醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  528号  白井一道

2017-09-29 11:24:01 | 日記

 手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜  芭蕉

侘輔 「手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜」。『野ざらし紀行』に「長月の初、故郷に帰りて、北堂の萱草(くわんそう)も霜枯果て、今は跡だになし。何事も昔に替りて、同胞の鬢(びん)白く、眉皺寄て、只命有て、とのみ云て言葉はなきに、兄の守袋をほどきて、母の白髪拝めよ、浦島の子が玉手箱、汝が眉もやや老たり、としばらく泣きて、」と書きてこの句を載せている。貞享元年、芭蕉41歳の時の句だ。
呑助 「北堂の萱草(くわんそう)」とは、何ですか。
侘助 岩波文庫『芭蕉紀行文集』「野ざらし紀行」には注釈がある。「上古、中国では東房の北堂を母の居所とし、その庭に萱草(わすれなぐさ)を植えたという」。このように説明している。
呑助 萱草とは忘れな草のことですか。お母さんの居間の前に植えられていた忘れな草も霜枯れて、お母さんを偲ぶ跡は何もない。お兄さんの両頬に垂れる髪も白くなり、眉には皴が寄り、ただ命があるのみだ。何も言わずに守り袋を開き、「母の白髪を拝めと言った」。故郷に戻った私は浦島太郎だ。兄の守り袋は玉手箱だ。私の眉にも老いがやってきましたと泣いて母の白髪を拝んだということですか。
侘助 芭蕉は29歳になって江戸に出ている。33歳の時に帰郷しているがそれ以来である。江戸に出て二度目の帰郷であった。その時、芭蕉の母は身罷っていた。きっと母への熱い思いがあったのでろう。
呑助 芭蕉は人情に篤いひとだったんでしよう。
侘助 『笈の小文』の中では「旧里(ふるさと)や臍(へそ)の緒に泣く としの暮」という句を詠んでいる。また高野山に参っては行基の吉野山における詠歌「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」を思い出したのか「ちゝはゝのしきりに恋し雉(きじ)の聲」と詠んでいる。父母を恋う熱い気持ちを芭蕉は持っていたのかな。
呑助 今の若者の父母への思いとは異なる気持ちが当時の日本人にはあったんですね。
侘助 家族の人情というのは昭和30年代頃まで庶民の間では永々と続いたんじゃないのかな。江戸時代にあっては、農民や町人の間に人情というものがつくられていったのではないかと考えているんだ。貴族や武士の間には人情というものはなかった。この人情を詠んだのが俳諧だった。
呑助 そうなんですかね。
侘助 人情という道徳規範は封建社会の底辺に生きる者の道徳規範として生まれてきたものなんじゃないかと考えているんだ。
呑助 武士の道徳規範というと何なんですか。
侘助 ご恩に対する奉公、すなわち義理だと思うよ。
呑助 義理ですか。
侘助 義理というものは上下の人間関係でしょ。それに対して人情というものは横の人間関係だと思うんだ。社会の底辺に生きる者は互いに助け合わなければ生きていけないから、隣の人とやさしく接し合うのが人情というものでしょ。そうした庶民の気持ちを詠んだものが俳諧だったと考えているんだ。和歌は恋を詠んでも、人情は詠まないんじゃないのかな。
呑助 俳諧は農民や町人の気持ちを詠んだものなんじゃないかな。

