醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  767号  三々九度とは  白井一道

2018-06-21 11:56:16 | 日記


  三々九度とは


侘輔 ノミちゃんはもう三々九度は済んだのかい。
呑助 いや、まだなんですよ。せっつかれてはいるんですがね。
侘助 誰に。
呑助 いやー。言わなくちゃだめですか。
侘助 そういうわけでもないけどね。どうなの。
呑助 女にですよ。はっきりしてよと、逢うと言われるんですよ。
侘助 おお、ノミちゃん、隅におけないね。それも二・三人の女に言われているのかな。
呑助 いや、そんなことはないですよ。もちろん、
 二・三人ですかねと、言いたいところですが、高校の時からの女友だち一人からですよ。
侘助 長い付き合いだね。女としてもそろそろという気持ちになっているのかな。
呑助 そうかもしれませんね。
侘助 今じゃ、三々九度というと神社での婚姻の儀式の一つになっているけれども、三々九度というのは昔の酒の飲み方だったそうだよ。
呑助 へぇー、そうなんですか。どうしてまた、
侘助 昔と言っても室町時
 代の頃だそうだがね。その頃はお酒を普段に飲むことなんてできなかった。神社の祭礼、例えば千葉県の北部、このあたりでは今でもオビシャが行われているよね。
呑助 農家が中心みたいだけれど、街場でも古いお店が集まる飲み会をオビシャと言っているね。
侘助 もともとオビシャというのは年頭に弓を射ってその年の豊凶を占う神事だったそうだよ。
呑助 へぇー、そうなんですか。酒飲みと神事というのは切っても切れない関係なんですね。
侘助 神様の意向を伺い、聴いた後の直会(なおらい)が神様に捧げたお酒を下げ、頂く行事だったらしい。
呑助 人によっちゃ、飲み会のことを直会という人がいますね。
侘助 そうかい。昔は一人一人の杯というものがなかったらしい。大きな杯に並々とお酒を注ぎ、回し飲みした。参加する人の数にもよるが、おおよそ三回まわると大盃のお酒が無くなった。仲間の数多くなると大盃を二つ用意した。一つは右回り、もう一つは左回りという具合に行ったようだ。一つの大盃のお酒が無くなるまで飲むことを一献といったそうだ。この大盃に三回お酒を並々と注ぎ、飲み干すことを三々九度といったらしい。
呑助 そういうのが三々九度の始まりですか。
侘助 大盃が回ってきたら、三口お酒を飲むのが仕来りだった。
呑助 そうですか。みんな自分の番になったときはガブッと大口あけてたっぷり飲んだんだろうな。
侘助 もちろん、この時とばかりに皆、たっぷり飲んだじゃないかと思うよ。だから、酩酊する人が多かったそうだ。
呑助 当時の人にとってはオビシャのような行事の時にしかお酒は飲めなかったんですかね。
侘助 そうだと思うよ。ほとんどの人がお酒を一人で晩酌するなんていうのは日清・日露の戦争後のことのようだよ。
呑助 それはどうしてですか。
侘助 戦争に行った兵隊たちにはふんだんに酒を軍隊は飲ましたんだ。大半の兵隊は戦争で酒を覚えたんだ。

