醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  557号  白井一道

2017-10-31 16:24:41 | 日記

 夏衣いまだ虱をとりつくさず  芭蕉

句郎 「夏衣いまだ虱をとりつくさず」。『野ざらし紀行』に「卯月の末、庵に歸りて旅のつかれをはらすほどに」と前書きて、この句がある。貞享二年、芭蕉42歳。
華女 江戸、深川芭蕉庵に帰り着いた時の句ね。
句郎 「野ざらしを心に風のしむ身哉」。「野ざらし」とは、髑髏(されこうべ)、ドクロのことだよね。旅の途上に野垂れ死にすることを覚悟して深川芭蕉庵を旅立ったことを思えば、少し大袈裟過ぎたかなと芭蕉はかんがえていたんじゃないのかな。
華女 「案ずるよりも産むが易い」という諺があるわね。実際、そういうことってあるんじゃないの。
句郎 そうだよね。私は自分の家を自分で設計し、建築確認申請をしたんだけれども、実際してみれば案じていたほど、厳しいものではなかったよ。
華女 自分で設計した家を建て立ったのね。
句郎 いや、倹約のためだよ。大工を一人雇ってね。彼と相談して家を建てたんだ。
華女 自分でやればできるのかしら。
句郎 定年退職後、仲間三人で家を郷里の長野県に建てたという人の話を昔の仲間から聞いたことがあるよ。黒磯にログハウスの別荘を定年退職後建てた仲間がいたよ。
華女 男の人には定年退職後、いろいろなことをする人がいるのね。
句郎 一つのことを成し遂げた後、芭蕉は虚脱感に襲われてしまったのかな。そんな気持ちを詠んだ句が「夏衣いまだ虱をとりつくさず」だったのかな。
華女 そうなんでしょう。でも「虱」という言葉が強烈ね。そうじゃない。
句郎 「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと」という句が『おくのほそ道』にあるからね。このような当時の農民や町人が不断に使っていた言葉を用いて句を詠んだのが芭蕉だった。
華女 そこに芭蕉の近代性があるというのが、句郎君の主張なんでしょ。
句郎 そうなんだと思う。「夏衣いまだ虱をとりつくさず」。この句のどこにも分かりずらい言葉がない。普段当時の庶民が使っている言葉を使って句を詠んでいる。これはまさに言文一致の文体なんじゃないのかな。
華女 「夏衣いまだ虱をとりつくさず」。この句は日本の文体の歴史にあって、近代の夜明けを告げるような言葉なのね。
句郎 その通り。俳諧を捲く。このような遊びの普及が言文一致の文体を創造する営みを育んでいったと私は考えているんだ。
華女 どうしてそんなことが言えるのかしら。
句郎 蚤や虱、絶対に和歌では用いられることのない言葉を研ぎ、文学を表現する言葉に芭蕉は研ぎ上げた。俗語を研いで賀語にする。その営みが俳句を詠むということだったんだ。
華女 言葉そのものがその時代を表現もしているのね。
句郎 言葉は生き物だから死に、そして新しく生まれて来る。その言葉にはその社会における人間の在り方みたいなものが表現されているんじゃないのかな。
華女 「虱」という言葉を今の若い人たちは知らないかもしれないわよ。実際、最近虱を見ることがなくなってきているから。
句郎 虱と言う言葉は虱の絶滅同時に死滅する運命にある。

