醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  608号  歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬哉(芭蕉)  白井一道

2017-12-31 14:37:52 | 日記

 歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬哉  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬哉」。『笈の小文』には「桑名よりくはで来ぬれば」と云(いふ)日永(ひなが)の里より、馬かりて杖つき坂(つゑつきざか)上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。」と書いて、この句を載せている。この句の後に「と物うさのあまり云出侍れ共、終に季ことばはいらず」と書いている。
華女 無季の句ね。芭蕉自身駄句だと自覚している句なのかしら。
句郎 そうなのかもしれないな。上五の「歩行(かち)ならば」と中七と下五の「杖つき坂を落馬哉」とが、繋がらないよね。
華女 上五の「歩行ならば」に補充する言葉が必要よね。そうでなくちゃ、意味が取れなくなってしまうわ。
句郎 、上五と中七、下五との間の切れの幅があるということなのかな。
華女 そうなのよ。私は歩行(かち)ならば、落馬することはなかったのに、馬に乗ったために落馬してしまったと、いうような言葉を補って初めて意味が取れると思うわ。
句郎 「歩行ならばよかったのに」ということだよね。
華女 とうとう芭蕉は季の言葉を入れることができなかったということなのよね。杖つき坂で芭蕉が句を詠みたいと思った理由は何だったのかしら。
句郎、「桑名よりくはで来ぬれば」という日永の里に刺激されたんじゃないのかな。
華女 「日永の里」とは、何なの。
句郎 「桑名よりくはで来ればほし川の朝けは過て日ながにぞ思ふ」と西行が詠んだ歌を芭蕉は思い出し、西行を慕って一句をと思ったんじゃないのかな。
華女 この歌が何を詠んでいるのか、分からないわ。
句郎 この句は駄洒落の歌のようだよ。この歌には四つの地名が詠み込まれているようだ。一、桑名二、星川、三、朝明(あさけ)、四、日永、この四つの地名だ。桑名より食わないで来れば星川の朝明(あさけ)は過ぎて日永にぞ思ふと四つの地名を詠み込んだ歌を西行は詠んだと芭蕉は思っていたようだ。
華女 西行はそんなつまらない歌を詠んだとは思えないわ。
句郎 西行の歌集『山家集』にはこのような歌は載せられていないから、本当に西行がこのような歌を詠んだのか、どうか、疑問ではあるよね。
華女 芭蕉はそのような駄洒落を楽しむ性向があったのかしら。
句郎 談林の俳諧の影響が芭蕉の句には晩年まであったようだよ。
華女 談林の俳諧というと、笑いの句を詠んだものよね。
句郎 芭蕉より二世代前位に流行した俳諧だった。談林を代表する俳人、西山宗因の句に「これやこの江戸紫の若なすび」や、「信濃路の駒は春もや木曾踊」がある。例えば芭蕉の紀行文『おくのほそ道』最後の句「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」と宗因の句とを比べてみると似ているように感じない。芭蕉の句には色濃く談林の影響があると言っていいように思うんだけどね。
華女 芭蕉の句はすべて蕉風なのかと思っていたわ。
句郎 江戸文学者の復本一郎氏に教えてもらったことなんだ。