醸楽庵だより  766号  日本食について   白井一道

2018-06-20 11:45:27 | 日記


  日本食について


侘輔 「和食;日本人の伝統的な食文化」がユネスコ無形文化遺産に登録されたということは日本食が世界文化遺産として世界に認められたということだよね。そうだろ、ノミちゃん。
呑助 ワビちゃん、日本食って、凄いんだね。
侘助 日本食がこんなに世界に認められた理由は何だと思う。
呑助 それは日本食が健康に良いからなんじゃないの。世界一の長寿国だしね。そうでしょ。
侘助 日本食を世界無形文化遺産にしたもの、その
 もとになったのは日本酒造りの文化が決定的に重要な役割を果たしているんだ。
呑助 へぇー、日本食の味と日本酒とはどんな関係にあるのかねー。
侘助 日本食の味のもとになっているのは、出汁(だし)にあるんだ。この出汁を作るのは昆布と鰹節だろう。
呑助 その昆布と鰹節の出汁で作った味噌汁はうまかったな。俺が子供の頃おふくろは削り節と昆布で出汁を採っていたのを覚えているよ。粉末の味噌汁の素とは味が違って
いたように思うね。
侘助 そうだろう。昆布と鰹節で採った出汁がどうておいしいのかというと、それは昆布も鰹節も熟成したものを使っているからなんだ。熟成したものというのはカビの生えたものをいうんだ。
呑助 へぇー、カビなんだ。カビというと毒、そんな思いが強いけれどもねぇー。カビか。
侘助 そうなんだよ。カビはもともと毒だったんだ。その毒を無毒化し、旨味を作り出すカビにしたのは酒造りをしていた者たちだったんだ。酒造りはまず、蒸した米に麹菌を撒き、カビを繁茂させるでしょ。それを麹と言っているわけだけどね。そのカビが米のでんぷんをブドウ糖に変える。ブドウ糖を酵母が食べてアルコールをだす。そのアルコールが日本酒だ。
呑助 そんな技術を昔の日本人はどのようにして手に入れたのかね。
侘助 甘い水があれば、その水は酒になる可能性を持った水なんだ。その甘い水に酵母が入れば酒になる。原始の人は自然の中に酒を発見した。同じように炊いた飯米にカビが生え、その飯が甘くなることを知る。その偶然を意識的に作り出そうと試みたわけなんだ。
呑助 そりゃ、長い年月がかかったことだろうね。
侘助 もちろん、数千年かかったことだろうね。カビとはもともと毒だったんだから。その毒のカビの中から旨味を作り出すカビを作り出していったのだからね。それも経験を蓄積し、経験に経験を繰り返してカビづくりをした。
呑助 カビとはデンプンを糖に変えるものだよね。
侘助 そうだよ。そのカビが大豆のでんぷんを糖に変えると醤油や味噌になる。穀物のでんぷんを糖に変えると酒や酢になる。昆布に生えると熟成した昆布になる。魚のカツオに生えると鰹節になる。そのカビをアスペルス・オリゼというんだ。
呑助 へぇー。なんか、難しい名前だね。そのオリゼとかいうカビが日本食の味を作っているということなのかね。
侘助 そうなんだよ。アスペルス・オリゼというカビがわれわれの祖先が作り出した物なんだ。

醸楽庵だより  765号  草の戸も住替る代ぞひなの家(芭蕉)  白井一道

2018-06-19 14:39:42 | 日記


  草の戸も住替る代ぞひなの家  芭蕉


句郎 華女さん、「おくのほそ道」に出てくる最初の句「草の戸も住み替る代ぞひなの家」をどのように鑑賞するのかな。
華女 私の持っている「おくのほそ道」では著者の堀切実は「天地の流転の理法そのままに、わびしい自分の草庵も、次の人がもう代わりに住んでおり、あたかも雛祭のころなので、自分のような世捨人の住まいとは異なり、雛を飾った普通の人の家になっていることだ」。このように鑑賞しているわよ。
句郎 なるほどね。堀切実のような鑑賞に対して俳人の長谷川櫂は異論を唱えているんだ。
華女 どこに問題があるの。
句郎 だってそうだろう。芭蕉は自分の住んでいた草庵を他人に譲り、その他人の家族が移り住み、雛段を飾っているのを見て、詠んでいるという解釈だよね。そうだとすると他人がすでに住み、その部屋の中に芭蕉は入り「面(おもて)八句を庵の柱に懸置」ことをしたことになるでしよ。そんなこと実際にはしないし、できないと思わない。
華女 言われてみると、確かにそうね。それじゃ、あまりにも図々しすぎるわね。
句郎 そうでしょ。だから、この句を芭蕉が詠んだのは草庵を引き払う直前に詠んでいるということになるでしょ。芭蕉の草庵に引っ越してきた人は草庵の柱に懸けてあった八句を見たのじゃないかな。
華女 そうすると芭蕉は雛段を飾り、雛祭を祝っている家族を見ないでこの句を詠んでいるのかな。
句郎 多分、そうなんじゃないかな。
華女 そうすると、解釈というか、鑑賞はどのように変わってくるの。
句郎 芭蕉は自分が住み慣れた庵をいよいよ立ち退くときがきたと感慨にふけった。住替る代が巡ってきた。新しい主には家族があるのでやがて雛祭には雛人形が飾られ、今までの独り者のわび住まいと打って変わり華やぐことだろう。
華女 芭蕉は「ひなの家」を見ず、ただ想像しただけなの。
句郎 長谷川櫂はそう主張しているんだ。
華女 立ち退く草庵を想い、変わり行く草庵の幻影を見たという句なのね。
句郎 長谷川櫂は蕉風俳諧の特徴を実際に見たものと想像したものとの取り合わせにあると主張している。
華女 それを蕉風というの。
句郎 そのように思うけど。
華女 よく蕉風俳諧の代表的な句に「古池や蛙飛び込む水の音」があるでしょ。この句も実際のものと想像したものとの取り合わせなの。
句郎 そのように長谷川櫂は主張しているよ。
華女 それじゃ、古池に蛙が飛び込む水の音を聞いたという句じゃないの。
句郎 芭蕉は庵の中で蛙が水に飛び込む音を聞いた。その音に刺激されて芭蕉の心の中に古池のイメージが浮き上がった。このように長谷川櫂は「古池」の句を理解しているようなんだけれどね。華女さんはどう思うかな。
華女 長谷川櫂は「草の戸も」の句も「古池や」の句も句の成り立ちは同じだと主張しているわけなのね。
句郎 そうなんだよ。「おくのほそ道」の行脚に出る前に「古池」の句を芭蕉は詠んでいるんだ。