醸楽庵だより  527号  白井一道

2017-09-28 12:32:40 | 日記

 蘭の香やてふの翅(つばさ)にたき物す  芭蕉

侘輔 「蘭の香やてふの翅(つばさ)にたき物す」。『野ざらし紀行』に「其日のかへさ、ある茶店に立寄けるに、てふと云けるをんな、あが名に發句せよと云て、白ききぬ出しけるに書付侍る」と書きてこの句を載せている。貞享元年、芭蕉41歳の時の句だ。
呑助 「其日のかへさ」とは、何ですか。
侘助 その日の帰り道ということなんじゃないのかな。
呑助 茶店の女に私の名前を入れた発句を詠んで下さいなと、芭蕉は頼まれて詠んだということですか。
侘助 そうなんだと思う。その事情をもっと詳しく門人の土芳(どほう)さんが『三冊子(さぞうし)』に書いている。「この句は、ある茶店の片はらに道休らひしてたたずみありしを、老翁の見知侍るにや、内に請じて、家女料紙持出て句を願ふ。其女の曰いはく、我は此家の遊女なりしを、今はあるじの妻となし侍る也。先のあるじも鶴といふ遊女を妻とし、其頃灘波の宗因此処にわたり給ふを見かけて、句をねがひ請たると也。例(ためし)おかしき事までいひ出て、しきりに望み侍ればいなみがたくて、かの難波の老人の句に、「葛の葉のおつるがうらみ夜の霜」とかいふ句を前書にして此句遺し侍るとの物がたり也。其名を蝶といへば、かく言ひ侍ると也、老人の例にまかせて書捨たり。さのみのことも侍らざりなしがたき事也と云り」、先代の女将さんも俳諧宗匠の宗因さんに発句を書いていただいてるので、私にもお願いできないかしらということで芭蕉はこの句を詠んだと土芳さんは説明している。
呑助 「てふの翅(つばさ)」とは、「てふ」という女将さんの名を蝶々に譬え、女将さんの持ってきた白い布地を蝶の翅に譬えて詠んでいるんですね。「たき物す」とは、何ですか。
侘助 当時の貴族や武士の奥方や遊女は着物の布地の香をたき込めることをしたんじゃないのかな。
呑助 香水をつけるようなことですか。
侘助 男女がつるむ際に嫌な臭いを消すような働きがあったんじゃないのかな。それは現在にあっても機能していることかもしれないけど。
呑助 蘭の香を布地にたき込めたということですか。
侘助 茶店の女将さんを称えた句なんだからね。きっと茶店の回りに蘭が咲いていたんじゃないのかな。芭蕉はその蘭の花を見て、香りがあることに気付き、「蘭の香や」とまず詠んだ。艶やかな女将さんの物腰を見て、歩くとめくれる長襦袢の裾の白さが目に残った。これだと芭蕉は思った。その白い布地に蘭の香がたきこもる幻想を見た。長襦袢の白い布地は蝶の翅だ。
呑助 「蘭の香やてふの翅(つばさ)にたき物す」。この句は色っぽい句なんですね。芭蕉には結構、色っぽい句があるんですね。
侘助 『おくのほそ道』に「眉掃(まゆはき)を俤にして紅粉(べに)の花」なんていう句を山形尾花沢で芭蕉は詠んでいるからね。
呑助 「眉掃(まゆはき)」とは、遊女が用いた化粧道具ですか。
侘助 農民や町人の女たちが用いた化粧道具とは考えられないからなぁー。
呑助 芭蕉さんはもしかしたら色町が好きだったんですかね。

