歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬哉 芭蕉
句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬哉」。『笈の小文』には「桑名よりくはで来ぬれば」と云(いふ)日永(ひなが)の里より、馬かりて杖つき坂(つゑつきざか)上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。」と書いて、この句を載せている。この句の後に「と物うさのあまり云出侍れ共、終に季ことばはいらず」と書いている。
華女 無季の句ね。芭蕉自身駄句だと自覚している句なのかしら。
句郎 そうなのかもしれないな。上五の「歩行(かち)ならば」と中七と下五の「杖つき坂を落馬哉」とが、繋がらないよね。
華女 上五の「歩行ならば」に補充する言葉が必要よね。そうでなくちゃ、意味が取れなくなってしまうわ。
句郎 、上五と中七、下五との間の切れの幅があるということなのかな。
華女 そうなのよ。私は歩行(かち)ならば、落馬することはなかったのに、馬に乗ったために落馬してしまったと、いうような言葉を補って初めて意味が取れると思うわ。
句郎 「歩行ならばよかったのに」ということだよね。
華女 とうとう芭蕉は季の言葉を入れることができなかったということなのよね。杖つき坂で芭蕉が句を詠みたいと思った理由は何だったのかしら。
句郎、「桑名よりくはで来ぬれば」という日永の里に刺激されたんじゃないのかな。
華女 「日永の里」とは、何なの。
句郎 「桑名よりくはで来ればほし川の朝けは過て日ながにぞ思ふ」と西行が詠んだ歌を芭蕉は思い出し、西行を慕って一句をと思ったんじゃないのかな。
華女 この歌が何を詠んでいるのか、分からないわ。
句郎 この句は駄洒落の歌のようだよ。この歌には四つの地名が詠み込まれているようだ。一、桑名二、星川、三、朝明(あさけ)、四、日永、この四つの地名だ。桑名より食わないで来れば星川の朝明(あさけ)は過ぎて日永にぞ思ふと四つの地名を詠み込んだ歌を西行は詠んだと芭蕉は思っていたようだ。
華女 西行はそんなつまらない歌を詠んだとは思えないわ。
句郎 西行の歌集『山家集』にはこのような歌は載せられていないから、本当に西行がこのような歌を詠んだのか、どうか、疑問ではあるよね。
華女 芭蕉はそのような駄洒落を楽しむ性向があったのかしら。
句郎 談林の俳諧の影響が芭蕉の句には晩年まであったようだよ。
華女 談林の俳諧というと、笑いの句を詠んだものよね。
句郎 芭蕉より二世代前位に流行した俳諧だった。談林を代表する俳人、西山宗因の句に「これやこの江戸紫の若なすび」や、「信濃路の駒は春もや木曾踊」がある。例えば芭蕉の紀行文『おくのほそ道』最後の句「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」と宗因の句とを比べてみると似ているように感じない。芭蕉の句には色濃く談林の影響があると言っていいように思うんだけどね。
華女 芭蕉の句はすべて蕉風なのかと思っていたわ。
句郎 江戸文学者の復本一郎氏に教えてもらったことなんだ。