醸楽庵だより  764号  『おくのほそ道』より殺生石  白井一道

2018-06-18 16:17:53 | 日記


  殺生石


 禅の恩師仏頂和尚山居の跡を訪ねた後、芭蕉は殺生石に行く。恩師はどのようなところで禅の修業をしたのか、芭蕉は訪ねたかったに違いない。その気持ち、分かります。しかし殺生石になぜ芭蕉が行くのか、その理由が「奥の細道」を読むかぎりでは分からない。読者の想像に任せている。
 当時、東海道には観光案内書のようなものがあったが、那須野は観光案内書がでまわるような名所にはなっていない。それにもかかわらず芭蕉は旅立つ前に殺生石には行こうと決めていたに違いない。殺生石についての情報を事前に芭蕉は得ていたのだ。その情報によって芭蕉は殺生石に行きたいという気持ちになった。
 その情報とは何かというと、それが謡曲「殺生石」である。きっと能舞台を見たことがあったのであろう。この謡曲「殺生石」に芭蕉は感銘した。殺生石とはどんなところなのだろう。殺生石とはどのような石なのだろう。生き物を殺す石とは、好奇心に燃えていた。
 当時那須野は徳川の勢力範囲の辺境にあった。少し行くと白川関である。この白川関は「奥の細道」に書
いてあるように三関の一つである。この三関とは平安時代のものであるから芭蕉が生きた徳川・元禄時代にはその役割を終えていた。平安時代の役割とは蝦夷は来る勿(なか)れ、大和民族が異民族・蝦夷の侵入を防ぐために設けられたものである。勿来関(なこそせき)とは読んで字のごとく、蝦夷の侵入を防ぐ意味を表している。勿来関は太平洋岸、白川関は東北道、鼠ヶ関(念珠関)は日本海岸、それぞれ侵入のしやすい所に設置された。
坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命され、八世紀末、蝦夷との激闘をした場所の一つが那須野の原であった。そこは戦場に散った兵士たちの幽鬼が往生出来ずにさまよい出るところであった。
 那須野の原がそのような場所であったが故に生き物を殺す石は兵士たちの怨念ではないかという物語を紡ぎだした。
 十二世紀初め、鳥羽上皇の寵愛を受けた妃に氏素性のはっきりしない玉(たま)藻(も)の前がいた。眉目秀麗な玉(たま)藻(も)の
前は妬(ねた)みの対象になった。その妬みが玉藻の前の本性
を暴く。玉藻の前は金毛と九つの尾を持つ狐だと化けの皮をはがす。本性が暴かれた玉藻の前は宮廷から逃れ、那須野に逃げ延び、都人への怨念(執心)が石となった。玉藻の前が逃げ延びた所がなぜ那須野だったのかというと、そこは死んだ兵士たちの幽鬼がさまよいでるところであったからだ。怨念に苦しむこの石に玄翁和尚が念仏を唱えると殺生石は割れ、玉藻の前の怨念は消え、極楽への往生を遂げる。このような物語が謡となり、元禄時代の人々の心を癒した。
那須岳の噴火で吐き出された溶岩が固まり、硫化水素や亜硫酸ガスをだし、生き物を殺すという認識を当時は得ることができなかったので、このような物語ができた。
芭蕉は謡「殺生石」を胸に抱き、怖れながら石に近づき、怨念のもつ恐ろしさを、恨みに執心する恐ろしさを感じた。きっと芭蕉は殺生石に手を合わせ、念仏を唱え、極楽への往生を願い殺生石を拝んだことであろう。