醸楽庵だより  607号  旅寝してみしやうき世の煤はらい(芭蕉)  白井一道

2017-12-30 11:26:07 | 日記

 旅寝してみしやうき世の煤はらい  芭蕉

句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「旅寝してみしやうき世の煤はらい」。「師走十日餘、名ごやを出て、旧里に入んとす」と前詞がある。
華女 前詞は『笈の小文』にある言葉なのかしら。
句郎 そう、『笈の小文』にある文章だ。
華女 この句が身に浸みると言った友だちがいたわ。彼女はキャリアウーマンなのよ。仕事一筋の女性だったわ。
句郎 、どうしてそんなに身に浸みて感じるものがこの句にあるのかな。
華女 普段は何も感じないのよ。日曜日とか、仕事のない日に感じたんじゃないの。公園で子供と一緒にいる同世代の女の人を見るといいなぁーと思うみたいよ。
句郎 浮世のすす払いをする必要のない旅に生きる俳人にとって浮世の日常生活が輝いて見えるということなのかな。
華女 年の瀬のすす払いなど嫌に決まっている仕事が旅に生きる者にとっては輝いて見えるということよね。
句郎、日曜日、公園で子供と遊ぶ主婦だって本当に楽しそうに見えても本人にとってはつまらない時間かもしれないけれどね。
華女 そうよね。家庭に閉じこもっている主婦にとって、キャリアウーマンは輝いて見えるかもしれないけれど。
句郎 人間なんて、勝手なもんだね。自分にないものに憧れるのかも。
華女 西行の「心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ」という三夕の一つだと言われている歌があるじゃない。世俗を捨て、出家した者にとっても秋の夕暮れには美しさが身に染みるということよね。
句郎 「秋の夕暮れ」は和歌の世界だけれども俳諧の世界は「すす払い」なんだろうね。
華女 芭蕉は世俗の世界の中に真実を発見したのかしらね。
句郎 西行は「あわれ」を秋の夕暮れに見たんだと思うけれど、芭蕉は世俗の日常生活の中に人間の真実を見たのかもしれないな。
華女 芭蕉は西行の歌を学び、新しい世界を開いたといえるのかもしれないわ。
句郎 芭蕉は西行から大きな影響を受けているのは確かなことのようだからね。
華女 西行の歌と芭蕉の句との間には何の関係もないように見えるけれども、深い所で結びついているようにも感じるわ。
句郎 私は芭蕉のこの句を名句だと思っているんだ。
華女 芭蕉は世俗の日常生活を発見したということなんでしょう。
句郎 山頭火の句「たれもかへる家はあるゆふべのゆきき」。この句は世俗の日常生活から落ちこぼれてしまった人間の悲哀が表現されているように思うんだ。帰る家を失った者の哀しみを詠っている。芭蕉は世俗の世界のど真ん中で落ちこぼれることなく、正々堂々と生きた。世俗の中で世俗を捨て、旅に生きる道を40歳の年から死ぬまでの10年間を過ごした。
華女 帰る家がある人の行き来の中で帰る家を持たない者の哀しみを山頭火は詠んでいるのよね。
句郎 芭蕉の旅はいつも目的を持った旅立った。しかし山頭火の旅はたんなる放浪の旅だった。芭蕉と旅人山頭火の旅は違う。でも影響は受けているんだろうな。