醸楽庵だより  556号  白井一道

2017-10-30 17:10:15 | 日記

 山賎(やまがつ)のおとがひ閉(と)づる葎(むぐら)かな  芭蕉

句郎 「山賎(やまがつ)のおとがひ閉(と)づる葎(むぐら)かな」。「甲斐山中」と前書きて、この句がある。貞享二年、芭蕉42歳。
華女 「山賎(やまがつ)」とは、何なの。
句郎 樵(きこり)のことを言うようだよ。「賎」という字は「いやしい」という意味でしょ。だから戦前までの日本社会にあっては、樵に対する偏見が強かったようだ。「山賎(やまがつ)」という言葉には差別意識があったのかもしれない。
華女 山仕事をする人を句に詠む芭蕉は近代的な詩人だったのね。
句郎 江戸時代に生きた一般庶民を句に詠んだのが芭蕉だった。口を結んだ胸板厚く背の高い男が表現されているように思うでしょ。
華女 「おとがい」って、下あごのことだったかしら。「葎(むぐら)」は高く伸びた夏の野草のことよね。
句郎 とげとげとした夏草に負けない山仕事をする逞しい男の姿を芭蕉は詠んでいる。
華女 芭蕉は人を平らに見ていた人だったのね。
句郎 身分制社会にあってこのような句を詠んだということは凄いことだと思う。
華女 芭蕉は、当時の社会にあって、山仕事をする人に対して偏見がなかったのね。だからこのような句を詠むことができたんでしようね。
句郎 ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』を思い出したよ。
華女 句郎君は嫌らしい小説が好きなのね。
句郎 そう、高校生の頃、友人の一人が英語で読んで日本語に訳されていない箇所を教えてくれたことがあったよ。
華女 そこには男女関係のことが描かれていたのね。
句郎 そうなんだと思うけど、私の語学力では何が描かれたいたのか、分からなかった。ただ性描写だと言うことだけが分かった。その表現がなぜ猥褻になるのか、その理由が分からなかった。
華女 伊藤整が裁判したんでしょ。
句郎 裁判の結果がどうなったのかは知らないんだ。ただ二十数年後完訳本が発売された。英語本も買い読んでみようと努力した。その結果、分かったことがあった。
華女 何が分かったの。
句郎 私が理解したことは、貴族の所有地の森の番人をしている逞しい男を貴族の奥方が一人の男として受け入れたということをロレンスは表現したということなんだ。
華女 イギリスという国は古い古い国なのよね。21世紀になっても未だに貴族がいる社会なんでしょ。
句郎 男も女も皆、同じ人間なんだということ平民出身のロレンスは表現したに過ぎない。貴族の女が自分の家の使用人に過ぎない男を男として認め、受け入れたということを述べ、肉体労働をする男の筋肉に性的魅力があることを表現した。
華女 そのことは分かるわ。私たち高校生だったころ、人気の高かった男の子は皆、運動部の男の子だったわ。サッカーやバスケットする男の子が疾走する姿にうっとりしたものよ。凄くかっこ良かったわ。さっぱりした気性もよかったわ。白く弱々しく数学ができる男の子より遥かに魅力があったわ。
句郎 そうなんだ。ごく自然なことなんだ。