醸楽庵だより  763号  季語とは  白井一道

2018-06-17 12:39:05 | 日記
 

  季語がなぜ俳句に必要なの


 華女(はなこ)さん、どうして俳句には季語があるのかな。短歌には必要ないんでしょ。
 俳句とは季語を表現する文芸だと朝日カルチャーセンターの先生が言っていたわ。昔からそういう決まりで楽しんできた文芸じゃなかったんじゃないかしらね。
 そうなんだろうね。でもどうしてそういう決まりができたのか、句労は疑問に思うんだけどね。
 そんなこと、どうでもいいんじゃないの。仮にその理由が分かったとしても俳句を作る楽しみが増したりするの。
 確かにね。でも俳句に対する理解が深まるような気もするけどね。
 句労君。それで何か、分かったの。いつも少し分かるとそんなことを言うじゃない。思わせぶりなことを。
 うん。実は少し分かったんだ。句労は歴史が好きだからね。俳句という文芸が誕生してくる中で季語というものができてきたようだ。 
 句労君の話はいつも長ったらしくて嫌ね。結論をスパって言ってくれればそれでいいから。
 そう簡単には言えないよ。芭蕉の時代には俳句のこと
を俳諧の発句と言っていたでしょ。俳諧とは、どんな文芸をいうのか、知っているでしょ。
 「知っているでしょ」とは偉そうに、当たり前でしょ。江戸文学の単位は優だったのよ。
 大学の成績なんて当てにならないからね。同好の士が集まって五七五と主賓が詠むと七七と付ける。次の人がまた五七五と詠む。こうして三十六の歌を詠む。これを歌仙をあむといった。この連句を俳諧と言ったんだよね。
 いつまでつまらない講釈が続くの。
もう少し我慢してもらえないかな。江戸時代は市民会館のような施設はないからお金持ちの自宅に招かれて句会をした。仲間たちは招かれると中心になっている人が招かれてありがとうございます、と挨拶する。心から感謝しているとその気持ちを五七五の言葉で表現したんだ。それが挨拶句というものだったんだ。
なるほど。それで季語はどうなったの。
五月雨を
あつめて早し
最上川
という芭蕉の句があるでしょう。この句は初め「五月雨を集めて涼し最上川」と詠んだんだ。なぜ芭蕉はこう詠んだのかというと。最上川河口の町、大石田の船宿の主、高野平右衛門亭に招かれ芭蕉は即興で挨拶句を詠んだ。最上川の川風が涼しゅうございますね、と挨拶したんだ。その挨拶句に亭主は「岸にほたるを繋ぐ舟(ふな)杭(ぐい)」と付け、夜になるとほたるが飛びますよ、とかえした。この即興の証が季語の始まりだったようだよ。招かれたその家で目に付いたものを詠む。
 じぁ、どうして「五月雨をあつめて早し最上川」と奥の細道にはあるの。
 奥の細道は旅を終えてから一気に書かれたものだから、公にするには「五月雨を集めて涼し最上川」より「五月雨をあつめて早し最上川」のほうが力があると考えたんじゃないかと思う。
俳句という文芸の特徴に即興性があるけれども、この即興性と季語というのは深く結びついている。俳句は座の文学とも言われているけれども、同行の士が集まり心を通わせた遊びから俳句は生まれてきた。