少しこぼれる。こぼれた酒がお盆の菊模様の上を酒が走る。菊の露は不老長命の水、それは酒を意味する。お盆にこぼれた酒を芭蕉は『下ゆく菊』と表現した。
「秋をへて蝶もなめるや菊の露」貞享5年、芭蕉45歳の時の吟である。
秋を生き延び、晩秋を迎えた蝶が菊の露を吸っている。不老長命の水、菊の露を吸って蝶は生き延びようとしてにいる。健気なものだ。蝶の生命力を芭蕉は感じていた。昔から酒は不老長命の水であった。飲み過ぎなければ酒はきっと不老長命の薬に違にいない。
「草の戸や日暮れてくれし菊の酒」。元禄4年、芭蕉48歳の時の吟。
どこの家でも重陽の節句には菊の花をめで、この日は朝からお酒をいただく。芭蕉には、めでる菊の花もなければお酒もない。門人が夕暮れ近くお酒を持って来てくれた。重陽の節句は、九月九日、まだまだ日が長にい。その日が暮れて、薄暗くなってきた頃、門人と一緒に不老長生の水、菊の酒を味わった。芭蕉は自分の生活を詠っている。不老長生の薬だと言って芭蕉はきっと門人と一緒に深酒をした。酒は全都飲んでしまったに違にいない。たまに酒が手に入ると全都飲んでしまわなければ、満足しなかった。そんな生活だったにちがいない。
「朝顔は酒盛りしらぬさかりかな」貞享5年、芭蕉49歳の時の吟。
桜が咲くと人々はその花の下で酒を楽しむ。菊の花が咲くと菊人形を造り、鉢に咲かせた菊を眺めては、仲間内で賑やかに互いにほめ合って酒を楽しむ。朝顔は毎朝、少しの時問だけ咲にいてはしぼんでしまう儚い花である。朝顔の盛りに酒を楽しむことをする人はいない。
旅に生き、旅に死んだ芭蕉にとって朝の旅立ちは、その場に居合わせた人々との今生の分かれであっだ。家の角に立ち、いつまでも手を振ってくれる門人との別れた道端に朝顔が咲いてにいた。道端に咲く朝顔のように自分もまた誰からも愛でられることなく、人生の酒盛りを知ることなく、一瞬してしぼんでしまう存在なのだろう。
この句は酒を詠ったものではない。人の盛りを酒盛りに譬えて朝顔を詠った。