醸楽庵だより  606号  香を探る梅に蔵見る軒端哉(芭蕉)  白井一道

2017-12-29 11:37:55 | 日記

 香を探る梅に蔵見る軒端哉  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「香を探る梅に蔵見る軒端哉」。「ある人興行」と前詞がある。
華女 「ある人」とは、誰だったのかしら。
句郎 『笈日記』には「防川亭(ぼうせんてい)」とある。富裕な商人の屋敷だったのだろう。
華女 この句も『笈の小文』に載っている句なのかしら。
句郎 、そのようだ。『笈の小文』には「此間、美濃・大垣・岐阜のすきものとぶらひ来りて、歌仙、あるは一折など度々に及」とある。
華女 俳諧の好きな人が美濃や大垣、岐阜から集まり、歌仙や一折というと半歌仙かしら、俳諧の座を楽しんだということなのよね。
句郎 歌仙の発句が「香を探る梅に蔵見る軒端哉」だった。この句は防川亭亭主への挨拶吟だろうね。
華女 梅の香りがするわ。どこに梅の木があるのかしら。周りを見回すと蔵の軒端に梅の花が咲いているのを見つけたと、いうことよね。
句郎、立派なお蔵ですね。お屋敷には梅の花が咲き、あたり一面に梅の香が満ちている。素晴らしいお庭ですねと、詠んでいる。
華女 梅の香がよろしゅうございますねと、芭蕉は挨拶したわけね。
句郎 この句、いい句だよね。静かな庭が心にしみてくるような感じがするよ。
華女 そうよね。芭蕉は挨拶が上手だったのね。
句郎 厳しい社会の中にあって俳諧という遊びの芸に優れていたから生きることができたんだろうね。
華女 一芸に秀でると生きていけるということね。
句郎 人が集まってきたと言うことが凄いことなんじゃないのかな。なかなか人は集まって来ないからね。
華女 楽しい経験をして初めて人は集まって来るのよ。だから句会だって楽しくなければ人は集まって来ないわよ。
句郎 芭蕉は人を楽します能力に秀でていたんだろうな。嫌な経験をしたり、詰らなかったりしたら次には来なくなるだろうな。
華女 そうよ。人づてに楽しい俳諧の会だという評判が人を集めたのよね。
句郎 単なる追従のような挨拶吟じゃ、招いてくれたご主人にしても満足しなかっただろうからね。
華女 追従のない自然体で詠んでいるというところがいいんでしょうね。
句郎 梅の香を探っていくと立派な蔵に出会った。こんな風に詠むんだと勉強になる句かな。
華女 亡くなった母が金木犀の香が好きだったのよ。だから自転車に乗っていた時よ。不意に木犀の香が風に乗ってきたのよ。ぐるっと見回したら、立派な塀の中に金木犀の花が咲いていたわ。これだなと思ったわ。芭蕉のこの句を読んで、その時のことを思い出したわ。
句郎 華女さんは金木犀の香を嗅ぐとお母さんのことを思い出すんだ。
華女 中には木犀の香が嫌だという人もいるけど、私はとても好きだわ。梅の香も好きだけれど木犀に比べたらとても仄かなものよね。
句郎 木犀の香には賑やかさのようなものがあるけれども、梅の香には静かさがあるように思うね。
華女 木犀のその賑やかさに下品なものを感じる人がいるんだと思うわ。
句郎 梅の香は上品なものだからね。

醸楽庵だより  605号  箱根こす人も有らし今朝の雪(芭蕉)  白井一道 

2017-12-28 11:38:47 | 日記

  箱根こす人も有らし今朝の雪  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「箱根こす人も有らし今朝の雪」。「蓬左の人々にむかひとられて、しばらく休息する程」と前詞がある。
華女 「蓬左」とは、地域名なの?
句郎 「熱田神宮を蓬莱宮(ほうらいきゅう)といったので、その左側の地域」のことを言うようだ。
華女 この句も『笈の小文』に載っている句なのかしら。
句郎 、そのようだ。
華女 箱根は東海道の難所として知られていた所だったのね。
句郎、小夜の中山峠と同じように東海道の難所として旅人を苦しめた峠だったんだろうね。
華女 この句はとても分かりやすい句ね。
句郎 三百年前も同じだったんだろうね。
華女 全然古びない句ね。
句郎 この句と同じような句はいくらでもできそうだけれど、すでに三百年も前に芭蕉がすでに詠んでしまっている。
華女 芭蕉の句の中でも高く評価されている句だというわけでもないんでしよう。
句郎 多分そうなんじゃないないのかと思う。
華女 でも俳句初心者には、手本になる句のように思うわ。
句郎 そんな気がするよね。難しさが何もない。まさに俳句の手本かな。上五の「箱根こす」と言い出すところが俳句の基本のように感じるけれど、どうかな。
華女 そうよ。東海道の「箱根こす」。うぁー、大変だ。この気持ちが読者に伝わるわね。
句郎 「人も有らし今朝の雪」。この雪の中を箱根越えして行くんだ。凄いな。この芭蕉の気持ちが読者に伝わるよね。俳句というのは、こういうように詠むんだということが分かるな。
華女 「馬をさえながむる雪の朝哉」。『野ざらし紀行』に載っていた句だったかしら。この句の場合は、すっきりすんなりと読者に伝わらないようなところがあるように思うのよ。雪景色が綺麗だなぁーと馬も眺めているのかなぁーというような解釈がありそうな気がするでしょ。ところが「箱根こす人も有らし今朝の雪」この句の場合、間違って解釈することがないと思うのよ。
句郎 「今朝の雪」は、動かない。決まっているよね。そこが手本のような句だということなのかな。
華女 「馬をさえながむる雪の朝哉」。この句の場合は、大雪だということが何も書いていないにもかかわらず、大雪なのよね。だから「馬でさえ、雪を眺めているのは、この雪の中に出ていくことに逡巡しているのよね。そのことを「眺むる」という言葉で表現しているのよね。この馬でさえもがと、いうことなのよね。
句郎 句として見た場合は、「馬をさえ」の方が表現されている世界が深く大きいようにも感じる。
華女 芭蕉の気持ちの襞に触れているということなのかもしれないわ。
句郎 そういうことなのかな。箱根を越していく旅人への思いに比べて「馬をさえ」の句の場合は自分の気持ちと馬の気持ちの一体感のようなものが詠まれていると言うことかな。
華女 そんな風にも言えるとは思うわ。
句郎 「箱根こす」は軽く、「馬をさえ」は重い。