醸楽庵だより  555号  白井一道

2017-10-29 15:03:39 | 日記

 白げしにはねもぐ蝶の形見哉  芭蕉

句郎 「白げしにはねもぐ蝶の形見哉」。「杜国におくる」と前書きて、『野ざらし紀行』にある句。貞享二年、芭蕉42歳。
華女 杜国は美青年だったというじゃない。
句郎 芭蕉と杜国とは男色関係があったんじゃないかという話を聞くことあるね。
華女 そんな話を聞くと芭蕉のイメージに傷が付くわ。芭蕉には孤高の俳人というイメージがあるわ。そのイメージを壊さないでほしいわ。
句郎 そうかな。芭蕉にもごく平凡な男としての生理があったんじゃないのかな。
華女 男色がごく平凡な男の生理なの?
句郎 江戸時代に生きた男にとって男色はごく平凡な男の生理だったみたいだよ。
華女 どうしてそんなことが言えるの。
句郎 江戸時代は身分制社会だったからね。当然男女差別が正当なものとして認められていた社会だった。男の世界にも差別が社会の秩序として認められていた。身分の低い男は身分の高い男に憧れるということが当然なこととしてあったんじゃないかな。
華女 そういう精神的なものがあったであろうとは思うわ。でも男色関係というものは、そのような精神的なものとはちょっと違うんじゃないの。
句郎 江戸時代の男色とは、基本的に精神的なものであったのじゃないかと思うけど。
華女 「白げしにはねもぐ蝶の形見哉」。この句が芭蕉の杜国への愛とか、恋というものを表現している言えるのかしら。
句郎 白い芥子の花、なんとなく弱々しく美貌の女性というイメージがあるじゃない。四面楚歌の故事にある美人「虞(ぐ)」とは、芥子の花のような美女だよ。白い芥子の花とは、杜国のことを意味しているんだ。杜国と今別れると言うことは体半分をもぎ取られるような苦しみだ。蝶々が羽をもぎ取り形見として置いていったんだと芭蕉は感じた。その蝶々の思いは芭蕉の杜国への思いでもあった。こんな女への思いのような句を詠むなんて芭蕉の杜国への思いは男色以外の何物でもないのじゃないかと理解する人がいるみたいなんだ。
華女 句郎君の話を聞くと女の人の男の人への思いのようにも感じるわ。
句郎 芭蕉には女性的な感性があったのかな。
華女 私は男とか、女といって区別する物の味方や感じ方をするのを嫌っているけれど、ちょっと女性的かなと感じたわ。
句郎 芭蕉は晩年『嵯峨日記』に「夢に杜国が事をいひ出して、涕泣して覚ム」と書いている。芭蕉は杜国を深く愛していたのは間違いなかったんじゃないかな。
華女 芭蕉は女性を愛したように年下の男を愛したということは分かったわ。
句郎 最近分かってきた性同一性障害というものと男色とか、レスビアンというものと芭蕉と杜国との関係は少し違っているとも思うんだ。
華女 芭蕉が若かった頃には寿貞という芭蕉の身の回りの世話をしてくれたのではないかといわれている女性がいたんでしょ。
句郎 そのようだ。だから根っからの男色家ではなかった。だから杜国への思いは、普通の弟子以上の思いがあったということなんじゃないのかな。

醸楽庵だより  554号  白井一道

2017-10-28 15:15:22 | 日記

 いざともに穂麦喰はん草枕  芭蕉

句郎 「いざともに穂麦喰はん草枕」『野ざらし紀行』にある句である。貞享二年、芭蕉42歳。この句には『野ざらし紀行』にはない次のような前文がある。「伊豆の國蛭が小嶋の(僧)桑門、これも去年の秋より行脚し (て)けるに我が名を聞て草の枕の道づれにもと、尾張の國まで跡をしたひ来りければ、」とある。
華女 「穂麦」とは、麦飯というように考えていいのかしら。「伊豆の國蛭が小嶋」とは、どこにあるのかしら。
句郎 西伊豆の伊豆の国市に源頼朝が流刑になり、二十年近く過ごした場所が今は公園になっているようだ。
華女 頼朝の流刑地が観光名所になっているのね。
句郎 『おくのほそ道』の道筋が今では観光名所になっているわけだからね。
華女 この句には、理解に苦しむものが何もない句ね。
句郎 誰にでも心を開いていた俳諧師だったんだろうね。
華女 そうじゃないと俳諧師という仕事は成り立たなかったんじゃないの。
句郎 芭蕉は商売人として成功した俳諧師だからね。
華女 現代だって俳人として生活を成り立たせるには大変なんじゃないの。
句郎 そうなんだろうね。高濱虚子なんていう俳人だって商売人だったんじゃないのかな。
華女 ただ単にいい句を詠むことができただけじゃ、生活はなりたたないでしょうね。
句郎 そうだと思うね。俳句というものもお稽古事と思っている人は結構いるんじゃないかな。
華女 特に若い女性にはいるかもしれないわ。
句郎 日本舞踊、生け花、茶道、琴など趣味的なものには特にお稽古事という思いはあるんじゃないかな。
華女 それらの先生は皆、商売人よね。
句郎 芭蕉はそのような商売人であると同時に農民や町人の遊びであった俳諧を文学へと発展させた文学作家であった。ここに芭蕉の偉さがあるのかもしれない。
華女 そういう点では高濱虚子も同じなんじゃないの。
句郎 あぁー、そうかもしれないなぁー。まず商売人であったし、文学者であったことも確かなんじゃないのかな。資本主義社会にあっては、すべての芸術家はまず商売人でなければ、庶民にその芸術が広まる事はないだろうからね。また別の言葉で言えば大衆性ということなのかもしれない。
華女 まず商売人でなければ生活が成り立たないものね。武士は食わねど高楊枝なんていう言葉があるけれども、飢えと貧窮、病苦に生きた芸術家がいたことも確かよね。
句郎 芭蕉も商売人として一流であったが家族を持つことができなかった。俳諧師として家族を持つことができるということは凄いことだったのかなと思うね。
華女 男にとって家族を持つと言うことは男が男になるということなのよね。そういう点で俳諧師として家族をもつことが江戸時代にはできなかったということなのね。
句郎 江戸時代、家を持ち、家族をもつということは、男にとってのステータスだったんじゃないかな。
華女 女にとっても男の妻になるということは大変な事だったのね。

