手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜 芭蕉
侘輔 「手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜」。『野ざらし紀行』に「長月の初、故郷に帰りて、北堂の萱草(くわんそう)も霜枯果て、今は跡だになし。何事も昔に替りて、同胞の鬢(びん)白く、眉皺寄て、只命有て、とのみ云て言葉はなきに、兄の守袋をほどきて、母の白髪拝めよ、浦島の子が玉手箱、汝が眉もやや老たり、としばらく泣きて、」と書きてこの句を載せている。貞享元年、芭蕉41歳の時の句だ。
呑助 「北堂の萱草(くわんそう)」とは、何ですか。
侘助 岩波文庫『芭蕉紀行文集』「野ざらし紀行」には注釈がある。「上古、中国では東房の北堂を母の居所とし、その庭に萱草(わすれなぐさ)を植えたという」。このように説明している。
呑助 萱草とは忘れな草のことですか。お母さんの居間の前に植えられていた忘れな草も霜枯れて、お母さんを偲ぶ跡は何もない。お兄さんの両頬に垂れる髪も白くなり、眉には皴が寄り、ただ命があるのみだ。何も言わずに守り袋を開き、「母の白髪を拝めと言った」。故郷に戻った私は浦島太郎だ。兄の守り袋は玉手箱だ。私の眉にも老いがやってきましたと泣いて母の白髪を拝んだということですか。
侘助 芭蕉は29歳になって江戸に出ている。33歳の時に帰郷しているがそれ以来である。江戸に出て二度目の帰郷であった。その時、芭蕉の母は身罷っていた。きっと母への熱い思いがあったのでろう。
呑助 芭蕉は人情に篤いひとだったんでしよう。
侘助 『笈の小文』の中では「旧里(ふるさと)や臍(へそ)の緒に泣く としの暮」という句を詠んでいる。また高野山に参っては行基の吉野山における詠歌「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」を思い出したのか「ちゝはゝのしきりに恋し雉(きじ)の聲」と詠んでいる。父母を恋う熱い気持ちを芭蕉は持っていたのかな。
呑助 今の若者の父母への思いとは異なる気持ちが当時の日本人にはあったんですね。
侘助 家族の人情というのは昭和30年代頃まで庶民の間では永々と続いたんじゃないのかな。江戸時代にあっては、農民や町人の間に人情というものがつくられていったのではないかと考えているんだ。貴族や武士の間には人情というものはなかった。この人情を詠んだのが俳諧だった。
呑助 そうなんですかね。
侘助 人情という道徳規範は封建社会の底辺に生きる者の道徳規範として生まれてきたものなんじゃないかと考えているんだ。
呑助 武士の道徳規範というと何なんですか。
侘助 ご恩に対する奉公、すなわち義理だと思うよ。
呑助 義理ですか。
侘助 義理というものは上下の人間関係でしょ。それに対して人情というものは横の人間関係だと思うんだ。社会の底辺に生きる者は互いに助け合わなければ生きていけないから、隣の人とやさしく接し合うのが人情というものでしょ。そうした庶民の気持ちを詠んだものが俳諧だったと考えているんだ。和歌は恋を詠んでも、人情は詠まないんじゃないのかな。
呑助 俳諧は農民や町人の気持ちを詠んだものなんじゃないかな。