醸楽庵だより  604号  ためつけて雪見にまかるかみこ哉(芭蕉)  白井一道

2017-12-27 11:40:25 | 日記

 ためつけて雪見にまかるかみこ哉  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「ためつけて雪見にまかるかみこ哉」。「有人の會」と前詞がある。
華女 「ためつけて」とは、どんな意味なの?
句郎 「着物に折目をつける」ことを言う。
華女 「かみこ」とは、今の外套のようなものよね。
句郎 、防寒用の紙の衣服のことかな。
華女 「有人の會」とは、誰の会だったのかしら。
句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』の注釈には名古屋昌碧亭とある。
華女 昌碧亭に招かれ、雪見の俳諧を楽しんだのね。
句郎、そうだと思う。だからこの「ためつけて雪見にまかるかみこ哉」という句は昌碧亭亭主への挨拶吟だったんだろうな。
華女 この句は何に載っている句なのかしら・
句郎 紀行文『笈の小文』に載っている。この句と並んで「いざ行む雪見にころぶ所まで」の句が載せられている。
華女 古びた紙子を寝押しにでもして雪見の俳諧に出かけたような感じかな。
句郎 冬の旅を楽しんでいる芭蕉の姿が目に浮ぶような句かな。
華女 芭蕉には、子供っぽさのようなものが大人になっても残っていたのかもしれないわよ。そんな句じゃないのかしら。
句郎 特に「いざ行む雪見にころぶ所まで」の句には、そんな印象があるな。
華女 芭蕉は下駄を履いて雪見にでかけたのかしら。昔、下駄を履いて雪道を歩くと下駄の歯と歯の間に雪が詰まり、、尖がってしまい、歩けなくなってしまった経験があるわ。それで転ぶところまで雪見に行ってみようと言うことかしらね。
句郎 大人になっても雪を楽しむ気持ちを芭蕉は持っていたのかもしれないな。
華女 芭蕉は身なりにあまり気を使う人ではなかったみたいね。
句郎 身分制社会にあっては、身なりが決定的に重要な社会だったようだ。なぜなら身なりで身分がはっきりわかる社会だったからね。農民が武士と同じ身なりをすることが許されない社会だったからね。同じように農民と町人が同じ身なりをしていてはいられない社会だった。農民が武士と同等の立場にたって話し合うことなんてない社会だったからね。
華女 俳諧は不思議な人の集まりだったのね。武士と農民、町人が同じ部屋で対等な立場で句を詠み継いでいく遊びなのよね。農民出身の芭蕉がよれよれになった紙子に折り目を付けて、いそいそと俳諧の会に出かけていく。亭主に挨拶の句を詠む。俳諧の会には身分差別がなかったのね。
句郎 いち早く、俳諧の世界には身分差別を廃止した近代社会が芽吹いていたのかもしれないな。武士も農民も町人も対等平等な社会の方が豊かな人間関係が築けるということを実感していたのかもしれないな。
華女 でも、武士の詠んだ句を貶すことは、難しかったのかもしれないような気もするわ。
句郎 だから句を詠むときは俳号を用いて身分をあからさまにすることはかったのかもしれない。
華女 苗字でなく、名を呼び合う俳諧には、確かに近代性があるのかもしれないわ。
句郎 身なりに気を使う必要が少なかったのかも。