醸楽庵だより  526号  白井一道

2017-09-27 14:04:53 | 日記

 芋洗ふ女西行ならば歌よまむ  芭蕉

侘助「芋洗ふ女西行ならば歌よまむ」。『野ざらし紀行』に「西行谷の麓に流あり。をんなどもの芋をあらふを見るに、」と書いて、この句が載せてある。貞享元年、芭蕉41歳の時の句だ。
呑助 「西行谷」とは、どこにあるんですか。
侘助 三重県伊勢市宇治館町に西行が庵を結んだという謂れのある場所がある。
呑助 この句は中七が十になっていますね。
侘助 芭蕉は、定型ということから自由だったんだろうなぁー。
呑助 それで三百数十年後の人々が芭蕉の句だといって読む人がいるんですから、凄いですね。
侘助 芭蕉は芋を川辺で洗っている女たちを見たんだと思う。この芋を洗う農家の女たちを詠むのが俳諧だと思うんだけどね。
呑助 この芋とは、何ですか。サツマイモとか、里芋とか、八頭とか、いろいろあるじゃないですか。
侘助 この芋は勿論里芋だよ。日本の農村で芋と言えば里芋だよ。日本人にとって芋と言えば里芋なんだと思うよ。
呑助 昔から日本人が食べてきた芋が里芋だったんですか。
侘助 そうなんじゃないかな。東南アジアに行くとその地域が主に食べる芋あるそうだがね。日本人は里芋だよ。里芋の味が日本人の芋の味だと思うよ。
呑助 ジャガイモというとなんか洋風な芋という感じがしますよね。
侘助 そうでしょ。ドイツ人なんていうとドイツの庶民が食べていた芋がジャガイモなんだから。
呑助 オランダあたりの庶民が食べていた芋もジャガイモですか。
侘助 そうじゃないかな。ゴッホの絵に画面全体が暗く、貧しい農民がジャガイモを食べているものがあるじゃない。
呑助 そうすると日本でも芋を食べたのは庶民というか、町人や農民だったんですか。
侘助 そうだよ。町人や農民が食べていたものだから、和歌を詠んだ貴族や武士たちが下層階級の者たちの食物を詠むはずがない。里芋を洗う農家の女たちを詠んだから芭蕉の句は俳諧だと思ったんだ。西行はもともとは貴族出身だからね。里芋を洗う農家の女たちを歌に詠むはずがないにもかかわらず、芭蕉は芋を洗う女たちを西行だったら歌に詠むと詠んでいる。これが分からないんだ。
呑助 西行が芋を洗う女を詠むはずがないにもかかわらず、芭蕉は西行だったら芋洗う女を詠むだろうと句に詠んだということなんですね。
侘助 そう思わない。あり得ないことを芭蕉は詠んでいない。
呑助 そうですね。少し変ですよね。
侘助 旅に生きた西行にとって田んぼや畑、山で働く農民や樵に助けられた経験によって、それらの人々を自分と同じ人間だという認識を持つようになっていったと芭蕉は西行の歌を読み続けることによって学んだのかもしれないなぁー。
呑助 芋洗う女を女として芭蕉は見た。自分と同じように西行もまた芋洗う女を見たら、この女に女を西行も感じたのではないかということですか。
侘助 そうだよ。芋洗う女に女を感じることが身分差別から解放されることだと考えているんだ。

醸楽庵だより  525号  白井一道

2017-09-26 11:26:05 | 日記

 野ざらしを心に風のしむ身哉  芭蕉

侘輔 「野ざらしを心に風のしむ身哉」。この句は『野ざらし紀行』の最初に掲げられた句である。貞享元年、芭蕉41歳の時の句だ。この時から芭蕉になる道を歩み始め、51歳になり芭蕉になって亡くなった。
呑助 芭蕉は人生を全うして亡くなったということですか。。
侘助 芭蕉51年間の人生の内、41歳から51歳になるまでのおよそ10年間がもっとも濃縮した時間だったんじゃないかな。
呑助 濃縮した時間とは、もっとも充実した時間だったということですか。
侘助 『おくのほそ道』冒頭の言葉、「日々旅にして旅を栖(すみか)とする生活を送ったということかな。
呑助 それで、ですか。旅に死ぬ覚悟を詠んだ句が「野ざらしを心に風のしむ身哉」だったんですか。
侘助 私は高校生三年生の時に、国語の授業でこの句を教わったんですよ。その時、いやにこの句に感銘を覚えたことが芭蕉に興味を持つ出来事だったんですよ。
呑助 へぇー、高校三年生の時のことだったんですか。何に感銘うけたんですか。
侘助 今になっては、なぜ感銘を覚えたのか、自分でも分からないんだけど。
呑助 確かに、17,8の頃何に感銘したのか分からないということって、結構ありますよ。
侘助 初め、「野ざらし」という言葉が何を意味しているのか分からなかったので、何も感じなかったような記憶があるんだ。
呑助 「野ざらし」とは野ざらしになった骸骨でしたっけ。
侘助 旅の途中、行き倒れになった人の髑髏(されこうべ)のことだと教師が説明してくれた。その時、突然秋の夕暮れ、ススキの原に野ざらしになった髑髏(されこうべ)のイメージが広がった。そのイメージが心に焼き付いたように感じたんだ。
呑助 確かに、そんなイメージがありますね。
侘助 芭蕉は、いつか自分は野ざらしになる覚悟をして人生を送った人なんだと勝手に私は解釈してしまったようだ。
呑助 実際の芭蕉は布団の上で何人もの人に囲まれて亡くなっているんですよね。
侘助 でも芭蕉の人生は孤独なものだったと今も昔も考えているけど。
呑助 私もそう思いますね。
侘助 「野ざらしを心に」思い描き、その「心に」冷たく寒い秋風が吹き込んでくる。その風が身に浸みる。こんな覚悟を固めて旅立つんだという意気込みを詠んでいるのではと、思うんだけどね。
呑助 そうなんでしようね。『野ざらし紀行』冒頭に「千里に旅立ちて、路糧をつつまず」と書いていますから。これから旅立とうというのに、弁当を持たずに出発したということなんでしよう。
侘助 そうだよね。実際はそうじゃないと思います。握り飯も食わないで旅を続けることはできないから、気持ちの上のことだと思うけど。
呑助 野ざらしの旅は帰郷でもあったんでしよう。
侘助 そうみたい。だから大垣の木因(ぼくいん)の所に着いた時には「野ざらしを心におもひ旅立ちければ」と前書きして「死にもせず旅寝の果よ秋の暮」と詠んでいる。実際、「案ずるよりも産むがやすし」ということなのかな。