醸楽庵だより  553号  白井一道

2017-10-27 16:34:37 | 日記

 命二つの中に生たる櫻哉  芭蕉

句郎 「命二つの中に生たる櫻哉」。「水口(みなくち)にて二十年を経て、故人に逢ふ」と書き、『野ざらし紀行』に掲載。貞享二年、芭蕉42歳。
華女 水口とは、どこにあるの。
句郎 滋賀県甲賀市水口町、昔この町は東海道53次の宿駅だったようだ。この街道沿いに美冨久(みふく)酒造という美味しい酒を醸す酒蔵がある。
華女 句郎君はお酒のことになると一言あるのね。「故人」とは、具体的に誰だかわかっているの。
句郎 同郷の門人、伊賀上野の服部土芳と二十年ぶりに邂逅したようだ。
華女 それで分かったわ。芭蕉と土芳とは二十年前にも同じところで花見を一緒にしたのかしら。
句郎 それはどうかな。芭蕉と土芳とは、13才ほど年が離れている。芭蕉が故郷伊賀上野を出て江戸に出たのは29歳の時だったと言われているからね。その時、土芳は16歳だからね。その頃、芭蕉も土芳も水口の方に行って花見をしたとは考えられないからね。
華女 「命二つの中に」とは、何なのかしら。芭蕉と土芳、二人の中にという意味じゃないの。
句郎 問題は「生たる櫻哉」にあると思う。水口で芭蕉と土芳は再開し、花見をした。その嘱目吟なのか、それとも芭蕉の心象風景なのかというとだと思う。華女さんはどっちだと思う?
華女 そうね。私は場使用の心象風景を詠んだ句だと受け止めたわ。土芳とは、『三冊子』を書いた方よね。
句郎 そうだよね。芭蕉が故郷伊賀上野にいた頃、土芳は芭蕉から俳諧の手ほどきを受けたのではないかな。
華女 芭蕉は土芳の子供のころからの先生だったのね。
句郎 だから水口ではなく、伊賀上野の故郷で芭蕉と土芳は花見をした経験があったんじゃないのかな。
華女 琵琶湖畔の水口で芭蕉と土芳が花見をしたとき、芭蕉は故郷の伊賀上野で土芳と花見をしたことを思い出し、私が故郷伊賀上野を出てから二十年、二人とも無事に生き長らえたなぁーと感慨ぶかいものがあったのじゃないの。
句郎 華女さんのように解釈すると「命」とは、桜の命じゃなく、芭蕉と土芳の命ということになるね。
華女 そうなんじゃないの。そのように解釈しなくちゃ、俳句にならないように思うわ。
句郎 そうなのかな。芭蕉と土芳は琵琶湖畔の水口で花見をしたのは間違いのないことでしょ。大木の桜の花を見たんだ。20年以上を経ている桜の大木を見て、桜の木の生命力に感じ入ったんだよ。芭蕉はね。桜の木の生命力に元気付けられた芭蕉は言い放ったんだ。我々二人は生きている。我々が生きていることをこの桜が明らかにしているんだとね。
華女 私が言っていることと句郎君が言っていることは同じことよ。
句郎 そうなのかな。
華女 そうよ。
句郎 この句は芭蕉の名句の一つらしいよ。
華女 そうなの。句郎君の話を聞いて思ったわ。この桜は大木じゃないかということ。そうよね。大木の桜なのよね。だから句になったのよね。細い桜の木じゃ句にならないわ。