醸楽庵だより  白井一道  524号 

2017-09-25 13:05:08 | 日記

 わが宿は四角な影を窓の月  芭蕉


侘輔 「わが宿は四角な影を窓の月」。この句を岩波文庫『芭蕉俳句集』では貞享元年、芭蕉41歳の時の句として掲載している。
呑助 この句の「わが宿」とは、深川芭蕉庵のことですか。
侘助 そうなんじゃないかな。
呑助 暑さが去り、寒くない。そんな青白い月影が芭蕉庵の四角の窓から入っている。この月の明かりの中で一人、芭蕉は月を愛でている。それだけの句ですか。
侘助 月の光を一人愛でている時間を楽しんでいる芭蕉を想像するんだ。
呑助 月見ですか。
侘助 そう月見の句だと思う。ドビッシーに「月の光」というピアノ曲があるでしよう。芭蕉の心には「月の光」のようなメロディーが流れていたんじゃないかと想像するんだけれど。
呑助 なんと贅沢な時間だったんでしよう。
侘助 芭蕉の一生はいつも感動に満ちていた。見るもの、聞くものすべてが芭蕉を嬉しがらせるもので満ちていた。身の回りのすべてのものが芭蕉に喜びを与えた。青白い月明りが楽しくてならない。
呑助 詩人というのは、そうでなくては詩は書けないんでしよう。
侘助 月明りには静かさがあるでしよう。この静かさに感動している自分に芭蕉は気づている。
呑助 確かにショパンのピアノ曲にあるような寂しさはありませんね、
侘助 ショパンじゃないよ。ドビッシーだよ。
呑助 ドビッシーには明るさがありますね。
侘助 芭蕉のこの句には透徹し研ぎ澄まされた心が表現されているわけではないから秀句だということは難しいかもしれないが、詩人の心は表現されているんじゃないかと考えているんだけど。
呑助 でも芭蕉が唱えたといわれる俳諧理念の「寂び」ですか。それを窺わせるものがあるように私も思います。
侘助 「寂び」だよね。「寂び」とは淋しいということなんじゃないよね。
呑助 淋しいというのでは、詩にならないんじゃないでしようかね。
侘助 淋しいというのでは、力がでないよ。一人草庵で月影に感動するというのが「寂び」だよね。
呑助 そうなんでしようね。孤独だと感じることでもありませんよ。
侘助 そうなんだよね。草庵に一人いることは確かに孤独ではあるけれども月影と共にあることに感動しているので孤独じゃないんだよね。
呑助 「寂び」とは、孤独なんだけども孤独じゃないということなんですか。
侘助 そうなんだ。孤独なんだけれども孤独じゃないから他人から見れば、淋しそうに見えても、本人は少しも淋しくないから、孤独じゃない。そのような精神を表現したものが俳諧理念としての「寂び」なんじゃないかと考えているんだ。
呑助 そうすると「わが宿は四角な影を窓の月」という句はやはり俳諧理念としての「寂び」を表現している句として読むことができるということですか。
侘助 私はそのように考えているんだけど。我が草庵の茣蓙の上に四角な月影があることに贅沢さを味わっている。そのような気持ちを表現した句なんじゃないかとね。